六 無辜

 ◇

「騙そうとしたわけじゃないんですよ。……ただ、ちょっと、どんな反応するかなって、それだけだったんです」

「いや、本当にすまない……どうか、許してくれ、そして忘れてくれないだろうか。こんなことをするつもりはなかったんだ」

 頭を垂れて、懸命に謝罪をする南雲であった。

「や、やめてください。悪いのは、あたしなんですからあ……」それでも頭の上がらない南雲に対し、それじゃあ、と頬に人差し指を立てて、

「あたしとここでご飯食べませんか」

 彼女は足元に落ちてしまっていた紙袋を取り上げ、教壇で広げると、中からは端の少し拉げたサンドウィッチがふたつあった。コンビニのマークがついていた。「少し崩れちゃってますけど……ささ、お食べください!」具は玉子とチキンカツであった。「君の好きなのを食べてくれて構わないよ」「いえいえ、南雲先輩こそ」「……埒が明かなそうだね、では玉子を貰おうか」「じゃあ私はこっちを」そしてふたりは灯のひとつも点けずに、適当な席に隣り合って坐り、封を開けた。

「買ってもらって悪いね。時に、御堂くん、サンドウィッチに合う飲み物はなんだと思うかね」

「ええと、牛乳とか紅茶とかですかね」

「そうかね。私は少しとばかり喉が渇くようだ、買って来ようとおもうのだが、なにか飲むかね」

「いいえ、お気になさらず! あたしが好きで買って来たんですから!」

「……そうか、ではちょっとここで待っていてくれ。すぐに戻るよ」

 着いていくつもりだったが、御堂は彼に待てと言われたことと、今ここで腰を上げると、強い心拍に気おされて、平静を装うには難かった。

「……南雲先輩って、やっぱり優しいんだなあ」



「やあ、待たせたね」そう言う南雲の手にはふたつのパックジュースが握られていた。「あたしは気にしないでと言ったのに……」「はは、これは、偶発的なものでね。当たりがでたから、適当に牛乳をね。君には先程の発言の責任をとって貰おう」彼は牛乳を御堂の頭に置いた。

「要らなかったら私にくれるといい。ただ、そこまで人の好意を蔑ろにするのは良くないよ」

 御堂は両手で頭上の紙パックを掴み、それを明かりに浮かべた。「四・四好きなんです、よくわかりましたね、あたしの好み」

 すると南雲は彼女の左隣の席に、一度腰から太腿あたりまでを撫でおろし、椅子に白衣を敷いてから腰掛けて、「牛乳はこれしか売ってなかったのだよ」と手中の牛乳を振った。

「嘘……です。あたしもあそこで牛乳はよく買いますけど、普通のも売ってますよ」

 御堂は彼が犯人とでもいうように鋭く指した。「はは、それは早計かもしれないよ。もしかしたら、最寄りの自販機ではもう牛乳が残っていなかった可能性もある」笑みながら、引っ込んだストローを指に挟み、先端を咥えて引き伸ばした。それをアルミ膜に突き刺して、ひとくち。パックは凹み、口を離すと、ストローから醜く空気を取り込んだ。そして南雲は既に開封のされたサンドウィッチを口にした。思ったよりも塩気を感じさせない、素朴な味付けの具で、パンの風味が強く流れ込んでくる。

すると御堂は少し腰を上げて、小さくちぎった自分のサンドウィッチを彼の口に押し込んだ。

「……美味しいですかあ」

「あ、ああ、息苦しいことを加味してもぎりぎり及第点だっ……」

 南雲はなんとか牛乳とともに嚥下した。味などわかりもしなかったが、きっと、美味しいと思っていた。

「ふふふ、ごめんなさい。……先輩が本当に優しいかあ、からかっちゃいました」

「なにかね、藪から棒に。気恥ずかしいではないか」

「否定は、しないんですね」

「してみせようか。私はね、数多の罪悪の上に立ち、同じ轍を踏まないように、臆病になっているだけなのだよ」

「ええっ、まるで悪い人みたいに言うんですね」

「悪い人なんだ、それも根っからのね」

「あたしは――あんなにも、泣きじゃくる人が、とても悪いような人には見えないです。とっても正直な、子供みたいでしたよう」

「それに君も大概悪い人だ。こんなにも私をからかうことが楽しいかね」

「はい、楽しいかもです。ふふ」

 参った、全く、参ったね。そう言いながら南雲はもうひとくち頬張った。玉子の甘さが昨今の疲労を癒していった。そうか、もう、明日は土曜日か、と迫り来る休日のことを思った。

