銀狐

 天狐が死んだと聞かされた時は俄には信じ難く耳を疑ったが、慣れ親しんだ気配がどこにもないと分かるとようやく心が事実を受け入れ始める。心中だったそうだ。長年連れ添った狐も一緒に逝ったらしい。

「……はぁ、せめて死ぬ前に手紙くらい残してあっても良かったのに。勝手に死んだんじゃ任せた御隠居様も悪く言われてしまうよ」

「銀雅様……寂しいのは分かりますが、もう訃報からだいぶ経ちますし、いい加減立ち直ってください」

 主人が好む薄めの茶と一緒に懐紙に包んだ金平糖を差し出しながら、従者の狐は呆れ顔をしている。御隠居様と呼ばれているのは、先代の天狐であった珠枝たまえだ。

「冷たいなぁ、柳丸やなぎまるは……あの白が自死を選ぶなんて信じられるかい? 愚痴の一つや二つ、言いたくなるだろう」

「まぁそれは……確かに。人好きとは存じておりましたが、まさか人間の娘と心中しようとは思いもよりませんでした」

「そう、それだよ俺が一番気になっているのは」

 銀雅は乱雑に包み紙を解いて金平糖を口に放り込むと、一息に噛み砕く。いつも飄々としているくせに、今日の彼は随分と機嫌が悪い。次々と男の口の中へ消えていく金平糖を見ながら、おこぼれは貰えなさそうだと柳丸は内心少しだけ残念に思った。

 銀雅の気に入りでもあり、珠枝からも目をかけられていた白のことは柳丸もよく知っている。美しく強い白狐であった。早くから頭角を現し、天狐の地位に登り詰めた彼を羨み憧憬を抱く者は多いが、何かと人間に関わりたがる白の態度に不満を訴える者も少なからず存在した。例えば、京を中心に暗躍していた黒狐こくこの兄弟などは特に顕著だ。弟の花墨かすみは健在だが、兄の黒雨くろさめが死んでからは目立った悪行は聞こえてこない。柳丸自身は兄弟どちらとも直接の面識はないものの、銀雅が時々話題に出していたこともあり、黒雨についてもいくらか知っている。

「仮に人間に惚れたとしても、いきなり心中は考えないだろう? 何かきっかけがあったはずだ。天狐の地位を放り出すに値する理由でなきゃ俺は納得できない」

「銀雅様は白様を好いておられましたから、なおのこと怒りが募るのですね」

「……それは嫌味かい、柳丸」

「いいえ滅相もない。失うには惜しい方でしたので、理由は僕も気になります」

「たかだか人間の娘と狐一匹で釣り合う命じゃあないよ。ツネを置いていかなかったのは白らしいなと思うけれど」

 数多の妖狐を統べる天狐が突如空席になったのだ。先代の珠枝が一時的に返り咲くことで事なきを得たが、そうでなければ天狐の地位を巡って大混乱が生じていたであろうことは想像に難くない。一部の例外を除いて、集会に参席する妖狐たちは長い時をかけて力をつけ、より上の地位を狙っている。最も格が高く強い者が天狐に選ばれるからこそ秩序が保たれてきただけであって、上に立ちたいのは誰しも同じだ。

「珠枝様は一度退いた身、本来なら少なくともあと数百年は白が務めるべきだった」

「……銀雅様は、御隠居様の決定が不満なのですか?」

「当然だ。未雲みくもは九尾どころか今の俺と同じ八尾にも至らない。強いだけが長の資質ではないと珠枝様は言うけれど……あの子、俺の魅了に簡単にかかるんだよ」

 白には一度だって効いたことはない。心から惚れていると囁いても、まるで相手にしてもらえなかった。しかし、だからこそ魅力的だった。天狐の挙動は下手をすれば種族全体の威信に関わる。そう易々と一介の妖に絆されるようでは困るのだ。普段は素っ気ないくせに、いざ近付くと正面から見つめるだけで頬を赤らめる未雲の態度が銀雅は気に入らない。

「案外、本当に銀雅様に惚れていたりして」

 湯呑に茶を注ぎながら冗談めかして呟いた柳丸の言葉を、有り得ないと銀雅は一蹴した。側仕えの座はツネが独占していて相手にされていないのは傍目にも明らかだったが、未雲は集会の時もずっと白を気にしていた。好いている相手は明白だろう。

「ともかく、未雲は天狐を務めるには役不足だ。少なくとも俺はあの子に従うのは不安しかないね」

「ならば御隠居様にそう進言すれば良いではありませんか。ご自分の方が相応しい、と」

「……駄目なんだよ。俺では」

「何故です? 一体何が不足しているというのですか? 白様と比べておられるなら、その必要はないと思いますが」

「柳丸、お前……」

 畳み掛けるように反論した柳丸に、銀雅は驚きの表情を浮かべる。その主人の反応を見た従者は、はっと口を覆った。

「申し訳ございません。つい」

「……いや、俺も余計なことを口走った。お前の気持ちは素直に嬉しいよ。この話はいったん終わりにしよう。出かける用事があったのを忘れていた」

 残りの茶を飲み干すと銀雅は立ち上がった。傍らに置いていた毛皮を肩にかけ直し、柳丸が湯呑を片付けるのも待たず戸を開けて外に出る。

「夜には戻る。柳丸は良い子で留守番していてくれ」

 そう言うと瞬きの間に姿を眩まし、銀雅様、と呼びかけた柳丸の声は虚空に消えた。


***


「未雲、こちらへ」

「はい」

 珠枝に呼ばれて、女の白狐が進み出る。四つ指ついて座礼をすると、未雲は金の瞳で真っ直ぐに珠枝を見つめた。

「やはり、意志は変わらないか」

「……はい。幾度も考えて悩んで参りましたが、やはり私では役不足にございます」

「何故そう思う?」

「私は七尾にはなりましたが、武芸も妖術も際立ったものはございません。単純な強さだけで言えば、あの荒くれ者の黒狐にも劣ります。皆をまとめる自信が持てませぬ」

「力だけが天狐の資質ではない……が、無理強いするわけにもいくまい。では、誰が相応しいと思う」

「白様亡き今、器量と力を兼ね備えた者はそう多くありませぬ。霜眉そうび様や銀雅様など宜しいかと。お二人とも美しく、文武ともに優れていらっしゃいます」

「ふむ……」

 未雲の答えを聞いて、珠枝は思案顔で愛用の白い扇子をぱちりと閉じる。霜眉は北国の妖狐をまとめる八尾の白狐だ。決して温厚とは言い難いが仲間からの信頼は厚く、おそらく天狐となってもしっかり狐たちをまとめ上げるだろう。それに対して、銀雅は東の小地方を仕切る銀狐で、人と無益に争うことを良しとしない白と比較的近い考えを持っている男である。少し前に八尾になった。飄々としているが実力は確かだ。いずれにしても天狐候補として挙げるには妥当な人選と言えるが、珠枝は首を縦には振らなかった。

「霜眉か、たしかに統率力は目を見張るものがある。性格の割に仲間内では揉め事は少ないと聞くが……あれは一族を撃ち殺した人間を憎んでいるはず。人との折り合いをどうつけるかが課題であろうな。その点、銀雅は心配要らぬが……」

 珠枝は言葉を濁す。妖狐の中で圧倒的に多いのは白狐である。黒狐や銀狐は少数派、その中でさらに穏健派となると数えるほどしかいない。それだけならば問題は多勢を統べるのに心許ないという点に終始するのだが、銀雅の場合は問題点がもう一つある。従者として側に置いている柳丸の存在だ。

「あの子がいる限り、銀雅は……」

 と、言いかけた珠枝の言葉を遮るように怒号が聞こえた。声はそう遠くない。

「何事でしょうか」

「この声は霜眉だな。噂をすれば何とやら、か」

 床板を軋ませながら荒々しく歩く足音が、男の苛立ちを伝えてくる。珠枝は未雲を庇うように自分の後ろに立たせると、乱暴に蹴り開けられた扉の向こうから現れた男を見据えた。

