第50話 また会えると思えるだけで(完結)


 それも最初は相手のアイザックと半ば喧嘩でもしていたらしく、実家である愛子の家から彼を締め出そうとさえしていたのだ。

 いつ頃からミスズとアイザックがそういう関係になっていたのかはわからない。何しろ、ミスズ本人までもがよくわからないと言うのだ。ふと気づいたらそういうことになっていて、ふと気づいたら妊娠していたことに気付いた、と言うのだ。

「なんていうか、その、ミスズ、どういうことなの?」

「アタシだって何て言っていいか」

 珍しくもミスズが恥ずかしがっている。大抵の事は涼しい顔で図々しくしていられるのが彼女の特徴と言えるのに、ソファの上で身の置き所も無いような顔でもじもじするのが可笑しかった。

『アイク、説明してくれるって言ったわよね?』

 娘に尋ねても埒が明かない。

 彼女を追いかけて来訪した彼女の相棒に水を向けると、彼は頷いて口を開いた。

『昨年一緒に侯爵様のノルウェイ視察出かけた時に、ホテルで関係を持ちました。俺から誘ったのですが、渋っていた割にはとても情熱的にミスズは応えてくれて・・・』

 ニコニコと愛想良く言い出した彼の口を慌てて塞いだミスズが思わず立ち上がる。

『アイザックっ!余計な事言わないでっ!!』

 娘の閨事を詳細に聞きたくはない愛子は、苦笑いを浮かべながら続きを促す。

『ママ、その、あの、そういうのしたのは、本当にそれ一回きりなのっこれ本当だから、信じてっ』

 一回だろうが百回だろうがしてしまったからこそ妊娠したのだろう。信じるも何も。というか、どうしてそんなにもミスズが恥ずかしがっているのかがよくわからない。

『で、産むつもりだから戻って来たと?』

『うん。お願いだからママ、手伝って欲しいの。アタシ、さすがに自信がなくってさ。一人でも産んで育てるって言い切っちゃった手前、他の誰にも頼めないし。』

『誰に言い切っちゃったの?』

 そう訊くと、途端にミスズは目線をそらした。

 アイザックが塞がれた口をもう一度開く。

『俺と結婚するのが嫌だそうです。俺は何度もミスズに一緒になろうと口説いているのですが。』

『なんでよ?アイクの何がいけないの?』

 再び尋ねても、ミスズは絶対にこちらを見ない。

 アイクの家は代々侯爵家を警護する家柄で、彼の父親は警備保障会社の重役だ。本人もこの会社に属して長く働いている。

 叔父にあたる侯爵を守ると言って鼻息を荒くしていたミスズにとっては、願っても無い縁談ではないだろうか。

『・・・わたしは、今はこの家に一人きりだから別に構わないわ。ミスズが戻ってきてくれるのはとても嬉しいから歓迎するけど、ただ、わたし新生児を育てた経験は無いのよ?』

『それでも一人よりも二人の方がいいわよ。何より心強いし、ママが一緒ならアタシも嬉しい。』

 取り合えず、その日はアイザックを帰らせて、ミスズと話をすることにした。

 温かいミルクティーを用意して、ミスズに手渡すと、彼女は嬉しそうに笑って受け取る。

「こんなに早く孫の顔が見られるなんて思わなかったけど、凄く嬉しいわミスズ。でも、どうしてアイクと一緒になるのは嫌なの?ママから見た彼はとても理想的だわ。」

「・・・じゃあママがアイクと結婚すれば」

「ミスズ。」

「だって、あんなにアーサー様を守るんだって言い切ったのに。他の人と一緒になるなんてなんかおかしいじゃない。アタシ、ヒカルや他の人みたいに誰かを好きになるとか恋をするとかそういうの全然わからなかった。今もよくわからないままなの。アイクのことは好きよ?でも、男として意識してるとか、結婚したいとかそういうのじゃなくって。」

「意識してない人と子供なんてつくれないでしょ。」

「あのときはアタシどうかしてたのよ!!」

「じゃあどうして妊娠してるってわかった時に堕胎しようとは思わなかったの?」

「そ、それは」

「そのほうが簡単じゃない。一人で産んで育てる方が大変よ?」

「だって」

「産むのって痛いんですって。育てるのも大変よ?産んでから一年くらいはまともに眠れる夜は無いんですって。」

「それは、ヤダけど・・・」

「堕胎は時期が早ければ割と軽い処置で済むわ。」

「ママ!!」

「誤魔化さないの。正直に言いなさい。でないと、家から叩きだすわよ。」

「・・・おろしたりしたら、アイクが、悲しむ・・・」

 ミスズの声は小さかったが、はっきりとそう言った。

 愛子がくすりと笑って、彼女のライオンヘアを撫でた。見た目に反して、その髪はとてもしなやかで柔らかい。

「アイクの悲しむ顔が見たくなかったのよね?・・・そういうのが、好きになるってことなんじゃないかしら?」

 アイザックが彼女の相棒となってから三年以上の年月が流れている。その間、彼はずっとミスズの傍らで常に彼女を守り、時には彼女を導いてきた。我慢強く大人しい彼が秘めていたミスズに対する思いに、彼女だって気付いていただろう。

