第61話 他人になったら

 それでも新しい環境は新鮮でヒカルにとってプラスな事が多かった。なんと言っても彼だっても若い青年なのだ、新しい世界で好奇心旺盛に多くの事を吸収する。それが嫌なわけがない。ロンドンに居たら知り得なかったことを知って学び自分の糧とするのは、愛子と離れ無ければ出来なかった経験だろう。

 ヒカルが留学した先では華やかな人が多く、また華やかな付き合いも多かった。彼らの付き合い方を見ているうちに、色々な事に気付かせてもらったことは確かだし、そのおかげでいかに自分が幼く甘えた子供であったかを理解した。

 しかし、その世界は魅力的でありながら、彼はそこに浸り込むことも出来なかった。そこに彼の居場所はないと感じていたから。

 ヒカルが居たい場所は。どうしてもこの女性ひとの傍であると、ここでないと駄目だと思い知ってしまった。

 ロンドンの薄暗い曇り空の下、その空を仰ぐ年上の東洋人女性が優しく言う。

「そうね。もう親子じゃないなんて思うと寂しい気もするわ。でも、嬉しかったのよ。」

「僕と他人になった事が?」

「貴方がバーニィに言った言葉の方よ。以前の貴方だったら、きっとあんなこと言えなかったでしょう?」

「ああ・・・、あれ。心にもないこと、ではなかったんだけど。余りに挑発されたから言うのに勇気が必要だった。」

「バーニィは何も知らなかったのよ。わたしと貴方の関係も、普通の親子だと思ってたんだと思うの。挑発なんかじゃないのよ。」

 なんだか申し訳なさそうに、愛子がトレーナーの男を庇うから。

「わかってる、わかってるけど。」

 素直に同意できずにいることくらいは許して欲しい。

「弁護するわけじゃないけど彼は何も悪くないの。むしろ気を使ってくれたの。」

 何度もバーニィの話をする愛子の言葉を、まるで遮る様に。

「アイコ」

 人の流れが途絶えた通りで、ヒカルが愛子の両肩を掴む。

 ぽつりぽつりとは通るがそれほど多くはない。立ち止まって迷惑なほど狭い通りでもないが、なんだか恥ずかしくて、道の隅へ動いた。

「・・・嫌だったら、断ってくれていい。」

「何が?」

「今夜は僕の家に泊まりに来て。・・・わかってる、貴方が明日も仕事だから無理だって言うのはわかってるんだ。、でも、言わせて。」

「ヒカル」

 白い肌にうっすらと血の色を上らせた愛子が彼を見上げる。

「貴方を抱きたいんだ。ずっと、そう思ってた。でも、ちゃんとするまで。きちんと他人になるまでは我慢するって決めてた。避妊もちゃんとするし、貴方が嫌なら断ってもいい。でも今は言わせてほしい。僕はやっぱり貴方が欲しくて、したいって思ってる。僕は、・・・ねえ僕は、貴方の恋人に相応しくなった?」

 息子だった頃のように、なんだか心配そうな顔をするヒカルを見て逆に驚いてしまう。まるで焦ったようにそう言うのは、ヒカルが何かに動揺しているからなのだろうか。

 確かに、彼がロンドンに戻って来てから、肉体関係を持ったことは無い。

 口にするキスを、デートの終わりに交わすだけだった。

 それで十分に満たされていた。生活にくたびれている愛子にとっては、充分だったのだ。もう次の恋はないだろうと思える愛子には、今の関係が宝物のように大切で有り難い。

 そんな関係がとても嬉しかった。まるで、若い娘時代に戻ったかのようで、これから彼氏に会う女の子の感覚そのままに心をときめかせる自分が楽しかったのだ。若い頃のように将来の夢を見ることは出来なくなったけれど。 

 ヒカルと二人で暮らしていた頃の関係は、はっきり言って爛れていた生活と言っていい。思うまま体を貪り時には時間も予定も忘れていた。あれでは駄目なのだとつくづくと思い知ったから。

「・・・わたしの方こそ、貴方に相応しいなんて言えない女だわ。」

「アイコ」

 愛子の表情は自嘲するかのようで。

「年甲斐もなく夢中になってる。会うだけで、顔を見るだけでも嬉しいとか若い娘みたいに思ってる。でも、・・・そういう自分が、今、とても幸せなのよ。」

 やがて恥ずかしそうにそう言った愛子が、もう一度笑う。今度は少しだけはにかんだ笑顔で。

 それがヒカルにはいじらしく思えて、可愛らしくて、思わず細い肩を引き寄せ抱きしめた。人目など、気にならない。

 愛子の、艶のある黒髪から爽やかな香りがして、彼女がシャワーを浴びたのだと気づく。ジムの後だから当然だろうと思うのとは別に、身体の奥から何かが兆してくるのを自覚した。