「全く……もう少し落ち着きのある振る舞いが出来ぬものか」

「はっ、足蹴にした程度で壊れるような安い造りなら寝所の安全も確保できんだろうよ」

 一度退いたとはいえ、珠枝の力はこの男より上である。しかし、霜眉は彼女の圧を物ともせず、不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。精悍な顔立ちの中で、右眼にかかるように走った刀傷が目立つ。

「天狐を前にしてその態度、相変わらず不遜な男よ。それでいて慕う部下がいるのが不思議でならぬ」

「間もなく挿げ替わる首に売る媚びなどない。上に立つ者に求められるものとは即ち強さ……圧倒的な強者の前では誰しもが首を垂れる」

 暗に珠枝の力は傅くに値しないと言っているようなものだ。不愉快そうな顔を取り繕う素振りすらない。

「つまり、それが専らの不満の種か。ならば今日ここへ参ったのは間が良かった」

「何……?」

 霜眉は不可解だと言わんばかりに眉間の皺を深くする。珠枝は真っ直ぐ男を見つめて告げた。

「未雲は辞退するそうだ」

「……ほう、つまり天狐の座は再び空席に戻ったというわけだな」

「あぁ。そして、未雲は代わりの候補としてお前と銀雅の名を挙げた」

 銀雅の名が出た瞬間に霜眉の目つきが鋭くなる。二人の関係は決して良好とは言えない。未雲は珠枝の後ろで固唾を飲んで見守っていたが、意外にも霜眉は声を荒げることはなかった。

「ふん……あいつと並べられるのは癪だが、天狐の地位が手に入るのならそれも甘んじて受けよう。せいぜい寝首を掻かれないよう気をつけることだ」

 それから、と言って霜眉は懐から書状を取り出し珠枝に向けて放った。

「これは?」

「銀雅が寄越した書だ。全くどこで調べたのだか……西の黒狐かすみの動きが活発になってきている。まだこちらでは見かけていないが、近頃は江戸にも出没しているらしい」

「……!」

「その顔を見るに知らせはここへは届いていないようだな」

 未雲は両手で口元を覆い、珠枝は表情を険しくする。花墨は兄の黒雨が死んでからここ数十年はなんとも大人しいものだった。そのため警戒が緩められていたのだが、根城を飛び出して方々で悪行を繰り返しているのであれば放っておくわけにはいかない。

「……花墨は何故、江戸へ」

「さぁ、そこまでは書いていなかった。俺としては奴が突然こんなものを寄越してきたことの方が気に障るが」

「送り先がお前というのは確かに不自然ではあるな」

「本来このような内容は種族の長たる天狐に知らせるべきもの。奴も間違えて俺に送るほど阿呆ではないはず」

 つまり、銀雅が霜眉に花墨の動向を知らせたのは意図的ということになる。自分の領域を侵される可能性があるとなれば霜眉も動かざるを得ない。しかし警戒を促すにしても、まずは天狐に知らせるのが筋のように思える。

「ともかく書は届けた。黒狐については、縄張りを荒らされない限りは俺は関与しない。そちらで勝手にやれ。もっとも、天狐の座が回ってくるなら話は変わるがな」

 そう言うと霜眉は踵を返し、来た時と同じように荒々しく扉を蹴り開けて去っていった。未雲は珠枝の後ろで詰めていた息をほっと一つ吐く。実力は折り紙付きで尊敬もしているのだが、いかんせん霜眉の態度は威圧的で未雲はいつも萎縮してしまう。裏表はあまりなく、冷静さと律儀さも持ち合わせているが、こと人間に対しては憎悪が深く、共存できるような関係を築くのは難しい。ぬらりひょん率いる百鬼夜行の方針に賛同している珠枝が霜眉を後継者に選びにくいのは道理だ。

 では銀雅は、と問われればこちらもまた異質と言わざるを得ない。見た目には穏やかでいつも笑みを浮かべていても、その顔の一枚下には得体の知れない何かが渦巻いている。未雲にも、そして珠枝にも彼の真の胸中を推し量ることはできない。変化や狐火を得意とする妖狐が多い中で、銀雅は魅了をよく使う。言葉で意識を奪い目を合わせることで相手を意のままに懐柔する、言わば催眠術の一種だ。無論、格上には通じないこともあるだろうが強力な妖術である。見つめられると気が遠くなる、とは未雲の言だ。そういうわけで未雲は普段出来るだけ銀雅との接触を避けている。

 どちらもやや癖のある狐だが、それでも彼らを天狐候補に挙げたのは、単純に未雲よりも格上で統率力のある者が他に思いつかなかったからだ。それぞれの領地では上手くやっているようだし良い案だと思ったのだが、珠枝は結論を保留とした。


***


 柳丸というのは銀雅が与えた名である。柳のようにしなやかに、強かに生きよという思いが込められている。銀雅に引き取られた頃はまだ赤ん坊で、死んだ母狐の腹から取り上げられなければ儚い命はそのまま潰えるはずだった。

 柳丸の母を殺したのは来霧≪くるむ≫という白狐である。目の覚めるような絶世の美女から腰の曲がった皺だらけの老爺まで自在に化け、時には山のような大男や小さな赤子にすら姿を変えたと聞く。来霧はとかく他人の目を欺くことに長けていた。長らく天狐になりたがっていたが、同世代の珠枝の方が長としては優秀だったので来霧が選ばれることは終ぞなかった。当然、珠枝と折り合いが悪かったのは言うまでもない。

 その珠枝が白を気にかけていると知った来霧は、白が天狐になる道を阻もうと事あるごとに嫌がらせをした。初めこそ取るに足らないものだったが、次第に被害は大きくなり、そしてついに歯止めのきかなくなった来霧は白を慕う者達を手にかけた。柳丸の母もその中の一人だった。

 来霧は一連の出来事を白の凶行に見せかけようと画策したが、珠枝の指示で来霧の動向を探っていた銀雅により、呆気なく事は明るみになった。追い詰められた来霧は首を吊って自害した、ということになっている。正確には首吊り死体を銀雅が発見しただけで死ぬ瞬間を見た者はいないが、ひとまず来霧の退場によって事態は一件落着した。

 白はというと、自分のために多くの者が犠牲となったことをひどく悔み、天狐となることに一抹の不安を抱えていた。ある日、茶飲みついでに訪れた銀雅に対して、白は珍しく弱音を零した。

「銀雅、俺は天狐に相応しくないのかもしれん」

「急にどうしたんだい、あんたがならなくて誰がなるのさ。天狐様からも気にするなって言われただろう?」

「だが、俺が選ばれなければ死なずに済んだかもしれない者たちだ」

「白でなくても同じだよ。あの女の本性は変わらない」

「……分かっている。それでも、せめてもう少し早く気付けていればと」

「それについては俺にも責任がある」

 来霧の毒牙にかかった者は人と妖を併せて十を超える。だが、白の側には大概ツネが控えており、彼が一人でいる時を見計らって事を起こし罪を被せるのはそれなりに難しいはずだった。さらに言えば、側にいたのはツネだけではない。当時の銀雅はまだ領主ではなく、事あるごとに理由をつけては白の元を訪れていた。それでも被害が広がるまで気付けなかったのだ。珠枝の指示がなければ探ろうともしていなかっただろう。

