[7]
部屋のドアがノックされる。岸元はベッドから腰を浮かしかけた。
「大丈夫だ」設楽は言った。「待ち合わせてた客だ。入れ」
まず部屋に入ってきたのは、半時間前にホテルの前で別れた日村だった。その背後にダークスーツを着た白人の男が立っている。椅子から立ち上がった設楽が白人と握手する。白人が白い歯を見せる。
「久しぶりだな。ユウ」
「こちらこそ。ミスタ・フォレット」
設楽は岸元を紹介する。白人の名前はジョン・フォレット。普段は横田基地の在日米軍司令部に勤務する軍人だという。それ以上は階級も所属も話さなかったが、空軍か情報部の人間だろうと想像した。フォレットはベッドに腰かけ、手に提げていたアタッシェケースを足許に置いてから口を開いた。
「さっそく聞かせてもらえるか」
設楽は日村に目配せする。日村は机に置かれていたノートPCに小型のスピーカーを接続し、キーボードを叩いた。今から何が始まるのか誰も説明しなかった。やがてスピーカーから風を切るような音が流れ始める。雑音がひどい。声が聞こえてきたことによって風切り音の正体が判明する。
ジェットエンジンの排気音。スピーカーから流れてきた音声は日本語。若い男。
《機長》
岸元はスピーカーを見つめる。再び同じ声がする。
《これからどうします?》
今度は嗄れ声が話し出す。年齢はかなり高い印象を受ける。
《まずは機首を南に向ける。その上であらためて慣性航法装置に目標地点の座標を・・・》
間違いない。フライングタイガー航空192便の操縦室で交わされた会話。ところどころ音声が聞き取りづらい箇所があるが、大意を掴むにはさほど難しくなかった。
《パイロットというのは機体の姿勢に敏感・・・いつもと違う震動とか姿勢の変化に気づくものだ・・・》
それにしてもアメリカの貨物機の操縦席でなぜ日本語で会話するのか。機長はかなり流暢だが、イントネーションなどに違いを感じる。
《その点は大丈夫ですよ》
男は自信たっぷりな口調で言った。岸元はひやりとしたものを感じた。
どういう理由かパイロットは姿勢変化に敏感であることを機長は気にしている。男は安心しろと言っている。すでに他のパイロットは殺されているということか。いずれにしてもいま聞かされている会話が192便だとすれば、会話の主たちもこの世にいない。
《慎重にやるに越したことはない》
鈍い音が聞こえた。操縦室を歩いている足音のようだ。続いてモーターが唸るような音が聞こえる。その後、数回に渡って電子音が聞こえる。先ほどまでの会話に比べると音が明瞭になっていた。
フォレットは低い声で言った。
「これが192便のボイスレコーダーの音声に間違いないか?」
設楽はうなづいた。
「コクピットのボイスレコーダーは3か所―機長席、副操縦士席、両者の中央の天井部分に備えつけられてる。いま聞いてもらってるのは、天井部分のマイクが拾った音声。おそらくコクピットの後方で何かした後、機長がレフトシートに戻ったんだろう。だからこの後は音声がハッキリしてる。同じ録音を現職のパイロットにも聞いてもらったが、いま聞こえた電子音は自動操縦装置を解除した時の警告音によく似てるという話だ」
エンジンの排気音がわずかに変化したように感じられた。旋回を始めた時に似ている。岸元はそう思った。再び電子音が聞こえた。設楽は解説しない。岸元は口を開いた。
「192便の機長はどういう人物なんだ?」
設楽はフォレットに顎をしゃくる。
「機長の氏名はジェレミー・ギブソン」フォレットは言った。「18歳で空軍に入隊。22年勤務した後に除隊し、民間航空に転職。空軍では輸送機のパイロットだった」
電子音が途切れる。ギブソンは言った。
《準備完了だ。あとは機械が勝手に目的地の上空に我々を運んでくれる》
あの電子音は慣性航法装置への入力だったのか。岸元は設楽に尋ねる。
「機長が言った目的地というのは?」
フォレットが代わりに答えた。
「三沢基地だ」
「三沢?」
「192便が離陸して間もない頃、ホワイトハウスに1通の脅迫状が届いた。テロリストの要求に応じなければ、アジア圏に点在する米軍基地のどこかに自爆攻撃をしかけるという内容だった」
「そういう非常時に三沢基地に向かって一直線に飛ぶ貨物機が見つかったら・・・」
岸元は静かな衝撃を受けた。この時点で192便の機首は日本に向けられている。降下も始まっているに違いない。汗が滲んだ掌を太腿にこすりつけた。
《最後のフェーズは機長だけが頼りです。よろしくお願いします》
《目的地まであと1時間ぐらいの飛行だろう。日本空軍の戦闘機がホット・スクランブルで上がってくる。おそらくは目標からも戦闘機が上がって来るはずだ》
《上がってきても航空自衛隊の戦闘機だけでしょう。空自のパイロットは腰抜けですから撃てないと思います》
《私は年寄りだし、あるのは絶望だけだから良いが・・・君はまだ若いのに、よくこの任務に志願したね》
《私もキキモラに雇われた一員ですから》
日村はキーボードを叩いた。音声の再生が終了する。
「若い男は日本人か、日本人を装ってたという感じだ。機長はいつ日本語を?」
設楽はフォレットに質問する。
「ギブソンが日本語に堪能なのは、妻が日本人だからだ。実は彼の妻は昨年、ガンで亡くなってる。どうもその頃から精神的に安定を欠いてたようだ。いずれにしても定年で、今回の飛行が最後になるはずだった」
岸元は眉に皺を寄せる。
「精神的に不安定だったとはいえ、それで三沢基地に特攻するというのは、だいぶ飛躍があるように思えるが・・・」
「あとはこれから渡す資料を見てくれ。それとも全部、私が口頭で説明するか?」
「いえ、約束通り物々交換といきましょうか」設楽は言った。
フォレットはアタッシェケースを膝上で開け、青いファイルを数冊取り出した。
「フライングタイガー航空の本社にあったクルーらの書類だ。人事考課やら健康診断、カウンセリングの診察記録もろもろ・・・あとは眼で見て確かめてくれ」
設楽はCDドライブから取り出したメディアをケースに入れてから手渡した。
「こちらからは、192便の音声データを」
「たしかに受領した。では、失礼するよ」
部屋を出て行ったフォレットに日村が付き添った。複雑な事情を脳裏がようやく整理できた岸元は設楽を一瞥する。
「アメリカは192便を海底から回収できなかったんだな?」
「そうだ。我が国の深海調査船が発見したんだ。本来は篠崎・一尉の《イーグル》を捜索するのが目的だったんだが・・・」
設楽は青いファイルを開いた。ファイルに収められた書類をパラパラと捲る。
「これで、貨物機が墜落した原因も積荷も・・・何もかも分かるようになるぞ。篠崎・一尉が洋上で消えた理由もな」
「何だって?」
「明日、三雲・二尉を聴取する。その席で全部、明らかにする」
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