第8話 あの人の弟と言う人


 駅を出ると快晴の空が迎えてくれた。

 曇天のロンドンから出てきた二人にとっては何よりの歓迎だ。夏のスコットランドはいつもこんな風に天気がいいのだろうか。

 駅に常駐するタクシーへ足を向け、ホテル名を告げると強い訛りのある英語で歓迎の言葉を述べて荷物を運んでくれた。

「この季節は案外お客様が多いんですよ。昨日も、有名な方がレジデンスへいらしたとかで、随分沸いております。」

 夏は旅行のシーズンだ。勿論このスコットランドも例外ではない。逆に真冬のスコットランドに来たがる観光客はかなりの通だろう。そして、自分たちはそこまで通ではない客だ。

 地元が賑やかになるのが嬉しいのか、タクシードライバーは嬉しそうに話した。

 伝統と格式を感じさせる立派な建物を前に、軽く口が開いてしまう。星が三つも四つもつくと言われる最高級クラスのホテルのエントランスは、まるで宮殿のように広い。きらびやかなのに少しもケバさがなく、地味なのに少しも野暮ったくないインテリア。優雅に歩くホテルマンたちに、セレブらしい客層。

 一体一泊いくらなんだと思うと再来月のカード引き落としが怖くなった。



「アイコ、ヒカル!こっちだ!」

 よく通る声が響いた。

 聞き覚えのある声に眉を寄せる。息子を振り返ると、困ったような顔で目を泳がせていた。

 ラウンジでこちらに向けて手を振っている金髪碧眼の美丈夫には、見覚えがある。

「アーサー様!何故こちらに?」

 声を上げながら、スーツケースを引き摺ってこちらから寄っていく。

 先日ミスズが端末の画面で見せてくれた番組そのままに、ユーフューズ・アーサー・ティル侯爵がにっこりと笑って手招きする。

 近寄っていくと、ラウンジの別のソファにはSPらしい男が二人座ってこちらを窺っていた。間違いなく侯爵本人だ、と確信する。

「久しぶりだなアイコ。ヒカル。まあ座れよ、なんでも好きなもの頼んでくれ、御馳走するから。」

「列車の中でたらふく食べて来たので結構ですわ。どうなさったのですか、こちらに何か御用でも?」

 陽気で太っ腹な侯爵は甥っ子とその養母に寛大だ。

「うーん・・・、用っていうか、その、ね。」

 愛子が本革張りのソファに腰を下ろすと、侯爵様も向かいに座る。ヒカルも腰を下ろした。

「どうせまた浮気がバレて、奥さんの雷が怖くて避難しに来たんでしょ、叔父さん。」

 ミネラルウォーターを二つ注文したヒカルが横目で叔父を見る。

 鋭い甥っ子の指摘は、どうやら図星らしかった。侯爵様は二の句も告げずに硬直する。

「まあ、またですか。アーサー様も懲りませんね。あんな素敵な奥様なのに、呆れますわ。」

「そう言うなって。久しぶりにアイコにも会いたかったんだ。甥に会うってのは立派な口実になるからさ。アンジェも文句が言えないし。」

 いけしゃあしゃあと口実を並べる侯爵閣下は、英国屈指の実業家であり、由緒正しいお貴族様である。唸るほど持っている莫大な財産を思えば、気まぐれに地方の高級ホテルへお忍びでおいでになることは、簡単な話だ。

 浮気に怒る奥さんよりも、今回の旅行の請求書が怖い愛子は、冷たい眼でヒカルの叔父を見た。

 女好きな侯爵様は、オペラ歌手でもある著名な奥さんが怖くて仕方ないのだろう。だったら浮気なんぞしなきゃいいのに。

「そんな目で見るなよアイコ。ちょっとの間、匿ってくれ。アンジェがツアーに行くまでの間だけでいいんだ。お詫びに、ここの支払い全部持つから。」

 浮気しまくる女好きのくせに、年下の妻の尻に敷かれている侯爵様は、申し訳なさそうにこちらを見る。

 しかし、支払いを持つ、という条件には心動かされた。

「仕方ありませんね。今回だけですからね?」

「ありがとう!助かるよ!」

 大仰に嬉しがって見せ、甥っ子の養母をぎゅっと抱きしめてハグする。大きな音のする両頬のキスも忘れない。オーバーアクションな彼は、本当にイギリス人なんだろうかと、時々疑問に思うくらいだ。そのまま愛子の肩を抱いて親密そうにソファへ座ると、ヒカルがさっきの愛子よりもさらに冷徹な目つきで叔父を睨んでいた。

