第60話 これも有りだと

 駅の入り口でヒカルは待っていた。

 待ち合わせはいつも駅だ。ヒカルがそれを望んでいた。互いの家に迎えに行くことは無く、いつも外で待ち合わせる。

 白地のチェックシャツに黒い上着を着た彼が、夜の街を行き交う人々の波を見つめている。上着のポケットに手を入れているのは、冷たいからだろう。そろそろコートを買ってやらなくては。そんな風に考える自分が可笑しかった。彼はもう息子ではないのに。

 自分に気付いて、ぼんやりしていたその表情がにわかに華やぐ。その顔は、一瞬見ただけでも幸せな気分になる。だから、面倒くさいと思っても待ち合わせるのは悪くないと愛子も思うのだ。好きな人が、自分を見て笑ってくれる。こんな幸福があるだろうか。

 そして、愛子の隣りに大柄なバーニィの姿を認めて、その顔が少し硬くなる。そんなことさえ、妙にくすぐったい。

「アイコ・・・!こんばんは。」

「こんばんは、ヒカル。こちらが、トレーナーのバーニィよ。英語で挨拶ね?」

 言われて頷いた彼は、顔を上げて愛子のトレーナーを見た。すかさず右手を出して握手を求める。

『こんばんは。初めまして、ミスター。僕はヒカル・ハギワラと言います。』

 ヒカルも低くはないが、バーニィは更に大きいので見上げる格好になる。こうやってみると、確かにバーニィは大きくてマッチョだった。

 差し出された手を握り返したバーニィが、にっこりと笑う。

『こんばんは。こちらこそ初めまして。バーナード・リビングストンです。やあ、立派な息子さんだ、驚きました。こんなに大きいとは。』

 ヒカルの金色の眉が上がる。

 それは、ヒカルがカチンと来た時にやる癖だ。バーニィの言葉の中に癇に障るものが有ったのだろう。

『アイコのトレーナーをして下さっているそうですね。彼女は運動神経のいい方じゃないから、大変でしょう?』

 さりげなく自分の欠点を口にされて愛子までが殺伐として気分になる。ええ、どうせ、運動音痴です。ミスズみたいにスポーツ万能ではありません。

『そこがまたいいんですよ。鍛える甲斐があるんです。愛子が鍛えたかった理由、知ってますか?』

 陽気に笑い声を立てたバーニィの腕を掴んだ。

 余計なことは言うな、と釘をさしておくべきだった。

『子供たちに負けないように、体力を付けたい、って仰ったんですよ。子供の体力なんて底なしなのに、それについて行こうと言う気持ちが素晴らしいでしょう?こんな大きなお子さんじゃ、確かに大変だったわけだ。』

『ばっバーニィ!黙ってよ、そんなことヒカルの前で・・・!』

 これ以上余計な事言ったらジムを変えるぞ、と脅す。まあ、大した脅しにはならないけれども。顧客を一人のがしたから、彼の報酬査定に響くだろうという程度のものだけど。

 しかしもう遅かったようだ。

 ヒカルが初対面の相手の手を、握り潰さんばかりの力で握っている。笑顔を作っているのが尚更に怖いが、相手がバーニィでよかった。鍛えているから少々の事では動じないのか、トレーナーは涼しい顔だ。

『僕はもう息子ではありません。養子縁組は解消しました。・・・もう、成人していますので。』

 ようやく握っていた手を離したヒカルが穏やかに言う。

 驚愕の声を上げたのは愛子の方だった。

『え、いつの間に、そんなこと!?』

『先週。シズルに頼んで。』

『そ、そうなんだ・・・。』

 という事は、今の愛子とヒカルは赤の他人だ。

 もう親子ではない、そう思ったら、なんだか急に寂しく、そして目の前の金髪の青年が他人に見えた。

 そう言えば先週静流から連絡があった。名前を借りるぞ、と言っていたのでなんのことやらわからなかったが、そういう事だったのだ。

 コートを買ってやらねば、などと思った事が途端に滑稽な出来事になった。よその子に、他人が余計な世話を焼く所だったのだ。危ない危ない。

『養子だったんだ?まあ、確かに、全然似て無いと思ったけど・・・。』

 納得したような声を出すバーニィは、養子だったことを言っていなかった。彼は、愛子が自分から話すこと以外、尋ねようとはしなかった。双子の子供がいる事、娘の方が最近子供を産んでその育児に追われている事などは話した。だから、買い物の手伝いなんかもしてくれたし、忙しくない時だけ一緒に食事にも行ってくれた。もう一人の子は、パリに留学している。その子が今ロンドンに戻ってきているから会う事になった。バーニィが知っていたのはそこまでだ。

『・・・親子にはとても見えない。年の離れた姉弟ってところですね。』

 まあその辺りが妥協どころだろう。

 東洋人である愛子は年齢の割には若く見える。だから、青年であるヒカルと並べばその程度だろうが、決定的に似ていないから姉弟は無理だ。黒髪だった頃ならばまだしも、すっかり金髪になってしまったいまでは。

