九 罪科

 ◇

 あれから、主に四年のクラスのほぼ全員が裏方に増援としてやって来て、もはや茉莉花の指示も届かないぐらい、また必要のないぐらいの協調性でつつがなく作業は完遂された。

 そして、学園祭一日目。

 裏方に残された仕事は、明日の演劇で舞台セットの出し入れをいかにスムーズに行うことと、実際使ってみて改善があればその都度、修正するといったぐらいであった。

 十二時から十四時までは、キャストも裏方も仕事がない。五反田の配慮で、学園祭を回れる時間は確保されている。もしこの気配りというもののひとつも無かったら、いよいよ彼らは五反田の創作の中に明け暮れ、また普通高校への嫉妬が募るのである。尤もそれは、根本的な問題が学生全体として、否、学校全体としてあるのであり、決して普通高校がなにか高専にけしかけたというわけではない。だから、やや浮世離れした環境に通い続ける高専生という生き物は、こういった学園祭になれば、女装コンテストも開くし、女装お化け屋敷も開くし、やたらと女ものの学生服を着始めたりするのである。

 そして茉莉花は、不気味で、蒸し暑い人並みに押されながら、御堂とふたりで適当にぶらついていた。

 御堂は長い髪を後ろで適当に結って、なにやらミニスカポリスという格好になって、帽子まで被り、極端に厚底のブーツを履いていたが、それは傍から見て、天狗下駄を彷彿とさせるものであった。演劇練習の時には何度も寒い、寒いと口にして、南雲にやたらめったらにくっついていたにも関わらず、かえって生き生きとしているものだから、茉莉花にはもうなんだか異様な生物に見えて仕方がなかった。

 加えて、自分が絵具で薄汚れた体操着姿であるということも少なからず、そういった惨めなことを考えさせるのに手を貸した。更に茉莉花は、南雲へとアプローチを掛けてはみたが……、


「すまないね、これから、きっかりふたりで回る予定があってね。……後生だから、許しておくれ。さもなくば、きっと私は殺されてしまうんだ……」


 そのような意味不明な発言をしたあとには、もう南雲の姿は目の前にはなかった。……あの遅い足でどれだけ必死に走ったんだろう……。南雲はその相手にいったいどれだけの憂虞というものを抱えているのだろうかと、自然と茉莉花は、口元が緩まった。

 そうして茉莉花はパンフレットを開いた。ふと目に着いたのは爪に入り込んだ絵具だった。あれだけ入念に手を洗ったというのに、手はハンドクリームの世話になってしまったというのに、これだけは、しつこく、こびりついているのである。「どこか気になる場所でもある」とでも適当に御堂へと訊きつつ、自分は人波を手刀で割っていった。そうすると御堂はこちらを見下ろしながら笑って。

「クレープ食べたいかなあ。えと、四年の電気科だからあ……」

「もう二階だけ上ればいいね。わかった、行こう」

 



 そうして、がやがやとした教室へと入っていくと、窓側一角は全て調理台として、残りのスペースはテーブルと椅子とで休憩所として提供されていた。ふたりは真っすぐ行って、四百円ずつ払ってから、揃ってチョコバナナクレープを頼んだ。その声は偶然重なって、続いて顔も向かい合った。ふたりは笑い声を零しながら、奥へと進んでいって、素人と思しき学生らが作ったとは思えないその出来栄えに嬉々として、腰を掛けた。この丸テーブル以外は全てもう人が坐っていたから、ふたりは向かい合わせにならずに、隣り合わせになって坐った。

「いやあ、思ったよりも混んでるもんなんだねえ。よかったあ、坐れて……」

「本当にね……。残念ながら二人席じゃないのが気に食わないところだけど」

「まあ、まあ……イケメンの五年生か誰かが来るかもよ、ワンチャン」

「……来なくていいよ、そんなの――」

 そう言っていると、子供のように澄んだ声が弾んできた。


「シュウくん! あれ食べたいなあ」

「ふむ、あれかね。なに味が好みだ」

「えとね、私ね、苺味がいいなあ」

「わかったよ、その通りに」

 ひと組の男女のものであった。長身痩躯の男は、紺のチノパンに白の綿麻のワイシャツを着ていた。今の時期にはやや寒そうである。そして少し長めの黒髪があっちこっちにはねていた。

 また女の方はグレージュのワントーンコーデ。胸のあたりまでおりた亜麻色の髪は奥ゆかしげに艶めいていた。サテンパンツにスエードのブーツ、ふわふわのルーズタートルニットの裾からは、チュニックの白が眩しかった。ボアコートに包まる身体が、あたかも縫いぐるみに抱きしめられているかのようであった。目を凝らしてみれば、ヒールは高くて、大分身長が盛られているのがうかがえた。


 ちょうど金を払い、ストロベリーホイップクレープをふたつ受け取って、こちらへとやって来る。

「すまない、お隣よろしいか――っと、香月くんに朱莉くんではないか。これはまたばったりだね」

「……秀先輩、そのお方ですかあ、回ると言っていたのはあ」「……南雲くん、可愛い女の子を引き連れて、えらくご機嫌じゃないかあ、ははは」 

「ねえ、シュウくん。この女たち誰」

「……お前はもう少し言動にやすりを掛けた方がいいよ。彼女たちは、演劇でお世話になっている人たちだ」

「へえ……まあ、いいや。じゃあっ、クレープ食べよ!」

「正気かね……、やめた方がいいよ、なあ、ほら、ふたりっきりで食べたいものだろう……?」

「うん……うん、いいよ。どこ行く? 裏手に確か安くてアメニティ豊富なホテルが――」

「こ、ここでいただきましょうかね、はいっ」

「ふふ、じゃあ――食べさせて!」

「お前にはその御手があるではないか」

「……ああ、手に力が入らないなあ……ちらッ」

「もうすっかり怪我も治って、私に料理を作って届けに来てくれたではないか」

「『今』力が入らないんだよねえ」

「とんだ後遺症をもらったものだね……」

 そうため息をつきながら、南雲は彼女の口元にクレープを運んで、食べさせていった。彼女の小さく口先で口に運んでいく姿は、雛鳥のようであった、その愛らしさのようなものに、思わず南雲も綻びをみせた。

 南雲は、誰これ構わず、特に女に対しては柔弱謙下の姿勢をとってしまうような性格であったが、この娘に対してはふやけたような顔でいた。それは彼の性格と、想い人と重ねてみれば、至極当然であるというのに、なにか気味の悪い空気を茉莉花は感じた。けれども、あの日、あれだけうっとりとした顔で、この南雲結という人間を語っていたのだ。杞憂だろう。……しかしそれは、なにか茉莉花の胸に引っ掛かりを覚えさせた。あれは、ほんとうに好きな人間に対してするような、態度なのだろうか。眉尻は下がっている、普通ならここで目も見開かれるはずである、しかし彼の目はどこか力の入って細まり、笑顔は僅かにわなないているようだった。反対に彼女のほうは、ぴたりと落ち着いたまなこを張り付けて見るように、ただひとりの男がそのヘーゼル色の虹彩の中に映し出されるばかりであった。

