八 恋慕

 ◇

 そして日曜日。今日は雲がやや多くて、ときたま日が顔を覗かせるようなこともあれば、しかしその殆どが隠れたままである。秋の空を、茉莉花は硝子張りの渡り廊下を歩きながら見やった。彼女は黒のスキニージーンズにほっそりとした脚を潜らせて、無地のワイシャツの裾は出し、その上からはキャメルのロングコートを羽織っていた。差し履くのは焦げ茶色の編み上げのショートブーツで、踵は四センチほど上がっていた。「デ、デートみたいなものだもんね。流石にこれは可愛すぎると言うか……」などと散々考えた挙句、結局いつも通りのあっさりとした装いに行き着いたのであった。針鼠の絵の描かれたトートバッグの肩紐を、キュッと掴んだ。彼女の心も、窮屈そうな雲間の中に、時折、澄み渡った晴れ間を見せるようなこともある。そしてそれらの下に、市井野駅は在った。

 市井野駅は、市役所や駅前の店の近くまで、渡り廊下を伸ばしている。茉莉花はちょうど十字路に差し掛かり、右手に折れてやると、市役所の方へと向かった。

やがて通路を抜け、自動ドアを渡ると、建物全体を見渡せるテラスがある。テラスの席は、上に白色のパラソルがひとつさされている。そこら中に多角形の陰日向が極めて煩雑に鏤められている。切り取られたような日向と、淡い色をした陰とが平衡を保っていた。茉莉花の白地に幾つもの黒い線と、白の淀みが描かれた。些か不気味で、パラソルの下へと逃げるように入った。簡素な金属製の腰掛が丸テーブルを取り囲むようにあった。それに坐り、あたりを見回した。

――市役所というのも、簡素で角ばった建物などではない。大屋根は立体トラスで組まれていて、その直ぐ下には無色透明の硝子が広く張られ、さらにスギの棒状の木材を適当な長方形に並べたものが、天井や外壁に取り付けられ、市松模様を造り出していた。本館自体も木材と硝子ばかりで成り立っていて、あとは黒と白のモノトーンが支えるのだった。広場には大型モニターがあるばかりか、大きな体育館も備え付けられ、よくバスケットボールの試合が行われている。そういえば、うちの学校の卒業式もここでやるんだもんなあ。と茉莉花は関心していた時だった、十時ちょうどを知らせる放送があった。同時に、左方から肉声が飛んできた。


「香月くん、おはよう。待たせたかね――と言わせるために早く着いたわけではないだろう。楽しみで楽しみで仕方が無くて、早く着いてしまった、と解釈させて貰ったよ」


「君の方こそ、張り切り過ぎてこうしてぎりぎりになったんじゃないの」と茉莉花は声の主を睨んでやった。しかしそう言ってみせる顔は、綻びを隠しきれていなかった。

「如何せん、冷えてくる昨今はどうも面倒が先行しやすいものでね。ちょうどにここへ着ければいいと思って部屋で小説でも読んでいたよ」

 南雲は黒のチノパンを穿き、それに合わせたベストを綿生地のワイシャツに重ねていた。痩躯を包むのはベージュのトレンチコートで、ボタンは全て開け放し、結ばれぬ背のベルトがぶら下がっている。端が縒れているのや、幾つもの擦り傷がいかにも古めかしい。その裾からはみ出た焦げ茶の革靴は、光の溜まり具合から良く磨かれているのがわかった。肩紐が落ちてしまいそうなトートバッグを、ひとたび彼が持ち上げれば、刷られたチンアナゴが生き返って、蠕動でもするかのようだった。それを目にして、茉莉花はふと疑問符を浮かべた。「白衣は着てこなかったんだね。それに……そのコート、レディースじゃないの」そして、はっと見開いた目を向けた。「ようやくあの格好で外を歩くのが恥ずかしいことだって、理解してそれで、そのコートを急いで古着屋かどこかで買ったんだ! 性別も良く見ずに……」

「あれは学内とその近郊限定だよ。それと、馬鹿を言うものではない。これは母親からの貰い物で、クリーニングに出していたのを初めて着るからね、しかしまだこれを着るには暑いのかもしれない」

 それにね、と。

「このコートがレディースであるかないかに、なにか問題があるかね。肩が少し窮屈というのと、留めるボタンの位置が逆、それだけだ。それ以外はユニセックスに近い。君はそういうのを気にするかね」

