第4章:蠢動

[1]

 2月16日。

 航空貨物を専門に扱う会社、フライングタイガー航空192便の機長であるジェレミー・ギブソンは計器盤に眼を走らせた。貨物型ボーイング767は高度3万1000フィート―9450メートルで順調に巡航している。機体に特に異常は見られないことを確認した上で、右側の副操縦士席を一瞥する。

 副操縦士は眼を見開いたまま絶命していた。ギブソンが致死量の筋弛緩剤を注射して殺したのである。死体をシートから持ち上げ、とりあえず副操縦士席の後ろに置いた。座席にシートベルトで身体を固定しておいただけでは、頭や腕がぐらぐら動き、スイッチ類に触れないとも限らない。

《これで完全に引き返せなくなったな》

 ギブソンは死体を見下ろしながら思った。

「機長」

 操縦席に入ってきたヨシカワが声をかけてくる。副操縦士の交代要員で急きょ運航部が用意したパイロットだった。ギブソンはゆっくりと顔を向けた。

「これからどのようにします?」

「まず機首を南に向ける。その上であらためて慣性航法装置(INS)に目標地点の座標をセットする。いきなり目標座標を変えたんじゃ、この飛行機は急激に機首を振るだろう。パイロットじゃなくても異常を感じる。機首方位を変えるにしても、よほど慎重にやらないといかんな。パイロットというのは、機体の姿勢に敏感でね。たとえ寝ている間でも神経はどこか目覚めていて、いつもと違う震動や姿勢の変化に気づくものだ。そんなことで起こしたくない」

 ギブソンが起こしたくないというのは、操縦席の後方にある仮眠室―狭苦しいベッドが二段になっているだけのスペースで寝ているパイロットを指している。12時間に及ぶ飛行の場合、フライングタイガー航空では操縦士と副操縦士のペアを2組、4名の操縦要員が乗り込むことになっていた。

 ヨシカワが意味ありげな笑みを浮かべた。

「その点は安心してください」

 言葉の意味はすぐに分かった。操縦室に入る前、仮眠室で操縦士の交代要員も始末してきたに違いない。あえて確かめるまでもなかった。

「それでも慎重にやるに越したことはない」

 踵を返してレフトシートに戻った。まずヘッドセットを着ける。かすかなノイズが耳を打つだけで、192便への呼び出しは聞こえなかった。後ろに下げてあった座席を操縦位置に戻し、あらためて計器盤を見渡した。

 機長席はギブソンにとって我が家と同じである。

 18歳で空軍に入隊以来、40年以上操縦席に座り続けた。空軍では輸送機C-17のパイロットとして経験を積み、40歳で民間航空に転じた。地上でどのような悩みがあっても操縦席に座り、全てのエンジンに点火すれば何もかも忘れることが出来た。自分が生まれながらにしてパイロットになるべく運命づけられていたと何度感じたことか。

 だが去年に妻が病死してから、自分が生まれながらのパイロットなどではないことを思い知らされた。安堵感や満足感は変わりなかったが、計器のモニタだけが仕事になる巡航の最中はずっと妻の面影を脳裏で追うようになった。微笑む妻。泣いている妻。怒っている妻・・・その時々に見せた無邪気な表情が次から次に浮かび上がり、どうしようもなかった。

 妻を失っただけではない。来年は定年でジェット機の操縦席から降りなくてはならない。60過ぎのロートルパイロットに行き場は無かった。だだっ広いだけの自宅で独り追憶だけで食って生きていくことは出来そうにない。

 思いを振り払う。見慣れた計器の1つ1つを順に見ていった。

 瞬時に読み取られた数値は脳裏を駆け抜けていくだけだが、やがて1つの像を結ぶ。

 オホーツク海の上空、3万1000フィートを針路に対してわずかに機首を左に向け、マッハ0・9で飛行しているジェット機の姿。風が東南東から25ノットで吹いているため、流されるのを防ぐために機首を振っている。脳裏には垂直尾翼に取り付けられたラダートリムが右に曲がり、空気を切り裂いて192便の姿勢を支えているところさえ浮かんできた。

 ヨシカワがセンターコンソールの後方に立ち、副操縦士席に手を置いた。

 短く息を吐いた。計器盤の上部に張り出した遮光板のすぐ下に手を伸ばした。2つ並んだ自動操縦装置のスイッチから、一定の針路を維持するためのスイッチを切った。次に3基備え付けられているINSを解除した。さらに4本のスロットルレバーが並ぶすぐ後ろにある旋回用のノブを右手の親指と人差し指ではさむ。

 眼を姿勢指示器に戻した。わずかにノブを右に回す。姿勢指示器の中で人工水平儀のラインが右に傾く。

 主翼が傾くことによって揚力のバランスが崩れる。機体はおだやかに左旋回を開始した。姿勢指示器の下にある機首方位計に眼をやる。192便は磁方位265度―真西よりわずかに南寄りに針路を取っていたが、ダイヤルがゆっくりと左に回っていた。

 機首が220度になったところで旋回ノブを中立位置に戻し、針路220度を維持するようにオートパイロットのスイッチを入れた。

 シャツの胸ポケットから折り畳んだ紙片を出し、天井の左隅にあるライトのスイッチを入れた。手元が明るく照らしだされる。

 紙片には数字が2列になって記されている。

 40/42/40

 141/21/09

 北緯40度42分40秒、東経141度21分9秒―目標の座標である。

 3台のINSに数値を入力し、入力値が正確か二度ずつ点検した。間違いなかった。INSを再び作動させる。192便は左に傾き、さらに機首を左方に巡らし始めた。

 目標よりわずかに西よりに機首を向け、航法装置が作動することによってさらに南にかかろうというところで左に北海道、右にサハリンがあるはずだ。航空機にとって宗谷海峡で右に機首を振ることは絶対のタブーとされている。ロシアが外貨稼ぎのために領空内の通過を認めていたとしても。

「準備完了だ。あとは機械が勝手に目的地上空まで我々を運んでくれる」

「最後のフェーズは機長だけが頼りです。よろしくお願いします」

「目標まであと1時間くらいの飛行だろう。日本空軍の戦闘機がホット・スクランブルで上がってくる。おそらくは目標からも戦闘機が上がってくるはずだ」

「上がってきても航空自衛隊の戦闘機だけでしょう。空自のパイロットは腰抜けですから撃てないと思います」

 ギブソンは手にした紙片に眼をやった。

「米軍が上がって来ることも考えられる」

「間に合いませんよ」

 吉川は自信たっぷりに言い放った。

「現在、在日米軍は緊急発進態勢を敷いてません。今から武器を積んだとしても、1時間では上がってこれないでしょう」

「私は年寄りだし、あるのは絶望だけだから良いが・・・」

 ギブソンは唇を嘗めた。

「君はまだ若いのに、よくこの任務に志願したね」

 まっすぐにギブソンを見返したヨシカワが穢れをまったく感じさせない笑顔になった。

「私も《キキモラ》に雇われた一員ですから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る