第46話 いつか手を放さなくては


 愛子が職場で倒れたという知らせを受けて、静流は救急病院へむかった。何かあった時の緊急連絡先は、英国内では静流に頼んである。彼が医師であるからという理由もあるが、何かあった時にも双子のために手を尽くしてくれるからだ。愛子の身内は日本にしかいない。

 病院で点滴を受けて目覚めた彼女は情けない、と言ってベッドの上で笑っていた。

「・・・寝不足と過労。それにホルモンバランスの乱れ、自律神経失調。大丈夫なのか、愛子。」

「静流さんには何も隠せませんね。そうやって詳細なカルテを見られては。」

 化粧が落ちてしまった愛子の顔は心配になるほど青白い。

「仕事と育児と、どうにか頑張ってきたつもりだったんですが。はは・・・、やっぱり無理がありますよね、一回り以上も違う相手だと、付いていけない、と言うか。寄る年波には勝てないんだなぁ。」

 困ったように笑っている彼女の顔は、笑っていてもどこか疲れが見えた。

「あんた、ピル飲んでるな?ホルモンバランスの崩れはそのせいだろ。」

「はい。・・・避妊してくれないので。」

 ピクリと、静流の眉が動いた。

「あんたの身体には合わないのかもしれない。長期間服用を続けない方がいいぞ。それに時期も時期だ。あんたは更年期の前だから、特にホルモンバランスには気を配らんと。」

「・・・そうですよね。」

 静流が小さく舌打ちした。

「あのガキ、呆れた奴だ。一生大切にして見せるから、とか言うから俺は反対しないで来たんだぞ。これなら侯爵家の小僧の方がよっぽど」

 愛子と二つしか違わない侯爵の事を、小僧と言い切ってしまう彼の言葉が可笑しい。静流から見れば、あのアーサー様も小僧になってしまうのだから可笑しかった。ましてや甥っ子の子供である双子など、ガキと呼ばれても仕方ないだろう。

「そう言わないで上げて下さい。ヒカルはまだ若いんです。仕方がないでしょう、色々と至らないのは。」

 病人である愛子が彼を弁護してしまう。それも仕方がないのだ、ヒカルは、愛子の可愛い子供でもある。

「あんたはヒカルを甘やかしすぎる。あれじゃいつになっても大人になれないぞ。」

「はい。わかってます。・・・わかってはいるんですが。」

 愛子は自分の手を見つめた。

 確かに彼を甘やかしている自分も悪いのだ。普通の恋人であれば、愛子ほどに恋人の面倒を甲斐甲斐しく見ないだろう。自立していて初めて、一人前であり、それでようやく伴侶を持つことが許されるのだ。伴侶はあくまでもパートナーであって、母親でもなければ家政婦でもない。平等でなくてはならないのだから。

「あんたはどうなんだ。・・・ヒカルの事をどうするつもりなんだ。」

 静流が病室の隅にあった椅子を引き寄せ、彼女の枕元まで持って行って腰を下ろす。

「手放す気はあるのか?」

 手にしていたカルテを彼女の脚の上に置いて覗き込むように愛子の顔を見た。

 静流の顔を見上げていた彼女は、すっと目をそらしてしまった。暫く天井を見つめていた焦げ茶色の瞳は、やがてゆっくりと閉じられる。

 やはり離さなければならないのか、と思う。

 夏にミスズを見送った時、その寂しさの余りヒカルに縋ってしまった。あれは親としてしてはいけない事だったと思う。あんなことをしてしまったら、ヒカルは一層愛子から離れたがらなくなるだろう。 

 ヒカルに愛を告白され、と同時にミスズが自分から離れていってしまったから、愛子自身もかなり動揺していた。冷静になれなかったのだ。

 言い訳になるかもしれない。けれど、愛子は正直に言って嬉しかった。

 ヒカルに愛を告白されたことに歓喜した自分がいた。例え息子であっても、いやヒカルだったからこそ、女性として激しく求められたことに感動してその喜びにうち震えた。それは現在も変わらない事実だった。連日のように求められて身体が悲鳴を上げていても受け入れ続けたのは、愛子自身が受け入れたかったからに他ならない。

 そして、彼を甘やかし続けたのも、それが自分にしか出来ない事だとわかっていたから。彼を甘やかす存在は、愛子以外にもういないのだ。遠い昔に、この世から去ってしまったのだから。

 しかしこのままでは駄目なのだ。

 静流の言う通りだった。このままではいつになってもヒカルは本当の意味での自立が出来ない。

 彼を手放す。

 それはあの人との最後のつながりを手放すのと同じことだ。

 ヒカルはあの人の息子で誰よりも彼に似ていて、そして。

 愛子が彼にして欲しかった事をしてくれて、欲しかった言葉をくれた。同じ顔で、より情熱的に。

「引き離そうとするのならいくらでも手は打てる。外国にでもやってちまうか。少しは世間の冷たい風を浴びさせるのがいいだろう。」

 静流の言葉は冷たいようだが、甥っ子の子供の成長を願ってのことだ。けしてヒカルの、愛子の意志を無視しようとしているわけではない。今までだって何も言わずに見守って来てくれた。ヒカルが愛子に対して抱いていた思いも全てわかっていて静観してきてくれたのに、ここに来て動いたのは、もう見過ごせないという段階だから。

 今手放したら、きっともう戻ってこないかもしれない。

 若く才に溢れ魅力的なヒカルを、彼を取り巻く世界は放っておかないだろう。最初は嘆き落ち込むことは有っても、きっと新しい場所で新しい人たちと上手くやって行けるはずだ。それが実現する頃にはきっと、愛子のことなど遠い空の思い出となり果てるだろう。

 愛子の目尻から一筋の涙が零れて枕に伝った。

「ヒカルと・・・別れます。もう、手放します。どうか彼のために、彼の将来のために良いように、静流さん。」

 悲しそうな細い声で言った彼女のこめかみを静流が撫でる。

 よく言えたなと褒めているかのように、彼の節くれだった手はとても優しかった。


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