「・・・アタシ」

「大丈夫よ、アーサー様が怒るとでも思ってるの?きっと祝福して下さるに決まってるじゃない。」

 困惑したような顔を真っ赤に染めて、ミスズはゆっくりと頷いた。




 それから半年後に彼女は無事に女児を出産した。退院後はずっと愛子のいるこの家に、アイザックと生まれたばかりのローズマリーと共に滞在しているのだ。

 一人では大変な育児も、三人の大人がいればどうにかなる。ミスズと愛子とアイザックと三人で赤ん坊の面倒を見ている現在、働きに出ているのは愛子だけである。若い夫婦は休職中ということでずっと家にいるのだ。

 仕事が終わって帰宅する頃には、夕食のおかずやらミルクやオムツなどの日用品を山ほど買い込んで帰らなくてはならない。

 山ほどの荷物を抱えて地下鉄に乗った愛子は、肩がだるくなるのも我慢して揺れる車内で停車駅を待った。

「あーあ、今日はバーニィがいないから手伝ってもらえないなぁ。」

 日本語で独り言を呟いた。車内には三人程の乗客しかおらず、その中に日本語の分かる人がいるようには見えなかった。

 ミスズが出産してから忙しくてジムには通っていないけれど、バーニィとの付き合いは続いている。買物が多い時などは、手伝ってくれるのでとても有り難いのだが、今日の彼には仕事があり、頼めなかった。

 大きな荷物を持って駅の階段を昇るのはとても重労働な気がして、構内を見渡したけれど、エレベーターは故障中の文字が貼ってある。やれやれと思って改札をくぐると、ミルク缶を一つ落としてしまった。愛子は振り返って落としたものの方へ視線を送った。

 行き交う人の中で白い大きな手がそれを拾う。親切な人がいていくれたようだ。

『ご親切にどうもありがとう。』

 手渡されたミルク缶を袋の中へ収めた愛子は愛想良く礼を述べた。

『大丈夫ですか、マドモアゼル、随分重そうですね。よかったらお荷物お持ちしますよ。』

 少し掠れた声でそう言ってくれた人は腰まである長い金髪の男性だ。品のいい濃紺のスーツを着ていて、お金持ちらしく見える。

 愛子は目を瞠った。

 親切なその男性は、彼女の顔を見てにっこりと微笑んだ。

 冬の空のような真っ青な瞳が、優しそうに細くなる。

「・・・貴方は」

 愛子が日本語でそう言うと、相手はびっくりしたように目を剥いた。

「アイコ?」

「やっぱり、ヒカル・・・?」

 あの人が生き返って目の前にいるのかと思った。

 そして、すぐにそんなはずはない事を思い返してよく似た他人だろうと思ったけれど、彼の方も驚いた表情でこちらを見ているということに気が付いた。日本語がわかる西欧人などそういない。

 だから他に思い当たるのは、一人しかいない。けれど愛子の知っているその一人は、黒髪黒目になっているはずだ。

「こんなところで会えるなんて、夢にも思わなかった・・・!」

 感動の再会に喜んだ顔を見せたかつても息子は、それからにわかに表情を曇らせる。

 愛子の荷物を見たからだ。どうみても赤ん坊を育てているようにしか思えない買物内容、一人分とは思えない食料品の量に、彼は少しショックを受けたようだった。

「あ、これは、ミスズの、そうミスズのよ!ミスズの赤ちゃんのなの!!」

 いい訳でもするように、慌てて言い募る。

 何故言い訳しなくてはならないのか、そこまでは考えなかったけれど。

「えっ・・・?あ、ああ、そうか、そう言えば、生まれたんだってね。おめでとう。」

 愛子の言葉に納得したのか、ヒカルは安心したようにまた笑った。

「ありがとう。とっても元気な女の子なのよ。」

「そうか。それはよかった。・・・こんなに大きな荷物、家まで持って送ってあげたいけど・・・。」

 ヒカルはまだ、愛子の家に戻ることを静流に許可されていない。

「だったら、タクシーにしよう。ね、その方が楽だよ。タクシープールまでは一緒に行こう。」

 愛子の手から荷物を奪うように受け取って、そのままタクシープールを目指して歩き出してしまった。その後を慌てて追いかける。停車しているタクシーに声をかけ、荷物をトランクに入れていた。  