 湯を浴びる愛子の姿を思い出す。

 初めて彼女と性交したのは、旅行先のホテルだった。結ばれた嬉しさに自分を止められなかったから、浴室でまでも愛子の身体を貪った。ぐったりした彼女をシャワーで洗って、大事な場所のヘアまでトリートメントしたのを覚えている。白い柔らかな肌に溺れて、どうにも抑えが利かなかった。今思えば、随分と無茶をしたものだ。愛子の身体の負担は相当なものだったろう、翌日の彼女は半日ベッドから動けなかったくらいだ。

 今は、あの頃よりは理性がある。下半身に血が集まるのがわかっても、それと悟らせずに鎮める術も覚えた。

 自分を抑える努力をしているヒカルに、愛子が悩ましい声で言葉をかける。

「本当に、こんなわたしを欲しいと思ってくれるの?・・・今も?」

 腕の中でぎゅっとヒカルの襟元を握る。そして、少しだけ躊躇してから頭をヒカルの胸に凭せ掛けた。

 ヒカルの背に、何かが走ったような気がした。

 プライドの高い愛子の放った台詞が信じられなくて。その切なくなるような声音で心臓を突かれたような気持ちになる。

 抱きしめる手に力を込めた。他にどうしていいかわからない。言葉にならなかった。

「ヒカル、ヒカル、痛いわ。」

「ごめん、強かったね、ごめん。・・・勿論、今も、貴方が欲しいよ。自分を抑えるのに理性を総動員させているくらいに。」

 愛子は綺麗でいい匂いがして柔らかくて素敵だ。

 ヒカルが幼かった頃も、夢中で貪ったあの時も、抱きしめている今現在も。

「・・・貴方の部屋、興味あるわ。まだ一度も行ったことないんですもの。ヒカルが新しく借りた住処を、是非見てみたい。」

「本当に?来てくれるの?」

 ヒカルがゆっくりと身体を離すと、愛子が頷いた。




 地下鉄を一度乗り換えて20分ほどの駅で降りる。

 駅を出ると大きな通りがあり、その通りを一本外れると途端に閑静な住宅地に変わった。彼の部屋までの道のりには、大型のスーパーマーケットとテイクアウトの中華総菜の店舗があるだけで、あとはずっと似たような住宅が並ぶ。

 茶色の煉瓦を積んだ壁に臙脂色の屋根が特徴的な住宅は、門を通って中に入ると、集合住宅なのがわかった。広い玄関ホールから廊下に続く壁にはいくつものドアが続く。中央の螺旋階段の上階にも、きっと同様にドアが並んでいるのだろう。狭いながら外庭があり門にもロック、玄関にもロックがある。

 暗証番号の入力と網膜パターンのチェックをすませ、ロックを解除する。セキュリティが厳重なのはいいことだ。

 中に入ると、温かくて安堵した。時間で自動的に暖房が点くのだろう。

「素敵な建物だわ。雰囲気もあるし、本人確認が二重なのもいいわね。」

「そうかな。外観は確かにちょっと凝ってるよね、妙にレトロで。」

 カードキーを指すと、電子音とともにドアのロックが解除される。ヒカルの部屋は一階の奥、角部屋だった。角ではあるが、非常階段室が更にその奥に設置してあるため、角に見えない。

 そう思うと、愛子の家は本当にセキュリティ面ではゆるい。アイクに注意されても仕方がないと思う。まあ、彼の言うままに警備会社を契約しているので、良しとしているけれど。

 灯りが点いた彼の部屋は、小さなキッチンとシャワーブースが玄関から丸見えだった。高い窓には、ヒカルでなければ手が届かないだろう。

 アイボリーのカーペットが敷かれ、クローゼットの扉を開いたヒカルが上着をそこへしまっていた。その向こうにカーテンで仕切られた別の部屋があるのだろう。

「狭いでしょう?」

「一人ならこれで十分よ。」

 彼がキッチン傍の壁に手を入れると、折り畳み式のテーブルが現れる。クローゼットから細いスツールみたいな椅子を二客ひっぱりだして、添えるように置いた。

「まあ、それ、いいわね。便利だわ。」

 愛子の目が輝いた。コンパクトな家具に思わず声を上げる。近寄ってどういう仕掛けか確かめようとテーブルに手をついた。

 重い音がして、床に愛子のハンドバッグが落ちる。

「ヒカル・・・!」

「許して。堪え性のない僕を、どうか許して。」

 ヒカルの両手が伸びて愛子の背中を覆うように抱きしめる。愛子の両肩まで完全に埋めるように力強く抱きしめると、冷たい唇をうなじへ乗せた。

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