 甥の氷点下に至るような視線に気付いた叔父は、にやっと人の悪い笑顔を浮かべて愛子さらにを引き寄せる。顔がぶつかりそうなくらい。

 間近で見るアーサー様は、兄弟なだけに、あの人に本当によく似ている。性格はかけ離れているけれど、柔らかそうな金髪と、真冬の空のような青い瞳は、当時の愛子を随分惑わせた。どんなに似ていようとも、結局は別人なのだと思い知っただけだが。

「それで?どこに行く予定だったんだ?城か?宮殿か?」

「エディンバラ城です。」

「王の玉座にはいかないのか?俺の椅子だぞ?」

 くすっと笑う。

「侯爵様も、アーサーですものね。」

 陽気な彼はお喋りも上手だ。女好きなだけのことはあり、女性を楽しませる術を知っている。

「ママ!」

 ずっと黙っていたヒカルが、突き刺すような声で呼んだ。

「チェックイン、するんでしょ。もう、行こうよ。」

「あ、ええ、そうね。それじゃ、アーサー様。今回の滞在の件は黙っておきますから。」

 侯爵様の腕からするっと抜け出して立ち上がった。

 慣れたものなのだ。アーサー様はいつもこの調子なので、どうやって逃げるべきかもわかっている。

 挨拶をしてラウンジから出ようとすると、もう一度声がかかった。

「ヒカル!」

「・・・なんでしょう、叔父さん」

「まぁ~だ、ママなのかぁ?」

 にやつきながらからかうような声で言う侯爵様。

 年頃の息子をあまり刺激しないで欲しい、という本音は飲み込む。

 言われたヒカルは、珍しくも真っ赤になった。子ども扱いされたことが悔しかったのだろう。

「18にもなってそんなにのんびりしていると、トンビが油揚げ浚ってっちゃうんだぞ。知ってるか?この言葉。日本の諺なんだぜ。」

「知りませんよ。生憎、日本語にはそれほど詳しくないものでね。失礼します。」

 品のない笑い方でヒカルと愛子を見送った侯爵様に対し、ヒカルはこっそり舌を出して見せる。

 フロントでチェックインを済ますと、一度荷物を置きに部屋へ行くことにした。ボーイに頼んで荷物だけ届けて置いて貰えるけれど、侯爵様とやりあったせいか妙に疲れたので少し休みたくなったのだ。


 可愛らしいベルボーイがスーツケースを運び込んでくれたのでチップをはずむ。まだ若く見えるそのボーイは嬉しそうに笑って静かに部屋を出て行った。

「全く、なんなんだあの人は。」

 鍵の閉まる音がするまで、ずっと黙りこくっていた息子が、堰を切ったように喚きだす。広い室内を歩き回る様子は、動物園の檻の中の動物みたいだ。

「せっかくアイコとゆっくりしようと思ってきたのに、邪魔しやがって。浮気して女房に怒られるのが怖いから匿ってくれ、だと?脳みそわいてんのか。」

 揶揄われたことがよっぽど腹に据えかねたのだろうか、常にない言葉遣いで叔父を罵倒する。

 中々普段は見られない貴重な場面なので、愛子は大きなベッドに腰を下ろして、ヒカルが激昂する様子を物見遊山で見つめていた。

「アイコもアイコだよ!なんであんな奴にベタベタさせてんだ!」

 するど、同調しなかったのがまずかったのか、お鉢がこっちに回ってくる。

「え、わたし・・・?」

 とんだとばっちりである。

「あんな女好きの言う事なんか聞くことないんだ。」

「・・・まあ、でも、叔父さんだし。古い友達でもあるから」

 それに、旅行費用も持ってくれるって言うから。

「好きなの?叔父さんのこと。・・・僕より父さんに似てるから?」

「どうしてそう発想が飛躍するかな。ママは叔父さんとは古い友達で、叔父さんはああいう人だから、ちょっと懐っこいだけなのよ。貴方のお父さんに似てるか似て無いかは関係ありません。」

 それに何度も言っているように、侯爵様には素敵な奥様がおいでなのだ。自分の出る幕などない。


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