「ねえ、シュウくん」

「なにかね」

「好き。大好き。愛してる……。本当に、本当に、シュウくんが愛おしい……食べちゃいたいぐらい」

 彼女は舌なめずりをしながら、南雲の頬を取って、――その口元に付いていたホイップクリームを嘗めた。

「甘いなあ」

「やめたまえ……こんな人気の多いところで……」

「ふふ。照れちゃって可愛いね。じゃあ、人気のないところ、行く?」

「行かな――」

 い、と続くようだった口元は、彼女の伏せられた三日月型の双眸に穿たれて、

「――いわけがないではないか」

 と歪んでしまった。

「やったあ」

 そして笑んだ彼女はどこか、遠くを見やるように、彼を見ていた。


 茉莉花は御堂とアイコンタクトを取って、立ち去ろうとする南雲へと、冷めた面持ちで割って入った。

「ねえ、南雲くん」

「ああ、香月くん、どうかしたかね」

「……ちっ」

「深幸……少しだけ待ってくれ」

「……あとで三倍増しでいちゃいちゃするならいいよ」

「ああ、待ってくれるなら何倍でもいいよ。――で、何の用かね」

「……南雲くん、そういえばね、五反田くんと梨本さんが君を探していたよ。主役と相談したいことがあるってね、ねえ?」

「そ、そうなんですよお。ほら、秀先輩っ、あたしが案内してあげますから、早く行きましょう?」

「そうなのか……なんとか誤魔化すことはできないかね」

「そりゃ、駄目だよ」

「駄目ですねえ」

「……すまないっ、私は己の命が可愛い……! 行くぞ、深幸っ! 手を取りたまえ!」

「うんっ! 一生ついていくから!」

「それは勘弁だ!」



「……逃げられちゃったね」

「……そうだねえ」

「回ろうか、どっか」

「うん。なんでも悩みを聞いてくれるって噂の、男装メイド喫茶【お粗末な俺の……ポッポ焼きっ】にでも行ってみようか……」


 ◇

「ああっ、抓るなっ、痛いだろう!」

「……ねえ、なんでシュウくんってさあ、そんなに女ったらしなのかなあ」

「たらしこむような真似は……高専に入ってからは、きっかりやめたのだよ」

「嘘! だってさっきも女ふたりと仲良く――」

 すると、女の声が止まった。否、止まったのではなく、まともに発することができなかったのである。溢れ出した涙の粒が、目尻から頬を伝って、顎にまで滑ってくると、爪の跡の食い込んだ南雲の手の甲に滴り落ちて、溜まっていった。彼のワイシャツの袖を握る手は震えていて、その涙の塊があちらこちらに振り回されると、やがて、どこかへと消えてしまった。そこに残ったのは湿り気だけであった。

「どうして、お前はそんなに他の女性を嫌がる……、昔から、そうだった」

「だって……シュウくんの周りには、女ばっかだったじゃん! 昔っから……! だから、周りに女が居ると、みんなシュウくんのこと好きになっちゃうかもって、だから……」

「深幸の言うそれだって、お前自身のことでもあるではないか」

「わたしはいいんだもん……」

「何故そんな勝手が言える……」

「だって、だってわたしが一番大好きなんだもん、シュウくんのこと! 昔から! ちっちゃい頃から、ずっと、大好きだったんだよ……? それで、なんで、ちょこっとシュウくんのこと知っただけの女にシュウくんを譲らなきゃいけないの。ちょっと良くしてもらったからって嬉しがってるあばずれにシュウくんを汚されるのを黙ってみていなきゃいけないの。これだけ想ってるのに……ねえ、どうして、どうしてそれで――シュウくんは、わたしを愛してくれないの。わたしは適当に抱き締めてくれればうれしがってるようには見えても、全然気持ちの方は満たされてくれないんだよ? そういうぐらいにもろくなっちゃったんだよ。……だから、裏手のホテルでわたしと寝てよ」

「な、なにを言っているのかね! そんなこと……」

「そんなこと? なに? 大好きで、愛してて、こんなに想ってる人とすることだもん、なにも間違ってないよ?」

「私たちは十八歳未満だ、ラブホテルには入れない」

「大丈夫、こっちの学校だと、カップルたちが普通にホテル入ってるって話聞いてるから」

「てるてる言っても駄目だよ……、だってそれに、私には責任が取れない……万が一がある」

「そうしたらさ、もう、結婚しちゃおうよ、わたしが一生養ってあげるからさ。シュウくんは家で好きにしてていいから……ね? わたし、お母さんの不動産会社継ぐから」

「駄目だ、駄目だ! ……絶対に、それは駄目だ! 私は、お前のことを、そういうことをしていい相手とまでには想ってなどいないのだよ……」

 すると、女は南雲の股間部を手でまさぐって、伽藍洞の瞳を向けた。

「ねえ、わたし知ってるんだよ? シュウくんが今まで誰とえっちなことしたのか。和泉夕花。稲葉美鈴。千原志穂。園崎加奈。山西――」

「やめろ! やめてくれないか……私だって、もう思いも出したくないのだよ……」

「シュウくんは、本当にあいつらのことを想っていたのかな……ふふふ、わたし知ってるんだよ? 昔っからえっちな動画とか漫画とか好きだったもんね。もっぱら電子機器には弱いのに、タブレットで、えっちなの見る時は必死になって、調べたんだもんね、履歴見てたんだよ? 小学生の一、二年生の頃は、男女一緒に着替えてたよね、その時すっごくいやらしい目、してたもんね。もっと言おうか? 実は今まで本当に惚れたことなんていちども無くて、ただ断るのもなんだから、性欲の捌け口に使ってやろう……って考えてること。全部、全部お見通しなんだよ」

「確かに私はどうしようもないほどの助平だ! お前の言っていることも殆ど合っている! だがふたつほどお前は間違えていることがある!

