この先に何が有っても

第51話 どうして平気なのか


 恋とか知らない。

 自分とその言葉は関わりない事だと思っていたし、今も思っている。

 あんな風に、激しく情熱的に誰かを思ったりなんか出来ない。そんな感情はいらない。必要ないのだ。

 コーチだってよく言っていた。

 冷静であれ、と。

 そして、常に自分をハイテンションに保つことだ、と。

 でも、いつもそうはいかない。そううまくやれる事ばかりではない。それは、サッカー以外の話であっても同じで。

 現役選手だった時代、ミスズのポジションは大概サイドバック。滅多にトップに出してもらえることが無くて、それが不満だった。

 アタシだってシュート決めたいのに、格好よく決めたいのに、と何度か監督に食い下がったが、駄目だった。

 守備ばかりのプレイだったことは不本意だったけれど、ふと気づく。

 バックがシュートをしてはいけない、というルールはないはずだ。

 その日から、ミスズはキックの練習を重ね、ロングシュートを打てるように毎日のようにボールを蹴り続けた。通常練習の他に。

 ハーフからの初めてのロングシュートを決めた日。嬉しくて震えて涙が出たのを覚えている。だから、疼くように痛む膝の故障に気付かない振りをしていた。その無理が祟って、いつしか膝は全力疾走に耐えられない程痛むようになったのだ。

 現役選手として二度とピッチに立つことは出来ないだろうと言われた日。

 まるで他人事のように、冷静だった。

 そんなもんか、と思って、笑い飛ばした。

 傷を負った自分よりも、養母の愛子の方が、諦めきれないみたいにいくつもの整形外科をあたってくれて。

 その気持ちに報いることのできない自分がいやで、泣きたい思いをこらえて、笑った。

「アタシは大丈夫よ、ママ。サッカーじゃないスポーツだっていくらでもあるじゃない。」

「トレーナーになるっていうのもいいかなって思うのよ?どうかしら。」

「そんな顔しないでママ。アタシは大丈夫だから。どうとでもなるわ。アタシは平気よ。」

 ああ、一度くらいはトップとしてシュートしてみたかった、なんて夢も、忘れた。

 だから、尊敬する叔父が連れて行ってくれたプロ選手の楽屋で。

 思い切り泣いてしまった。

 叔父のアーサー様は、いつ会っても格好良くて、ハンサムで優しくて、大らかで、大好きで。その気持ちはママに対する気持ちとなんら遜色がないと思っていた。

 叔父だから好きなのは当然で。好きになってもいいのは当たり前で、アーサー様は姪の自分をとても可愛がってくれて。

 そう、当然なのだから。

 恋とか愛とか、そんなのじゃない。ただ、単に、好き。

 彼の奥様がその傍らに寄り添う所を見ても、冷静でいられるし、陽気に振る舞える。

 著名なオペラ歌手である彼の奥さんは、アーサー様よりも年下で、小柄で、可愛らしくて、まさに、姫、という人だった。

 そういう人がいても、大丈夫。アタシは平気。叔父様を好きな気持ちになんの変化も無い。

 平気なのは、どうしてなのか、考えてみたことも無かった。



 あんなことになったのは不可抗力と言う奴だ。

 相棒のアイクと、そんな関係になったのは、本当に、魔が差したとしか思えない。そんな、はずみの出来事で。

『ミスズ、ミルクまだですか。』

『今、冷ましてるからっ』

 その不可抗力の結果が、今現実として、ここにある。

 大声で泣いているローズマリーを腕に抱いてあやしているアイクが、ミスズに二度目にミルクの催促をする。

 なんでそんなに手慣れているのだろう、という疑問は飲み込む。はっきり言って産んだミスズ自身よりも落ち着いていて、赤ん坊の扱いをよく知っているみたいに思えた。

 産んで一か月で母乳が出なくなってしまったので、すぐにミルクに切り替えたのだが、まあ、よく飲む子だ。

 出なくなった頃はいくら吸っても出ない乳首に苛立ったのか、ローズがミスズの乳首を吸い過ぎて、ミスズの乳首は切れてしまったくらいだ。歯が有ったら食いちぎられていたのではないかと思うとぞっとする。

