第52話 デートしようか

 

 ロンドンに戻ってきて三か月、就職先も決まり住居も決まった僕は生活費稼ぎにリージェントストリートでアルバイトをしていた。

 そこはデザイン会社だったので、スーツを着ることが義務付けられていて、不本意ではあったが仕方なくスーツで通勤をしていた。仕事は受注先からの仕様書と上がってきたデザイン内容が間違いなく合致しているかどうかを確認するというもので、中々に神経を使う。講師の口が決まらなかったらこのままここで社員にならないかと誘われてもいたのだが、正直自分には向かないと思った。スーツ通勤も嫌だったが、何よりこれほど神経を使うのではくたびれてしまう。報酬は良かったので、まあ、アルバイトならば、という所だろう。

 地下鉄に乗って職場から自分の部屋フラットへ戻ろうと駅の構内に入った時、東洋人らしい女性の姿が目に入った。自分がクォーターであるせいか、東洋人を見るとなんとなく意識してしまう。

 あんなに大きな荷物を持って、大変だな、と思ったのは、後姿がなんだかあの人に似ている気がしたから。

 しかし、あの人があんな荷物を持って出歩く理由も無いだろう。彼女は一人暮らしだと聞いていたから、よもやミルク缶など買うはずもない。

 気の毒だな、と思った瞬間にはもう体が動いていた。

 そして顔を見た瞬間。

 彼女の声を、日本語を聞いた瞬間に心の中で、何かが溢れた気がした。

 まるで変っていない愛子の姿は、懐かしさもあった。けれどもそれ以上に、相変わらず綺麗だな、と思ったのだ。

 そして、彼女が自分を見つめる目が、以前とは違う。可愛い子供を慈しむ目ではなかった。僅かな警戒心と驚きと興味の入り混じった愛子の表情は、あの頃自分に向けられたことは無かった気がする。

 やっとこれで彼女と自分は、他人になれたのだ。そう思った。




 駅の出口で花屋に寄った。どれを選ぼうかとても迷ってしまう。バラもユリもカトレアも、どんな花でも彼女には似合うだろう。でも、子供っぽいセンスだと思われるのは嫌だ。

 悩みに悩んで、グリーンアイトワと呼ばれる緑色のバラを包んでもらった。グリーンローズは珍しいそうで少々値が張ったけれど、中央がピンク、外側が薄い黄緑色の花びらで構成され、とてもシックだ。店員の女性もおすすめだと言ってくれた。

 彼女が、買い物袋の中に入れた名刺カードに気付いてくれたのは嬉しかった。

 まだ作ったばかりで誰にも渡したことがないそれは、自分のロゴデザインのプレゼンがてら作ったもなのだ。講師になったら、生徒に手渡してみようと思っていた。

 とっさにそれを思い出して、袋に突っ込んだのは、ただただこの偶然の出会いだけで終わりにしたくなかったからで。

 もう一度、会いたいと思ったから。

 ヒカルは普段の愛子を知っている。というか、覚えている。スッピンの彼女も、居眠りをしている彼女も覚えている。生活の中の彼女は、外で見る彼女のようにいつも綺麗で完璧ではなく、よく彼女が言う所の『おばさん』であるけれど、それも含めて好きだった。

 でも、今はそうではなくて。

 自分のために着飾って、化粧して、めいいっぱいおしゃれしてきてくれる愛子に会いたいのだ。




 踝まであるタイトスカートに、踵の高いスウェード皮のブーツ。白い綿シャツはミスズに借りてきた。

 昨日は久しぶりに美容院へ行って髪を整えて貰い、そのついでにネイルもして貰った。睫毛カーラ―も買った。

 香水は、甘くない柑橘系。メイクは出来る限りナチュラルに、顔色が良く見えるオレンジ系。

『ママ、綺麗ね。凄く素敵。ああ~アタシが男だったら絶対結婚するっ』

『それは困ります。』

 ご機嫌できゃっきゃしているローズを抱いたアイザックが、愛子を褒めまくるミスズに突っ込みを入れる。彼の重低音な声にもすっかり慣れた。

『そうねぇ。アイクは困るわよね。多分ローズも。』

 くすくすと笑って赤ん坊の顔を指先で突っつく。やわらかな肌が傷つかないように、ネイルが剥がれないように軽く、そっと。それがこそばゆいのか、ローズはまたきゃっきゃっと笑った。

 よく泣いて良く笑う。ローズマリーは感情の起伏の激しい赤ん坊だ。紛れもなく彼女はミスズの娘と言えるだろう。

 まだろくに生えていない髪の色は不明のままだが、瞳の色はミスズと同じ青色だ。淡い色というのは劣性遺伝かと思うのに、本当に彼の血筋の遺伝子は強いなと思う。高い鼻筋はアイザック譲りだろう。まだ一歳にもならないローズマリーの顔立ちははっきりとしている。