「いや……ごめん。こんなこと言うなんてぼくらしくないな、うん、それこそ、ぼくも一人称が『ぼく』だしね。……気になる?」

「全く」

「素直じゃないねえ」

「なにを好もうと勝手だ、ただ、私はそんなことはどうでもいいことだと思ってる。――って、それこそどうでもいい、ほら時間が無いよ、行こう」

 そう言って、差し出されたてのひらは大きくて角ばったものであったが、指先は細々としていて白く、作り物ように綺麗な、薄桃色の生爪の中には、仄かな光が灯っていて、女のものと見紛うほどであった。茉莉花は、手を取って、その肌理細かいのに驚かされていると、おもむろに引き寄せられた。立ち上がり、たたらを踏んで、彼の胸に倒れた。

「すまない! やり過ぎた!」

 南雲は思わず手を離して、彼女の動くのを不安げに見守った。――数度の深呼吸の後、茉莉花は彼の胸に柔らかに指先を立てて、ゆっくりと、突き放していった。そしてつむじを見せたまま、

「……君はデートをするたびに、誰にでもこんなことをするんだ」

 そう言うと、顔を右に向けて、モニターを見るようにした。ちらと覗いた左目には、その表面が溶けだしているみたいに確かな湿っぽさがあった。そして、「なにを言っているのかね」その声に顔は正面を向いた。

 南雲は腰を折って、茉莉花と同じ目線で言う。彼女は少し顎をひいた。

「しやしないよ。彼女と、君だけさ、はは。それに、きっとできないのだよ。こんなに、からかうなんてとてもね」

その自嘲は、茉莉花に一種の凛々しささえ感じさせた。前髪に翳った双眸が、彼女の気掛かりな上目を射抜いた。

彼女はどきりとして、一歩だけ足を下げた。踵が軽快な音を奏でた。

「――本当にすまなかったね。それでは行こうか」

南雲は身体を伸ばして、渡り廊下の方へと足を向けたが、「待って!」という声に、その歩みは止まった。なにかね、と口にしながら振り向くと――茉莉花の腕は彼へと伸ばされていて、やや丸まった手先は、なにか、掴みあぐねるでもしたようであった。

「少し……いや、かなり、さっきの悪戯のせいで、具合が良くないみたいだ。だから、ね、少しだけ――いや、具合が良くなるまで、ぼくに手を貸してよ」


「私のせいであるならば、それは、贖う必要があるだろうね」



 ◇

「買い物に付き合って欲しいんだ」


 ふたりは西口から巡回バスに乗って、ショッピングモールへと向かう。バスはもうあと一分ほどで発車することを煽るように、微動を起こし、白っぽい排気ガスをあたりに撒いていた。

 バスはやや混むようであった。「座れないようだが……」南雲は見下ろした。「大丈夫かね」

 茉莉花が吊り革を掴もうとすると、握る手に力が入った。輪に指が掛かると、腕がぴんと張って、見事な挙手をみせた。

「辛そうではないか……」

「全然、ないよ」

「君はこういう、客席の背の取っ手を持てばいいのではないかね」

「……いいや、よくよく考えてみれば、そんなの要らないじゃないか。ぼくには、この、腕がある」

 そう言って、南雲の左腕には、蛇ように両の手が這って来て、確固と抱き着いてきた。「痛いよ」「こうでもしないと、転んじゃう」「いったいどれだけひ弱なのかね」「『いじらしい』とでも言ってよ」茉莉花は見上げ、掲示された広告を見ながら言った。それに、と。

「君は彼女がいるんでしょ。いいの、こんなこと看過して」

「そう言いながらも、一切手を緩めようとしない君も大概だと思うがね」

 南雲は横顔に言い聞かせた。

「第一、私の気が変わることなど微塵もない。いいかね、美人に言い寄られて、それでも彼女を選ぶんだ。これ以上に愛を示すことができるかね」

「でもきっと、彼女からしたらたまったもんじゃないと思うよ」

「そういうところを、きっと彼女は気にしない。それともなんだね、ひとりの女性を愛しているからと、他の女性への扱いを冷酷にしろというのかね」

「それでも……」

 すると、バスは動いた。聞き取れないほど砕けたアナウンスだった。

「私だってね、そりゃあ、彼女だけを愛したいさ。けれども、昔からそうなんだ、比べたがるんだ、だから優劣があるだけで、冷たく、嫌いになどなれないのだよ」

 それでもね。と。

「――一番で、不動で、あんなに良い女性なんだ。だからね、彼女の前では、どうしても、嘘を吐けない。尤も、女性の方から見たらとんだ不埒者なのかもしれないがね」

 ふうん、茉莉花は鬱血でもさせてやろうと力を入れたが、それはわななき、しがみ付くのでやっとだった。目線を足元へと落とした。茉莉花の靴は新品同様だったから、良く光を集めた。それが異常に眩しくて、思わず瞼を下げずにはいられなかった。そして、そのまま、