『・・・心外ですね。愛子は僕の恋人ですよ。姉、だなんて、失礼な。』

『ヒカルっ!?』

『失礼でしたか?褒めたつもりだったんですが、これは悪い事を。』

 そこまで話してはいけない、と、止める間もなかった。

 動揺した愛子の予想に反して、バーニィはその事実を聞いても少しも驚いてはいない。

『バーニィ、ヒカルは、ちょっとばかり、その・・・。』

 何かいい口実は無いかと頭をフル回転させて考えるが、何も思いつかない。あれほどはっきりと恋人だと公言されては、フォローも何もないのだ。

『誰にも言わないし、なんとも思わないよ、アイコ。俺だって社会ではマイナーな方だ。・・・じゃあ、俺はもうお友達として愛子と会ったりしたらまずいのかな?』

 バーニィがヒカルにそう訊くと、ヒカルはゆっくりと首を横に振った。

『いいえ、これからもアイコのいい友人として彼女を支えて下さい。僕がロンドンにいない間、愛子を守ってくれていたのはきっと貴方や妹だったんだろうと思います。ありがとう。愛子を見れば貴方に対する信頼の厚さがよくわかる。だから、僕やアイコも貴方の友人として、出来ることが有れば力になりますから。どうぞ、これからもよろしくお願いします。』

 そう言って穏やかに微笑んだヒカルを見て、愛子は、目の奥がじんと熱くなるのを禁じ得なかった。

 なんと見事な対応だろう。愛子に関わる全ての異性に対して眉毛を吊り上げていたというかつてのヒカル。そんな過去がまるで嘘のような、大人らしい、そして惚れ惚れするような理想的な返答だ。彼の成長が今の会話を聞いただけでもはっきりとわかる。

 立派になったヒカルが誇らしい。喜びで視界がぼやけて来てしまうくらいに。

 愛子の心の隅で、一抹の寂しさを覚えた。

 母だった自分は名実ともに過去のものになったのだ。





 バーニィと別れた後、近くのパブまで並んで歩いた。二人で軽く一杯飲んでから帰ることにしたのだ。

「どうしたのアイコ。なんか、目が赤い。」

「なんでもないわ。ちょっと嬉しくて、泣けてきちゃったの。やあねぇ、年を取ると涙腺が緩みやすくなっちゃって。」

「それはいいや。僕が貴方を慰める機会がより増えるから。」

 ヒカルが立ち止まって隣りに立つ愛子の両目の端にキスをする。

「僕と他人になった事、ショックだった?」

「ショックだったのは他人になった事じゃなくて、一言の相談もなかったことかしら。もう養育の必要はないんだから、いつ解消したっていいんだけどね。」

「・・・うん、ごめん。僕、貴方に直接言う勇気がなかったんだ。」

「どうして?」

「だって養子の関係さえなくなったら本当に他人なんだ。嫌われたらもう二度と会えなくなるかもしれないでしょう?昔は早く大人になって、親子の関係を解消したいとばかり思っていたんだけど、いざ、現実になったらなんだか怖かったよ。そんなふうに思っているって、僕はまだ子供なんだなっておもったけど。」

 普通の恋人ならば、別れたらそれっきりになってしまうこともある。

 しかし親子ならばそれはない。何がしかの理由で関係を修復しようと努力するかもしれない。

 愛子が絶対にヒカルを見捨てないという保証が失われる。それはヒカルにとって一つのリスクだった。それを断ち切るのには勇気が必要だったのだ。

 だが、それさえ出来ないようでは、彼女の隣りに並んで歩く資格などない。

 あの頃は本当に今よりずっと子供だった。どんなことがあっても愛子は自分を見捨てないと言う甘えがあったから、養子縁組を早く解消したい、などと思っていられたのだ。

 今ならばそれがわかる。

 切実に思うのだ。何があっても切れない親子という関係を断ち切るのは、とてもつもない勇気がいるのだと言う事を。

 そして、四年間というブランクを経てなお、自分はこの女性を忘れられなかったのだ、と思い知る。

 あるいは、何度出会ってもきっと恋をしてしまうのだろうと自覚してしまった。

 愛子と離されてパリへ行ってから落ち込んだ。随分と泣いてばかりいたような気もしたが、それでも日常は続く。それはきっと愛子も同じことだ。自分がいなくても彼女は彼女の世界で生きていくのだろう。自分のいない場所で生きていく彼女がいると思うだけで、胸が張り裂けるかと思うくらいだった。

 パリで浮いた話が無かったわけではない。ヒカルは女性にウケがいいから、大概どこへ行ってもモテる。けれども、パリで出来た友達の話を聞いても、女の子を見ても、何故か付き合ってみたいとは思わなかった。興味がないと言うよりは、もう、十分だ、という感覚だったと思う。以前のように誘われたらそのまま付き合うと言う事も、しない。愛子を思う気持ちと一人である自分自身と向き合っていると、そんな気になれなかった。

 人に話せば、愛子を忘れるためにも新しく恋人を作る事を勧められる。

 でも、ヒカルは愛子を忘れたいわけじゃなかったのだ。

 彼女を恋い慕う心がヒカルの作品に滲み出る。大学で良い評価を貰うのは、いつも彼女のことを思って描くものばかりで。

 いつしか、そうすることで寂しさや会えない虚しさが昇華されたような気になっていた。

 こういうのも、有りなのだと。

 傍に居なくても、抱けなくても抱きしめられることが無くても。

 決して結ばれない相手を思いながら年を重ねる人生というのも、悪くないのではないか。 

 ヒカルの心は、その若さにしてそこまで到達してしまっていて。

 彼は知る由もないけれど、若かりし頃の愛子と同じ気持ちへと至っていた。

 ヒカルの両親の傍らで、彼の父親への思いを抱えながらずっと傍に居た愛子と殆ど同じ心は、彼を本当の大人へと成長させていったのかもしれない。


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