第10話 日常から離れて


 グラスを合わせて乾杯する。

 厚めのガラスで作られたグラスは、ぶつかった音も氷の音も響きがいい。

 スコットランドでは汗が垂れ流しになるほど暑くなることは稀だ。それでも夏は涼し気な音に心が癒される。

「久しぶりに会ったけど、ヒカルは随分でっかくなった。」

 最後に会ったのは3年前くらいだろうか。ヒカルはその頃よりもさらに大きくなっている。侯爵様がしみじみ言うのも無理はない。

「ミスズもすっかり変わりましたよ。」

「知ってる。ついこの間会ったから。偶然だったんだぜ?ホラ、俺んとこサッカーのチーム持ってるだろ?たまたま練習を見に行ったらさ、ミスズが来てたんだよ。」

「まあ。そんなこともあるんですのね。」

 ありえない話ではない。

 ミスズはスポーツトレーナーを目指している。元々は女子サッカーのプロを目指して、二年前に足を故障するまで選手として活躍していた。19歳未満クラスのサッカー選手では有望と言われていたので、プロのチームからいくつか声がかかっていたくらいなのだ。

 しかし、運動選手と言うのは怪我との戦いでもある。ミスズも結局膝を壊して、現役選手を諦めたのだ。その後はトレーナーになることを夢見て勉強中だ。

 彼女の母親もスポーツトレーナーだった。血は争えないものだな、と思う。

 そんな彼女が、侯爵様がオーナーであるサッカーチームへ観戦に行っていたとしても何の不思議もないし、偶然そこに居合わせた彼が彼女と会うのもおかしな話ではなかった。

「彼女資格取れたら、ウチのチームで雇ってもいいなと思って。」

「それは有難いお話ですけど、ちゃんと試験に合格しないと。」

 くすくすと笑ってウィスキーを口に含んだ。侯爵様の前なので、一応上品に振る舞う。飲み潰れてしまえば、その限りではないけれど、そこまで飲むつもりはなかった。

 間接照明の淡い光が、グラスの氷に反射する。時折背後で雑音のような物音が聞こえるのは、彼のSPが、護衛するための機器を使っているためだろう。

 聞こえるか聞こえないか程度に絞られたボリュームで流されているのは、ジャズだろうか。

 こういう雰囲気を味わうのは随分と久しぶりだ。

 子供の奇声や騒ぎの聞こえない空間。明日の仕事や炊事の事を考えない時間。

 そんな時間を、すっかり忘れていた気がする。

 品のいいウェイターが静かに寄ってきて、つまみの皿を置いていく。クリームサーモンやら生ハムの葉菜巻やらが綺麗に飾り付けられている。

 隣りには、スーツ姿の、大人の男だ。スーツを着崩した格好のアーサー・ユーフューズ・ティル侯爵は、愛子より二つ年下である。それでも十分に色っぽくてこの場に相応しかった。

 比べて自分の野暮ったい事。ヒールを履き、化粧してワンピースを着てはいるけれど、それはあくまで母親としての身支度だ。

「あんたは、昔からちっとも変わらないな。」

 彼が軽く金髪をかき上げて、ソファに凭れる。小さくはないソファが、軽く軋んだ。

「そんなことありません。子供が育った分、すっかり老け込みましたよ。」

「いやいや、相変わらず美人だ。双子だって鼻が高いだろう、若くて美人のママだってな。」

「侯爵様は変わられました。」

「変わったなぁ。」

「随分丸くなられた。それに、日本語もこんなに流暢になられました。いつのまにお勉強なさったんですの。」

「お金を積んでちょいとスピードラーニングをね。・・・最初は日本語なんか覚えるつもりなかったんだが、色々と必要になっちまって。」

「お仕事、手広くなさいましたものね。あんな極東の島国なんか相手にするほど。」

「そうそう。相手を口説くには、やっぱり相手の母国語で話す方が何かとイイ。そうだろう?アイコ」

「おっしゃる通りですわ。」

「昔、俺がアイコを口説いた時も言われたよな。『英語で口説かれてもなびかない』って。」

 小さく吹き出してしまう。侯爵も笑った。

「そんなことも言いました。懐かしいわ。」

 まだ若かった頃、何故か侯爵が愛子に言い寄ったことが有った。今思えば、初恋に破れた自分に同情してくれたのだろう。

 彼の弟のアーサー様に、揺らがなかったと言えば嘘になる。当時は今よりももっと似ていたから。

 でも、愛子はアーサー様の甘い言葉にひっかかることはなかった。

 だってその頃すでにアーサー様には現在の奥様である婚約者がおられたし、彼は女好きだったし。

「今ならどう?これだけ話せれば口説かれてくれる?・・・に。」

 グラスから顔を上げる。

 アーサー様は、じっと愛子の方を見つめていた。あの人と同じ青い瞳で。

 わざわざ声音や口調、そして一人称までも、あの人と同じに変えて。器用な彼は、記憶の中の彼そのままを見事に真似して見せる。

 その姿は、ちょうど彼が亡くなった頃の年代と同じくらいに見えるのだ。

 少し掠れた声に優しい口調、『僕』という一人称。顔はそっくりだ。

 二度と会えないはずのあの人が、傍らにいるような錯覚を起こさせる。

「ね、アイコ。君は昔とちっとも変わらない。綺麗だよ。イケナイとわかっていても、僕は君に惹かれてしまうんだ。」

 目だけでこちらをみていた侯爵様は、背もたれから身を起こし、ゆっくりと体ごとこちらを向く。

「君に触れたいよ。君に飢えてる。どうか、アイコ」

 彼の左手が、愛子の手を握った。

 まるで思いつめたような表情のアーサー様が、顔を近づけてくる。












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