縊鬼

「さぁ、来い」

 乱暴に引かれた縄の動きにつられるように体が傾ぐ。

「今日こそ吐かねば明後日には斬首の上見せしめだぞ」

 繰り返される拷問には飽きた。毎日毎日同じ言葉を浴びせて鞭打つだけ、本当に芸がない。思わず笑いを溢すと、横っ面に鞭が飛んだ。舌は噛まなかったが滲む鉄の味に柔い粘膜が切れたことを察する。男達は半刻もすれば飽いて手を止めるのだ。それまで耐え凌げばどうということはなかった。

 再び牢に放り投げられた後は、冷たく泥臭い飯が僅かばかり出される。見た目以上に不味く、家畜の餌にも劣るような食事だ。見るだけで吐き気がする。澄んだ水など、もうとんと口にしていない。

 どうせ飢えで死ぬことはないのだから早く首を斬って殺してしまえば良いのに、牢番は上から言いつけられているのか執拗に私を鞭で打ち問うのだ。

「何故、母親ばかり殺したのか」と。


***


 とある組頭が仕切る組内に、酒好きで落とし噺や物真似を得意とする平助という同心がいた。組頭は江戸の麹町に屋敷を構えており、酒宴があるといえば平助は接待に駆り出され芸を披露した。

「えー、世の中には色んな人間がおります。男に女、子供に爺婆。背の高い者、低い者。気の長い者、短い者。真反対に見えて案外上手いこと噛み合ったりもするもんです。あるところに……」

 身振り手振りを交えて語る同心の一挙一動に宴席は大いに盛り上がる。別の日には鶏の物真似をやってくれと声が上がり、言われた通りに披露するとこれまた笑いが巻き起こった。

 そしてまた別の日。この度も酒の席で芸を披露することになっていた。皆、酒の肴に芸を見るのを楽しみに待っていたが、平助は時間になっても一向に現れる気配がない。

「いったい何をしている。えらく遅いじゃあないか」

「客人を待たせるとは何事だ」

「まぁまぁ、先に飲んでいましょうや」

 そう言って先に宴会を始めた一同だったが、いつまでたっても姿を見せないので次第に宴席は興醒めしていく。

「酒がこうも進まねぇと嫌なことを思い出しちまうな」

「なんだなんだ」

「いや、近頃若ぇ女子が何人も殺されたろう。噂じゃ妖怪の仕業だなんだと言われてるが、化物は女の姿をしてたという奴もいる」

「お前の親戚の娘っ子も襲われたんだったなぁ。子が流れたばっかりだってのに、ありゃ気の毒だった」

「おい、そこの二人。宴の席で縁起の悪い話をするんじゃねぇよ」

「悪い悪い。盛り上がる話の手持ちがなくてよう」

「あいつはまだ来ねぇのか」

 気を悪くした一人が帰ろうと立ち上がった頃、やっと平助が屋敷へ駆け込んできた。息を切らして、慌ただしく門をくぐる。そして息も整わないまま屋敷の者に言うのである。

「やむを得ない事情が出来て、今宵は宴に出られなくなりました。急いでおりますんで、これにて失礼……」

「おうおう、どうした。まずは主人と客人にお伝えするゆえ、しばし待たれよ」

 平助はすぐに帰ろうとしていたが、主人をないがしろにするわけにもいかず、困り顔でその場に留まった。

 主人は平助の話を伝え聞くと、ずっと待たせていたというのに急用だからといって顔も見せずに帰るとはけしからんと怒りを露わにした。平助を宴席へ呼びつけ、急用とはいったい何の用であったのかと尋ねる。すると平助は奇妙なことを口走った。

「事情というのは他でもありません。喰違御門にて首を吊る約束をいたしましたので、すぐ行かなくては。無礼を承知でお暇させていただきたい」

 突拍子もない発言に驚き問い詰めるも同じことを繰り返すばかりで埒が明かない。ただひたすらに首を吊らなければと言い募る姿に、主人も客も随分と怪しんだ。

「どうやらこの男は乱心しておるようだ。落ち着くまでとっぷりと酒を飲ませよ」

「分かりやした。ほら、酒だ!せっかく来たんだ。旦那もこう言ってることだし、一杯や二杯飲んだって罰は当たらねぇよ」

「は、はぁ……しかし」

 なおも食い下がる平助であったが、元来は酒好きの男である。渋る口へ無理やり盃の酒をねじ込むと、ごくりごくり。一度飲んでしまえば差し出されるまま次々と口をつけ、あっという間に飲み干す。盃が八杯を数えた頃、ようやく平助は落ち着きを取り戻した。