 ひとつは私が、本当に彼女を愛していること。もうひとつは、ひとりを愛しているからと言って、他の皆が皆、嫌いになってしまうわけではないということだ……。お前もよく知っていることがあるだろう。恋が叶う、叶わないではなく、それがただ微妙な距離感をもって、ずるずると続いてしまう辛さが。私もね、今とても苦しいのだよ。本音を言えば、それは、今すぐにでもこの気持ちをぶちまけてしまいたい。けれどもね、私は人間だ。理性をもって行動しなくてはならない。いいかね、誰にでも手を出す時、それは、私が全ての相手と互いに微妙な距離感を保っているときだけだ。私はお前を近付け過ぎた……。そして、私は彼女、そう、南雲結という女性に近づき過ぎたのだよ。今現在の、私なりに、本当に私個人の見解では、それをしてしまっては、もう、駄目なのだよ」

「……じゃあ、どうすればわたしのこと好きになってくれる?」

「違うんだ。お前には、あのとき、悪かったね、『お前のことがもう好きではなくなってしまった』などと抜かした。……違うんだ、私は、お前のことが好きなのだよ! また、先程目にしただろう、黒髪の女性、香月茉莉花も好きだ。そして――一番に、私は、南雲結という女性を好いているのだ。南雲秀という生き物はね、そういうものなのだよ。だから、せめて、一番の女性に、節操を守って見せなくてはならないのだよ。……けれども駄目なのだよ、私の元来の不埒者が出てきてしまって……」

「それならいいでしょ。……好きなんでしょ、ねえ」

「お前を近付け過ぎたのは、私の責任だ。……お前が許してくれるまでは、償いを続けなければならない」


 ……すまないね、結ちゃん。私などには君を愛する権利が、君に告白をした時から、もう既になかったみたいだ。君の世界でだって、きっと私なんかよりも、愛するべき良い者たちがたくさんいる筈だ。私はいい加減、己の背負ってきた罪を贖うために、君から、立ち退いて、君という存在の眩しさに一方では恋焦がれ、一方では慄きながら、朽ちてゆく運命にあるようだ。

 ――この気持ちが、いつか昇華してしまわないように、今のうちに、言わなければならない。


 君を誰よりも一番、好いている。

 君の残した感謝の花とともに。

 この愛を紡いでできた糸が。

 君と私をいつまでも結わえ続ける一縷の架け橋となることを、願って。

 ありがとう。

 ――だから、もう二日だけ、私の一番で居てくれないだろうか。


 ◇

 シャッターを下ろすと、部屋番号のネオンだけがぼんやりとノブを照らしていた。ノブを捻ると、靴ふたつぶんでいっぱいいっぱいの玄関があって、上がり框から階段が続いていた。それをふたりは上っていって、「足元には気を付けたまえ、ふたり一緒にころころ転げ落ちてしまってはいけないからね」などと冗談を挟んでいるうちに、最上段まで辿り着いた。すると壁に一枚の木の板が取り付けられていた。それにはふたりとも首を傾げた。

 そして正面には木製の大きな扉があり、金メッキのノブを捻り、入っていった。

 部屋は一般的な住宅のリビングぐらいあって、とてもふたりで使うには広過ぎるように南雲は感じた。

 赤色に統一された部屋は、各部のひとつひとつが小綺麗で、女は思わず声を上げていた。

「すっごい広いね!」

「そうだね。……明るさはこれぐらいでいいか……」

「シュウくん、目、つむって? で、手を後ろに持ってきて? うん、そうそう――ガチャ」

「……ガチャ?」

 すると、南雲はふいの衝撃に、ベッドに倒れ込んだ。驚いているうちに、足首にも拘束具がつけられていた。人間とは思えぬ早業であった。

「痛っ……! なにをするのだね!」

 しかし仄暗い室内に、答える声はなかった。その目に浮かび上がったのは、赤黒い壁と、赤く灯る女の莞爾とした笑い顔とであった。南雲はそれがあまりに恐ろしくて、尺取虫のように身を曲げ、ベッドから逃げようとした。しかしそれを上から踏み倒され、息苦しさに喘いでいると、ころん、と仰向けにされた。

 彼女は南雲の腹に跨って、ボタンを外して腕と胸とを、チャックを下ろし、腰も、脚も、局部もはだけさして、その隅々まで、爪を立てた人差し指で引っ掻いていった。末端で丸まった衣服が無様であった。

 ひとつ爪が走れば――南雲は呻き声を上げた。

 

 そして、ようやく爪が動きを止めた。

 次に彼女は、熱を帯びた皮膚に唇を押し当てると、おもむろに、唾液をたっぷりと絡ませた舌で舐っていった。


 それもくまなく済ませてしまうと、小刻みに震える南雲の肩をがっと押さえつけて、


「ごめんね。でも、シュウくんがいけないんだよ……。顔は避けてあげるから。だから、ちょっとだけ痛いの我慢してね……。まずは首から、」


 ゆっくりと噛み締めていった。



 〇

 昔はとても人見知りで、お母さんとお父さん以外の人とは全く喋れませんでした。そしてこの年になっても、ちゃんと話すことができるのは、ふたりと、シュウくんだけです。シュウくんだけは、特別なんです。

 シュウくんの家とはお隣さんでした。

 わたしは外に出るのも怖くて、自分の部屋にこもってばかりで、閉め切った窓からの景色を眺めていることがゆいいつの、わたしの落ち着いたまま、外へと出る方法でした。窓はふたつありました。机のとなりにある窓は、小さくて、そこからは庭が見えて、よくお母さんがお父さんと一緒に家庭菜園を楽しんでいました。でも、そうしていると、たまに目が合ってしまって、ふたりは笑ってこっちへ手を振ってくれましたが、わたしはなにか落ち着かなくて、すぐに顔を引っ込めてしまうのでした。

 そして、もうひとつは、ベッドのすぐ上にあって、当時のわたしでも膝立ちをすれば、景色を覗くことができました。でも、そこは、お隣さんの家でなにも見えなくて、日もあまり入ってこないので、当分は、目も向けませんでした

 入園当時のことなんて、記憶にありません。なので、わたしが初めてシュウくんに会ったというのも、ちゃんと覚えているというわけではありません、ただ、お母さんから聞いた話ではちょうどその頃だったらしい、というだけです。『シュウくん』という呼び方も、当時、シュウくんのお母さんが呼んでいたのだとも教えてくれました。

 そしてわたしの手を引いて、近くの公園でブランコをしたということだけを、覚えています。

 それからいつの間にか、わたしは自分から、部屋の窓を見るように、シュウくんのところへ行って遊んでばかりいました。シュウくんはいつもわたしよりもたくさんのことを知っていて、それをわたしに教えてくれます。特に、昆虫のことが多かったと思います。覚えています。わざわざ、メモまで取ってました、それも、今は机の引き出しの奥の、きらきらしたクッキーの缶箱に残っています。

 また、シュウくんは男女問わず、友達が多かったので、そのたび、わたしは家へと引き返して、また、意味もなく窓ばかり覗いていました。でも、それにも飽きてしまうようになったのです。シュウくんと遊んでいることが、あんなに楽しいだなんて、あまりに当時のわたしには輝いていて、困ってしまいました。その時は、決まってそのメモを引き出して、ずっと読んでいました。黒い鉛筆でぐちゃぐちゃに画用紙へと書かれた文字と、それに加えられたシュウくんの赤鉛筆とを、ずっと、飽きずに読んでいるのでした。そして、わたしもお母さんに昆虫図鑑を買ってもらい、勉強しました。そしてたくさん昆虫について話し合いました。そんなふわふわした距離の関係が、小学三年生の夏休みの初めごろまで続いていました。

