七 盲目

 ◇

 あくる日。十六時ほどに、六号館の三階のテラスへと飲み物を買いに来ていた阿久津は、体操着のズボンのポケットに小銭入れを突っ込んでから、エナジードリンクのプルタブをその場で開けた。自販機のボタンには『売り切れ』と出ていた。

 すると、かいなまでカラフルの絵具で汚れた、小さな女学生がひとりで、教室から非常に長い柱状の背景を運び出していた。阿久津は缶の中身を飲み下すと、食道に熱を帯びながら、彼女のところへと駆け寄った、「手伝うぜ」

 それに女学生は俯いていた面を擡げると、髪が両脇に流れ、不憫な表情が覗いた。抜けるように白く透き通った頬は赤みが染み込んでいた。微々たる光は今にも涙ぐみそうな瞳に忍んでいた。

「茉莉花ちゃん……! どうしたんだよ、そんな辛そうな顔して」

 彼女は、腹話術でもするみたいに答えた。構わないで、と。阿久津は彼女の手を握り込もうとして、止めた。彼女の、絵の具の滲み込んだ手が、微かに震えていたからである。だからその傍を掴んだ。しかし勢い余って少しだけ紙を潰してしまった。軽い音がした。そして叫ぶように言った。

「ほっとけねえって!」

 片方の手で茉莉花の肩を強請った。柱の傾くのに、彼女は「ああっ!」と機敏に反応して、果たしてそれを支えきれなかった。筒の端が折れた。幾たびか床を跳ねて、先で少し転がった。

「おい、大丈夫かって……疲れてんだよ。ほら、顔こっち見せろ!」

 阿久津は茉莉花の顎を指先で掬った。彼女の顔は、阿久津のてのひらにおさまってしまいそうだった。白く、透き通るように見えた肌は、ただ青白いのに、赤みがあって……。「熱があるじゃねえかあ……!」それこそ彼の顔が青くなった。休日に保健室は開いていないし、もう上の階には誰も残っていないようだった。

「あ、あの、茉莉花さん、おれの家来ませんか……近いから」らしくもなく、しおらしい言葉遣いであったが、それに茉莉花は突っ込むことはなく、ただ頷くだけであった。


 ◇

 雲は一様に埃を吸ってしまったような黄ばんだ灰色で、それがひとたび雨を降らせると、この学校の裏坂の高台から見渡した、遠くの色彩に富んだ市街までもを沈ませてしまいそうだった。今、その雲の下は、荒れる浅い海の底であった。

 阿久津家は高専の直ぐ傍にある。裏の坂を下りて、結瀬山のほうに向かっていくと大池があり、そこを沿うように少し行ったところ、真っ青な三角屋根の三階建て。コンクリートの壁面が目立ち、黒柵の立つ階段を上って二階が玄関である。白色の大扉の横には金属パットがあり、人差し指を当てると、扉が自動で横開きした。「靴はそこに脱ぎ捨ててっていいぞ、あとで並べとくから」広々とした玄関は、布団を敷いて寝られそうだった。

 阿久津は茉莉花の肩を支えて、ここまでやって来た。阿久津自身の部屋であった。白を基調とした部屋の壁には、二次元美少女のポスターがたくさん掲げられていて、机はダイニングテーブルぐらい大きく、三つのモニターが三面鏡のようにしてあり、椅子は黒革張りで座った人をまるまるのみ込んでしまいそうには逞しかった。ベッドにはレースの天蓋がついており、至って軽い羽毛布団を捲ると、銀髪の美少女のカバーに包まれた抱き枕が出てきた。阿久津はそれを膝で除けながら、茉莉花を坐らせてから、脚を持ち上げてやり、布団を肩まで掛けた。「なにか食べるか」その問いに彼女はかぶりを振ってから、喉が渇いたことを伝えた。「スポーツドリンクでいいか」「うん……ありがと」瞳は潤んでいた。よく見ると血走っている。

「直ぐ、持ってくるからな」



「ほら、これ」

 そう言ってベッドの隣の置台にボトルを置いてみるも、返す声はなかった。銀縁の丸眼鏡がそこで折り畳まれていた。――茉莉花は眠りに落ちていた。阿久津は彼女の前髪を持ち上げて、そこへ冷却シートを張り付けた。攣っていた口元が緩んだような気がした。

