第45話 親父にも殴られたことないのに

 ミスズから端末へ連絡が来た。アリシアを無事に自宅へ送って行ったそうだ。家に付くころには随分と彼女も落ち着いていたらしく、素直に謝罪を述べていたと言う。

 自宅へ戻って玄関のドアを開ける時刻は12時を回り、すでに日付が変わっていた。

 コートを脱いで中へ入ると、リビングがまだ明るい。まだ愛子が起きているのだろうか。いや、起きていればヒカルの帰宅に気付くだろう。

 温められた部屋で、愛子がソファに寝そべって船を漕いでいた。

 ヒカルを待っていたのか、あるいは自分の寝室へ行く前に撃沈してしまい睡魔に負けたのか。

「・・・ようやく済んだよ。もう寂しい思いはさせないからね。」

 恋しい人が目の前で寝息を立てている。その安らかな時間をじゃましてはいけないと思う。

 白い顔だった。血管が透けて見えている。

 元々素顔だと色が白すぎて顔色が悪く見えてしまう愛子だが、真夜中だからなのか、今夜は一層白さが引き立って見えた。

 そっと顎を持ち上げて唇を重ねる。角度を変え、向きを変えて触れるだけのキスを繰り返し、やがて唇の間をこじ開けるように舌を入れる。それでも愛子は目覚めない。

 もっていた荷物もコートも床に投げ出して、彼女の上に身体を重ねた。

「ん、・・・あ?ヒカ・・・ル?帰ったの・・・」

 彼の重さが堪えたのか、さすがに目覚めた愛子が、薄眼を開けてぼそりと言う。

「アイコ、ただいま。さ、このままベッドへ運ぶよ。僕を待っててくれたんだね?」

「・・・そういうわけじゃないけど。運ばなくていいわよ、自分で行くわ。貴方も早めに寝るのよ?」

「つれない事言わないでよ。貴方を待たせてしまった分今夜はいっぱい頑張るから。」

「頑張らないでいい。わたしはもう眠いの・・・じゃ、お休みなさい。」

 ソファから起き上がった愛子は欠伸を一つして、軽くヒカルの肩をぽんぽんと叩くと立ち上がった。

「待って。僕も一緒に」

 飼い主の後を追う犬のように、慌てて愛子の後を追いかける。

 あの白い肌が自分の愛撫で赤くなるところを見てからでなくては、安心して寝られない。

自分の部屋のベッドよりも、愛子の寝室の方が大きい。

 だから二人で寝るのはこっちの方がいいし、実際、ヒカルは自分の部屋で寝ることがめっきり減った。

 けれど、愛子が自分用にダブルを買ったのは、息子と一緒に寝るためだったわけではない。自分が寝るときくらいは一人でゆったり寝たいと思って大きいものを用意したのだ。

 双子が幼い頃は何度か、一緒にここで寝かせたことが有る。日本であれば親子で一緒に寝るのはそれほど不自然ではない。

 しかしここは英国で、欧米人の子供は早くからベッドには一人で入るものだ。双子がどうしてもとぐずったときだけに限って、一緒に寝ることを許したまでである。

 同居をはじめたばかりの頃は何度かそういうことがあった。8歳の少年少女が、突然両親を失ったのだから不安で寝付けない夜もあろうと言うものだ。

「わかったから、一緒に寝てもいいから。お願いだから、今夜は勘弁して。本当に、眠くて辛いのよ。」

 いくら自室で寝るように説得しても出て行かない息子を追い出すことは諦めた。

「いやだ。」

 この寒いのに、ヒカルはさっと上半身裸になりベッドに入って来る。

 見ているだけで寒い。

 いや、部屋は温められているからそこまで寒いわけではないけれど、そんな恰好の息子を見ただけで鳥肌が立ちそうだ。

 それなのに、外から戻ったばかりで冷たい彼の手が部屋着の奥へもぐりこんで肌に直接触れたのだからたまらなかった。心臓マヒを起こしたらどうしてくれる。 

「冷たいっ寒いんじゃないの、ヒカルっ」

「だから、温めてよ。」

「も~仕方のない子ね!」

 無遠慮な手を両手で包み込んで優しく擦った。愛子よりも大きな手を、しっかりと握って優しく擦る。いきなり身体を触られて暖を取られるよりはずっといい。

「・・・ああ、あったかいよ、アイコ。凄く、気持ちいい。」

「そう?じゃあ、お休みなさい。いい子で、静かに眠るのよ。いい子ね。」

 双子の小さなころと同じような言葉が、愛子の口から滑り出る。

 それは子ども扱いされているようで腹立たしいけれど、少しも怒る気にはなれない。愛子がヒカルに向けてくれる言葉はいつも慈愛に満ちている。

 片手をベッドサイドのリモコンへ伸ばして部屋の照明を切った。間接照明さえも消してしまうのは、すぐに眠りにつけると思っているからだろう。

 差し出した手の先さえよく見えないような暗闇の中で、毛布を引き寄せながら彼女に身体を寄せた。

「ん、あ」

 目を閉じても、意識が遠のきそうになっても引き摺り戻される。

 耳元から口づけが落ちて、首筋を通って胸までおりた。

「やっ・・・ヒカル、お願いだから今日は許して。」

「毎晩だって貴方を抱くよ。貴方は僕のものだ、他の誰にもやらない。」

 抱きしめる力がこもる。

 もうよそ見はさせない。ずっと抱きしめて生きていくのだ。

 愛子を眠りではなく快感へ落とそうと、唇をその白い肌に這わせた。



 一人、年上の恋人へ送るクリスマスプレゼントを探して、ヴィクトリア駅の構内を足早に歩いていたヒカルは、背後にいた人間に突然後ろの襟首を捕まれた。

「ゲホっ」

『ヒカルじゃないかっ久しぶりだな。』

『アンディか。』

 ヒカルよりも更に身長の高い青年が、多くの人が行き交う駅の構内で彼を捕まえたのだった。同じ黒髪だが、ヒカルよりもやや栗色に近い頭髪は、クリクリの天然パーマ。茶色に見えるが金色に近い瞳はとても大きくて年齢よりもはるかに幼く見せる。