 たしか夏休みが始まってすぐに、シュウくんはわたしの部屋に遊びに来ていて、いつものように、「お前の部屋ってやっぱり面白そうなのがないよなあ」と言ってから、溜息をついて、タブレットを開いてなにかを見ていました。

「次の金曜日、ばあちゃん家行くんだあ」

「ああ、毎年遊びに行ってるって言ってたね」

「そうそう。ばあちゃん家はつまんないんだけど、ちょうど、あっちのほうで、すっげえおっきな花火が上がるんだ!」

「そうなんだ! それってこっちのやつよりもすごいの?」

「すごいなんてもんなじゃないよ! 一番すごい!」

「へえ……いいなあ、わたしも行ってみたい! いつか連れてって! えと、あの、その時はふたりっきりで……」

「じゃあ、いつかぼくたちだけで行けるくらいにおっきくなったら行こうよ!」

「ほんとうに! やったあ!」

 その時にシュウくんは、「男は嘘をつかない」と言って、『せいやくしょ』を書いてくれました。それを書いている間に、ちょっとタブレットを覗くと、だいぶえっちな動画が流れていました。たまたまいじっていると、履歴が出てきて、それもなにやら全く知らない単語が並んでいましたが、『エロ』だとかがたくさん目に入ってきて、思わずタブレットを叩き割ってしまいそうでした。


 そして、もうそのころには、わたしはシュウくんのことが好きなんだ、と知りました。シュウくんが居ないんだと思うと、早く帰ってこないかな、となにげなくシュウくんの家を見ようとして、久しぶりにベッドの方の窓を覗くと、そこからは、シュウくんの部屋が、大窓のレースのカーテンから透けて見えていたのです。真ん中に丸テーブルがあり、その右隣りにはシンプルなベッドが置かれていました。なんども遊びに入ったことのある部屋でしたが、こうやってちょっとだけ見えていると、なんだか、よくわからない、わくわく感に包まれるのでした。あれは昆虫図鑑かな、あれは化学の図鑑で……ノートがいっぱい積んであって……ああ、あれはたしかサボテンのはち……。

 こうやってシュウくんの部屋を覗くことは、まるで本当にシュウくんの部屋に居るようで、いけないことだと、なんどもやめようとは思ったのですが……いよいよ日課になってしまいました。

 そしておばあちゃんの家から帰ってきたシュウくんに花火の感想を訊きました。

「やっぱりすごかった?」

「う、うん……、まあね」

「どうしたの、そんなかなしい顔して」

「あの、ミユキ……。ぼく、さ――もうミユキと遊ばない」

「えっ! なんで……!」

「ぼくは、むしはかせにもならない」

「ずっと将来の夢だって言ってたじゃん! わたしもあんなに勉強したのに!」

「ぼくは……ぼくは、化学者になるんだ。だから、いっぱい、ひとりで勉強するんだ。それに、そうじや、せんたく、料理の手伝いっていっぱいなんだ。だから、ミユキとも、ほかの友達とも、遊んでる暇なんかないんだ」

 そう泣くように言って帰ってしまいました。引き留めようとした手もはじかれて。

 結局、明日シュウくんの家族と一緒に海へ遊びに行く予定もなくなってしまいました。

 学校へは変わらず一緒に登校もしましたし、話しかければ最低限は答えてくれました。まるで人が変わってしまったように、近づかせまいと張り詰めた顔をしていました。そして、もう遊ぶようなことは本当にありませんでした。わたしは知っていました、こうしてわたしがしゃしゃり出ることがどれだけシュウくんに迷惑をかけるようなことだと。だから、わたしは、見守ることにしたんです。それで、シュウくんが疲れたり、折れてしまうようなことがあったら、胸を貸してあげようと思ったのです。でもシュウくんは頑張り屋さんだから、きっとそんなことなく、突き進んでしまうんだろうなあって、ちょっと寂しかったりも、しました。

 ただ、その様子を、わたしは窓からずっと、応援していました。


 けど、シュウくんは中学に入った途端、変わってしまいました。

 小学校の同級生で、この中学校に進学したのは、わたしとシュウくんと、あとは数人ぐらいでした。わたしたちは部活に入りませんでした。なので、そういったことが気兼ねなくできたのでしょうか。

 

 シュウくんが化学者になると言ってから、わたしはずっとシュウくんの背中を追ってきました。シュウくんはそれになんとも言わず、ただ、手元の化学の参考書に目を落として歩いていってしまうのです。

 ですが、中学に入学してから一か月の帰り道で、わたしは初めてシュウくんのほうから声を掛けられたのです。その日はとても真っ赤な夕日が見えたと思います。

「……深幸、君は空気が読めないのか。ついてこないでくれ」

「なんでそんなこと言うの」

「見ればわかるだろ……彼女と歩いてるんだよ。見られてたらそわそわするじゃないか」

「彼女? 別にこの女と歩くのに、わたしが居ても居なくても変わらないでしょ?」

「三人称じゃない。彼女、つまりガールフレンドだ。な、夕花」

「そうそう! ウチらラブラブだもんねえ!」

「ねえ、それどういうことなの……。まさか、放課後補修があるって言ってたのって……!」

「――あの娘は幼馴染でさ。まま、気にしないで。それより……私の家に早く行こう」

「うん!」

 わたしはもう言葉が出ませんでした。三年ほど、ずっとシュウくんを見守ってきたというのに、中学で、たった放課後の時間だけで……こんなことってあるんでしょうか。わたしはできるだけシュウくんの近くにいるつもりでした。難しい参考書を読んで、頭を悩ませている時も、頑張って理解しようとしていたり、わたしが夜遅くに目を覚まして、トイレに行こうかと思ってたまたま見えた部屋が明るかったり、登下校中に車が飛び出してきたり、人とぶつからないように目を凝らしていたというのに。「独学は進んでいるけど、学校の勉強は進まなくてなあ。放課後は補修があるんだ」と話をされた時は、昔のお返しをするために、シュウくんに内緒で必死に勉強をして、わからないところを教えてあげようと思っていたのに。


 ――どうしてわたしじゃないの。


 それからわたしは二回ほど歩行者とぶつかりそうになって、赤信号を飛び出して車に引かれそうになったりしながら、なんとか家に着いて、青鞄を肩から降ろさないまま、窓を恐る恐る覗いてみました。

 

 わたしの顔はみるみるうちに痺れていって、眼の縁が熱くなっていって、鳥肌が立って――すぐに布団に包まり、できるだけ、精いっぱいに声を押し殺し、ついに泣いてしまいました。我慢ができませんでした。早まる律動が、涙を吐き出しているかのように、どくどくと止まらないのです。このまま枯れてしまうんじゃないかと怖くなって、顔を上げると、ピントが合わずに、ぼやけてしまった視界が戻ってしまうのも嫌で、とにかく泣き続けるほかにありませんでした。それでも、物のだいたいの位置は覚えていたので、シュウくんに教えるために作った特別のノートの頁をびりびりに破いて、再びベッドに戻って、手で、布団をぐっと掴むと、びしょびしょで、思わず手を放してしまいました。が、またすぐにそれを掴み、顔をうずめて、崩れ落ちてしまうのでした。