『ママ、早く帰ってこないかな。』

『そんな風にアイコ頼みでは困るでしょう。母親は君なのに。』

『アイク、うるさいっ』

 ローズを出産する前から、ミスズは実家である元の家に戻ってきた。一人で育児をする自信がないからと、養母の愛子を拝み倒して同居を願い出たのである。

 そして、ローズが生まれた時からアイザックは帰らなくなった。なし崩し的に、そのまま居ついてしまい、とうとう二人と赤ん坊の居候となったのだ。そのことについて、愛子から文句を言われたことはない。

 愛子は養女のミスズの頼みを快く引き受けてくれて、アイクが居ついてしまった事にも何も言わない。それが申し訳ないと思ってアイクだけでも追い出そうとミスズが画策するけれど、それを逆に愛子に叱られるくらいであった。

 魔が差した結果生まれてきた娘は、不思議なほどに可愛らしい。

 産んだミスズは勿論、父親にあたるアイクも一瞬で心を奪われた。泣いても笑っても騒いでも暴れても、ミルクを飲んでもオムツが濡れても、とにかく可愛い。一本の髪の毛も無いツルツルの頭も可愛いし、青い眼もきょろきょろと動いて可愛いし、ちっちゃな手の意外な握力の強さまでもが可愛いのだ。

 子はかすがいというけれど。

どんなにミスズがアイクを追い出そうとしても、ローズが泣けばそれどころではなくなる。

 そして、愛子がミスズを宥めてしまう。

 そうやって二人は別れずに済んでいるのだ。






 先週大叔父の静流に呼び出されて、ようやく愛子と会う許可をもらった。

 その日の大叔父はとてもご機嫌で、奥方のシャーリーの運んできたブランデーを飲んでいた。フランスから帰国して、ようやくロンドンの郊外に引っ越したヒカルは、帰国後初めての呼び出しに緊張を隠せない。

 養母である愛子との関係を禁じられたあの日から、大叔父の呼び出しの度に冷や汗が出る始末だ。次は何を言われるのかと心休まらないヒカルは、進められたお酒にも手を付けられなかった。

「完全に髪も瞳も色が戻ったのだな。」

「はい。年ほど前から戻り始めていて。完全にこうなるのには随分かかってしまいました。」

 色の変化を見たい、ということもあって伸ばし始めていた髪はもう腰まである。

 10歳の時の熱病で服用した薬が原因で、ずっと黒髪黒瞳だったヒカル。光線の加減で髪も目も時折色を変えていたが、明らかに変化してきたのはパリへ渡ってからだった。変化が始まった時はなんともひどい有様で、髪は金と黒の斑だし、瞳は見る人間によって色が違っていたりして、奇天烈な外見だったと思う。

 背中で一つに結んだ長い金髪は、ゆるくウェーブを描いているがほぼ直毛だ。

 その姿は、まさに亡くなった彼の父親に瓜二つと言ってよかった。

 彼の父親も、よくこうやって静流に呼び出されて叱責を食らったりあるいは深刻な相談をしたりしたものだった。

 その当時の甥と今のヒカルの姿が重なって、静流は、なんだかひどく懐かしいような、くすぐったいような気分になる。だからやたらと妻の出してくれたブランデーが進んでしまうのかもしれない。

あの時も、こうして静流の甥はやってきた。愛する彼女を口説いてもいいだろうかと、許可を求めて。

 双子の両親はそうやって関係を再び始めたのだ。一度は同じ屋根の下に暮らした二人だったが、もう一度別々に別れて暮らし、個人と個人となってから交際をスタートした。

 ヒカルと愛子もそうやって、もう一度再出発を始めるのだろうか。

 愛子は相変わらず独身だが、娘のミスズが相棒のアイザックと生まれたばかりのローズマリーを連れて戻ってきて賑やかな暮らしになっているはずだ。だから、寂しさの余り誰かを求めることは無いだろう。

 ヒカルの気持ちは今も変わらず彼女を求めているのだろうか。それとももう、過去の思い出となっていて、ただ単に実家に挨拶に訪れたいと思っているのだろうか。静流からは、それについて問うつもりはなかった。