『じゃあ行ってくるわね。』

『いってらっしゃいママ。楽しんできてね。なんなら朝帰りでも構わなくってよ?』

 そう言って玄関で手を振る新しい親子に見送られ、愛子はハンドバッグをもう一度握りしめた。

 何年かぶりでするデートという行事に、なんだかひどく緊張する。もう一度鏡で見直すべきだろうか。どこかおかしくないか、確認すべきだろうか。

 再会したあの地下鉄の駅で待ち合わせして、一緒に出かける。

 会うのは息子なのだから、そこまで緊張するのはおかしいと思う。思うのに、動悸はおさまらない。

 長い金髪の青い眼のヒカルは、自分の知っている息子じゃないみたいで、どうしても落ち着けないのだ。

 赤いバスに乗ってその駅まで行くと、ぱっと見ただけで彼がいることに気が付いた。それは、愛子がヒカルの事を気にし過ぎているから、だけではないと思う。

 地下鉄の入り口の壁に沿うようにして立っている彼は、大きな花束を持ってしきりに辺りを気にしている。視線に落ち着きがない。いくら待ち合わせているからとは言え、そんな若い男はそういないからだ。

 バス停から歩いてきた愛子の姿を見つけて、嬉しそうに微笑む。

 まるで、十数年前に、彼を保育園に迎えに行った時のような、屈託ない笑顔を思い出す。

 あんなにあの人に似ているのに、やはり彼は愛子の中ではヒカルだ。彼の父親ではない。

 しかし、それでいてかつてのヒカルとも違う。

 金髪碧眼だった息子のヒカルは愛子の中で10歳の時に止まってしまっている。もっとも濃密な時間を一緒に過ごしたヒカルは黒髪黒目だったので、やはりあの時のヒカルとは違うのだ。今日は、まずその事を尋ねなくてはと思っている。

 この間会った時と同じ、濃紺のスーツ。ネクタイの色だけが違っている。深い赤色に、若さが見える。背広の濃紺に金色の髪がとても映えてとても印象的だ。

『こんばんは。良い夜ですね、ご機嫌はいかが?』

 自分を落ちつかせるように、挨拶する声のトーンを落とす。そうでないと上ずってしまいそうで恥ずかしかった。いい年をして、そんなところを見せるわけには行かない。

『貴方に会えるなんてこの上ない夜ですよ。こんばんは。僕は今夜、最高の気分だ。貴方は?』

 流れるような社交辞令がヒカルの口から滑り出る。さすがはパリ帰りと言う事か。こんな口をきくなんて、自分の知ってるヒカルではない気がして可笑しかった。

『とってもいいわ。二人きりで外で会うなんて、もしかしたら、あのスコットランド以来じゃないかしらね。』

 愛子も小さく笑って答える。

 傍まで歩み寄ると、彼は背中に隠すように持っていた花束をずい、と差し出した。

『・・・これを、貴方に。再会の記念に。受け取って。』

 愛子の手には余るような大きさの花束は、清潔感漂う美しいグリーンローズ。

 珍しい色のバラに、思わず食い入るように視線を向けていた。外側と内側で色の異なるグラデーションは、白地なだけに上品で鮮やかだ。顔を近づけて香りを嗅ぐと、強過ぎない甘い香りが鼻腔に入って来る。

『素敵、流石はヒカル。趣味がいいのね。ありがとう、嬉しいわ。』

 愛子の称賛に彼は満足そうに頷いた。

『じゃあ、行こうか。・・・それに、もう日本語で話してもいい?』

「貴方がいいなら、わたしはいいけど。」

 パリからロンドンへ戻ったばかりのヒカルにとっては、日本語の方が話しにくいのではないかと思ったので、あえて英語を使っていた。あちらでは日本語を使う機会は殆どなかっただろうから。

「日本語だったら、貴方との会話を誰にも聞き取られずに済むっていうのがいいんだ。」

 そう言って、ヒカルは左腕を伸ばしてきて、エスコートするかのように愛子の前へ示した。前にもこんな事があったな、と考えている愛子が、しっかりとその腕につかまる。

「オペラなんて、何年振りかしら。誘ってくれてありがとう、ヒカル。」

「叔父さんに頼めばチケットなんかいくらでも」

 今夜の演目は“トスカ”。歌うのはティル侯爵夫人アンジェリカだ。ヒカルとミスズの叔父の奥様である。




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