「……あの女、死体を妖術で隠してたんだ。ご丁寧に結界の中でね」

 苦虫を噛み潰したような顔で銀雅は吐き捨てた。白も厳しい表情で言葉を零す。

「悪趣味だな。死んだ者は還らないが……お前が止めてくれて良かった」

「まぁ悪いことばかりでもないよ。最後に殺された娘が身籠もっていたらしくてね。腹の子は生きていた」

 銀雅の言葉を聞いて、珍しく白が大きく目を見開いた。

「……そうか。それは、良かった。だが親を亡くした子の行き場はどうする」

「俺が引き取るよ」

「銀雅が?」

「何だい、その顔。俺にだって子狐一匹の面倒見るくらい出来る」

「……あまり邪なことを吹き込むなよ」

「はぁ?」

「近頃また人を食っているだろう。血の臭いが残っている」

 眉を顰めた白の言葉に、銀雅は肩を竦める。その手の説教は初めてではない。白に嫌われるのは本意ではないので、ひとまず口約束を交わす。

「あぁ……分かった分かった。白がどうしてもというなら柳丸が手元にいる間は大人しくしておくよ。これで良い?」

「気を悪くしたなら謝る」

「別に怒ってない。ま、ともかく柳丸のことは俺に任せて白は自分のことを考えてよ」

 じっと見つめた銀雅の瞳がぎらりと光る。かなり強めに術をかけたつもりだったが、白の反応は銀雅が期待するものではなかった。

「ところで柳丸、とは」

「……子狐の名前」

「お前がつけたのか」

「そうだよ。はぁ……相変わらずあんたには効かないねぇ」

 がくりと大袈裟に肩を落として見せるが、白の言葉は素っ気ない。

「魅了は催眠術の一種だ。敵わないと思っているから術のかかりも弱くなる」

「真面目に諭すのやめてよ自信なくすから」

「俺を相手取るのは諦めろ」

 銀雅は不満そうな顔をしたが、白が思い詰めた表情でなくなっているのを見てまぁいいかと口元を緩めた。この男には天狐になってもらわねば困る。少しでも気が晴れたのなら上々だ。

「言っておくけど、俺は本当に心の底からあんたに惚れているんだよ。だからこそ白が天狐になってほしいし、俺はそれを近くで見届けたい」

「持ち上げても何も出まい」

 熱を込めて見つめるも白の返事はやはり淡々としていた。本心からの言葉であり見返りを期待しているわけではないのだが、深入りすると墓穴を掘りそうなので下手な釈明は胸の内に留めておくことにした。

「白様〜!お食事のご用意整いましたよ」

 主人を呼ぶ声とともに襷掛けをしたツネが現れる。暖簾の向こうからは食欲をそそる良い香りが漂っていた。白は人を食わない。ツネに関しては人を襲っていた時期もあると聞いているが、白と出会ってからは側仕えとして主人に倣っているらしい。銀雅の姿を見つけると、ツネはピンと耳を立ててやや警戒した面持ちで白の側へと寄った。

「別に取って食いやしないよぉ」

 銀雅はへらりと笑ってみたが、それではツネの態度が揺るがないのは長年の付き合いで知っていた。こういう時は甘味で機嫌を取るに限る。銀雅は隠し持っていた団子の包みを丁寧に差し出した。ツネの表情が一瞬嬉しそうに緩んだのを見逃さず席を立つ。

「邪魔したね」

 また来るよ、と言い残して銀雅は肩に乗せた毛皮をかけ直し身を翻した。

「行ってしまいましたね……ささ、白様。お食事が冷めないうちにどうぞ」

「あぁ」

 短く答えて白も立ち上がる。ツネは卓に残った湯呑みと団子の包みを手早く盆に載せて主人の後を追った。


***


 来霧の一件から少し経って、銀雅が領主となった頃のことだ。京周辺で暗躍する黒狐の噂を聞くことが増えた。獄炎と渾名される花墨はそれなりに名が知られていたが、兄の黒雨については狐衆の中でもたまたま花墨と関わりのあったごく少数の者しか存在を認知していなかった。天狐の珠枝でさえ詳しい情報は持たず、白に至っては存在すら知らないようだったので、銀雅は優位に立つ良い機会だと思った。興味本位というには骨が折れたが、調べてみるとどうやら黒雨は昔に負った全身の大火傷を隠しながら人に紛れて生活しているらしかった。さらには人間の娘に入れ込んでいるようだと知り、銀雅は分不相応な恋に哀れみを向けた。

「人間に、ねぇ」

 恋心を否定するわけではないが、火傷で爛れた顔を知れば拒絶されるのは目に見えている。少なくとも銀雅が調べ上げた限りでは、黒雨の素性はただの人間には到底受け入れ難いと思えた。

 彼等は狐衆の集会にも現れず、ぬらりひょんが率いる百鬼夜行の方針にも懐疑的で孤立している。白は人と共存することを望む百鬼夜行肯定派だ。銀雅も無益な争いは避けるべきだと考えているが、普通に人を食うし命を奪うことを厭わない。

「人も人を殺すんだから、他種族なら尚更仕方のないことだよね」

 世の中の大半は自分と違うものを排斥したがる。まして異種族間の純愛なぞ夢物語。

お前はそんな愚か者になっちゃいけないよ、と銀雅は健やかに狐の姿で眠る柳丸に声をかけた。聞こえているのかいないのか、柳丸はふすんと鼻を鳴らして涎を垂らしている。

「……ふはっ、間抜け面」

 座布団が汚れないように涎を拭ってやりながら銀雅は愉快そうに笑った。


 その少し後に集会があった。各地から集まった妖狐達の中にやはり黒狐の姿はなく、珠枝も噂は聞いているものの事の全容は把握していないようだった。銀雅は自分の知っていることを話すか迷ったが、不確定な情報も多くこの場は黙ることにした。

 それよりも気になったのは報告後の宴会で白がまた浮かない顔をしていたことだ。聞けば黒狐の動向が気になるらしい。そういえば黒雨が入れ上げている女は三椿屋という甘味処の看板娘で、白も馴染みの店だったことを思い出す。知らぬうちに白が黒雨と接触していたことに、嫉妬に似た黒い感情が湧いたが、グッと押し込めて笑顔を保った。

 白は京の様子が余程気になるのか、会話も上の空で注がれた酒にも口をつけていない。何となく今なら通じる気がして銀雅は白の顔を間近で覗き込んだ。急速に近付いた距離を遠ざけるように、白は体をやや後ろに引く。

「隙あり、と思ったんだけど残念」

「色好みは結構だが相手は慎重に選んだ方がいいぞ」

 選んでるよ、と蕩けるような笑顔で言ってみたが結果は同じだ。やはり何度やっても白を魅了することは出来ない。しかし、だからこそ挑みたくなる。

 もう一度試してみようかと考えていたところに、騒がしく銀雅の名を呼びながら走ってくる柳丸の足音が聞こえて、銀雅はやれやれと腰を上げた。少しは荒れた領地共々大人しくなってほしいものだ。今行くよ、と迎えれば犬のように尾を揺らしながら嬉しそうにしている柳丸と鉢合った。

「帰ろうか」

「はい!」

「元気だねぇ」

「はいっ!」

 うるさいよ、と嗜めると柳丸は口を引き結んだ。素直なのは良いところだ。二人は連れ立って屋敷への帰路についたのだった。


***


 黒雨は結局惚れた娘と無理心中したらしかった。銀雅は生き残った花墨とはそれ以来顔を合わせていない。白はその後無事に天狐の座についたが、彼もまた人間の娘とツネを道連れに心中を選んだ。

 銀雅は彼等を理解できなかった。黒雨はまだしも、白が安易に死を選ぶ理由がどうしても見つからなくて納得がいかない。きっかけは先の百鬼夜行で披露されたという無理心中の話だろうが、問題はその後だ。

(唆した者がいるはず)

 ツネが画策したのであれば自分とだけ心中できれば良く、敬愛する相手と赤の他人を結ぶ必要はない。珠枝は白を天狐に選んだ張本人だ。目をかけた期待の後継者を死なせるのは矛盾している。霜眉や未雲も白には一目置いており動機が弱い。

 そもそも白はあの日何故、蛇無村に向かったのか。心中した人間の娘は幼い子供で、銀雅の知る限り白とは何の関係もなかったはずだ。考えれば考えるほど納得できない。

だが結ばれる相手は誰でも良く天狐となった白を排除したいだけの者がいるとすれば話は変わってくる。銀雅には心当たりが一つあった。しかし少し考えて首を横に振る。

「いや、さすがにないか……」

 多くの者を欺き混乱に陥れたあの来霧は死んだ。間違いなく銀雅自身の目で死体を確認している。だが死ぬ瞬間を見たわけではない。

(とりあえず打てる手は打っておくかな)