「こうやって寝てるぶんには、ほんとにただの可愛い女の子だよなあ……」


 茉莉花の意識の淵で、ふと情景が頭を擡げた。走馬灯なのでは、とふざけきってみせる気力はなかった。


――周囲への関心を全く持たない茉莉花は、やはりその周囲から見れば冷たいものであった。加えて彼女が容姿端麗で、頭脳明晰であるということも畏怖の対象ではあった。彼女は、きっと、今のままの自分を認めてくれる人間が、いつかは現れてくれるものだと、確かに信じている。その純粋さは幼年の頃から変わることはなかった。昔から己の気に入らないことはできる限りやり過ごしてきた。それをやり遂げるだけの屈強な自我があった。だから、傀儡のように己が思われるのが酷く嫌だった。けれども、幼い身体ひとつで進み行くには、あまりに知識に乏しくて、親の言うことを耳に、それでも最前手を打ってきたまでだ。そして、遂にこの歳になって、自分を認めてくれる人間が現れた。――阿久津幸太郎。彼は茉莉花に忠誠を誓うようなことまで言ってみせた。そういえば、彼はもともと小心者であったと、茉莉花は思い出した。


「ぼ、僕の隣の席にっ、び、びび、美少女があっ……!」


 それが彼に出会って初めての声であった。髪は黒く半端に伸びていて、変なロゴの入ったパーカーを被って、黒縁眼鏡を掛けていた。それから二週間と経たずして、彼は今のような格好となっていた。そういった地味の方が、よっぽど君には似合っていたと思うよ……。などと茶化すように思い残して、彼女の意識は深くに落ちた。


 ◇

 茉莉花は泥のような眠りから身体を起こすと、そこは暗闇であった。深い色のカーテンの間隙から溢れ出した街路の灯が、置台の眼鏡のレンズに折れていた。それを適当に手繰り寄せて掛け、瞬きを重ねるたびにはっきりと視界が戻ってくると、ノブが捻られた。そこから入って来たのは、やはり阿久津であった。

「おっ、目が覚めたか。良く眠れたか」

「うん、おかげさまでね。ごめんね、持って来てもらったのに飲みもせず」

 茉莉花はそうしてキャップを開けて、温くなったのを、ひとくち。「起きがけにはこれぐらいの温さがいいかもしれないや」「それは良かった。なあ、なにか食べられるか」「うん、まあ……でも、もう帰るよ。時計は……あっ、もう七時だし」「いやいや、食べてってくれよ、碌なもんは出せねえけど」「いやあ……親御さんに会うのも気まずいしね」「それは『ご挨拶』的な意味合いで取っていいのか」「あはは――その口は平手で数度打てばまともになるかな、なんなら、手伝うよ」「まあ、茉莉花ちゃんにだったら。――ああ、すまねえ! お願いだ! 大丈夫、この家に今住んでるのおれだけだから」そのひとことに、場は静寂に包まれた。

「……そういう展開を待ち望んでいるのが顔に出てて、気が気がでないよ」

「いやあ、まあそういうことも考えてねえことはねえけど……いやさ、たまには自宅で人と話しながら夕食を食べたいんだ。長らくそういうのしてなくてなあ……」

「……伯母さんに訊いてみるから、ちょっと待ってて」

「えっ! 本当か! なんだよもう、気が気でないとか素直じゃねえんだからあ」

 茉莉花は阿久津を睥睨して、携帯を耳にあてながら廊下へ出た。


 ――軽く折り返された掛け布団から覗くシーツは、寄った皺の陰影が濃かった。阿久津はそれをてのひらで伸ばしてゆくと、春風のようなぬくもりが、得も言われぬ花の香りを連れて、這い上がってくるのであった。


 ◇

「へえ、結構美味しそうじゃん」と腹の虫が鳴かないように身を捩らせ、背筋を伸ばす茉莉花は静かに褒めてやった。「まあなあ、結構昔からおれが料理つくるようなことは多かったからな」阿久津はそう言って、またひとつ大皿料理を深紅のテーブルクロスの上に置いた。レバニラ炒めだった。「あんまり女の子にウケるようなもんはつくれねえけどな」そうして彼も黒革を編みこんでつくられた椅子に尻を預けた。