「最低だね」

 その声はバスの揺れに消え入るようだった。


 ◇

結瀬山大橋を辿って信濃川を越え、そこから四つほどのバス停で降り、ショッピングモールへと着いた。自動ドアを入って、暖風が起こると、小さく髪を持ち上げた。

「最初はどこへ行く?」小指で右側の鬢を拾って、形の良い柔らかそうな耳を覗かせた。「先ずは、君の行きたいところに行けばいいよ」「……そうだねえ」

「じゃあ、服買うから、どれがいいか選んでよ」

「君の気に入った服装を選べばいい」

「なんでさ」

「それは、『私の好きな服装』であって、『君の本当に着たい服装』とは限らないだろう」

「面倒だなあ。――じゃあ、似合ってるか、似合ってないかだけ言って」

 それと、もしも、もしもね……。と茉莉花は、頬に赤を透かせ、握られた手を揺らしながら、唇を少し尖らせるようにして、言った。

「もしも、似合ってないのに、嘘吐いて似合ってるとか言ったら、殺す」

「情熱的だね……とても素敵だ」

 そうしてエスカレーターに横並びして、ゆったりと持ち上げられていった。後ろから、段を歩いて上がってきた若い男らが、不機嫌そうな顔つきで、彼らを睨みつけていた。

その時、南雲は泣きそうな顔を茉莉花に向けて、

「ああっ、君が後ろに居てしまっては、私の影を前に、君の輝きが失われてしまう! ああっ、君が前に居てしまっては、君の輝きに目が眩んで他の人を巻き添えにして転げ落ちてしまう! だから、私はこの輝きをきっと掴んで、君にはずっと横に居て欲しい!」

「な、なにを言ってるのさ……!」

 その小恥ずかしさといったら、男衆が目を伏せて、下りのエスカレーターの方のポスターへと視線を逃がすまであった。南雲が涙を拭う素振りを見せる頃と、ようやくふたりが三階に着く頃とは等しかった。

「しかし驚きだ、市井野にもこんなに大きなショッピングモールがあるとはね」

「ふふ、こっちは僕の家の近くだからね、昔からよくお世話になってるんだ」

「おや、自宅近辺だったのかね。それは悪かったね、市役所の方まで来てもらって」

「いいよ、定期あるし。それに君は、公共交通機関とか苦手そう」

「はは、なんとも」

 南雲は手を揉みながら、視線を落とした。それを茉莉花は覗き込んで、「図星かなあ」と尋ねてみた。

「あっ、ほら見て、もう着くではないかあ!」そう言って指をさす彼の顔は、あたかも図星とでも言うように、引き攣っていた。平生の達者な口ぶりは曲がってしまっていた。足は忙しそうだった。そして南雲の指さすのは、ランジェリーショップであった。「君ってば、結構積極的なんだね……」「え、いやっ! ……下着は見えてしまっては下着ではないのだよ」「なにを言ってるのかな、馬鹿なの」そうこうしているうちに、目当ての服屋に着いた。顧客層は若い女性だろう、全体的にパステル色で統一された内装に、陳列した商品までもがなんだか柔らかそうであった。

「……私は少々具合が良くない……そこのベンチで坐って待っていてもいいかね」

「駄目に決まってるじゃん。ほら、早く、早く」

「こういった類のものは、ひとり真剣に悩んで買って、それを着ていくので相手を喜ばせるものではないのかね……」

「偏見だよ」

ぐいと南雲は引き寄せられ、問答無用で足を踏み入れることとなった。

「だ、第一だ! ……君はこういった服をいつも着ないではないか」

「いいんだよ! 着るの!」

「そうかね……、それにこんな浮ついた――ファンシーな格好、私はあまり好まないのだが」

「それを早く言うべきだよ……じゃあ、どんなのがいいの」

「清楚な感じ、と言うのは曖昧かね。単色や白黒のようにシンプルで、肌の露出が少ないものが好きだ。君の服選びはなかなかこたえるものがある」

「……助平」

「はあ、まあなんとでも言うといいよ」



「あっ、そこの電気屋を見ていってもいいかね。予てからスタンドライトが欲しかったんだ」

「故障?」

「いや。どうも眩しくてね。白熱灯だからなにか袋を被せるにも燃えたら危険だ。明るさと色を調節できるものがいい。時に、君はどんなのを使っているのかね」

「成程ねえ。……いやあ、どうも実家暮らしだとそんなもの要らないからさ。枕元に置く、小さな行灯くらいかな」

「行灯とはそれまた随分と味があるね。勿論、電気だろう?」

「うん、それはね。――あ、あったあった。ピンキリなんだね、こういうのも」

「そうだね。――おや、これなんかいいね。三千円程度で、充電すればどこへでも持って行けて、電球色にも変えられる。三段階にも明度が調節できる。よし、買ってくるから少し待っていて欲しい」