 そこへ、喰違御門で首吊り自殺があったという知らせが届く。それを聞いた主人は、改めて平助に問うた。

「首を吊る約束をしたとは一体どういうことなのだ」

「はぁ、実は頭に靄がかかったようにぼんやりしていて、はっきりとは覚えておらんのですが……」

 そう前置きして平助が言うには、喰違御門を通りかかったとき、何者かに「首をくくれ」と唆されたのだという。少ししゃがれた声には、有無を言わせない圧があった。途端に首を吊らなければならない気持ちが膨れ上がっていったが、宴席で芸を披露する約束があったため組頭の元へ断りを入れてからにしたいと伝えたところ、さっさと行ってこいと言われ送り出されたらしい。

「平助よ。まだ首を吊りたいと思うか?」

「あぁそんな恐ろしいことを言わんでください。まだ死にたくはありません」

「ふむ……人を唆して首を吊らせようとする妖がいると聞いたことがある。どうやら平助は妖に憑かれておったようだな。先の喰違御門での騒ぎは、しびれを切らした妖が憑く相手を乗り換えたのだろう」

 宴席に戸惑いが広がる。主人の表情は真剣で、からかいの声が上がることはなかった。代わりに、一人の客が手を挙げる。

「して、その妖というのは?」

「……縊鬼(いつき)だ」

 一同の注目の中、主人は静かにそう答えた。


***


 嫩菜(わかな)は三人姉妹の末子として江戸の商家に生まれ落ちた。姉二人は大層器量が良く、蝶よ花よと育てられており、嫩菜も当然そうなるはずだった。だが生まれた赤子の顔には火傷のような痕が走り、醜く引き攣れていた。さらには、目が開くなり既に生えていた鋭い歯で母親に噛みついたのである。父親は呪いだ祟りだと気味悪がって、母親は産まなければ良かったと罵声を浴びせた。二人は赤子を殺し、死産と偽って山の地中深くに埋めてしまった。嫩菜の母親が何者かに首を噛みちぎられて死んだのは、その三日後だった。

 それからというもの、たびたび母親が襲われる事件が発生するようになった。皆、口を揃えて「人の姿をした化物だ」と証言した。何故か襲われるのはいつも母親で、それも子を死なせた者ばかりであった。死んだ子が母を恨んで化けて出たのだと、まことしやかに噂が流れた。

「……違う、違う、この者ではない……」

 化物の正体は、鬼となって息を吹き返した嫩菜だ。瞬く間に赤子は女へと成長した。鬼と言っても角は見当たらず、額に硬い痼(しこり)のような痕があるだけで、一目見ただけでは人間の女と遜色ない。しかし口を開ければ鋭い牙が覗き、細腕からは想像もつかない力で肉を裂いた。

 常に心は渇いていた。衝動に突き動かされるように、嫩菜は〝母〟を探した。自分を捨てた母親には何の未練もないはずなのに、心は〝母〟を求めてやまなかった。自分を駆り立てるこの感情は何だ。脳裏にこだまする優しい声は一体誰だ。嫩菜は子を失った母親を探しては近付き、違うと分かると殺した。

 そうして何人目かも分からない母親を殺した時、黒い狐に出会った。

「なんや江戸で暴れとる奴がおる言うから来てみたけど、大したことあらへんなぁ。無駄足やったか」

 気付けば嫩菜が母親を襲っている間に、黒狐は他の家人を皆殺しにしてしまったらしかった。口元と腕に飛び散る血液は、力に任せた殺戮を見せつけるように生々しい。

「ええ格好しとるわりに貧相なやつしかおらんさかい食うとこないわ。あんたも肉は薄いけど……妖やったらその辺の人間よりは食べ甲斐ありそうやな」

 舌で血を舐め取る黒狐の表情に、嫩菜はぞくりと背を粟立たせた。自分より強い者への本能的な恐怖が無意識に湧き上がる。しかし、逃げ出そうとした嫩菜を黒狐は素早く捕らえて腕の中に閉じ込めてしまった。