 照明は、天井に吊るされた輪から伸びた五つの燭台に、蝋燭を模した灯の置かれた、全く掃除のし難そうなシャンデリアであった。その下は少しだけ暗さがあって、ちょうど先日にふたりで入った喫茶店内のような小洒落た雰囲気があった。テーブル中央には料理の盛りつけられた白磁の大皿が三つ並んでいて、そこには取り分ける用のスプーンとフォークが立て掛けられている。アボカドのサラダ、レバニラ炒め、豚バラ軟骨の煮物……そして手元にはこれまた白磁の取り皿が三枚と、黒い木製の箸が一善、白飯に味噌汁とがあった。いただきます。とふたりで合掌してから、阿久津は茉莉花の取り皿へ優先的に取り分けていった。「どんどん食べてくれ」と。

 就中、彼女の目に留まったのは豚バラ軟骨の煮物だった。浮き上がった水玉の油が艶々と煌めていていた。酒とみりん、砂糖と醤油を基調とした甘しょっぱい味付けだと阿久津は嬉し気に口にした。「いやあ、やっぱり美味いよなあ、これ。圧力鍋で煮込むから、骨までとろとろになって、ぷりっとした触感もいける。それにこの骨の出す濃厚なうま味がなあ……」雄弁に語る様は、テレビで見る食レポさながらであった。全身が気色を呈していた。そんなものを見せられた茉莉花は、胸を高鳴らせながら、いよいよひとつ口に入れた。咀嚼し、舌で感じ、耳で感じ、鼻で感じ、全身に豚バラのコクが行き渡り、軟骨の得も言われぬ触感に驚かされた。そして、その余韻のうちに、白飯を口にする。米は少し硬めで、味の濃いものと一緒に食べるにはちょうど良いぐらいだった。噛んでいくたびに、その甘さに頬がつい緩んだ。

「美味しい……美味しいよ、阿久津くん!」

 それは良かったと微笑む彼に一瞥をくれ、また手元の料理を口へと運んだ。伯母の料理も大概美味しいものであったが、これはこれで……。とほくそ笑んだ。レバニラ炒めは、レバー特有の臭みが無く、とろみのついた醤油ベースの餡がニラと玉ねぎとの親和性を跳ね上げ、白飯へと思わず手が出てしまう。そうだ、これを料理親和力と名付けよう……! と笑みを抑えられずに、次から次へと箸が進んでいった。――ここでひとつ味噌汁を啜った。ちゃんと煮干しから出汁を取ったもので、具として入っている煮干しを見ると、頭とはらわたとが処理されていた。あとはそこに、多分に味噌汁を吸った油揚げと、青々としたわかめが浮かんでいた。

「あ、そうだ忘れてた」

 阿久津はすると席を離れて、台所からふたつの湯飲みと土瓶を持って来た。土瓶から注がれるのは、暖かい麦茶であった。茉莉花の手元にそれを置いて、坐ってからひとくちで飲み干した。茉莉花もそれを口に含んだ。暖かいとこんなにも香りが立つものなんだなあ、と感心しながら、口の中の油を落とした。「君ってば、料理の天才かもしれない。伯母のつくるのも美味しいと思っていたけど、これはまた、改心されられちゃったね」

格好つけて一気に飲み下した麦茶の熱さに悶絶していた阿久津は涙目で、「そうか、そりゃあ良かった……」と目を細め、涙がふた粒ばか頬を伝った。そうして火傷した舌を気にしながらふと話題を振った。

「いやあそれにしても――茉莉花ちゃんが身体悪くするぐらい演劇に肩入れしてるなんて、全くどうしちまったんだろうなあって思ってな。脅迫でも受けてんのか」

 茉莉花はそれを聞きながら、大皿にちょっとだけ残った料理をきっかり二分して各々の皿に盛った。「そんなわけないでしょ。……ちょっとね。色々と思うところあってさ。別に、ほら、キャストは嫌だったんだよ、裏方だったら別にやってもいいかなあって」