 銀雅は古い友人を思い浮かべた。吊≪ちょう≫という名のその妖は種族で言うと縊鬼≪いつき≫にあたり、呪詛により対象を自死に追い込む能力を持っている。気配が薄くて探すのに苦労するが、格下で扱いやすく物騒な取引をするには適当だ。白と約束した手前、柳丸が手元にいるうちは出来るだけ自分の手は汚したくない。

 柳丸を留守番させ、銀雅は一人外へ出た。おそらく縊鬼本人よりも首吊り死体を探す方が早い。程なくしてちょうど飛び込んできた喰違御門での自殺騒動によって、銀雅は縊鬼が江戸にいることを知った。気配を追って寂れた牢屋に辿り着くと、縊鬼は牢の外でぼんやりと空を見上げていた。

「こんなところにいたのか」

「……銀雅」

「やぁ、吊。相変わらず幽霊みたいな顔してるねぇ」

 銀雅が歩くたびに肩にかけた毛皮がふわりと揺れる。飄々とした口振りで縊鬼の隣に並び立つと、男は笑顔で本題を持ちかけた。

「呪ってほしい奴がいるんだ。俺が殺してしまうと角が立つ。あくまで自責で命を絶ったことにしたい」

「……!」

「頼まれてはくれないか」

「お前が呪い殺したいほど憎んでいる相手があの女の他にもいるとは知らなかった」

「……天狐が死んだのは知ってるだろう?」

「そういえばそんな噂を聞いたな。だが敵討ちに燃える性分でもないだろうに」

 満月の夜に心中すると来世で結ばれるそうだよ、と銀雅は冷めた目で告げた。

「白は心中したんだ。討つ相手などいない」

「では、いったい誰を」

「……交渉成立、と判断しても?」

 ぐい、と顔を覗き込んだ銀雅は微笑を浮かべているが、視線は鋭く縊鬼を捉えている。肩につくかつかないかくらいの銀髪がさらりと揺れ、金色の瞳が怪しく光った。気圧された縊鬼が頷いたのを確認して、銀雅は笑みを深める。

「ありがとう。礼は何が良いか次会う時までに考えておいてくれ」

「……あ、あぁ」

「と言っても呪う相手はまだ決まっていないんだ。確証が得られなくてね。もしかするとあの女をまた殺さなくてはいけないかもしれない。また連絡するよ」

 銀雅はそう言うと戸惑う縊鬼の返事を待たずに踵を返した。

 

 屋敷に帰ると柳丸に出迎えられた。

「お帰りなさいませ」

「起きて待っていなくても良かったのに」

「留守を任されておりますゆえ」

「どうせなら昔みたいに元気に尻尾振ってくれても良いんだよ」

「お断りします」

 すげなく断られた銀雅は苦笑する。どんなにすました顔をしていようとも、無意識に揺れている耳が嬉しそうに見えるのは気のせいではないだろう。柳丸が本当の親を知らないことを思えば、育ててくれた銀雅に恩義を感じるのは当然のことではある。

 寝るよ、と声をかけて銀雅は一つ欠伸をした。肩にかけた毛皮を脱いで腰を下ろすと柳丸が白湯を持ってきた。夜風で冷えただろうとの配慮らしい。茶を出されることはあっても白湯は珍しく、銀雅は柳丸に問うた。

「何かあった?」

「いえ、特には」

「……そう」

 本人が言いたくないのなら無理に聞くことはしない。深くは追及せず、受け取った白湯に口をつける。体の芯から温まる心地がして気分が良い。もともと眠かったこともあり、銀雅は座ったままうつらうつらとし始める。

「銀雅様、それでは体が休まりませぬ」

「んー……わかってる……」

 口ではそう言うが、寝床へ向かう素振りは全くない。このままでは卓に突っ伏して朝を迎えてしまう、と柳丸は銀雅を引っ張ったり揺すったりして起こそうとしたが無駄な努力に終わった。結局その場で眠りこけてしまった主人をなんとか布団まで引き摺っていき、着物と床を整える。

「本当によく眠っていらっしゃる……」

 柳丸が起きている間に無防備な姿を晒すのは初めてだ。柳丸は一礼して襖を閉めようとしたが、ふとその手を止めた。銀雅が眠っていることを入念に確認して、ゆっくりと忍び寄る。一歩、また一歩。眠る銀雅をじっと見つめる柳丸からすぅ、と表情が消えた。さらに近付き、無防備な喉元に手を伸ばして。

「……」

 だが、銀雅に触れるか触れないかのところで柳丸は小さなため息をついて手を引っ込めた。自分の胸に手を当て、大きく深呼吸する。そして今度は愛おしそうな顔で手を伸ばし、額にかかる銀髪を優しく払うと軽く口付けた。

「お慕いしております、銀雅様……」

 小さく溢した柳丸の声は震えていた。

 明日は満月だ。


***


 翌朝、銀雅は妙な胸騒ぎとともに目覚めた。

「……」

 寝起きの薄らぼんやりとした頭で考えるが、うまく思考がまとまらない。外から物音が聞こえる。柳丸が庭で何かしているのだろうか。声をかけようと起き上がり、縁側へ続く戸を開けたところで銀雅はようやく異変に気付いた。柳丸の血の臭いがする。

「ッ……!」

 血の気が引く思いで、銀雅は勢いよく庭に降りた。点々と続く血痕を追うまでもなく、柳丸は庭の隅で小さく蹲っていた。血を流しているのは主に頭で、額や顔には流れた血を拭った跡がある。体は氷のように冷たく顔色が悪い。ひとまず抱き上げて部屋の中へ運び、掛けてあった羽織で包んで布団に寝かせる。傷自体はさほど深くなさそうだが、手拭いを押し当てるとじわりと赤く染まった。まだ完全には止まっていないようだ。しばらくすると柳丸は意識を取り戻したのか、ゆっくりと目を開けた。

「……何があった?」

「申し訳ありません。月を見たくなり庭に出たところまでは覚えているのですが、頭をぶつけたことも朧げで……」

「誰かに襲われたんじゃないのかい」

 ただぶつけただけにしては怪我がひどい。それこそ何度も打ち付けなければ出来ないような傷だ。不審に思い銀雅が問うも、柳丸は小さく首を横に振った。

「寝ぼけていたのかもしれませぬ。頭が痛いです……」

「そう……まぁ、とりあえずはお前に大事なくて良かったよ」

 事実確認はひとまず後回しだ。労わるように優しく銀雅に撫でられて、柳丸は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「そういえばお前が小さい時は随分走り回っていたから、生傷も絶えなかったなぁ」

「……もう忘れました」

 恥ずかしそうにしながら、それを誤魔化すように銀雅の胸元へ顔を寄せると優しく体ごと抱きしめられた。

「銀雅、様」

「……お前は急にいなくならないでくれよ」

 消え入るような声で吐き出された言葉に、柳丸は俯いていた顔を上げる。しかし、背に回された銀雅の手は迷子になった幼子を見つけた時のように力強く、それを振り解いて表情を見ることは出来なかった。柳丸は代わりに問いを投げかける。

「銀雅様は、どうして僕を拾って下さったのですか」

「今更な問答だなぁ」

「はっきりお伺いしたことはなかったと思いまして」

 教えてくださいと柳丸が言うと銀雅は一瞬考え込んだ後、ぽつりと答えた。

「白が、喜ぶかと思って」

「……それだけですか?」

「あぁ、うん。もちろん生きていたから助けたというのはあるけれど」

 騒動に心を痛めていた白に、生き残りがいたことを伝えれば少しは気持ちが晴れるかと思ったのだ。さらにその赤子を自分が引き取ることで誠意も見せられる。白にも面倒を見ると約束しているし、勝手にいなくなられると困る。そういったことを懐かしむように掻い摘んで話しながら、銀雅は小さく笑った。

 そろそろ痛みも落ち着いただろうと、銀雅が体を離す素振りを見せた瞬間、反射的に柳丸はしがみついていた。離されたくない。どこまでも、どこまでもこの男の中で重要なのは白ただ一人で、それ以外は有象無象だと改めて突き付けられた気持ちだった。柳丸は勢いのままに畳へ銀雅を押し倒した。

