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2月20日。
パーヴェル・エゴロフはテーブルに置いたノートPCの電源を入れた。デスクトップの映像処理用ソフトにカーソルを合わせてクリックした。ソフトが起動する前に足許に置いた黒革のアタッシェケースからUSBを取り出してPCの脇にあるポートに挿入する。
ディスプレイに真っ暗な映像が映し出された。右端に深度を示す数字が表示されている。エゴロフは口を開いた。
「これが、日本の深海調査船がオホーツク海の海底をさらった時の映像だ」
場所は東京・日比谷。都内にある高級ホテルのスイートルーム。格式は最高ランクではなかったが、それでも宿泊料は50万になるだろう。エゴロフはそう思った。
テーブルを挟んで向かい側にメタルフレームの眼鏡をかけた男が座っている。浅黒い肌。鷲鼻。口の周りや頬から顎にかけて生えている髭は髪と同様、手入れが行き届いている。1分の隙もなくスーツを着込み、上品なネクタイを締めていた。おそらくネクタイ1本でエゴロフがいま着ているスーツが何着も買える。アルマンと名乗ったが、ロシアの対外情報庁(SVR)に勤務するエゴロフ自身が偽名を使用しているように相手も本名を使っているとは思えなかった。
真っ暗な映像がしばらく続いた後、白い塗装に覆われた垂直尾翼が現れる。海底に横倒しになった鉄の翼に英語で「フライングタイガー」というロゴマークがあしらわれている。カメラは墜落した機体の周りを泳ぐように撮影を続けた。左翼のエンジンは爆発したかのように損傷が激しい。エゴロフは低い声で言った。
「192便に積んでた《シェル》は日本が回収したようだ」
アルマンは相手を訝しげに一瞥した。
「日本が?なぜアメリカの貨物機に興味を持つ?」
「いや、日本は192便を捜索してたわけじゃない。192便が墜落したのと同じ時刻、千歳基地から
アルマンはうなづいた。
「随分と落ち着いてるんだな」
「まだ慌てる場面じゃないからな」
「そうとは思えないな。192便の機長と副機長は海の藻屑だが、生前に周りに《シェル》について言いふらしてたらアウトだ」
「考えすぎだ。周りは
エゴロフは黙ってアルマンの言葉を聞いていた。
「それこそ《シェル》がどんな物か知ってたら、ギブソンは飛ばなかっただろう。いくら正気を失くしてたとしてもな。だからこそ、ヨシカワが万が一、ギブソンが尻込みしたらっていう場合に192便に送り込まれたんだ。これは俺の想像だが・・・」
アルマンは一瞬、遠いところを眺めるような目つきになる。
「《キキモラ》は192便のクルーに《シェル》について何も話しちゃいないさ」
アルマンはスラヴに伝わる老婆姿の妖怪を言及したのではなかった。2人を繋げたテロリストの
《キキモラ》の名前はミハイル・シドレンコ。名前はウクライナ風だが、出身はモンゴルとされていた。元は空軍パイロットで軍を辞めた後、シベリアで地下資源の開発に投資して莫大な財産をなし、ロシアン・マフィアの庇護を受けながら裏社会から反米テロを援助していた。ここ数年は援助に飽き足らず、自らテロを企図して実行する犯罪者である。SVRのファイルはそう締めくくっていた。
「とはいえ、192便が墜落したのは、アンタにとっちゃデカい痛手だろ」
「1つ目がポシャれば、バックアップが自動的に動くだけだ」
「それはそうだが・・・」
エゴロフは頭を掻いた。
「何が気に食わない?」
「計画が漏れてる気がする。アンタも当然分かってると思うが、192便は墜落したんじゃない。撃墜されたんだ。やったのは、アメリカだ。誰がどう考えてもな」
「日本空軍も
「この国の空軍は平和憲法という建前上、アンノウンに領空侵犯されても警告はするが、攻撃しない。というか攻撃できないからな。あの日の夜、日本の東で太平洋上に第七艦隊の空母がいたっていう噂もある」
「米空母の訓練なんぞ日常茶飯事だ。それに《シェル》の性質上、アメリカの介入は避けられないのは君も分かってたはずだ」
エゴロフは顔をしかめる。アルマンは明らかに中東風の顔立ちをしていたが、国籍はアメリカ人だった。エゴロフはアンタこそ何か知ってるんじゃないかと問い質したくなる。そもそもこの場をセッティングしたのはアルマンであり、やはりコイツは何も知らないのかと思い直した。アルマンは低い声で続けた。
「《シェル》が日本に回収されたのは分かった。日本は《シェル》をどうするつもりだ。あんな代物、日本じゃどうにもできんだろう。当然そこまで調べてるだろうな」
エゴロフはアタッシェケースから取り出した1冊のファイルを手渡した。
「アメリカに空輸するそうだ。千歳基地で政府専用機に積載する」
アルマンはファイルを開いて文書を確認する。
「こんな物まで手に入れるとはな」
「この国はスパイ天国さ。法律も穴だらけだが、何より当事者のモラルが低い」
アルマンは不敵な笑みを浮かべる。
「人間のモラルが低いのは、君の故郷も同じだろう」
「残念ながら否定できないな」
《シェル》はエゴロフが通信将校としてクリミア半島のセヴァストポリに赴任した際にウクライナ軍の兵器庫で発見したものだった。なぜ《シェル》が今まで記録に遺されず、地下に秘匿されていたかは分からない。おおかたは冷戦崩壊時のどさくさに紛れて管理がおろそかになったか、どこかに売りさばこうとした極悪人の所業か。エゴロフは後者に属する人間であることを自認していた。アルマンは低い声で言った。
「さて作戦が途中で変わった以上、こちらも行動計画を変更することになった」
「ほう?」
「《キキモラ》がアンタに逢いたいそうだ」
「へえ」エゴロフの表情が明るくなった。「ようやく俺に拝ませる気になったか?」
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