「駄目だよ。まだ具合が良くなっていないんだから」

「とんだ体調不良だね。わかったよ」

「あ、ここのポイントカード持ってる? あれば六パーセント値引きだけど」

「是非とも借りたい。ありがとう。香月の姓を名乗ることにするよ」

「婿に来る気?」

「私は嫁が欲しい」

「じゃあ、このカードの姓を『南雲』に書き換えれば?」

「生憎、私から南雲の姓を奪った女性がもう居るのだよ」



「ここのうどん美味しいね……!」

「ゲソの天ぷらも良い味だ! なんだこれは、依存性が高すぎる……」

「かき揚げもこんなに大きくて百十円……美味し過ぎる」

「ああ、ワンコインで特盛のぶっかけうどんが食べられるとは……最高だね」

「この太さ、コシ、檸檬……本当に美味しい……」

「美味しいと二度も言っているよ。うどんは語彙を奪うのだね。……最高だ」

「君もさ。でも、あれだね、彼らはゲームなんかやっている場合じゃないよね」

「ああ。彼らには将来的に、うどんの行く末を担ってもらわなければならない」

「うどん、ああ、うどん。いいね」

「全くだ、最高だ、うどん。ああ、うどん」



「いやあ、まさかここにも古本屋があったとは」

「君も、この香り好き?」

「ああ、思わず立ち止まって、目を伏せて、深呼吸するまであるね」

「はああ……いいよね」

「ああ……頗るいい」

「――そういえば、南雲くんは好きな本とかあるの」

「そうだねえ、私は川端康成が好きだよ。【雪国】や【眠れる美女】だとかね。知っているかね」

「勿論。けどぼくは、そう、あれ、【片腕】が好きかなあ」

「成程……。時に、君のその腕も取り外せたりはしないかね」

「びくとも外れるようなことはないし、仮にも引き千切って外すことができたとして、どだいそれが動くこともなければ、付け替えられるようなこともないし、喋ることもないよ」