 阿久津はありがとな、と謝辞を述べてから、

「そっかあ、勿体ねえなあ。土木科の演劇のヒロインに茉莉花ちゃん欲しいくらいだわ。……というか、あの五反田先輩から逃げ切ったのか! すげえなあ!」

「なになに、なんなの……そんなにあの人やばいの」

「やばいなんてもんじゃねえぞ、噂には『演劇のために身体売った』ってのもある」

「ええ……男の援助交際なんてありえる話なんだ……」

「まあ、無きにしも非ず、ぐらいだろうなあ」

「まあでも、身を扮して頑張ってるってのは伝わってくるかもね、常時忙しいって感じ。あちらこちらに良い顔振りまいて……いや、どこも良い顔なんてなかった……あんな気持ちの悪い誘い方で本当に勧誘なんてできると思ってるのかなあ。頑張って原作小説を脚本に書き下ろしているらしいし、懐から予算工面するとか指示出しとかもだし、そういえば総監督だし……苦労は絶えないよねえ」

「……ああ、そうだな」

「ん? どうかしたの、そんな神妙な顔で」

「いや、なんでもねえ。――ただ、こうやってさ、女の子に手料理を振る舞うって、すっげえ嬉しいけど、どうもなあ、話が弾み過ぎて料理が冷めちまうなあって」

「あははは、それもまた一興さ」

 そう笑い声を立てながら、茉莉花はサラダを楽しんだ。

「なんだろうこのドレッシング。……人参かな」

 サラダには橙色の甘めのドレッシングが混ぜられていた。檸檬の軽やかな風味も感じられ、アボカドとエビのタッグへのレタスの親和性は極めて高まっていた。

「ああ、ご名答。人参と、玉ねぎ。あとセロリとか少し入ってるぜ」

「本当にこんなに凄いの毎日つくってるの」

「いやあ……流石にそれはねえよ。客人が来たら、見栄も張るって」

 そう言って恥ずかし気に食事へと集中し始める阿久津。茉莉花はもう一度湯飲みに口をつけ、ひと息。茉莉花は高ぶった気を抑えるのに口を開かずにはいられなかった。

「いやあ、でも阿久津くんって、やっぱりこういうのが似合ってるよ」

「どういうことだよ?」

「ほら、入学当初の君だよ。地味だったよね。あれが君に合ってる」

「なんだそれ、馬鹿にしてんのか、はは」

「いや、だってさあ、最初はあんなに地味だったのに、急にそんな変身したら驚くものがあるし、実際そんな似合ってないし。それがトレンドなのかぼくは全く興味がないけど、もしそれが流行ってるならその流行りの品性を疑うね」

「……散々に言うなあ」

「じゃあ、君は本当にそれが自分に見合ったものだって全部頷けるものなの」

「……そりゃあ、ちょっとは思うけど……」

「なんでさ」

 すると阿久津は「あんまり話したくねえんだけどなあ」と言って皿の残りをかき込み、「紅茶とケーキ持って来るから、それまでに食い終わっといてくれ。あんまり飯には合わねえ話なんだ」食べ終わった食器を重ねて台所へと持っていった。

「わかった」と茉莉花も口にせっせと料理を運んでいった。



 ◇

「少し、眩しいよなあ」阿久津が壁のつまみを弄ると、照度が半減した。酸素が足りないのかな、と茉莉花は無意識のうちに口走った。食べ終わった食器を重ねて茉莉花は台所に運んだ。俗に言うL字キッチンというものであった。「お、ありがとう、適当に置いといてくれ。――おしっ、じゃあこれ持ってけるか」阿久津はひとくちサイズの生チョコを数粒、小皿に乗せて、あとを託した。自分では紅茶を持って行くことにした。

「阿久津くん。なんでこんな白い食器ばっかりなの」

「親の趣味だ。……おれはプラスチックでもなんでも構わねえ」

「ふうん。というかずっと思ってたけど、阿久津くん家はお金持ちなんだね。設備からなにから凄いよ」

「そうなんかなあ、生まれてからこんな感じだからイマイチ感覚がわからねえ」

 そうして、またふたりは腰掛けた。キャンプの夜に、小さなテーブルにランタンをひとつだけ置いてふたりで囲んでいるようだった。茉莉花はココアパウダーのかかったひとくちサイズの生チョコを口に放り込んで、端を噛んだり、嘗め溶かしたり、香りを楽しんだりした。パウダーの苦味が瞬間に伝わってきて、そのうちに仄かな甘みが滑り込んでくると、カカオの芳醇さが際立った。それから紅茶の湯気を深く吸い込んでから、啄むようにしてひとくち啜った。「アールグレイだね」ふんわりと口の中に広がるのはベルガモットだった。少し香りの強いものだったから、欲を言えばミルクが欲しかった。だが、阿久津の視線が手元のカップに落ち、口元が重くなり始めているのを見て、これから話すことの筋道を立てているものだと憶測した。