「あの」

「なんだ?」

 診察室ではなく広い客間に通されたヒカルは、なんとも居心地悪そうに強張っている。

「おかげさまで大学を無事に卒業し、来年から講師の就職も決まりました。実家からは離れていますが、自分で家も借りています。現在も、アルバイトをして収入は有ります。」

「ん、そうだったな。よくがんばった。大学の方からも優秀な成績で卒業したと報告を貰っているぞ。」

「・・・それで、先日のことですが、偶然にも地下鉄の駅でアイコに会う事が出来ました。」

「ああ、ミスズから聞いた。家まで押しかけなかったのはエライな。俺との約束を覚えていたんだな。」

「僕はまだアイコに会ってはいけないのでしょうか?」

 革張りのソファで座っているヒカルの手が、彼の膝を握りしめて硬くなっているのが見える。

 静流の方を見る青い眼は、緊張で時折揺らいでいる。それでも目線をそらさないように見つめていた。

 外見が変わったせいなのか、それとも本当に四年の間に成長して大人になったからなのか、以前のヒカルとは違うように思える。

「会いたいのか?」

「はい。・・・正直に言って、帰国した時は半分諦めていました。彼女も自分の事なんてもう思っていないだろうと思ったし、自分もとうに吹っ切れているんだろうと思っていました。四年はそのくらい長かったし、僕はこんなにも変わってしまった。きっとアイコも変わっただろうって思って。だから、ロンドンに戻ってきた日も、冷静でいられた。当たり前のように部屋を借りる事とか、手続きの事など、そういう事に気を取られて、彼女の事を忘れていたように思います。」

「・・・そうだな。」

「再会した時僕は彼女に縋りつきたいような感情を覚えなかった。以前のように、すぐにでもしがみついて抱きしめて誰にも渡さないようにと、そういう焦燥感も無かったんです。その事実に僕自身がひどく驚いたくらいで。」

「だから彼女の家に、・・・僕にとっては懐かしい実家に押しかけようとはしなかった。以前の僕だったらきっと、貴方との約束など反故にしてでも行ってしまっていただろうと思います。あの日、僕は帰宅する彼女を見送って手を振って別れた時、どうしてか、簡単にそんなことをしてはいけないのだ、と思った。」

「彼女には彼女の生活があり、それに土足でズカズカと上がり込んではいけないんだと。彼女は確かに僕の母親で、かつての恋人でもあったけれど、そういう事をしてはいけないんだと思いました。」

 てのひらで温まったブランデーを、静流が口に含む。

 何も言わずヒカルの言葉を聞いていた彼は、まるで眩しいものでも見ているかのように、その大きな目を細めた。

「だから、出来たら日を改めて。彼女の都合のいい日にでも、もう一度会えたら。もしも、アイコが少しでも僕に会いたいと思う気持ちになってくれたら、もう一度会いたいのです。」

「そうか。」

「はい、許可を頂けますか?」

「いいだろう。」

 余りにも呆気ない、短い大叔父の言葉を聞いて、まるで朝日が差したように表情を明るく変えたヒカルが、立ち上がった。

「ありがとうございます!」

 彼らしくもなく、日本式に深々と頭を下げる。それを見て静流は苦笑した。

「会ってもいいが、その後の事は知らんぞ。お前と彼女との関係がどうなろうと、もう俺の知った事じゃない。愛子は勿論、お前ももう大人なんだ。もはや俺が口出す事ではないからな。」

 散々甘ったれだのガキだのと言われてきた自分の事を、大叔父が『大人』だと言ってくれた。その事実に感激して、思わず握った拳が震える。  

 静流はようやく認めてくれたのだ。ヒカルが一人前になったことを。

 テーブルの上のブランデーの瓶を右手で持ち上げた静流は、それを傾ける。

「ホラ」

 ヒカルが飲めるように置いてあったグラスの中身は少しも手をつけていない。僅かな躊躇の後、ヒカルはグラスを取って一気に飲み干した。かあっと喉が焼けるような感覚に耐えて、空いたグラスを静流の方へ向ける。

「強いな。愛子が喜ぶ。」

 グラスに瓶の中身を注いでやりながら、にやりと笑った大叔父が呟いた。

「そこまで強くはないですよ。」

 半分ほどに注がれたブランデーに口を付けながらヒカルが答える。僅かに彼の顔色が紅潮してきたのを見て、一層嬉しくなったのか、静流は楽しそうに笑った。

「一緒に飲めるんだからそりゃ喜ぶに決まってるさ。そのうち俺にもつきあってくれよ。」

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