「はは、それは残念だ。――君の方はなにか好きな作品はないのかね」

「ヴィクトル・ユーゴ―の【レ・ミゼラブル】なんか良いよね」

「長すぎて全然進まないのだよねえ……。ああっ、もう駄目だ、コゼットの玩具は鉛の剣だけで、それで蠅が切れるとか言っているのを思い出すだけで涙が……!」

「大概良く読んでるじゃん」



「ゲームセンターなんて初めて来たかも。耳が痛いな……」

「そうかね、まあ別に来なくとも死ぬわけではないからね。どうだろう、なにかやっていくかね」

「ええと……あの箱はなんだろう」

「あれはプリントシール機だよ。撮った写真をシールにできる」

「へえ、面白そうだね」

「面白くないよ。全く。なぜ四百円も払って、不気味の谷底の顔面に修正されて、どこに貼り付ければいいのかもわからない、碌なものじゃない。携帯の写真で十分だ!」

「親でも殺されたの……」

「昔は良く撮らされたものでね。『ふたりだからひとり二百円じゃん!』みたいなことを言われもしたが、この二百円でそれこそゲソの天ぷらでも買ったほうがマシだね」

「まあ、でも折角だから撮ってみようよ。経験しておいて損じゃないだろうしね」

「君も物好きだね……」

「ぼくの行きたい場所、行ってもいいんでしょ」

「後悔してもしらないよ」



「……ゲソ天の偉大さを知ったよ」

「だから言っただろう! こんなの碌なものではないのだよ! ……ほら、こっちに来たまえ」

「なにするの」

「普通に写真を撮ろう。あとで送るよ」

「うん、そうするよ」

「ほら、君のその綻んだ顔が写るよ。にいってね」

「君こそ、デートしているのが嬉し過ぎて笑いが止まらないみたいだね。にこにこって」

「――よし。撮れた……ふむ、私は元来写真というものを好まなくてね、それは私たちの目で見た方が何倍も美しく見えるからさ」

「同意。まあ、でも、記念に送っておいてよ」

「ああ、わかったよ。私も、まあ、記念程度に残しておくよ」



「香月くん、君の先祖はもしかしたら未確認飛行物体の操縦士らしい。そうでなければ、バーゲンセールの帰り道のような手の塞がり方はしない……!」

「え、だってこんなに露骨に、取ってくださいと言わんばかりに、置かれた景品なんてちょっと考えれば取れるでしょ」

「普通は取れないのだよ……! ほら見たまえ、店員が不安げにこちらを見ている!」

「意味がわかんないね。こんなの損になるってわかってやってるんだから」

「君のその技術のほうがわからないよ! どうなっているのかね……。あ、あの香月くん、あとで向こう側のフィギュアを取ってはくれないかね」

「お金出してくれるならいいよ」



「いやあ、大量だねえ」

「その大袋に詰め込んだ様はまるでサンタクロースだね」

「ふふふ、君は悪い子だからあげないよ」

「しかしトナカイもいなければ、そりもない。どうする?」

「じゃあ、もう帰ろうよ。三時だし、良い頃合いだよ。意外と居てもなにがあるって感じじゃないし。ぼくの家近いから寄って行きなよ。伯母さんしか居ないだろうし」

「いや、君の伯母さんがいるなら私は気まずいから荷物だけ置いたら帰るよ」

「じゃ、じゃあ君を学校まで送るよ」

「とんだ無駄足だよ?」

「いいよ、定期だし。ぼくも今はちょっとだけ伯母さんとは気まずいしね。だから、いいよ」


 ◇

 そうしてふたりは、茉莉花の家に大量の袋を置いて、再びバスに乗り、駅の東口から乗り換えたバスで、今度は学校の最寄りのバス停で降りた。茉莉花は反り返るようにして空を仰いだ。雲は午前に見た時の半分ほどになっていて、ところどころに浮かんでいる。そこからいっぱいに広がるのは力のない薄花色で、銀の波が打っている。じっとして見ていると、仄かな橙色の波打ち際が、のっそりと呑まれていった。

「もう少しすれば、夕暮れだね。早いね、全く」

「本当にね。ところで――どこへ向かってるの」

「折角こっちまで来たんだ。結瀬山でも、散歩しようよ」

「賛成」

 茉莉花の結われていない方の手にある緋色の蕾が、酷く重そうであった。


 ◇

深緑色の池が波紋に揺れた。燃ゆる山麓を震わせ、ゆっくりと波打ちながら、鏡をつくる。すると、また震えた。そして、また震えた。茉莉花は目を凝らしてみれば、その正鵠の位にあったのは、一匹の水黽であった。やがて傍からそれに集まるように幾匹かが滑って来た。山麓は寸々になり、池には炎の揺らめくばかりであった。

その時だった。

波紋が急激に生まれ始めた。その数はとうにはかり切れず、池の遥か向こう側からこちらまでもの一切を満たした。ひとたびこれの一切が水黽だと思って、俄かには信じられずにいた。すると、なにかが身に張り付いた。それを慌てて払ってみると、ただの水粒であった。

頭上には、紅葉の梢が伸びていた。葉を打つ音があたりを包み込む頃、ひとつの翼果が竹とんぼのように落ちて来た。それを目で追っていくと、敷き詰められた落ち葉に混じってわからなくなってしまった。磨り硝子のように、細やかに白く立った水面を、寒々とした秋風が抜け、こちらに吹き込んできた。それに葉擦れが起きて、樹雨が首筋を伝った。まるで雪でも注がれたような悪寒に、居ても立っても居られなくなると、ただ前へと駆け出した。しかし庇のない先へと進むということは、ひとたびの困窮から遁走し、後にそれらと断崖絶壁に巡り合わせ、窮愁することに等しい。南雲はその手を引いた。だが直ぐにやめた。か細い手首からぽきりと折れてしまいそうだったからだ。

 やがて茉莉花はよろめいてから、立ち止まった。コートや髪、睫毛などに小雨が吸われていく。時折、飾りのように煌めくのもあった。「傘をささないかね!」しかし彼女には聞こえていないようだった。南雲はどうにかできないかとあたりを見回していると、左手の方に、道があるのに気付いた。そこは仄暗く、急勾配に苔生した階段が積み上がっていた。南雲は彼女の手をもう一度掴んでから、そこへと入っていった。

 燃えているように見えた麓だが、その懐は青かった。また、これ以上濡れることがなかったのは、階段を避けるようにして、樹雨が滴り落ちてくるばかりであったからだ。仰げば、天蓋のように高木の焼けているのがあったが、ふたりのあたりはまだ夏のような鬱蒼に取り囲まれていた。

 力のかかる爪先が、ぬるりと苔にもっていかれて、何度も転落してしまいそうなことがあって、足元に気を配っていると、南雲は頭に僅かな抵抗を感じた。しかしそれは、じ、と音無くして裂けた、蜘蛛の糸であった。糸は自分の前髪同様に靡いていた。

