第3章:撃墜

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 2月16日。

 米海軍第7艦隊の原子力航空母艦CVA76『USSロナルド・レーガン』も太平洋のうねりには敵わない。総排水量10万トンを超える巨艦がゆっくりと揺すられていた。

 前部飛行甲板に設けられたカタパルト上にF/A-18《スーパーホーネット》が1機、据えられていた。いつでも緊急発進できるように前輪主脚のトーションバーはカタパルトのレール上を突っ走るシャトルに連結されている。

《スーパーホーネット》の後部座席に潜り込んだアーネスト・ホッジス大尉は左舷に広がる海をぼんやり眺めていた。

 空は雲に覆われている。星は1つも見えなかった。空と海の境界線は完璧に溶け込んでいるように見える。ホッジスの眼には無限の闇しか映らなかったが、それでも随伴している駆逐艦の灯りが上下していることで海のうねりが分かった。ヘルメットの庇をわずかに持ち上げる。ホッジスはため息を吐いた。

《それにしても・・・厄介な命令を受けちまったもんだな》

 ホッジスがいま乗っているF/A-18は複座のF型。《スーパーホーネット》と呼ばれる攻撃型である。海軍機の伝統として前後に座席が配置されたタンデムシートの後部座席には操縦装置が一切ない。レーダーホーミングミサイルの発達に伴って電子機器の操作が複雑になったため、航法と中射程以上のミサイル攻撃を担当する後席員を乗せ、前席のパイロットは操縦に専念するようになった。

 誰かが機体の梯子ラダーを登ってくる音がした。ホッジスは顔を上げた。

 マーク・グレンヴィル少佐が前席に潜り込んだ。グレンヴィルとホッジスは第102戦闘攻撃飛行隊「ダイアモンドバックズ」に所属するパイロットである。海軍飛行士は固定されたペアを組み、飛ぶことになっている。2人はいつも一緒に飛んでいる。

《《スモーキー》、準備しろ。出撃だ》

《スモーキー》はホッジスのコールサインである。耳元で聞こえるグレンヴィルの声はかなり機嫌が悪そうだった。

風防閉鎖キャノピー・クローズ

 F/A-18の巨大な風防がゆっくりと降りてくる。ホッジスは酸素マスクを口許に当て、留め金をヘルメットに差し込む。主電源が入る。ホッジスの眼の前に並んだディスプレイが息を吹きかえした。兵装管制装置のノブを〈オフ〉から〈スタンバイ〉に切り替え、緑色のライトが点灯することを確認する。次に、座席の左側後方にあるレーダー冷却スイッチを入れる。

「ウェポン・コントロール・システム、レーダー、準備完了」ホッジスは言った。

《了解》

 グレンヴィルの返事は素っ気ない。航法モードのスイッチをナビゲーション位置に切り替えた後、敵味方識別装置(IFF)をスタンバイ、通信装置をオンの位置にセットする。手順はいちいち考えるものではない。ホッジスは機械的に手順を処理しながら、昨夜の出来事を思い返してみる。

 24時間前、作戦会議室で艦長と飛行長に呼び出された2人は奇妙な命令を受けた。北太平洋上で旋回待機し、次の司令を待てという内容だった。飛行長と一緒に部屋を出たグレンヴィルは食い下がった。命令とはいえ、目隠しされたまま訳も分からずに飛行するのは拒否したい。飛行長は表情を歪めて言った。

『困ったな。君の言い分はもっともだし』

 飛行長は2人を自分の執務室に案内する。上司自ら作戦の背景を説明するという。椅子にかけた2人のパイロットは副官から振る舞われたコーヒーを受け取る。飛行長は淡々とした口調で言った。

『中東情勢は今のところ再び落ち着きを取り戻してるが、予断は許さない』

 グレンヴィルとホッジスは鋭い視線を相手に向ける。飛行長は話を続ける。

『どうやら中東の狂信者がついに核兵器を手に入れたという情報が入った。まだ確認中だがね。それを日本や韓国に持ち込もうとしているらしい』

『どうして、そんなことを?』グレンヴィルは言った。

『標的はアジア圏にある米軍基地らしい。具体的にどの基地が標的なのかは不明だ。当然、そんな暴挙は阻止しなければならない。だが、ほんの手違いで爆弾を積んだ民間の貨物輸送機が我々の警戒網を潜り抜けてしまったんだ』

『CIAですか?またドジを踏んだのは?』

 飛行長はグレンヴィルの質問に答えなかった。

『我々は何としてでも、その民間航空機の飛行を阻止しなければならない』

 今度はホッジスが口を開いた。

『脅して引き返させるのですか』

 飛行長は酸っぱい顔をして答えなかった。2人は同時に言った。

『まさか』

 執務室に沈黙が下りる。

 基本的に航空母艦の内部は賑やかである。蒸気がパイプを流れる音。はるか下から響くエンジン音と時おりドーンという轟音が響いた。搭載している航空機が着艦した時の衝撃音。逆に発艦する時には戦闘機の甲高い爆音とともに全長333メートル、10万トンを超える巨艦が振動した。

 飛行長はじっと2人のパイロットを見つめ続けていた。沈黙に耐えきれなくなったホッジスが低い声で尋ねる。

『我々がその民間航空機を撃墜するのですか?』

 飛行長はうなづいた。

『指示が無ければ、それは我々の仲間が核兵器の持ち込みを阻止したことになる。つまり君たちは何もしなくて良いのだ―』

 胴体の右側から風が吹き抜けていくような音がし始める。グレンヴィルがエンジンの始動レバーを引いたのだ。2人がチェックリストを完了した頃、翼下に潜り込んでいた兵装員が飛び出してくる。1人が機首の右前方で立ち止まり、パイロットに赤いリボンが付いた安全ピンを見せた。翼下に吊るしている4発の中射程ミサイルAIM-120「アムラーム」、2発の短射程ミサイルAIM-9「サイドワインダー」が使用可能になった。

 グレンヴィルは飛行甲板に残る発進士官に向かって短く敬礼する。射出員が右手を高く挙げ、指を大きく開いた。グレンヴィルは間髪入れずに2基のF414ターボファンエンジンを全開にしてアフターバーナーに点火する。

 蒸気カタパルトのシャトルがリリースされる。《スーパーホーネット》が約3秒足らずで200ノットまで加速する。重い破裂音が空母を揺さぶった。

 グレンヴィルの後頭部がヘッドレストに押し付けられる。視界が歪む。ホッジスは腹筋に力が込めて衝撃に耐える。身体が狭い座席に押し潰されそうだった。

 瞬時に巨大な空母が視界から消える。

 翼を広げた《スーパーホーネット》は暗夜に打ち出されていった。

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