 そして阿久津は、茉莉花の引き込まれてしまうような黒々とした双眸を見つめて、言った。

「――これは、中学三年の頃の話だ」


 〇

 おれは中学で卓球やっててさ。別に本気ってわけじゃねえんだ。ただ部活動は強制みたいなもんだったから、適当に卓球部選んでな。それだけ。んで、おれんとこ弱くてな、人数も少なかったし、顧問も別に卓球やってた人じゃないから殆ど関わってこなかったし。最後の最後まで、結局、他校に一度も勝てなかったんだよなあ。なあなあにやってたから、後輩に掛ける声も無かった。おれは、その地味だったって言うか、生真面目だったから、勉強もそこそこ頑張ってて、高専は目指せるぐらいだったんだ。だから、そんなに受験期に頑張るようなことも無くて、部活も引退になって、ぼんやりしてる時に、後輩の女の子から告白されたんだよ、バレー部の娘だったかな。おれと同じで、物静かで、地味で、とくにこれといった特徴のない娘だった。卓球部とバレー部は体育館を半分ずつ使ってたんだよ。それで、よく阿久津先輩のこと見てましたって。

 おれはなんとなくそれに付き合うことにした。人生、これが最初で最後の彼女になると思ってな。

 その娘は、まあ、なにも目立ったところが無いが、可愛いやつで。おれもどんどん引き込まれていった。そうするたびに、その娘は、恥ずかしがったり、俯いたりして、ああ、すげえこれ奥ゆかしいとか、初々しいってんで可愛いなあって。……あ? 惚気? まあ、そんなんになるんかねえ……。

 それでさ、おれ、つけ上がっちゃったってわけ。なにもかも初めてすぎて。それで、強引にキスして、ベッドに押し倒したら――大泣きされちまったよ。まさか、嬉し涙ってわけでもねえだろうし、まあ、少し乱暴だったんかなあって謝ったんだ。そうしたら、「先輩は……、先輩は悪くないですっ」ってまた泣き出したんだよ。おれもうわけわかんなくなって、抱きしめてやろうかと思ったけど、あんまりに自分のことばっか責めるから、そんなことできなくて、で、泣き止むのを待ったんだよ、それから洗いざらい話させたら、おれに告白したってのは、部活の先輩からのいじめであって、おれなんかに告白させられたらしいんだよ。あいつを誑かしてみろって。そいつさ、おれと同じクラスで、まあ女王様って言うのがいいのかは知らねえけど、クラスのオタクとか地味なやつとかを馬鹿にしてくるようなやつでな。そういったからかうような言動とか、行動とかを全部無視してやったんだよ。「つまんないの」って言われて、それ以来おれにあいつが突っかかって来ることはなくなったんだがな。まさか、こんなかたちで仕掛けてくるとは思わなかった。完全に騙された。ひでえ話だよなあ、あいつあんだけ人のこといじめて面白いのかよって、それに、おれがめちゃくちゃ好きだって思ったその娘もどこにもいねえし、実際それが本当に好きだったのかどうかなんてわかんねえし、もしかしたら、憧れの彼女ってもんに夢見ちまっただけなのかもな、……その娘にしたことが全部その娘の負担になってたと思うと、もうやり切れなくてなあ……。そんで、その娘に散々謝ったら、「許してもらわなきゃいけないのは、こっちです」って。もっかい謝って、そんで、もうその娘に会うのは止めた。もうお互いに思い出したくないこと、あるからな。

 で、まあ色々あって、ある時、更衣室に侵入して、そのいじめの主犯の女の飲み物に睡眠薬入れて、ぶん殴って……、まあひでえ写真を撮って、「チクったらこればら撒く」って脅した。どうしてもその娘に見せてやりたくて、見せてやったら、もう、逃げられたね。なにも言い残されずに。