 しばらく、わたしは学校に行けなくなりました。身体がとても重く、どこまでも気持ちが沈んでしまいそうで、布団から出られなくなって、ふと難しいことを考えようとすると頭がどろどろに溶けてしまいそうで、ちょっと走っただけでも身体がくずれてしまいそうでした。

 ある日、わたしの家にシュウくんがやってきました。宿題や休んだぶんのノート、おたよりを持ってきてくれたのでした。お母さんが、「シュウくん心配してるけど、上がってもらう?」と言ってくれましたが、わたしは、それを断りました。

 授業はすっかり進んでしまっていて、宿題の空白部分がとても怖いもののように思えました。そして授業のノートはシュウくんのとったものでした。字で、わかりました。しかし、わたしは小学生のころのシュウくんの頑張りを知っています。このような、まるまる黒板を書き写したようなノート、ひと目見ただけで、そのへんに投げてしまいました。


 たしかわたしは、「家でも勉強できるから、だから具合が良くなるまで家に居させて」と頼み込んで、季節をひとつ越え、ふたつ越え、その間に、シュウくんは何度も何度も違う女を家に連れ込んでいました。学校が早く終わった日や、夏休みの間なんかは本当に辛いものでした。見なければいいと、何度思ったところで、その窓に引き付けられてしまう心の弱さ。わたしは時が経つに連れて、幼く、脆くなってしまいました。


 登校を再開したのは、冬休み明けの最初の登校日でした。

「……おはよう、シュウくん」

「あ、深幸! 久しぶりじゃないか……体調の方はだいぶよくなったか」

「うん、なんとか。シュウくんも元気にしてた……?」

「ああ、なんとか、ぎりぎり。独学でやってる化学は楽しいんだけど、どうも普通に学校でならう科目がな……。それでも、まあ、頑張ってる」

「そうなんだ、良かった!」

 わたしは立ち入った話をするのが怖くて、なんでもないような、他人行儀な話しかまともにできませんでした。そうして、わたしはこうしたちょっとした時間だけ、シュウくんと喋れるようになったのです。

 なんとか、以前のように強くならなければいけません。しかし、一度でももろくなってしまった心身は、なかなか強くなるには難しいのです。

 だけれども、わたしは心に決めたのです。


 一歩ずつでいいから、またいつか、シュウくんと隣で、たくさん話がしたい。


 そうして、わたしは遅れていたぶんの勉強を頑張りました。また、窓を覗いては、泣きそうになるのをこらえて、その辛さをただ文字や数式に落とし込みました。


 三年生になると進路というものを意識しなければならなくなって、わたしはとくに決めていなかったので、シュウくんの希望と同じところを選ぼうと思っていました。シュウくんは、親に勧められた、と七十キロほども離れた市井野高専を狙っていると言いました。わたしは特に高専に興味があったわけではありませんが、女も少ないということだったので、悩み事も少ないだろうと、本格的に勉強を始めました。それでも、シュウくんの女遊びはおさまりませんでした。ですが、ときどきシュウくんのほうから勉強を教えて欲しいと頼まれました。いっそ、このまま部屋で押し倒すのもありだとは思いました。それでも、わたしは、あの女たちみたいに、シュウくんに手を出したりはしませんでした。そんなことしたら、あの女たちと同類になってしまいます。わたしは、シュウくんのことが大好きです。愛しています。だから、シュウくんにもわたしを大好きになってもらって、愛してもらわなきゃいけないと思ったのです。愛は、つくるものではありません。ふたりで、育むものです。だから、ちょっとずつ、昔みたいにふたりっきりで、仲良く……。


 そして、わたしは、いいえ、わたしだけ落ちました。

 わたしの中学校から市井野高専の入試を受けたのは、わたしたちふたりだけでした。ふたりで職員室に行って、合格発表の数字が、シュウくんのだけあったことを報告されました。職員室中では拍手が飛び交いました。この学校はもう何年も市井野高専へと進学したというデータがありませんでしたから、それだけ誇らしいことだったのでしょう。

 わたしは、自分で落ちた理由がわかっています。入試では、数学、社会、理科、英語と、国語の代わりに作文がありました。テーマは『あなたが高専に入る理由とそれから』というもので、まさか、好きな男のためとは書けません。また、わたしは嘘を吐くのが苦手だったので、全く薄っぺらい作文には、最低評価がつけられてしましました。


 それからシュウくんは、またいつものように女遊びに溺れるようになりました。しかし、なんでもないような日を境に、変わってしまったのです。そして、もう合格したから学校に来る必要がないと、家にこもってしまったのでした。

 高専と普通校の試験内容はだいぶ変わってしまいますから、必死でその方の勉強もしました。ある日、わたしは、「中学校生活最後の悪い素行を高専に連絡するぞ」という担任の先生の声をぶつけに、また宿題や、ノートを渡すために、シュウくんの家に行きました。

 もう何年も入っていません。インターフォンを押すと、「開いているよ、入って構わない」わたしは玄関に入ると、シュウくんがそこに立っていました。体操着姿でした。「先に私の部屋に行っていてくれ」と自分はリビングの方へ行きました。

 久しぶりにこの扉とノブを見ました。そして開けると、中からは、なにか酸っぱいようなにおいがして、それを覆い隠すように、ベルガモットの芳香剤が棚の上に置かれていました。

 部屋は引っ越しでもしたかのように、綺麗でした。わたしは中央に置かれた丸テーブルの近くに座りました。

 そして部屋に入ってきたシュウくんは、ペットボトルのオレンジジュースを渡してくれました。そして自分はアップルジュースのほうをもって、適当に壁に寄りかかって、滑るようにして、床にへたり込みました。「お前はたしかオレンジのほうが好きだったね」俯きながら言いました。

「よく覚えてたね」

「幼馴染とはそのようなものだろう」

「そうかもね。あ、これ宿題と、授業のノート。あと、蔵元先生が『あんまりに素行が酷いと高専に連絡する』って言ってたよ」

「要らない……、それに、別にそれぐらい構やしないよ」

「駄目だよ。受け取って」

「……わかったよ」

「で、なんで学校に来ないの」

「言っただろう、もう行く必要などないのだよ。私なんかよりも、お前は今、自分のことにもっと集中すべきだ」

「それぐらいわかってる。でも、シュウくんが心配で……」

「私が心配? なにが心配だと言うんだ」

「見てたもん、安藤沙衣に……シュウくんが殴られたの」

「どこでそれを……!」

「わたしの部屋の窓から、シュウくんの部屋が見えるんだよ。シュウくんちゃんとカーテン閉めないし、レースでさえちゃんとその時は閉まってなかったし。……昔から、ずっと」

