猪を見たオハナシ

 何年前だったか。まあ五年も十年も、ということはない。

 そこは西日本の山地。少し行けば、住人が居なくなって草に埋もれていく村があるような場所。


須能すのうさん、仕事は慣れた?」

「うーん、なんとか。右往左往してやってます」


 その日は職場のレクリエーションで、キャンプに行っていた。

 夕食が済んでしばらく。飲み物だったか、おつまみだったか。何だか足らないと言うので、同僚の男性である羽田はねだ(仮名)さんと買い出しに出た。


「ははっ。それでも出来てるなら凄いよ。そのうち、何も考えなくても出来るようになるって」


 ミニバンというのだろうか。背が高めだけど、全体的にはコンパクトな車。

 羽田さんも私もお酒が飲めないので、十キロ以上も離れたコンビニまで行く要員には、ちょうど良かった。


「それでいいんですか?」

「あはは、良くないね」

「あははっ」


 私がまだその職場に慣れないからか、珍しく羽田さんから話を振ってくれた。普段はあまり、自分から発言する人ではないのに。

 それはともかく、信号もない一本道だ。十キロを超える道のりにも、それほど時間はかからない。

 他愛ない話をしているうちに、「あれ、もう?」という感覚で着いてしまう。


 せっかく来たのだからと、結局はビールもおつまみも。カップラーメンなんかも買ったように思う。

 そのときになんの気なく見た時計は、午前零時を過ぎていた。


「須能さん。動物って好き?」


 コンビニを出て、羽田さんが唐突に聞いた。

 まあ、動物は好きだ。もふもふしたのは特に。


「え? ええ、好きですけど」

「猪は? 見たことある?」

「なくはないですけど、あまりじっと見たことはないですね」


 私が住むのは地方都市なので、市街地から数キロでも猪が住む山はある。でもさすがに、街のど真ん中には出てこない。


「ウリ坊は?」

「居るんです?」

「うん、たぶん」


 ウリ坊は、まだ小さな猪のこと。その時期に見える身体の模様が、瓜に似ているからだそうだ。

 大人の猪も、見た目には可愛い。暴れたりするのは、困るけれども。それが子どもを連れているとなると、可愛さが天井知らずだ。

 もちろん怒らせないようにしないといけないけれど。


「見られるんです?」

「運が良ければね。行ってみよう」


 山地の只中とは言え、来た道はセンターラインもある普通の道だった。

 でも帰りは、本当に山の中という感じの狭い道だ。もしも対抗車が来たら、すれ違う場所を考えないといけないような。それでも舗装はしてあるだけ、いい道なのかもしれない。


「この辺り、詳しいんです?」

「まあね。実は実家が、さっきのコンビニの先にあるんだよ」

「そうだったんですね。なるほどです」


 そちらを通って帰っても、時間はそれほど変わらない。羽田さんが太鼓判を押すので、私は安心してウリ坊に期待を膨らませた。

 木の枝が空を隠す道が続いて、ときには葉っぱが車の側面を撫でる。それだけでも、ちょっとしたアトラクション気分だ。


 山の上だから、景色のいいところもあったりするのかなとか。そんな期待は全くなかった。本当にずっと木のトンネルが、蛇行して続くばかりだ。


「あっ」


 羽田さんは車の速度を緩めて、ライトを暗くした。「どうしたんです?」と聞いても、「えーとね――」と何かを探すようにして答えてくれない。

 ウリ坊が居るのかと思って探してみても、私には何も分からなかった。


「あ、出てくるよ」

「ウリ坊ですか」


 車は完全に停車した。エンジンも止めて、ライトが消される。

 羽田さんが指を向けているのは、すぐ先の藪だ。たしかになんだかそこだけ隙間が空いていて、これが獣道というものかなと思う。


 それから数秒。藪がガサッと動いて、猪が出てきた。それは大人の猪で、車のすぐ前を横切っていく。

 その後ろを、ウリ坊が二頭。思ったよりも大きかったけど、動きはまだちょこちょこと、ぎこちない感じもする。


 ――おおぉぉぉ、可愛い。

 思わず口に出そうとして、堪えた。

 いや別に車の中に居るのだから良かった気もするけど、黙っていた。


「見せられて良かったよ」


 親子が通り過ぎてすぐ、羽田さんが声を出したので驚いてしまった。

 これにも私は、頷きだけで返してしまう。変な人だと思われたに違いない。


「じゃあ……」


 じゃあ行こうか。そう言おうとしたのだろう。羽田さんはライトを点けて、エンジンをかけようとしたところで動きを止めた。


 ほんの数秒前に猪たちが出てきた場所が、真っ黒に染まっていた。

 闇に慣れた目には枝葉の区別がつくようになっているのに、そこだけ描き忘れたみたいに真っ黒だ。

 何か大きな物体のシルエットだと気付いたのは、動いているからだ。やはりウリ坊たちと同じように、車の前を横切ろうとしている。


 これは何なのかとか、そんなことは考えられなかった。

 恐怖なのかもしれないし、興味だったのかもしれない。あるいは他の何か、魅了とかかも。

 とにかく私の目は、その影から離せなくなった。


 車の前に来たそれは、たしかに猪だった。実は豚だとか、イノブタだとか、間違っていてもその程度だ。


 私たちは車に乗っている。

 その猪は、車の前を通っている。

 猪の脚は、半分ほどがフロントガラスの下辺に隠れて見えない。


 おかしい。猪の背中が見えない。

 私は助手席のシートに深く腰かけていた。その位置から、猪の背が見えなかった。

 フロントガラスの上辺に遮られていたから。


 それはつまり、この猪が軽自動車サイズとは言え、車よりも大きいということ。

 襲われたらひとたまりもないとか。こんな猪が日本に居るのかとか。そんなことを考える余裕はなかった。

 きっと、見蕩れていたというのが正しいと思う。


「須能さん……見た……?」

「見ました――」


 猪が通り過ぎて、大きな枝が目の前に落ちた。きっと背中でひっかけたのだろう。

 その音で我に返り、羽田さんが聞いた。

 そこからは無言でキャンプ場まで帰って、何だか普通に歯磨きをしたりして眠った。


 翌日。

 羽田さんとその話はしなかった。もちろん他の人にも。でも帰り道、再びその道を通ってみた。前の晩とは反対からになる。

 明るい中では、幾分か周囲が分かる。どうやらそこは、山頂に近い。


「ここだったよね」


 その道を通ってみようと言われて、やはり夢じゃなかったんだとは思った。

 そしてまた場所を聞かれて、私は振り返ってみる。後ろに見える道の形や、特徴的な木の形。

 たぶん昨夜の場所だろう。景色は似たような場所だと言われれば違うと言い切れない。でも何より路上に、昨夜折れた枝が転がっている。


 場所に関する記憶まで、羽田さんと一致していると分かった。だからあの猪は、何かの見間違いとか幻とかではない。

 それから何人かにその猪のことを話したけれど、全く信用されなかった。

 もしかすると山神さまとか、そんな存在だったのかもしれない。

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