第9話 ウィスキーお好きでしょ

 

 エディンバラは小さな町ではないけれど、喧しさや浮ついた感じのない、落ち着いた街だった。タクシーを降りて歩き始めると、たくさんの観光客の姿が見えたので、すぐに城の方向がわかる。端末を見ながらもそちらを目指した。

「アイコ、ほら。」

 左腕を出して組むように促され、母は僅かな躊躇の後、息子の手に自分の右腕を絡ませる。

 一人前にエスコートのつもりなんだろうか。まあ、誰が見たって恋人と言うには年齢差があるから、母親思いの息子連れ、と言った風にしか見えないだろう。

 隣りに立つと、ヒカルの大きさを意識する。スポーツをしている話をあまり聞いたことがないが、しっかりと筋肉の張った腕は意外と太かった。

 自分の腰くらいまでしかなかった身長も、10歳を境にずんずん伸びてしまって、今じゃ見上げる高さだ。

 癖のある黒髪は、サイドと前だけ長めにしたカットで、流行の髪形である。ミスズが強引にサロンへ連れて行ってやってもらったんだそうで、見栄えもいい。肌の色が白いので濃い色のシャツが良く似合っている。これがミスズだと逆で、ミスズはがっちり日焼けしているから、パルテルカラーの方が映えるのだ。

「ああ、見えてきた。ちょっと写真撮ってもいい?」

「いいわよ、たっぷり撮りなさいな。」

 古風な石造りの建造物は、古代ロマンにどっぷり浸れそうなほどの雰囲気がある。美術専攻のヒカルには、見過ごせない研究対象の一つだろう。

 愛子はあまり英国史に詳しくはないけれど、十分に見て楽しめるお城だった。ヒカルとミスズは学校で学んだから、自分よりも楽しめるはずだ。色々な場所から端末のシャッター音をさせているヒカルを黙って見守る。

 すると、寄りかかっている城壁の向こう側から誰かの背中がぶつかった。少し訛った英語が聞こえる。

「どうもすみません。大丈夫でしたか?」

 ふさふさした茶色の髭を生やした中年男だった。むさ苦しいけれどルックスは悪くないし、身綺麗なので、きっとゲイだろうな、と思う。

 見た目が綺麗な男はゲイが多いのだ。ノーマルの男で凄く外見に気を使っているというケースは余りない。それこそ、侯爵様のような人種くらいだろう。

「ええ大丈夫ですよ。」

 私は愛想良く笑って英語で答える。城壁は低いので、反対側の人の背中にぶつかることもある。荷物などを背負っていれば大いにあり得る話だ。

「観光ですか?」

 背中合わせだったはずなのに、相手がこちらを向いて話しかけてくる。

「ええ。初めてスコットランドを訪ねたの。素敵な所ね。」

 ヒカルがシャッターを押している間暇なので、適当に相手をした。

「よかったら、案内をさせてくださいませんか?お一人でのご旅行は物騒です、私はガイドの資格も持っている。」

 おや、ナンパか。あるいはナンパに見せかけたガイド詐欺だろうか。

 観光地には詐欺や窃盗などの犯罪者が出没するので、警戒する。

 特に外国人は狙われやすい。愛子は在英10年を超えているけれど、見た目は東洋人だからカモだと思われることが多いのだ。

 すっとその場を離れようと身体を浮かせたとき、

「ママ!」

 ヒカルが飛ぶようにやってきて母を呼んだ。

 警戒心も露わに、ナンパしてきた中年の男を睨み付ける。

「連れが来たので、失礼。」

 愛子が息子の腕に手を絡めたのを見ると、髭のナンパ男は呆気にとられたように口を開けた。

 似ていないので親子だと言うと驚かれるが、ヒカルが黒髪で黒瞳のためか、すぐに信じてもらえる。クォーターの外見は便利だ。

「もう、アイコは。またあんなところでナンパなんかされて!」

「ちょっと背中がぶつかっただけよ。ナンパとかないからね。」

 困ったような顔でこちらを見ている先ほどの髭の男を、もう一度きっと睨み付けたヒカルは、絡めていた腕を放し、母親の腰に手を回した。

「写真撮ってる間も僕から離れないで。ちゃんと付いてきてね。」

 それはちょっと面倒臭いんですけど、とは口に出さず黙っていた。

 自分は大人だから。母親だから。子供の我儘にお付き合いしますよ、しますとも。たとえ面倒臭くても。

 しかし腰に回された手はつねらせていただいた。歩きにくいので、却下。

 本当は手を繋いで歩くのがいいと思った。

 ヒカルが愛子の腰くらいしか身長が無かった頃、彼の手を繋いで、近所のスーパーへ買い物に行ったことを思い出して懐かしいと思ったから。

 


 お品のいい三ツ星のレストランで郷土料理を堪能した後、ヒカルと共にホテルへ戻る。

 彼が写真を整理したい、と言い出したので、愛子はラウンジで時間を潰そうとエレベーターに乗った。一緒に行く、と言い出した息子に、

「ラウンジは、午後9時を過ぎたら二十歳未満出入り禁止。一杯だけ飲んだら戻ってくるから、ね?」

と言い含めて、どうにか部屋を出てきたのだ。

 本当は、地下のバーへ行きたかったのだが遠慮した。一応親子連れなので自重してみた。

 家族旅行なのに、と責めることなかれ。せっかくウィスキーの本場に来たのにスコッチを飲まずに帰るなんて勿体無い事はしたくないじゃないか。

 昼間侯爵様と話をしたラウンジは、思ったよりも空いている。

 時間帯で変化するのか、昼間とは違う制服になったウェイターが席へ案内してくれた。

「ああ、アイコ。やっぱり来たか。お子様と一緒じゃ飲めないもんな。」

「アーサー様」

 背後の席にSPを座らせ、端末を二つテーブルに置いた侯爵様が軽く手を上げる。

「バーの方においでかと思いましたわ。」

 隣りに座るよう手招きされ、大人しく従う。その方が、SPにも都合がいいのだろう。

「地下のバーも結構いいんだけど、こいつの電波が今一つでね。・・・何飲むの。当然ウィスキーだろ?」

「水割りで。おすすめの銘柄があればそれをお願いします。」

 侯爵様はすでにグラスを空けておられるようだ。テーブルの上には空っぽのグラスが置いてある。

「アイコは、かなりイケる口じゃなかったっけ?」

「ええ。強い方ですよ。ご馳走していただけるなら、飲み比べますか?」

「飲み比べに飲むには勿体ない味だよ。楽しもう。」

 侯爵様は開いていた端末を二つとも閉じて、ウェイターを呼ぶ。


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