「ッ、!?」

 喉元に走る激痛と噴き出す血の熱さに銀雅は息を詰まらせた。滴る血で口元を汚した柳丸が舌舐めずりをしながら自分の上に覆い被さるのを視界で捉え、ようやく首に噛み付かれたのだと理解する。姿形は柳丸そのものだが、じわりと滲む気配が別人を想起させた。

「あぁ……ずっと我慢していたのに、あまりに無遠慮に煽るのでつい齧り付いてしまったではありませんか」

「お前、来霧……っ」

「僕は柳丸ですよ」

「気安く名乗るな!その気色悪い気配を忘れるわけもない」

「……あら、心外でございますわ。先程はとても優しく撫でて下さいましたのに」

 もはや取り繕う気もないのか、声色はそのままに言葉遣いが変わる。ふふ、と笑みを浮かべながらも銀雅を押さえつける手足は獲物を離すまいとする獣のように力強く、身動きが取れない。

(くそ、分かっていても柳丸の姿だとやりづらいな)

 痛みを耐えて浅く息を継ぎながら、銀雅は眼前の敵を退ける方法を考えていた。無意識に身を引いたおかげで喉を食い破られはしなかったが、完全に油断した。何故今更、だとか何故生きているか、だとかを悠長に考えている余裕はない。

「嗚呼、ずっと……ずっと、貴方を喰らう日を夢見ておりました。不細工な子狐に化けるのは癪でしたけれど、存外心を許してらしたようで。本当は昨晩殺してしまおうかと思いましたが、不本意なことに心と体がうまく結び付かないのです」

「いつから成り代わっていた……っ」

「さぁ」

「柳丸はどこだ」

「貴方が黙って喰われるのならば、無事に返しましょう」

「信用できると思うか」

 考えたくはないが、柳丸は既に殺されている可能性もある。この来霧という女狐は、そういう女だ。警戒していたのに、あっさりと騙されて組み敷かれている現状に舌打ちしたくなる。

「柳丸はこの屋敷におります」

「何……?」

「あら可哀想に……私に夢中で気付きませぬか」

 来霧は嬉しそうに、くつくつと笑った。屋敷にいるのに気配がないということは、隠されているか、死んでいるかのどちらかだ。だが死にも独特の臭いがある。そもそも来霧の言うことが真実である保証などどこにもない。殺せば柳丸の居場所が分からなくなると高を括っているのだろう。余裕綽々の態度が腹立たしい。

「お得意の隠蔽か?」

「さぁ、答える義務などありませぬ。私はただ貴方を殺す機会を虎視眈々と狙っていただけ。ようやく見せた隙を逃しはしませんわ」

「死体を細切れに切り刻んで海に沈めておくべきだったかな。重くてかなわない」

「……まぁ、口の減らない男ですこと」

 来霧は咬み傷の上から首を押さえ付け、爪が食い込むまでギリギリと締め上げた。気道を塞がれ息苦しさと痛みに呻く銀雅を見下ろして、来霧は嘲る様に笑った。銀雅は歯を食いしばりながらも、眼光鋭く来霧を睨みつける。

「嗚呼、その歪んだ顔!苦しいでしょう苦しいでしょう!」

 苦しいのは可哀想だ。助けてあげなければ。

 来霧は急に手を離して立ち上がった。解放された銀雅は体勢を反転させ、逆に来霧を後ろ手に捕らえる。当の本人は何が起こったのか分かっていないようだった。やや遅れて、魅了で操られたのだと理解する。

「……相変わらず色仕掛けがお得意で」

「お前には聞くことがたくさんある……が、まずは柳丸の居場所を教えろ」

「屋敷にいると言ったはず」

 しっかり目を見て術をかけたつもりだったが、効きが悪いのか来霧はそれ以上答えない。

(さすがにそこらの雑魚とは違うな。どうする……情報を引き出せないならさっさと殺してしまうか?ここで逃せばまた被害が出る)

 銀雅が逡巡した一瞬の出来事だった。来霧の変化が解け、別の姿に変わった。柳丸よりも体は一回り大きく、狐色の髪は美しい白髪へ。

「銀雅」

 形の良い唇から、記憶と違わぬ声色で紡ぎ出されたその三音だけで、銀雅は動けなくなってしまった。目の前にいるのは来霧だと頭では分かっているのに視界に映る姿が思考を邪魔する。

 違う、違う。白は死んだ。ここにいるはずがない。

 そう自分に言い聞かせるが、体は勝手に力を抜こうとする。やや困ったような顔で名前を呼ぶ姿に、混乱して脳がくらくらした。

 違う。騙されるな。偽物だ。殺さなくては。

「銀雅」

「やめろ!その姿で俺の名を呼ぶな!!」

「殺さないのか」

「その声で喋るな!」

「……殺せないのか」

「ッ……!」

 嗚呼、まるで白に言われているようだ。どんなに言葉と態度を取り繕っても、本能が無理だと叫んでいる。押さえつけているこの現状ですら、今すぐにでも手を離して退いてしまいそうだというのに、殺すなど出来るわけがない。

 不意に来霧が身動ぎ、緩んだ手を振り解いた。銀雅は慌てて捕まえようとするが、ひらりと躱される。器用に体を捻って抜け出した来霧は、距離を取り銀雅を見下ろした。

「銀雅」

「やめろと言ってるだろう…!」

 見たくないと言うように銀雅は顔を背ける。名を呼ばれるだけで取り乱し、敵の眼前で視線を逸らすその態度に、来霧は小さく溜息をついた。

「……本当に、白様のことを好いておられるのですね」

 ぼそりと零した言葉は白の声音ではなく、来霧の声でもなかった。聞き慣れた側仕えの狐の声だ。ハッと顔を上げれば、そこにはいつもと違わぬ姿の〝柳丸〟が寂しそうに立っていた。

「姿は柳丸のままでも、来霧の気配を見せた途端に貴方は態度を翻した。それが白様の姿ではこんなにも動揺し、冷静な判断を失っておられる。中身は同じでも差は明白です」

「どういう、ことだ」

「少々共にいた時間が長過ぎました。子供の振りもなかなか様になっていたでしょう?化けるのは得意なのですよ」

「……まさか」

「素直で従順な子供を演じ、機を見て殺すつもりでした。何も知らずに僕を大事に構う貴方が滑稽で楽しかった。ご丁寧に守っていただいたおかげで今日まで誰にも悟られることなく生きてしまいましたが」

「嘘だ、そんな」

 出鱈目だ。来霧はあの日死んだはずで、柳丸は来霧が殺した女狐の腹から取り上げられた赤ん坊で。そう、死体の腹から。

「貴方が僕を取り上げた時、母体は既に死後数日が経過しておりました」

「っ……」

「そもそも貴方が良く知る〝来霧〟ですら、本来の姿ではないのですよ。数多ある顔のうちの一つに過ぎない。〝柳丸〟も一時だけの仮の姿のはずでした」

 来霧は長く大きく深呼吸をして、いったん間を置く。

「思っていたより、心地良くなってしまいまして。有り体に言えば、いつの間にか貴方に惚れてしまったのですよ」

「……それも俺を騙すための詭弁か」

「まさか。本心でございます」

 いっそ詭弁であればどれだけ良かったか。白が心中してから、満月が昇るたびに柳丸が人知れず葛藤していたことなど気付きもしないのだろう。殺したいのに愛おしい。そんな感情を植え付けたというのに、当の本人は白に夢中で正体を疑いすらしなかった。芽生え拗れたこの想い、どうしてくれようか。感情も化けて上塗りできれば良かったのに。

「僕を殺しますか」

「……その前に聞きたい。白を唆したのはお前か」

「心中を唆したかという問いならば、答えは否、です。しかし蛇無村のことは話しました。様々な土地を見て回りたいのだと、豊穣の祈りを活かせる場所はないかと。天狐として出来ることを考えておられるとツネから聞き及びましたので」