 やっぱり、女の子と居ると碌なことねえなあって思って、サブカル好きが多くて、男の多い高専に来たんだよ。でも土木科って女の子多くてなあ、驚いた。それに一年は混合学級だけど、学生の四十パーセントが女の子だから、ひとクラスに八人ぐらい居るしな。参るよなあ。でも、もう絶対関わらねえって、肝に銘じてたんだよ、そしたら、あれだぜ、朝バスに乗ったら……ひと目惚れしちまった。まあ、もう同じ時間のバスに乗らなくなったよな。何時に乗ってんだよって。六時ぐらいって言ってたかなあ、無理だわあ、朝はどうしても起きれねえ。……まあ、入学して最初の一か月は八時台のバスで通学してただろ、そん時、その人はいっつもその先頭に並んでて、一番後ろの一番右端に座るんだ、そんで、おれはいつもぎりぎりになって、無理矢理詰め込まれるようにして入るんだ。そん時、いつも革のブックカバーをつけた本を嬉しそうに、まるで子供でもあやすような顔で読んでるんだよなあ……ちょうど陽だまりの中に居るんだよ。でな、その顔を見てるとさ、おれもっと近くに行きたくて、ちょっとは早起きできるようになったんだ。そんで、いっつもおれはその人の斜め前の席に坐るようになった。まあ、きっとその人がこっちを見ることはなかっただろうなあ。……簡単に打ち砕かれたんだぜ、ひと目見た時に。それに、教室では隣の席ときた。笑おうにも、震えて、緊張というか、怖かったんだよ。

 なあ、一目惚れってありえるんだぜ。笑っちまうだろ。それで、また、決心したんだ。絶対、モテてやるって。その人を彼女にしてみせるって、ついでに中学のやつらに、見返してやるって。高専って、地味な印象ばっかりだったけど、服装自由だから、案外お洒落なやつ多いだろ。髪を染めたり、口調をなおしたり、服に気を掛けたり。だけど、まあなあ……その人はな、全然こっち見てくれないんだぜ。悲しくなったんだぜ。でも、そんなつれない対応ばかりだが――茉莉花ちゃんは、おれを、おかしくさせたんだ。


……気付いてたか?



 ◇

「……ドン引きだろ?」

 茉莉花は生チョコをふたつ一気に含んで、口元をもきゅもきゅさせながら、「……最後の白昼夢のことはね」喉を揺らして、胃へと落とした。そして、なんともないように、「別に、前半のことね、ぼくだったら、もっと残虐な仕返しをしていただろうしね。仮にも君の立場なら、ね。でも、その娘にそんな画像見せたのはいただけないな」そう言って、底に少し残った紅茶を飲み干した。「う……阿久津くん、これ抽出し過ぎ。渋いよ」「そうなのか! ……全く、格好つけてこんなん飲むからわかんねんだよなあ」彼もまたカップを空にすると、本当に渋い顔をした。

 茉莉花は皿に残った最後の一粒を貰い、嘗め溶かしながら。

「君は、その娘と君が同じようだとか言ったね。君はもともと、今みたいに強がりな性格じゃない筈だよ。今の君はね、きっと、彼女と付き合った時に生まれたんだよ。気弱な彼女を導こうと見栄を張った時の。だから、自分が彼女を守れるという証明をするためにそんなことしたんだよ。だって、もしかしたら、その娘と先輩は仲が良かったのかもしれない。ただ、ある時対立して、そんなことになったのかもしれない。だから、君がそんなことしたら、二度と仲直りなんてできるわけないじゃん、二度とその娘に先輩が近づこうなんて思うわけないじゃん。驕り、だよそれは。きっと、もう構わないで欲しかったんだよ、彼女は。別に、いくら気が弱いからって、君が居なきゃ駄目なわけじゃないでしょ。……現実なんて、そんなことばっかりなんだよ……」

「じゃあ……僕は、一体どうすれば良かったんだと思う」

「どうするもなにも無いんじゃないの。そんなの、ふとした、そう、運任せに決まってるよ。ちょうど、そのひと目惚れみたいにね。思わず、手が伸びちゃった時に、偶然、その手がぶつかるようなものじゃないかなあ。って、ぼくに訊かないでよ、ぼくもどうしたらいいかってわからないでいるんだから」


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