「明日も練習かあ……苦労が絶えませんねえ」

「全くだね。明日は、午前九時から午後の三時までだったかね。ああ、折角の休日が丸つぶれではないかね」

「先輩は、楽しくないですか、この演劇」

「それは……まあ、楽しいよ。あまり騒ぐのは好きではないのだがね、たまには、ほんのたまにはいいのかもしれない。本番に失敗することを想像しては恐ろしいし、五反田とはぶつかってばかりだしね」

「あはは……、確かに祐希先輩はそういうどうしようもないところ、ありますよね――って、これ聞かれてないですよね! 後ろよおし、右よおし、左よおし……あっ、先輩、このこと言わないでくださいよう?」

「忘れるようにするよ」


「ふふ、ありがとうございますっ。それでですね、祐希先輩ったら、結構強情で……」御堂の顔が深く翳った。「最初、祐希先輩と、松田先輩と、美琴先輩の三人であたしのところへ勧誘しに来たんです。それこそ『君じゃなきゃ駄目みたいっ!』って感じでえ……。でもあたしなんかじゃ無理だって、ちょうどこの役だったんですけどお、降りるのも悪いかなって、とりあえず裏方になることで逃げたんです。そしたら、祐希先輩はあたしと仲良くしてくれました。放課後にデートしてくれたり、ご飯を奢ってくれたり。それで、そのたんびに、あたしがどうにか演劇の主役をやってくれないかっていうようなことを、遠回しに言ってきたんです。それで、あたしはもう、やってあげようかなあって思ったんです。……祐希先輩に、嫌われたくなかったんです。だからやることにしました。でも直ぐに祐希先輩は、忙しくなりだしちゃって……あんまり構ってくれなくなっちゃいました。でも、そんな時に、優しくしてくれたのは――南雲先輩、先輩でした。先輩って、ほら、格好良いじゃないですかあ。……いやいやあ、さっきは好意を蔑ろにするのは良くないって言ってたじゃないですか、ふふ、まあいいです。――それにしてもお、ひとつ気にかかることがあるんですよね。はい、あのですねえ、マリちゃんがなんで認めて貰えなかったのかなあって。ええと、あたし見たんですよう、たまたま。マリちゃんが自分から『演劇の主役やりたい』って祐希先輩にお願いしてたんです。なんかおかしいですよね、あれだけ嫌がってたのに。まあ、それもなかなかすごいとは思うんですけど、それを、祐希先輩が拒否したんですよ、おかしいと思いませんか! え……『それだけ君が適役だったのではないかね』……って? いやいや、マリちゃんのほうが可愛いですよ……。まあ……マリちゃんって日本美人って感じなのはわかります、この作品のヒロインとは似合わないみたいなこともなくはないですねえ……。南雲先輩を勧誘したのも、原作者で、それが自伝小説となれば適役も適役ですよ。美琴先輩をモチーフにした榎本って人物は大して出番がないのに、その通りに演技の上手い美琴先輩を使っちゃうんですから。やっぱりあの人はすごいなあ……本当にあたしなんかがヒロインやっちゃって良かったんですかねえ。――それこそ先輩は嫌じゃありませんか? 理想の女の子像なんですよね。あ、え……ふふふ、やっぱり優しいです。あの、秀先輩って呼んでもいいですか? ありがとうございます! じゃああたしのことは、朱莉って呼んでください! ご期待に応えられるよう、精一杯がんばります! 秀先輩っ!」

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