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「ようやく来たな」

 部屋のドアを開けた設楽は岸元の顔を見るなり笑った。場所は千歳駅近くに建つビジネスホテル。日付が変わりそうな時刻にも関わらず、設楽はまだ起きていた。岸元は低い声で言った。

「ようやく来たなとは、どういう意味だ?」

「何となくな。お前が来ても良さそうな頃合いだと思ってたんだ。入れよ」

 窓際の小卓にワイルドターキーのボトルとグラスが置いてあった。設楽は備え付けの椅子に座った。机の上は書類やノートPCが広げられている。仕事していたのだろうか。岸元はベッドに腰を浅く下ろした。設楽は氷が浮かんだグラスを持ち上げた。

「飲むか?」

「お言葉に甘えて」

 設楽が市谷の情報本部に異動したのは二年前。岸元が市谷に出張で出向いた時でも無い限り、飲む機会はめっきり減ってしまった。以前に小松基地で第203飛行隊にいた頃は2人で毎夜、繁華街を飲み歩いていた。設楽はもう1つのグラスに氷とバーボンを入れて手渡した。

「そう言えばさ・・・」設楽は言った。「登坂の娘に逢ったよ。詩織ちゃんだ」

「へえ・・・元気だったか」

 設楽はうなづいた。

 2人はグラスを無言で軽く合わせた。黙ってグラスを合わせたのは、献杯という意味があった。篠崎を乗せたF-15がオホーツク海上で失踪してから5日目になる。しばらくとりとめのない話を肴に、飲み続けた。もっぱら30年近く前の思い出話になる。2人とも航空学生の出身で、教育隊ではこの場にいない同期の登坂士郎といつも一緒に濃密な時間を過ごしていた。

「登坂は出身が尼崎だっただろ」

 岸元は首を傾げた。

「そうだったかな?」

「そうだよ。それで学生になって初めて納豆が出た時だ。アイツ、納豆食べたことなかったんだよな。それで匂いを嗅いで糸を引いてるのを見たら、眼の色を変えて厨房に走って行ったんだ」

「厨房のおばちゃんに『これ、腐ってます』って怒ってたな」

 2人は大笑いした。当時の光景が眼に浮かぶようで涙が滲む。設楽は低い声で言った。

「さて、旧交を温めるのはここまでにしようか。何を聞きたい?」

 岸元は単刀直入に本題に入る。

「どうしてお前が千歳に出向いたんだ?どういう理由なんだ?」

「前に言っただろう。俺たちにタレ込みが入ってきたって」

「ロシアへの情報漏洩のことか?」

 設楽は首を横に振った。

「タレ込みの内容は、民間の貨物機に関する話だよ」

「民間の貨物機?」

 設楽は携帯端末を岸元に手渡した。ネットニュースが画面に表示されている。

『オホーツク海で米国の貨物機墜落か

 米フライングタイガー航空は17日、〇〇社の荷物を積載したニューヨーク発ソウル行きのB767貨物機192便が16日未明、オホーツク海に墜落したと発表した。192便には4名の乗員が乗っていたが・・・』

 設楽はバーボンを口に含んだ。

「2月16日の夜、千歳の第201飛行隊がオホーツク海を飛んでた敵味方識別不明機アンノウンに対するホット・スクランブルを対処したのは、お前も知っての通りだ。篠崎・一尉と三雲・二尉が対処した。問題はそのアンノウンがB767だった可能性がある」

「ロシア空軍機じゃなくて?」

 設楽はうなづいた。

「そんなの考えられるのか?アンノウンは日本の領空を侵犯しようとしてたし、針路からしてロシアの領空内も擦過した可能性だってある。もしアンノウンがアメリカの貨物機だったとしたら、ロシア空軍が黙っちゃいない。前例だってあるしな」

 1983年に発生した大韓航空機撃墜事件では、故意か不注意か当時のソ連領空内に侵入した大韓航空のボーイング747をソ連防空軍の戦闘機が撃ち落としている。現在では不幸な偶然がいくつか重なった上で発生したと捉えられているが、あの空域を飛行する航空機のパイロットなら誰でも意識せずにはいられない事件だろう。

「お前が信じられなくても、連中はそう考えてる」設楽は言った。

「連中?」

「俺たちにタレ込んだ相手・・・要は米空軍だが」

「米空軍がその貨物機を調べる理由は?」

「FAA(連邦航空局)やNSTB(国家運輸安全委員会)による墜落原因の調査に協力するっていう話だが、そんなもんはオマケに過ぎん。連中は違う思惑で動いてる」

「違う思惑?」

「どうもB767がハイジャックされてたっていう話があるんだ」

「ハイジャック?何のために?」

「動機や目的は今のところ不明。貨物機に乗ってたクルーは全員お陀仏だしな」

「ちょっと待ってくれ。貨物機がハイジャックされたっていうのは、どうして分かった?何か要求があったのか」

「要求があったかどうかは分からんが、状況証拠は残ってる」

 設楽は上着から取り出した手帳を開いた。

「貨物機がニューヨークを出発する前日・・・15日だな。その日、貨物機に乗るはずだった正社員の副操縦士が交通事故に遭って入院した。それで、会社はニューヨーク在住の契約パイロットを代わりに乗せることにしたそうだ」

 またバーボンのロックをひと口含んだ後、設楽は話を続ける。

「契約パイロットの氏名は吉川勝之。名前の通り日本人だ。ニューヨークに住んで4年になるそうだ」

「日本人でも米国機のパイロットになれるんだな」

「貨物機だからな」

 岸元はようやくバーボンに口をつけた。洋酒は氷がほとんど解けていた。ひどく水っぽい味に顔をしかめながら設楽の話に耳を傾ける。

「ここから妙な話になるんだが、17日にニューヨークで吉川が自宅の部屋で射殺されてるのが見つかった。発見時、遺体は死後3日が経過してた」

「誰かが吉川になりすまして貨物機に乗りこんだということか?」

 設楽はうなづいた。

「吉川については、何か分かってるのか?」

「元空自隊員。定年満額する前に、割愛だ」

 戦闘機パイロットは40歳前後で第一線から退くことが多いが、輸送機や救難ヘリコプターのパイロットなら定年まで操縦桿を握り続け、ジェットパイロットとしての手当を受給できる。戦闘機パイロットたちはやっかみ半分に《定年満額》組と呼んでいた。

「その経歴なら空自じゃ輸送機か」

「ああ。空自時代の人事考課や背景調査をひっくり返してみたが、特に問題になる点は見られなかった。FBIやCIAの危険人物リストにも載ってないだろうな。仮にリストに載ってたとしても無害すぎて話にならんレベルだろうよ」

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