「そうか……それじゃあ、他の娘の時も、見られていたのかね」

「うん。ばっちり」

「そうか。声は聞こえるのかね」

「それはないよ」

「じゃあ、安藤沙衣のことも、別に話を聞かれていたというわけではないのだね。そうか、じゃあ、もう帰りたまえ。宿題やら忠告やらありがとう。だけど、もう卒業式まで私は登校しないから。……さあ」

「わ、わかったよ。今日はもう帰る」

 それからシュウくんの家を訪ねても、一切出てきてくれることはありませんでした。カーテンもすっかり閉め切られて、もう、なにも見えなくなってしまいました。

 卒業式に関しても、シュウくんは「もう何年卒業式を見てきていると思っている。全部わかっているよ」と言って、当日にしか来ませんでした。それも卒業生入場のたった一分前に。合唱に関しては口パクだった気がします。

 教室で最後に撮る集合写真の時には、もう既に家に帰ってしまっていて、それからすぐに市井野のおばあちゃんの家に行ってしまったと、シュウくんのお母さんは言っていました。結局、まともに話すこともできないまま、地元の私立高へと入学して、あまりにも時が早く経ち、夏休みになってしまいました。買ってもらった携帯は、ろくに使うこともなく、時間を見るぐらいでした。

 わたしは、ようやく中学時代の要らない教科書の整理をしようと思って、部屋の大掃除をしている時に、懐かしいものを見つけました。机の引き出しの奥、クッキーの入っていた缶箱です。それをひらくと、たくさんの昆虫についてシュウくんと一緒に勉強した時に使った画用紙と、『せいやくしょ』というものも出てきました。とても汚い字で、読むのには苦労しましたが、どうやら、ふたりで出かけられるぐらい大きくなったら、市井野の花火に行こう、というような内容でした。

 わたしはそれをもって、急いで、隣の家のインターフォンを押して、玄関から出てきた、シュウくんのお母さんに訊きました。

「シュウくんは居ますか?」

「ごめんね。まだ高専は休みじゃないの。もうあと二週間ぐらいかなあ」

「そうでしたか……、じゃあ、これをシュウくんの寮に送ってもらえませんか? お金は払いますので」

「差出人を私にしろってこと?」

「はい。わたしからじゃ……たぶん、受け取ってもらえないので」

「そっか……ふふふ、わかった、お金は要らないよ! 出しておくね!」

「え……あ、ありがとうございます!」

「返事が返ってきたら連絡しようか?」

「いいえ、それは手紙にも書いたとおりに、わたしの携帯に掛けてくれることを祈ってます。それで、帰ってこなかったら、仕方がないです」

「……そかそか。わかった、じゃあ、待ってて、今すぐ書いてくるから」

「はい! ありがとうございます!」


 そして後日、お母さんとお父さん以外には使ったことのない携帯電話に、一本の電話が掛かってきました。シュウくんからでした。

『もしもし。深幸かね』

「あ、シュウくん! 電話……くれたんだね」

『ああ、あんな懐かしいものを引っ張り出されるとはね……、まあ、いい。で、なんだね、行きたいのかね、市井野花火に』

「うん、行きたいの。もうあと三日後だよね。いい?」

『ああ、もうテストも終わって、消化試合のようなものでね。市井野の駅までひとりで来られるかね』

「たくさん調べてくるからなんとかなると思う!」

『だが、私は土、日ともオープンキャンパスのガイドをやるから――、そうだね、日曜は片付けもあるだろうから、土曜日の十六時ぐらいだといいかもしれないが、どうだろう』

「うん、わかった! あ、それと……」

『すまない! もう授業が始まってしまうから、また土曜日に!』

「あ、うん」

 シュウくんは向こうでも元気にやっているようで、良かったです。

 でもわたしは、シュウくんのいない学校生活なんてとてもじゃないけどつまらないのです。


 それでも、久しぶりに会ったシュウくんは、外見としてもとても元気で、中学時代よりも垢ぬけて、もっと格好良くなったと思います。でもわたしが浴衣を着付けたというのに、シュウくんはワイシャツとチノパンってちょっと、風情がないんじゃないかなと勝手に思ってしまいました。

 それからは、ものすごい人の中を、シュウくんに手を引かれながら、進んでいって、ちょくちょく屋台で食べたり遊んだりしました、わたあめの味が今でも忘れられません。そうこうしているうちに、もう花火が上がってしまうようで、急いで土手のほうへ行きました。

『まもなく、市井野大花火大会、打ち上げ開始でございます』

 アナウンスで、『超大型スターマイン』や『不死鳥』、『ナイアガラ』、『菊枝垂れ』などが音楽とともに打ち上げられて、色々と輝いては消えてを繰り返していました。

「優美だろう、とても」

「うん、とっても綺麗! ありがとう……連れてきてくれて」

「なぜ、泣いているのかね……!」

 わたしはなぜか涙を流してしまいました。とても生ぬるくて、気持ちが悪かったです。でも、止まらなくて、口にまで流れ込んできて、しょっぱいな、と思いながら、シュウくんの背中にしがみついて、泣き叫んでしまいました。「ごめんね……ごめんね……」せきとめられていたものが、一気に外れてしまったように、涙も、言葉も、しがみつく手も、止まらないのでした。


 シュウくんは、「具合が悪いので、帰省します」と言って、明日のオープンキャンパスのガイドを辞めて、わたしを家まで送り届けてくれました。

 そして、本当は、わたしは、今日の花火の時に告白をしようと思っていました。わたしは、やはりもう、強くはなれません。ですが、わたしが泣き出してしまったせいで雰囲気が悪かったので、シュウくんが夏休みに入ったら、万代に遊びに行こうと約束をしました。

 それは、その一週間後ぐらいでした。電車にふたりとも遅れてしまったり、クレープを食べたり、古本屋に行ったり、カラオケに行ったりしました。そして、その帰り道に告白をしようと思っていたのですが、緊張して前日は眠れなかったので、帰りの電車ではシュウくんに凭れてぐっすり眠ってしまいました。いけない、いけない、印象が悪くなってしまう、とあとで必死に謝りました。

 そして、駅の長い階段を下りると、もう外はすっかり真っ暗でした。でも街灯があって、ちょっとだけ表情がわかりました。でも、それが嫌でした。自分でもわからないような、でもきっと情けないような、そんな顔が見られると思うと。また、わたしは泣き出してしまいそうでした。そしてそのまま崩れてしまいそうでした。なんて、もろいのでしょう、わたしのこれからすることは、一番にわたしが嫌ったことだというのに、それをしなければいけないというのですから。けれど、もう、忘れましょう。わたしも、あの女たちみたいに、恋愛にいったりきたりと振りまわされて。ただ、わたしは、今のうちは、かげながら、愛するのです。