「お代も支払っておいたから。気を付けて帰ってね。ミスズとアイクと・・・、可愛い姪によろしく。」

「あ、ありがとう。悪いわね。」

 彼女を車に乗せドアを閉めた後、彼は外からゆっくりと手を振って帰宅する愛子を見送った。

 流れ去る景色の一つになってしまった彼はあっという間に見えなくなったが、突然の再会に激しくなった動悸はまだおさまらない。

 いつから金髪に戻したのだろう。いつから瞳の色も変えたのか。

 ヒカルが家を出て行ってからもうすぐ四年になる。四年も経てばあれほど髪が長くなっていてもおかしくはない。

 この四年間一度も彼と直接連絡を取ることは無かった。静流とミスズから、思い出したように彼の近況を教えてもらうくらいで、端末越しの会話さえしたことがない。

 無事にパリの大学へ進み、卒業したことだけは聞いていた。

 いつロンドンに戻って来るのか、就職をどうしたのか、そういう情報は全く聞かされていなかったのだ。

 ヒカルは戻ってこないかもしれない。パリは彼にとって楽しい街に違いない。芸術家肌の彼には向いている。今頃は素敵な恋人の一人や二人出来ているかもしれない。

 ひょっとしたら二度と会えないかもしれないとさえ思っていた。

 偶然にも再会できて嬉しい。

 スーツを着ていたと言う事は、もう働いているのだろうか。立派な社会人になって大人の仲間入りを果たしたのだろう。

 スマートな態度で愛子をタクシーへ乗せた姿は、この膝に縋って泣いた彼とはまるで別人のようで、恰好よかった。

 大きくなったのだな、思う。

 いや、正直に言えば。魅力的な男性に成長したのだな、と思った。今となっては、自分などお呼びで無いのはわかっているけれど。

 彼の姿が見えなくなった今も、こんなにも胸が苦しい。 

 ヒカルの事ばかりを考えていたせいか、いつの間にかタクシーが自宅前の道路に辿り着いたことにも気付かなかった。

 あごひげをはやしたタクシードライバーが、愛想良く笑って荷物をおろし、運んでくれる。ヒカルはたくさんのチップを支払ってくれたのだろう。

『おかえりーママ。買いものありがとうね。』

 呼び鈴を鳴らすとアイクとミスズが玄関まで出て来てくれた。

『こんなにたくさんの荷物重かったでしょう。呼んでくだされば取りに行きましたのに。』

『大丈夫、タクシー使ったから。』

『へえ、ママってばリッチねぇ。』

 愛子が支払ったわけではない。

 ダイニングテーブルの上に買ってきたものを次々に並べていくミスズが、買い物袋から何かを見つけたらしい。

「ママ、名刺が入ってるわ。誰かに貰ったの?」

「名刺?」

 自分で差し出したカードを見て、ミスズがあっと声を上げた。

 名刺は、ロンドン市内の専門学校講師のものだった。見覚えのあるその名前に、四年前、ヒカルが進学しようとしていた学校だったことを思い出す。

 裏を見ると、筆記体で『よかったら今度食事でもいかがですか』と書かれている。

「ママ、ヒカルと会ったの・・・?」

「え、ええ。偶然にね、本当に偶然に、よ?」

 どうしてか言い訳がましくなってしまうのが、自分でもよくわからなかった。何もやましい事でもないのに。

「そう。偶然会っちゃったんならしょうがないわね。・・・実は、来年からヒカルがロンドンに戻ることに決まったらしいの。講師の口が見つかったからって。静流さんには、まだママには言うなって言われてたんだけど、会っちゃったんだからいいわよね?」

「そうなの?・・・知らなかったわ、決まっておめでとうって言えばよかった。」

 ローズの鳴き声が聞こえる。

 慌ててミスズが声の方へ向かって歩き出した。二階の彼女の部屋である。昼寝から目覚めたのだろうか。

 誰もいなくなったダイニングで、愛子はその名刺カードを見つめた。

 懐かしいヒカルの筆記体。

 食事を誘う言葉に、忘れていた胸の高鳴りを覚えている。

 再会した時も中々それはおさまらなくて、なんだか今もまだ夢でも見ているかのようで。

 また、会えるかもしれないと思っただけで、とても嬉しい。

 以前のように求めて貰えなくても。あの頃のように愛されなくても。

 ただ、また会えると思うだけで、愛子の心は浮き立った。







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