 蛇無村は海に近い村である。村に流れる川から引いた水源の利権を巡って村人たちは対立しており、下流では塩害に遭っている一家がいた。来霧は記憶に残っていたその村の存在を白に伝えただけで、そこで心中に至ったのは偶然だ。ツネが初め同行していなかったのは、まずは偵察のつもりだったからだろう。

「白様は天狐としては優し過ぎました。黒狐の件でもたいそう傷心しておられましたし、人と妖が共存する理想の世に必要なのは強大な力だけではないと痛感していたのでしょう。しかし何故あの方が心中を選んだのかは、僕には分かりかねます」

「お前が白を殺したわけではないんだな」

 重ねた銀雅の問いに頷くことは簡単だが、来霧は少し逡巡した。彼の世界は白を中心に回っているのだと何度でも突きつけられる。

(……もし殺したのが僕だと言えば、貴方は復讐するのだろうか)

 それはそれで一興かとも思ったが、今更言ったところで取ってつけた様に感じるだけだ。〝柳丸〟に、白に向ける以上の感情がぶつけられることはないと断言できる。来霧は静かに肯定した。

「……えぇ、僕は手を下しておりません」

「そうか」

(否定しないのですね)

 信じられないと激昂して殺してくれればその敵意にまだ心が鎮まるだろうに、こんな時に限って銀雅は追及することはなかった。

刹那の沈黙が流れる。いつの間にか屋敷の中に他の気配が増えていた。希薄な存在感が懐かしい。縊鬼が屋敷に辿り着いたのだ。

「ちょうど良いところに来たな」

「……まさか初めからそのつもりで?」

「いいや、疑念はあったが確証はなかった」

 打っておいた手が上手く転んだに過ぎない。来霧の話を丸ごと信じるわけではないが少なくとも白が村へ赴いた理由は分かった。村で何があったかはもう誰にも分からない。白の痕跡を地道に辿るしかないのだろう。

「俺はお前を殺さないよ。柳丸がいるうちは手を汚さないと白に約束している」

「……!」

 〝柳丸〟の存在をなかったことにはせず、あくまで来霧を殺すという態度で銀雅は立ち回ることにしたようだった。

『首を括れ』

 反論の隙を与えず、銀雅の意を汲み取った縊鬼のしゃがれた声が二人の間に落ちる。銀雅は来霧の一挙手一投足を黙って見ていた。

 黒狐には届かなかった呪詛が来霧の脳を揺らす。じわりと思考を侵されながら、来霧はぼんやりと考えた。

 嗚呼、どうしてこんな日の高い時に姿を明かしてしまったのか。今夜まで耐えれば呪で縛ることもできたというのに。愛しい。憎い。苦しい。

 朦朧とした意識の中、徐に解いた帯を梁に結び、輪を作り首を掛け、そして。

ぎしり、と梁が軋む音がした。


***


 数日後、銀雅は報告のため珠枝の元を訪れた。

「柳丸の件は残念だった。そこまで思い詰めていた様には思えなんだが……」

「気付けなかった俺の責任ですし、天狐様が気にすることではないかと」

「……要らぬことを言ったな」

 銀雅は黙って首を横に振る。結局、銀雅は来霧のことを伏せ、柳丸の自死という形に仕立て上げた。騙されたと一言で括るには、やはり共に過ごした時間が長過ぎた。来霧が白を直接手にかけていれば話は違っただろうが、正直今は怒りの矛先を見失っているというのが正しい。

「で、俺に何のご用件です」

「次期天狐についてお前の意見を聞きたい」

「未雲に決まったと伺いましたが?」

「そのつもりだったが、未雲は辞退した。代わりの候補としてお前と霜眉の名を挙げているのだ」

「よりによって霜眉あれと並べられるとは……まぁ大人しくしている必要もなくなったし構わないけれど」

 柳丸を失った今、白と交わした約束は果たした。後は縊鬼の対価を叶えてやる仕事が残っているが、黒狐の花墨は少々厄介な相手だ。すぐにというわけにもいかない。縊鬼の望みとは、愛した女を殺した花墨を葬ってほしいというものだった。彼の呪詛はどうやら呪う相手の妖力だけでなく精神性にも影響されるようで、気まぐれで快楽主義の花墨には通じなかったと聞いている。今は屋敷に残してきているが、放っておいても大したことはできないので問題ない。

 どいつもこいつも心中、心中と噂を信じて結ばれようとする。縊鬼は牢の前で銀雅と会った後、鬼の女に心中を持ちかけていたらしい。例の呪の話を聞いて思い至ったのだろうが、満月かどうかも確かめず、さらには花墨に横槍を入れられ頓挫とは情けない。

(花墨はもう少し泳がせておけば北にも現れるだろう。そうすれば霜眉も対峙せざるを得ない)

 花墨の目的は銀雅にもよく分からないが、縊鬼の話によれば鬼の女のことを小春の腹にいた子供の生まれ変わりだと宣っていたらしい。小春といえば黒雨が入れ上げていた甘味処の看板娘と同じ名前である。偶然の可能性もあるが、十中八九同一人物を指していると見ていいだろう。

 生まれ変わりを殺した理由は分からない。こればかりは本人に直接聞くのが早そうだが、霜眉よりも先に衝突するのは避けたかった。

「俺は構いませんよ。ただ、天狐様が望むような良い統率者になるかどうかは保証できませんけどね」

「……分かった。下がって良いぞ」

「御意に」

 銀雅は一礼してその場を後にする。しかし廊下をいくらも進まぬうちに、避けたいと思っていた気配を感じて背後を振り返った。

「あんたも来とったんか」

「花墨……」

 平静を装いつつも、すぐ戦闘態勢に入れるよう警戒を強める。集会にすら顔を出さないくせに、のこのこ現れるとはどういう心算だろうか。険悪な空気を読み取ったのか、花墨は頭の後ろをガリガリと掻いた。

「天狐候補が変わるいうて小耳に挟んださかい」

 悪びれずに言う花墨に銀雅は胡乱な眼差しを向ける。

「そう睨まんといてほしいなぁ……。天狐なったら黒を探すための駒増やせるやろ」

「何言ってる、黒雨はとっくに死んで……」

「せや、黒は死んだ。ボクは黒の生まれ変わりを探しとる」

「見つけてどうする」

「小春の生まれ変わりとくっつける。腹の子はその間に生まれなあかん」

「……」

 手振りを交えながら話す花墨の表情は冗談を言っている風ではない。本気でそう思っていて、さも当然だと考えている。銀雅は絶句したが、同時に縊鬼の話に合点がいった。

黒雨は無理心中したが満月の夜ではなかった。つまり呪いは効力を持たず、黒雨と小春は生まれ変わっても結ばれない。その状態で腹の子が鬼となって先に転生してしまった上に、縊鬼が手を出そうとしていた。だから殺した。花墨はまだ転生した黒雨を見つけられていない。〝黒雨と小春の間に生まれるはずだった子が然るべくして生まれる〟状態に至るまで何度でも殺し続ける気だ。

 天狐の立場であればそのような横暴な振る舞いは止めに入るべきだが、まだ銀雅の手にその地位はない。どうしたものかと考えるも良い案は浮かばなかった。

(……本当に、面倒臭い)

 珠枝に悟られぬように殺すには距離が近過ぎる。だが、珠枝もさすがに花墨を選ぶことはないだろう。霜眉はまだしも、万が一花墨に天狐の座を明け渡す事になれば平穏な日々が脅かされるのは必至だ。

(吊には悪いけど、俺個人の恨みはそれほどないし、霜眉とぶつかって相討ちしてくれるのを待つのが理想……)

「それで?天狐候補の俺を殺すかい?」

「殺される気ぃさらさらないくせして、よう言うわ」

「まだ死に急ぐほど投げやりになっちゃいないんでね」

 銀雅は口元に笑みを浮かべたが、視線は鋭く花墨を捉え様子を窺っている。

「……ま、ええわ。あんたが天狐になって力貸してくれるんやったら、ボクは無理に奪い取ることはしぃひん」

 早よ黒に会いたいなぁ、とぼやきながら花墨は踵を返した。これから珠枝に会うのかと思っていたが、彼の方が先客だったようだ。あの様子を見るに、すげなく断られたのだろう。