「わたしと付き合ってください」


「ああ。私も深幸が好きだった。これからも、よろしくな」



 昔のように一緒に勉強したり(普通高校と高専の勉強内容は全然違いましたが)、いちゃいちゃしたり、どこかへ出かけたりするような、夢のような夏休みは、わたしのほうがさっさと終わってしまって、でもシュウくんのほうはまだ三週間以上もあるようでした。

 わたしは学校が始まっても、まともに勉強に集中することができずに、帰りの会が終わると、できるだけ早く帰って、シュウくんのところに行きました。そのたび、抱きしめてもらって、頭を撫でてもらいました。

 シュウくんはわたしの言うことをなんでも聞き入れてくれました。でも、シュウくんは、支えてはくれましたが、支えようとはしてくれませんでした。それと、絶対に、わたしとは寝てくれませんでした。

 やがて、夏休みも終わって悲しかったですが、メールや電話を毎日やり取りしたり、また冬休みや春休みに会えるんだと思うと、頑張れました。それと、少しは強くなれるかな、なんて思ったりもしました。

 そしてなんと言っても、来年もまた、シュウくんと市井野花火に行けると思うと、顔がとろけてしまいそうなぐらい嬉しくて、お母さんにも、「今年もシュウくんと市井野花火を一緒に見るんだ! わたあめも一緒に食べるんだ!」と自慢もしたほどです。わたしはなにかこのわきたつ気持ちがあると、もっと頑張れそうで、なので、シュウくんにもっと好きになってもらおうと、好みの女の子像を訊くことにしました。

「強いて言えば、華奢で、背が高くて、肌が白い、亜麻色の髪の乙女なんていいかもしれないね。けれど、私はそのままの深幸で良いと思うよ」

 わたしはシュウくんにもっと好きになってもらいたいと、メイクやダイエットなんてなれないことに手を出し、できるだけ日に当たらないようにしたり、長い休みの時だけは髪を染めたりしました。

 特に効果が大きかったのは、新年度の春からでした。なぜでしょうか、気温が高くなると、基礎代謝なんかも上がるのでしょうか。よくわかりませんが、一番垢ぬけて、自分でも少し自信を持てるようになったと思います。

「早く夏休みにならないかなあ」

 鏡を見ては、わたしの顔に笑みが浮かんでいない日はありませんでした。シュウくんがいます、わたしにはシュウくんがいてくれます。わたしは、もう、ずっと笑って生きていけます。


 高校二年生の夏休みに入ってすぐ、化粧品を万代に買いに行こうとしたわたしに、お母さんはおつかいを頼みました。

「駅前行くんでしょ? これ地図なんだけど、わたしの行きつけの珈琲専門店で、そこのオリジナルブレンドの豆を二百グラム買ってきてくれない? そこで好きなの飲んでも良いから、これでなにか買ってきて」

「うん、わかった」

 そして、化粧品を買い終わってから、その珈琲専門店に行きました。すると、わたしは、見たのです。


 シュウくんが女と珈琲を飲んでいたのです。


 わたしは夢だと思いましたが、とりあえず近づいてみることにしてみました。

「――だろう。あれ、一緒に行……」

 けど、これは確実にシュウくんでした。におい、服装、体格、口調……。

「……あれ、シュウくん。……なに、してるのかな」

「え」

 わたしは肩を掴みました。ですが、無視してシュウくんはその女のほうを見て、「結ちゃん。今度、市井野花火があるだろう。あれ、一……」

「……なんで無視するのかな。『え』とか言ったよね。……ねえ、どういうことかな。これと、これ、ちゃんと話してもらうよ」

 そしてわたしは女のほうを見ました。女は、それこそ華奢で、背が高くて、肌が白い、亜麻色の髪の女でした。

「どうも。わたしは占川深幸です。シュウくんの彼女です」

「うわあ! どうしちゃったの、占川さん! ちょっとこっちに――。あ、ちょっと待っててくれ、結ちゃん」

「結ちゃん……?」

 わたしは睨みつけると、シュウくんはとても怖がってしまうのでした。

 わたしは長い間、我慢してきました。それで、ようやくわたしはシュウくんの彼女になることができました。それなのに、それなのに――なんで。


 そして、わたしは、「もう、お前のことが好きでなくなってしまったのだ。……悪い」と言われて、フラれました。ただ、シュウくんは、「悪い」、「すまない」と言うだけでした。

 わたしは家に帰って、買った化粧品を壁に投げつけて、布団の中に包まりました。



 そして、浴衣を着て、去年と同じ時間、同じ場所で待ちましたが、シュウくんは来てくれませんでした。電話には出てくれません、返信も一文帰ってきたきりでした。

 わたしは去年、シュウくんと行った屋台を全てまわり、花火が打ち上がれば、あの土手で空を見上げました。もう、涙など出てきませんでした。なぜ、こういう時に限って涙はでてくれないのでしょう。つん、と鼻の奥を刺すようなものが、ずっと溜まったままでした。

 どうして、どうして、どうして……。と屈みこんで、頭を押さえていると、巾着が震えました。携帯でした、ニュースアプリの通知でした。それを見た時、わたしははっとしました。

 そして、ふらふらと歩きながら、駅前に向かいました。

 その時、ふと思ったのです。


 わたしも事故に遭ってしまえば、つきっきりになってくれるんじゃないか、と。

 そのニュースは、あるお笑い芸人の訃報でした。いつもは、命を軽んじるようなことをテレビではさせられて、笑いものにされているというのに、実際死んでしまったら、みんなから悲しがられるんです。

 だから、その一歩手前で事故に遭えば、いいのではないのでしょうか。死んだら、もう仕方がありません、死んでもいいのかもしれません。

 そして、たまたま通りかかったバスに、身を投げました。




 ◇

 南雲の身体にはいっぱいに歯型が打ち込まれ、痣のまだらが、青白い肌に鮮やかに浮かんでいた。とうに南雲は喚くのを止め、歯を食いしばって、黙って涙を流していた。……私は、それだけお前に迷惑をかけてしまったのだ、これに音を上げていては、終ぞ贖いなどできるわけがない……!