 溜息を吐きながら、前髪を手櫛で梳いていると、まとわりついていく糸が、まるで自分の髪を紡いだものに思えるのだった。しかし無いような風に煽られて、それを見失ってしまった。

 そして再び階段を上がっていくと、ひとつ、苔に覆われた丸屋根が覗いた。ふたりの手は冷たかった。

 南雲は胸を締め付けられるような可愛らしさを、感じていた。進み、いよいよ現れたのは、一軒の小さな四阿だった。幾匹かのウスタビガが柱にとまって蠕動するのは、黒い粒状の卵を産み付けるためであった。そして、石畳の上で三角形を描くように、みっつの腰掛があった。そのひとつにふたりは腰を下ろした。目先には、いくつかの切り株が残されていた。なぜここだけ木々が伐採されているのかと不思議に思っていると、その原因と思しきものが目に映りこんできた。――先程の大池だった。ここらの青冷えた懐の外で、紅色や山吹色が蠢いているのを、その大池は水面に溶かし込んでいるのであった。それらの一望できるこの場所は、そののどかな美しさで、まんざら感傷癖をよろこばせるに足らぬことはなかった。

 そして先程歩いていた遊歩道も見えた。この高さから池を比較してみると、酷く細いようで、一歩違えたら、落ちてしまいそうだった。そして南雲は、少しばかり上がった腰を再び沈めようとして、あっ、とコートの裾を左から膝の方へと曲げた。……高いのだった。と南雲は息を吐いた。


 ◇

「流石、山と秋の空だね。あたりは時雨れたようだね」

「そうだね」

「急ぐようならその傘で帰るといい。あまり遅くなるのも良くないだろうしね」

「いや、大丈夫。というか、いい加減借りっぱなしだったから返したいし」

「そうか」

 この四阿の後ろには道が続いていた。そこを抜けると、また池の畔へと着くことになる。だがその道を通るなと言うばかりに、雨水が道に沿って溜まっていた。あたりは湿っていて、踏みしめる石畳でさえ、ぐにゃりと曲がってしまいそうで、思わず南雲は靴を脱いで、腰掛の上で胡坐をかいた。つられるように、茉莉花は足を腰掛けに乗せた。

 茉莉花は耳を澄ました。雨脚の葉を蹴りつけるのが、喝采にも聞こえた。否、囃し立てるの間違いかもしれないと思った。寝られない時に限って、良く耳に入って来る秒針の足音のようだと思った。ただその思いは、閑話のようなものであった。本心は、今もたったひとつ、自分の右隣の男に傾いていた。彼は口を噤んで、遠くの木々の頭でも数えているようだった。髪に幾つもの水玉をくっつけ、かさかさの唇を細やかに震わせていた。やはりその空虚さが、初めて出会った日にも思ったように、愛した人を今でも悼んでいるのか、または変わらずに愛しているのか、判然としないけれども、やもめであるかのような雰囲気を与えているのだった。

 ……いや、なんで勝手に殺してるんだ。

 きっと、彼女のことを考えているのだろうと、またひとつ視線が落ちた。ここへと上ってくるまでは固く結われていた手も、今や、緩んで、指先が引っ掛かるだけであった。すると、ふふ、と零れだしてしまったような可愛らしい声が掛けられた。

「そういえば、いい加減に具合は良くなったかね」

「……まだだよ」

「はは、それはいけないね」

 と、彼は指を解いて、「荒療治さ」と意地の悪い笑みを向けた。取り付くところを失った茉莉花の指先が、萎れていった。

「私はね、一応愛する女性が居るのだよ。これ以上は、示しがつかないよ」

「もう手遅れじゃないの、というか、デートの初めからだね」

「いやいや。君は正直な人間で、そんな脆いような身体なんだ。本当にあれぐらいのことで、崩れてしまうのではないかと思ってしまったよ」

「そんな馬鹿な」

「冗談さ」と南雲はまた笑った。「でもね……私はわかるよ、君は相当、純粋な存在なんだってね」

「純粋? なんで」

「君はね、彼女に似ているんだよ」

「……南雲、いや、結って人かな」

「そうさ。見た目は君とは全く違うんだ。それこそ、朱莉くんに幾つか当てはまるかもしれない、外的にはね。背が高かったり、亜麻色の髪が似合うところだったり。それで、まあ、君は内的に幾つか当てはまるんだ。とくに、その純粋さがね」