 銀雅は考える。自分が天狐になるべきか、霜眉に渡すべきか、はたまた他の候補を引っ張り出すべきなのか。

 霜眉が天狐になった場合、集会の場が北に移ることになる。それ自体は何も問題ないが、銀雅は北国の知り合いがほぼいないため裏から手を回しにくくなると考えられた。かといって他に手頃な候補も思い浮かばない。いっそ未雲であれば魅了で傀儡政権にすることもできるが、それはそれで整合性を保つのが面倒だ。本人が拒否している手前、心変わりの上手い理由も考えなければならない。

(俺は……天狐の器じゃない)

 とりあえずいったん屋敷に戻ろう、と銀雅は門を潜り進む足を早めた。


***


「遅かったな」

「まだいたのか。ここあんたの家じゃないんだけど」

「いてもいなくても変わらないと言ったのはお前だろう」

「あー……そうだっけ?」

「儂との約束を反故にする気ではないだろうな」

「約束は守るよぉ。でも今は吊の相手する気分じゃないから黙ってて」

 銀雅はそう言うと鬱陶しそうに追い払う仕草をする。縊鬼も居候している手前、それに逆らうことはしない。

 大したことはしていないのに疲労感ばかりが降り積もって銀雅の体を重たくする。肩にかけた毛皮も妙に重く感じて脱ぎ捨てた。ふと畳に落ちた毛皮を見て、いつもなら柳丸が受け取って壁の定位置にかけておいてくれるのに、などと考えてしまいため息をつく。

(一年や二年の話じゃないんだ。すぐには慣れない)

 言い訳だと分かっていても、そうでも考えないとやりきれなかった。正体を現したらその面を拝んでやろうと思っていたのだが、来霧の首吊り死体は結局柳丸の姿のままで変化が解けることはなかった。おかげで本当の顔は分からないままだ。

 さすがに柳丸の姿をした死体を自分の手で切り刻む気にはなれず、解体は縊鬼に任せた。その対価にしばらく屋敷に居座る許可を出したのだったと思い出す。万が一のことがないように、死体は首と手足を切り離し最低でも五つ以上に分けるよう指示した。布に包まれたそれを灰の一片も残さず焼き尽くしたところで、ようやくこれで終わると息を吐いたものである。

 銀雅は緩慢な動作で毛皮を拾い上げて、壁にかけた。狐皮で作ったそれを身に着けるようになったのはいつだったか、もう忘れてしまった。

 卓の前に座るが、銀雅の気に入りの菓子も好みの塩梅に淹れられた茶も出てこない。労いの言葉が聞こえるはずもなく、しんと屋敷内は静まり返っている。黙れと言った手前、縊鬼に話しかけるのも癪だ。苛立ちを隠せないまま、銀雅は立ち上がって厨へ向かった。自分で茶を淹れるなんてどのくらいぶりだろう。薄めの茶を湯呑みに注いで、茶請けの甘味を探すがいつもの棚に見当たらない。一つ一つ棚を開けて調べるほどの気力もなく、金平糖は諦めて湯呑みに口をつけた。もう少し薄い方が好みだが、淹れたのは自分なので黙って飲み干す。

「……白ならどうするかなぁ」

 湯呑みを持ったまま厨の床にずるずると座り込み、ぼんやり考えた。一人でいることがこんなに落ち着かないとは思わなかった。ここ数日で一気に心がやつれた気がする。今からでも縊鬼を話し相手にすれば少しは気が紛れるだろうか。窓から漏れる光が鬱陶しくて目を閉じて顔を伏せる。澱んだ肺の空気を押し出すように大きく息を吐くと、いくらか呼吸が楽になった。

「案外広いもんやなぁ」

 廊下から聞こえた屋敷にいないはずの男の声に、銀雅はハッとして身構える。壁の向こうからひょこりと顔を出したのは花墨だった。全く気配も足音も気付かなかったことに銀雅は舌打ちをする。

「どうして、ここに」

「気が変わったさかい」

 殺しに来た。そう低く囁くと、花墨は抜刀の勢いのまま首を狙って突っ込んできた。蹲っていた銀雅はすんでのところで身を捻ったが、躱しきれなかった刃に腕を切り裂かれて呻く。手から離れた湯呑みが落ちた先の床を汚した。

「あまり屋敷を破壊してほしくないんだけれど」

「死んだら関係あらへんやろ」

「……言ってくれる」

 銀雅の手にチリチリと炎が舞うのを見て、花墨は嬉しそうに口の端を吊り上げた。

「炎でボクに張り合うんは愚策やで」

「食らってから言いなよ」

「丸腰のくせに強気やなぁ」

 花墨が嗤うと刀が黒い炎を纏い、銀雅が動くより先に足を貫いた。さらに傷口を抉るように刃を捻り込まれ、強烈な痛みが銀雅を襲う。

「ッ……ぐ、う」

 銀雅も負けじと掴んだ花墨の腕に炎を浴びせるが、花墨の黒い炎に掻き消された。妖術も得手不得手がある。他者を操ることに長けた者、見目を偽ることに長けた者、そして狐火の扱いに長けた者など。

「八尾も大したことあらへんなぁ」

 そう言う花墨の尾は二つで、銀雅よりかなり格は下になる。基本的には尾の数が多いほど強く格が高いが、必ずしも格の高さが強さに直結しない場合が存在し、花墨はその良い例だ。悪行を犯さない善狐の方が昇格はしやすく、そういう意味でも花墨の格は低い。

「……獄炎と渾名されるのも過大な評価ではなさそうだ」

 言いながら銀雅は花墨と視線を合わせた。会話で意識を引きつけ、目を見て術をかけることで魅了は完成する。だが、花墨の様子は変わらない。それどころか、床に足を縫い留めるようにさらに刀を深く押し込んできた。肉を抉られる痛みで銀雅の額に脂汗が浮かぶ。

(効かない…?そんな馬鹿な、相手は二尾だぞ)

〝魅了は催眠術の一種だ。敵わないと思っているから術のかかりも弱くなる〟

 白に言われた言葉が銀雅の脳裏に蘇り、奥歯を噛み締めた。無意識でも怯んでいるのが否定できずに苛つく。

「何や、そんなもんか。期待外れやわ」

 花墨はつまらなさそうに刀を引き抜くと、雑に血振りして納刀した。

「買い被りやったみたいやし、帰るわ。八尾殺したら箔がつくかと思たんやけどなぁ」

「待て、どこに行く気だ!」

「言うたやろ、黒を探しとるて。まぁ何か有益な情報があったら教えてな」

 ほな、と手を振ると引き留める間もなく花墨の姿は消え失せる。銀雅は暫し呆然としていたが、屋敷内に縊鬼がいたことを思い出し我に返った。

 痛みで上手く動かない左足を庇いながら、壁伝いに進む。一時凌ぎに傷口を縛った布は既に赤く染まっており、溢れた血で廊下を汚しているが構ってはいられない。

(吊の気配が薄い……)

 居室に近づくにつれて、焦げた肉の臭いが漂う。嫌な予感を振り払うように襖を勢いよく開けると、半身を黒く燻らせた縊鬼が倒れていた。

「隠れていれば良かったのに、どうして出てきちゃうかなぁ」

 ただでさえ存在感の薄い縊鬼なら、物陰でやり過ごすことも出来たはずだった。だが花墨の死を対価に望むくらいだ。呪詛が通じないと分かっていても、目の前に現れた憎き相手を無視することが出来なかったのだろう。焼き尽くさず敢えて形を留められたその姿はみすぼらしく、もともと枯れ木のように細い縊鬼の体はさらに小さく見える。喉も焼けているらしく、今にも消え入りそうな息遣いが聞こえた。

「ごめんよ、俺は医術の心得がないんだ。珠枝様、治してくれるかな……」

 ひゅー、という音が不意に途切れる。

「……吊?」

 まだ辛うじて脈はあるが、もう死が近い。早く珠枝のもとへ連れて行かねばと縊鬼を抱えたところで、銀雅は一度立ち止まった。

(このまま死なせてやった方が幸せなのかもしれない)