 彼女は、全身の凹凸を今一度撫でてやった。それには慈愛のようなものがあるとでもいうのだろうか。ただ、今にも崩落してしまうような笑みを湛えて。

「ごめんね……痛かったよね。これから、気持ちよくしてあげるから、待っててね……」



「あっ」

 と漏れた声が徐々に拉げてゆく。彼女は破瓜の艱苦に歯を食いしばって……。

「泣いているではないか……一旦、抜いたほうがいい」

「いいの。嬉しい、だけだよ……」



 ◇

「……あの女の子が、南雲結のモデルになったんだろうなあ」

 茉莉花はふとバスに揺られながら、そんなことを周りに聞こえないように口にした。……確かに、台本通り、綺麗な人だった。でも、どうも背が高いという事実からそれる。だいぶ身長を盛ってはいたけど、それでも、南雲くんの肩ぐらいまでしかなかった筈だ。主人公がとくに身長に関して言わないということは、あまり自分にとって気にするような身長じゃなかったのかなあ。まあ、あれはただの南雲くんの理想のようなもので、ぼくに見栄を張っただけなのかもしれない……。

 などと思い悩む茉莉花は、これからの演劇練習をサボって、帰宅しているのである。御堂から、五反田に「具合が悪いから今日と明日は参加しない」と伝えるように言ったのだ。

 すると、一通のメールが届いてきた。五反田からであった。だが特に茉莉花に宛てて書かれたものではなく、ただ全体に向けて、演劇の練習風景を撮ったから、クラウドに上げておく、とのことだった。なぜクラウドかと言えば、主役である南雲が、便利な情報通信アプリは使わないと言い張って聞かないからである。それなのに共有クラウドのほうは使うのだから、なかなか変な拘りがあるんだなあ、と思うとともに、そういえば自分もそのアプリを使っていないことを思い出した。一応、茉莉花はそのアプリを入れてはいたのだが、阿久津に「ってか、茉莉花ちゃんのアカウント頂戴!」と言われたことを理由に消したのが、もう五月ぐらいのことだと思い出すと、あまりの時の流れの速さに驚かされた。

 クラウドを開いてみると、全体を写したものや、キャスト個人だけを撮ったものもあった。

 茉莉花は『南雲秀(東雲秀一)』というファイルを開いた。そこには、色々な場面を切り取ったものが並んでいて、すぐさま彼女は見入ってしまった。……うわあ、演劇だとなんかしっかりしてて格好良く見えるかも……。

 ――そんなことをしていると、もうバスは駅に着いていた。他の乗客も皆降りてしまっていて、茉莉花は慌てて立ち上がり、携帯カバーの間に入れた定期券を運転手に見せようとしたが、間違えて南雲のキメ顔のほうを差し出してしまった。すると運転手の男は、おっ、と得意げに訊いてきた。

「その兄ちゃん……懐かしい、こいつ、嬢ちゃんの友達か?」

「え……あ、まあ」

「いいねえ、こいつの周りには別嬪さんが居て。市井野花火の時も、そりゃあ、綺麗な嬢ちゃんを侍らせてたんだぜ」

「どんな人でしたか」

「忘れもしねえ。ハーフみてえだったなあ、綺麗な、なんて言うんだ? ああ、亜麻色か、その色のなげえ髪で、下駄履いてるっつっても背が高くてなあ、兄ちゃんとそう変わらなかったな。――ああ、でも嬢ちゃんは、あれだな、日本顔のこれまた別嬪さんだ。ひけなんかとらねえ」

「それは、どうも……」


 やはり、そうなのか。と茉莉花は、確信した。


 ――あの女の子は、南雲結じゃない。


 

 〇 

 最初は、全て私に関わった女性に許してもらう必要があるかと思った。けれども、その必要はない、それはお互い様だからだ。だが私は、特段、純粋な女性を誑かしてしまったのだと思うと、申し訳が立たなかった。

「深幸、私と付き合うのは、もう少しだけ待ってくれないか。私はこれからやることがある。それが終わったら、私は今に至るまでの瑕疵を見つめ直すよ。だから、明日はゆっくり家で養生して、私の縁でもつくっていてくれ。私の贖罪とはなによりも、お前を一生、傍で支え続けるということなのだから」


 ◇

『二〇一九年十二月七日土曜日 午後八時三十分 by: Hitoshi Koduki

 Subject:Re:Happy Birthday


 こんばんは、茉莉花。パパだよお。あと、これママとも一緒に送っているからね。

 僕たち今日こそは早く帰ろうとしたんだけど、仕事が忙しくて泊まり込みなんだ。お前が演劇を頑張ってるって聞いて、その姿を見たかったんだが、明日も行けそうにない。一緒に祝えなくてすまないね。

 ケーキはお義姉さんに買ってもらったから……って言うかもう食べたか、はは。

 こんどゆっくり話せる時にでも聞かせてくれよ。

 それじゃあ、演劇頑張ってな。おやすみ。


 Ps:誕生日プレゼントは机の上に置いておいたよ。』 




 

 もしも明日、寝坊でもしてしまってはいけない。と茉莉花が布団に入った時、ふと、先程、伯母とケーキを食べている時にした話を思い出した。


「あんまり美味しいケーキじゃないですね。これなら、伯母さんの手作りの紅茶のシフォンケーキのほうが美味しいなあ……」

「ありがとうございます。それなら、明日、早速作っておきましょう」

「伯母さんは演劇見に来ないんですか」

「私はこの家のきりもりの一切を任されています。この家から出て、できることも、することもありません」

「お母さんに頼まれているから、ですか」

「はい、そうです」

「じゃあ、お母さんに頼まれなかったら、もうここには、居なくなるし、ぼくにもこんなふうに、接してはくれないんですね……」

「……そんなわけではありません」

「だってそういうことでしょ!」

「――違うんです。私は、そうしないと、そう言わないと、貴女のお母さんに迷惑を、またかけてしまうから……。ただ、それだけではないということです。私は、もうきっと、この家から立ち退くことを命じられたら、どこかで野垂れ死んでしまいます。でも、そんな醜い私ですが、烏滸がましいことこの上ないとは思うのですが、茉莉花さんを、いいえ……茉莉花を、実の子供のように思っていたのよ」



 ◇

 すっかり眠気など飛んでしまって、何気なく茉莉花はスマホを覗いていた。ネットで注文していた本でも発送されていないか、などとメールアプリを開くと――彼から一通のメールが届いていた。


『二〇一九年十二月七日土曜日 午後九時二分 by:Shigeru Nagumo

 

 こんばんは、香月くん。南雲だ。

 今日は深幸が迷惑掛けて済まなかったね。あと、あれからすぐ五反田のところへ行ったよ。伝えてくれてありがとう。


 さて、話題は変わって明日の演劇についてだ。君の尽力してくれたおかげで幾ばくか早く終わったことだろう。これについても感謝を。あとね、君が抜けてしまった分は、なんとかするよ。君には、たいそう負担が掛かってしまっていたようだね。気をまわしてあげられなくて、申し訳ない。それと、今までありがとう。だから、明日は観客としてごゆるりと見届けて欲しい。

 実はね、未だ学校から出られていないんだ、ほら、今日は演劇前日だから泊りがけでね。五反田がうるさい。だからあまり長文も打てない、打つほどの語彙も話題もない。故に、そろそろ筆をおかせてもらおう。

 おやすみ』

「……ああ、差し引き、本当にぼくは役に立ったのかなあ」


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