「抽象的だなあ……たとえば、なに、純粋ってさ」

「裏が無いだとか、嘘を吐かないだとか……?」

「さっきぼくは嘘を吐いていたよ」

「そうかね……まあ、私にだって良くはわからないよ。でもね、どこか似ているんだよ」

「彼女はこの学校の学生?」

「学生と言われてもね……まあ、とりあえずこの学校の学生ではないとしか……」

「ふうん。で、君はぼくをこんな人気の無いところまで連れて来て、いったいどうするつもりだったの」

「おやおや、そのニュアンスは大概良くないね。――愚痴を聞いてもらいに来たのさ」

「彼女、とやらのことなら間に合っているよ」

「ふむ、もともと彼女ではなく五反田のことを話そうとしていたのだが……五反田の方がお望みなら都合がいい」

 南雲はトートバッグから檸檬風味のタブレット菓子をひとつ取り出して口に含んだ。彼は、要るか、と茉莉花に箱を差し出した。茉莉花は頷いて、そこからひと粒取り出して、口に含んだ。箱の外装に目を落としていると、彼はまたどこか遠くを見つめながら話し出した。朱色交じりの晴れ間を少し覗かせながらも、雨は続いていた。

「……いやあ、私も本当は演劇なんてやりたくなかったのだよ。けれども、世話になった梨本さんの頼みだったりで、断り切れなかったからしぶしぶ……。それはまだしも、どうも、私は五反田とは馬が合わない。第一ね、脚本は本科五年生までの書いたものでなくてはならないだとか、主役は一二年が暗黙の了解だとかがあるのがいけないのだよ……。そのせいで私は手伝わされた」

 彼はタブレットをがりがりと噛み砕きながら、鼻で溜息を吐いた。

 すると茉莉花も目を伏せて、溜め息を吐いた。

「ぼくもずっと話し込んだよ……えらくしつこかった」

「私も、近所の田んぼ近くで花火警備の仕事があるからと、何度も言ったのに……。しかしこういう恋愛ものは相手を選ぶからね、とくに女性の方がそういったことに敏感だろう。――時に香月くんも私とそういった演技をする羽目にならなくて良かったね、はは」

「そうだね……。ねえ、演劇は、楽しい?」

「ああ、最初は嫌だったのだがね、結局、義務教育のようなものらしい。入りたくて入ったわけではないのに、その中で楽しさを見つけ出していくというのは」

「へえ、それはもしかしたら、ぼくでも――」

 ――着信があった。南雲の携帯であった。手ですまない、と制して、電話を取った。

「南雲だが。なんだね、五反――」

『あ、南雲くん! こっちの方に帰って来たって、さっき買い出しに行った一年生から聞いたよ! 大分譲歩したんだから、帰って来なさい! この作品、主役が居ないとなんか進まなくて!』

「げ、梨本さん……。わかった、早急に帰還しよう。……はい、はい、重々承知しておりますので。はい、では……」

 電話を切ると、南雲は大変申し訳なさそうな瞳で茉莉花を見下ろした。だから、茉莉花も憂いを帯びた瞳で返してみる。行かないで……、とでも言うように。

「香月くん……」

「南雲くん……」


「――早急に帰還する。ゆっくりとはどうも歩けなさそうだから、無理そうならこの場で別れよう」

「はいはい、じゃあね南雲君。演劇頑張ってね」

「はは、ありがとう。ではまた」

 南雲はチノパンのポケットに手を突っ込んで、コートの裾を翻して去っていった。そして少し離れたところから、肘笠をさして、全力疾走をしだした。それは先程の格好つけからはほど遠い、酷く遅いものであった。

 茉莉花は、もしかすれば早歩きでもついていけるのではないかと嘲笑した。


 ◇

 茉莉花はするようなこともなく、ただぼんやりとあたりを見回した。あたりは秋、ここだけ夏のようで甚だ不気味であった。

すると、あっと声を上げてしまった。

「傘返すの忘れたあ……!」

 右脇に立て掛けられている緋色の傘は、茉莉花の家に一度寄った時に持って来たものであった。すっかり返しあぐねてしまった。

 手に取って、広げてみれば、その立派な二十四本の骨が張った。そのまま四阿から飛び出してみると、ふと、拍手がなった。

 やはりこいつらは自分を煽っているんだ、と託けて、持ち主を追っていった。

 ……大丈夫かな。

 学校まで行かなければ、きっと追いつかないと知っていても、足の前に出るのを止められなかった。


 ◇

 ――南雲に追いついた。

 先程は早歩きで追いつけそうなぐらいの走行であったが、もはや歩いたほうが早いときた。完全に茉莉花の思うところではなかった。しかし本人の懸命に走る背中に声を掛けるのはどうも躊躇うものがあった。だから、彼にさりげなく傘をさしてやるも、ひとたびバケツの水を被ったように濡れている彼にとっては、その優しさは無いも同然だった。