 愛する女に手が届かないことに絶望しながら復讐に駆られる人生を歩み続けるよりも、死んで生まれ変わる方がきっとマシだ。銀雅は既にくたりと力の抜けた縊鬼の体を、畳の上にそっと下ろした。

「来世ではもっとまともな恋をしなよ」

 投げかけられた言葉が届く前に、縊鬼は事切れた。


***


「銀雅様、大丈夫でしょうか……あんなに傷付いた姿は初めて見ました」

「まぁ怪我は大したことはない。銀雅の妖力なら数日もすれば元に戻るだろう」

「あ、いえ体もそうなのですが」

 憔悴した姿に、いつもの飄々とした雰囲気は全く重ならない。笑ってはいたが、明らかに様子がおかしかった。未雲は報告を終えて帰る銀雅の後ろ姿を心配そうに見送っている。

「そっとしておくのが良い。考えを整理する時間が必要だ」

「……御意に」

 未雲はその場では引き下がったが、部屋を出ると小走りで銀雅を追いかけた。騒がしい足音に銀雅が振り返る。

「どうしたのさ、そんな慌てて」

「銀雅様、その……」

 思わず追いかけてしまったが、かける言葉をきちんと考えていなかった。

「足が痛むのではないかと思い……お手伝いをと」

 幼稚な嘘が口をついて出る。銀雅は意外そうな顔で未雲を見つめた。ちらりと自分の足に目をやった後、じゃあお願いしようかな、と笑う。その笑顔があまりに痛々しくて、未雲は胸が苦しくなった。言い出した手前、肩を貸そうとしたが背丈が違うので上手くいかない。位置取りに苦労している未雲を見かねたのか、もういいと止められてしまった。

「気持ちは有難いけれど、気遣いは不要だよ。全て俺が撒いた種だから」

「どういうことですか?」

「俺が、もっと強ければ……もっと早く気付いていれば」

 未雲は言葉の続きを待ったが、銀雅はそれきり何も言わない。無言のまま二人で廊下を歩いた。少し引き摺るような銀雅の歩き方で、痛みがまだあるのだと分かる。そうこうしているうちに門までたどり着き、徐に銀雅が口を開く。

「今日は魅了使ってないはずなんだけど、どうしてついてきたんだい」

「……銀雅様が心配で」

「珍しいね。いつもは素っ気ないくせに」

「……白様が亡くなられてから、ずっと考えていました。しかし、いくら考えを巡らせても分からないのです。どうして白様が心中を選ばれたのか」

「……俺にも分からないよ」

 銀雅は視線を遠くに投げたまま答えると、それじゃと言って門をくぐった。深々と礼をし、未雲はゆっくりと顔を上げる。しかし、少しずつ遠ざかる背中を見るうちに、言いようのない焦燥感に駆られて声を張り上げた。

「銀雅様!」

 今引き留めねば、そのまま二度と現れないような気がした。呼ばれて、緩慢な動作で銀雅が振り返る。その顔はあまりにも無表情で、未雲の背に嫌な汗が流れた。

「……何」

 もう笑顔を貼り付けるのもやめたらしい銀雅は、ぶっきらぼうに問うた。

「死ぬおつもりでは、ございませぬか」

 絞り出した未雲の言葉に銀雅は首を傾げる。

「何故だい」

「どこか遠くへ消えてしまいそうで」

 思わず声をかけてしまったのだ、と未雲は白状した。しかし銀雅の表情はほとんど変わらない。

「仮に俺が死んだとして、それは何かあんたに影響を及ぼすかい?」

 何も変わりはしないだろう、と再び背を向けようとするので未雲はぐいと腕を引いた。銀雅の着物の袖が伸ばされて、少し衿がはだける。思いのほか力強い未雲の動きに、男の瞳が揺れた。

「私は……白様の代わりにはなれませぬ。私でなくてもそうでしょう。瓜二つに化けたとて所詮は紛い物、全くの別人。ですが……」

「死ぬ時は側に白がいてほしい、とでも言うと思った?」

「っ……」

 沈黙は肯定と同義だ。図星を突かれて未雲は唇を噛む。本当に死ぬつもりであれば、せめて餞に白の姿でと浅はかな考えを抱いたことを猛省した。銀雅の痛みを抉るだけで、何の意味もない。それでも掴んだ手を離す気にはなれなかった。

「銀雅様は先の百鬼夜行は欠席……件の総大将のお話を直には聞いておられませぬが、噂にはご存知でしょう」

 信じるかどうかは別として、望月の下で心中を果たせば来世で結ばれるという噂は驚嘆とともにまことしやかに伝えられている。他の妖怪がどう思うかはともかくとして、白が心中したことで妖狐たちの間では話の信憑性が高まった形だ。

「白様は、本当にこの噂をお信じになったのでしょうか?誰かに唆されたのでは」

「……」

「何か、ご存知なのではありませんか?」

 そう言って未雲が一歩前に詰め寄った瞬間、ぱちんと乾いた音がした。未雲の手を振り解いた銀雅が、平手打ちをかましたのだ。銀雅のギラつく視線が未雲を捉え、震える声で命令が下る。

「未雲。今すぐに珠枝様の元へ帰って、こう伝えるんだ。心配は杞憂でした、とね。余計なことは言うな」

「はい。仰せのままに」

 一礼して踵を返す彼女の後ろ姿が見えなくなるまで視線を切らさず睨みつけ、銀雅は爪が食い込むほど握り締めた手をようやく緩めた。じわりとした痛みが掌に広がる。

「……相変わらず効果抜群で助かるよ」

 あっさりと指示に従った未雲に対して、呆れたため息を溢した。あまりに簡単すぎて心配になる。

 耐えた。ここで罪のない同胞殺しは最悪手だ。未雲に心配されなくとも死ぬ気など毛頭ない。縊鬼も死んで果たすべき約束もなくなったが、少なくとも白が心中した理由を突き止めるまでは。

「最期に白が居てほしい、なんて……当たり前だろ」

 誰の物にもならない白を愛していた。魅了にも靡かず、近付けばその分だけ遠ざかる。それでも二人で酒を酌み交わしている間はあの美しさを独り占めできた。呆れた顔をしながらも意識を自分だけに向けてくれる時間がたまらなく嬉しかった。

 自分は天狐に相応しくないのではと白が溢した時も、驚きよりも先に訪れたのは嬉しさだった。自分にだけ吐露してくれたという優越感。

 来霧の件で生き残りがいたと伝えた時、白が見せた表情は今もはっきり覚えている。初めて見る顔だった。自分の言葉ひとつで白の表情が動くのが愉快で、つい調子に乗って子狐の面倒を見るだなんて柄にもないことを言ったりして。その匿った狐が来霧だとは露知らずに。

 死んだ子狐に成り代わった来霧が柳丸となり、その柳丸が白に蛇無村のことを教え、そして白は村に向かった。心中の噂が加わったとはいえ、全ての元凶を何ひとつ疑わず手元に置き続けた事実が滑稽すぎて、改めて思うと吐き気がした。

 この罪は死ぬことでは償われない。また必ず出会ってみせる。その時まで歯を食いしばって生き抜いて、そして。

「見つけたら次こそ俺の虜にしてあげる」

 そもそも人間などにうつつを抜かす隙を作らせたのがいけなかった。今なら心中を選ぶ者の気持ちが少しは分かる気がした。無理やり結び付けられた呪だと言うなら、結び直してしまえばいい。積年の願いを成就させてこそ無理心中の醍醐味というもの。

 まずは総大将に問い正そう。この呪について。心を決めた途端、まだ痛む足も、肩にかけた毛皮も羽のように軽く感じた。

「次の百鬼夜行は参加しようかな」

 誰に向けるでもなく呟いた独り言を、乾いた風が攫っていく。舞い上がった枯れ葉が落ちるわずかな間に、銀雅の姿は見えなくなった。

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企画寄稿文 紅崎雪乃 @yukino_kouzaki

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