『父さんがあんたを呼んでる。このまま連れて行くぞ。』

 父親譲りの童顔を綻ばせてがっちりと腕をヒカルの首に絡ませた。

『静流さんがっ!?僕を!?・・・ちょっ、アンディ、待って、僕忙し』

『首に縄をかけてでも連れて来いって厳命されてるんだ。』

 ヒカルの父親の叔父に当たるのが静流だ。フルネームは沢渡静流サワタリシズルと言い、双子から見たら大叔父となる。アンディは静流の息子で、五つ子の三男だ。ヒカルよりも五歳年長であり、大学を出たてのインターンだった。

 静流は心療内科医であり、アンディはその後継となって医院を継ぐ予定である。

『静流さんとこに行く余裕があるなら家に帰るよ。勘弁してくれ。』

 アンディの長い腕を振り切って逃げ出そうとするヒカルに、アンディの声が追いかけてきた。

『アイコの件で話があるって。それも、早急に。』



 50を過ぎているようには見えない、童顔の男が白衣姿で立ち尽くしている。大叔父は生粋の日本人だが、英国に住んで30年以上にもなり配偶者も英国人女性だ。自宅の一画を医院として診療に使っている彼は、ヒカルを診察室に通し椅子に座らせた。

「おう、久しぶりだなヒカル。でかくなりやがって、ガキの成長は本当に早いもんだ。」

「ガキって言うのやめて下さい。ご無沙汰してます。それで、アイコの話って?」

 分厚いレンズに触れないようフレームだけに指を置いて眼鏡の位置をずらした静流は、ヒカルの向かい側に腰を下ろした。

 二人が立ったままだと身長はヒカルの方が大きい。椅子に腰を下ろしても、上背はヒカルの方が高いように見えた。それが面白くないのか、静流は行儀よく揃えていた膝を開いて、足を組む。

「おまえ、コソコソ何やってんだ?ここんとこ、ずっと帰宅も遅くて、ろくに家にいないそうだな?」

「・・・色々、ありまして。」

「ほう、色々か。」

 この大叔父に対してやましいことが有るわけではない。

 色々、の内容について彼に話す義理は無いと思うヒカルは、それ以上の事を言うつもりはないらしく口を噤んだ。

「愛子とはうまくやれているのか?二人だけになってもう何か月も経つだろう。」

「勿論です。」

 静流の目尻に刻まれた皺が動いて、表情がやや硬くなった。

「俺の聞いた限りでは、おまえは相変わらず愛子の手を煩わせているようだが?」

 言われてヒカルの顔が強張った。

 煩わせていないと言えば嘘になる。朝は相変わらず自力で起きられず彼女に起こしてもらっているし、洗濯もまかせっきりだ。食事も全て彼女が作っていて、ヒカルが炊事をしたのはほんの二、三回だった。しかし、それは今に始まった事ではなく、ずっと以前からの事だ。ヒカルとミスズが幼い頃からずっと彼女は面倒を見続けている。今はただ人数が一人減っただけの事。

「僕は僕なりに」

 言いかけたヒカルの言葉を、静流は手で制して遮った。 

「彼女とセックスしているのか?」

 らしくもなく真っ赤になったヒカルは、数秒の間二の句が告げなかった。

 身内であり、大叔父である静流にそんなことを聞かれるとは夢にも思わなかったのである。

 いきなり何を聞いてくるのかと、言い返そうと思ったが、静流の顔は真剣だった。冗談や世間話で尋ねているのではない。

「はい。しています。」

 嘘はつけないと思った。言葉を濁したり、適当に誤魔化していいとは思えない。

「無理をさせてたりしないだろうな?」

 再び尋ねられた質問の内容に、大叔父が心療内科医であることを思い出す。

 まさか静流は、ヒカルが愛子に対して合意の上ではない性行為を強制していると疑っているのだろうか。

「無理なんて・・・!アイコの同意はちゃんと得ています。彼女だって僕を愛してくれている。受け入れてくれているのは確かだ。」

 小柄な大叔父はおもむろに立ち上がった。大きな瞳がヒカルの方を睨み付けている。それに負けないよう、ヒカルも相手を凝視した。

 自分は間違っていない。自分と彼女は誰に後ろ指を指される関係でもない。大叔父だってそれは理解してくれていたはずだった。

「この馬鹿野郎が!!」

 ヒカルは椅子から転げ落ちた。静流の拳が彼の顔に思い切り炸裂したからだった。

 人に殴られたことなど一度も無い18の少年は、驚愕の余り声も出ない。床で蹲り、鈍い痛みを訴える顔の左頬をぼんやりと左手で押さえた。

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