「ねえ、南雲くん! 南雲くんったら!」

「え……あ、香月くん! どうして、良く追いつけたね……!」

「一度でいいから、その走り方を見直したほうがいいと思うよ」

 それよりも、と。茉莉花はずっと拝借していた日傘を彼に分け与えた。

「一応……風邪ひかないようにね」

「ああ、ありがとう。いやあ、すっかり忘れてしまっていた。……なんだ、やはり、美人に使われているのが似合うね、こいつは」

「そ、そうなんだ。ふうん」

 ふと静まり返って、雨の音がより鮮明に伝わって来るようになると、まるで、こうして相合傘をしているのをからかわれているようで、茉莉花は全身が熱くなっていった。だから、コートなど脱いでしまった。熱がさっと逃げていった。汗が背中を伝っていくのがわかった。こう近いと、香水に頼るばかりであった。

 左肩に抱える雨粒が多くなってくると、その薄い色の肌が染み出すようで、キャミソールの肩紐も浮きだって見えた。ワイシャツが乳房の丘陵を際立たせた。するとひと風強く吹き込んできて、傘が揺らめくと、傘に溜まった大粒が、彼女の背中に零れた。

「ひゃうっ……!」

 その声音を聞き入れた南雲は、「ほう、君も大概そういった可愛らしい声も出せるのだね。眼福だ、いや、耳福か」などとひとりぶつぶつ言いながら、茉莉花の足を止めたのに気付かすに先を行ってしまう。

 するとまた風が抜けた。

 茉莉花の手中から取っ手が滑った。かじかんで握力を失っていた。石突がアスファルトに弾かれた。

 本来この時雨は、身震いをするぐらいに冷ややかなものであったが、それも色づくひとりの娘にとっては焼け石に同じであった。


 ◇

「あれ、香月ちゃん。こっちまで来たんだ」

「梨本さん、彼女は私にわざわざ傘をさして、ここまで来てくれたんだ」

「その割にはだいぶ南雲くんびしょびしょだけどね、ふふ」

「じゃあ、ぼく帰るから」

「ああ、ありがとう。すまないね、もう裏方は皆帰ってしまったというのに。……その傘はまた今度、天気のいい時にでも返してくれればいいよ」

「うん、わかった。ありがとうね」

「え、待って。香月ちゃん、裏方やってくれてたの?」

「うん、一応ね」

「ええ! 主役なんでやらなかったのさあ! 本当にいいの、裏方なんかで!」

「うん、いいんだ。こういう単調な作業は嫌いじゃないしね」

「そっかあ、それは残念……。でもまあ、助かるよ、ありがと!」

「私からも。本当に助かる、ありがとう」

「いいんだってば。じゃあね、また明日」

「うん、じゃあね!」

「ああ、また明日」



 ――香月くん、君がこうして裏方の仕事をやってくれていることが、私は大変誇らしいよ――。


 ◇

 茉莉花はバスに乗って、再び市井野駅へと向かっていた。

「今度、折り畳み傘買わなきゃなあ」

そう言って、手中にある傘を見れば見るほど、その美しさに呑まれていった。竹で出来たややごつごつした取っ手に、二十四本という多めの骨が通った、緋色を基調とした白色の蛇の目模様は雫を集めては、涙を流している。

 バスが止まった。信号にかかったのだった。車窓から外をみると、もう雨なんて降っていなかった。だが、雲間が晴れることは無かった。かえってそれは広がってしまっていた。それでもなんとか手を伸ばそうとした斜陽が、そこに透けて見えるようだった。――この窓に張り付いた雨粒も、またバスが走り出してしまえばやがては流れてしまう。病院のベッドで蔦の葉の落ちるのを見るように、茉莉花もまた物憂げにそれを見つめるのだった。


 ああ、ずっと雨が止まなければいいのに。


 ◇

「やあやあ、秀くん。悪いね、さっきは。俺から言うと君は理由を付けてサボりそうだったから」

「もういいのだよ、実質昼間はサボっていたのだからね」

「そうか……すまないな。――ところで、ちゃんと彼女には言ったかい」

「なにをだね」

「ほら、『君が、こうして、裏方の仕事を粛々とやってくれていることに、大変感謝しております』ってさ」

「ああ、そんなにからかうようには言ってないが、ちゃんと、感謝のひとつやふたつ以上、言ったに決まっている。別にこれは君に言われてしたことではないからね、それだけは理解しておいてくれると嬉しい」

「ああ、それは良かった。助かるよ」



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