「つれへんなぁ。せやけど、ボクは逃げられると追いかけたくなる性分やさかい」

 逆効果や、と耳元で囁きながら男は拘束を強める。その力は下手に動けば骨を砕かれるのではないかと錯覚するほど強く、痛みに嫩菜は呻いた。

「……?あんた、どっかで会うたことあるか?」

 すん、と嫩菜の首元で息を吸い込むと黒狐は首を傾げたが、すぐに興味を失ったのか「まぁええか」と話題を戻す。

「踊り食いと丸焼き、どっちがええか選ばせたるわ」

「……っ」

 全力を振り絞って滅茶苦茶に暴れれば逃げられるかもしれないが、賢い選択とは言えないだろう。だからといって何もせずに喰われるのは御免だ。

「私の体には、毒がある……ぞ」

 せめてもの抵抗として見え透いた嘘を呟いた声は微かに震えていて、黒狐には通用しなかった。

「ほな、丸焼きやな」

 あっけらかんと言い放った黒狐が握り締めた嫩菜の手首ごと炎を灯すと、あっという間に皮膚が焼け爛れ黒く炭化した。続けて蹴られた右足も黒い炎に包まれて、嫩菜はがくりと膝を折る。肉が焦げる臭いがした。

「あ、あ゛ぁぁ……ッ」

 熱くて、痛くて。嫩菜は悲鳴を上げた。少しずつ甚振りながら焼き殺すつもりなのだろうか。今度は左足を力強く踏みつけられて、骨が砕ける嫌な音が響いた。逃げる足を失った嫩菜の腕をぐいと引いて、その喉元に黒狐の手がかかろうかという刹那。不意に黒狐が手を離した。嫩菜を無様に転がすと、舌打ちする。黒狐のほかに、嫩菜にも感じ取れる妖の気配がもう一つ増えていた。

「面倒なんが来よったなぁ……絡まれんうちに帰りまひょか」

 さいなら、と言い残して黒狐は瞬く間に姿を消した。嫩菜は痛みにかき消されそうな意識を集めて気配を探ったが、その正体は分からない。襲ってこないところを見るに獲物を横取りしに来たわけではなさそうだ。命拾いした、ということになるのだろう。

 程なくして謎の妖の気配も薄れ、追えなくなる。遅れて現れた役人達は、惨状を目の当たりにして顔を顰めた。

「こりゃひでぇ有様だな」

「母親だけを食ってるって話じゃなかったのか?」

「ついに満足できなくなったのかね」

「化物の考えてるこたぁわかんねぇよ」

「違ぇねえ」

「ともかく、ようやく捕まえられたんだ。今は憔悴してるが鬼のような怪力と噂。気ぃ抜くなよ」

「へい」

 数名の役人達は好き勝手に喋りながら、嫩菜を縛り上げて引き摺っていった。一人、若い役人が立ち去りかけて足を止める。そして一家の亡骸を見つめて哀しそうに目を伏せ、ゆっくり手を合わせて一礼すると先を行く仲間を追いかけた。


***


 かくして、話は冒頭に戻る。

 牢に入れられてもうひと月は経った。いくら嫩菜が鬼で丈夫だと言っても、さすがに毎日毎日まともな食事もせず拷問を受ければ身も心も擦り減っていくのは自明の理であった。黒狐に痛めつけられた傷が響いているのもある。それでも、飢えと鞭打ちだけで死ぬには嫩菜は人を食い過ぎた。

 結局、〝母〟を見つけることは出来なかった。脳裏に刻まれた母親たちの断末魔が夜毎訴えてくる。探し求めていたものは一体何だったのだろう。

 何故母親ばかり殺したのか、と問われても答えられないのだ。そうすべきだと思ったから。求めていた人ではなかったから。そんな答えでは役人が納得しないことは分かっている。答えたところで、半ば彼らの憂さ晴らしに等しいこの拷問は続くに違いない。黙っていても明後日には首を斬られて死ぬならば、それまでの辛抱だ。

 薄暗い牢の中で、嫩菜は痩せ細った自分の腕を見つめた。黒狐に掴まれた右手は未だ黒く燻っている。唯一まともに動く左手も、時と共に力が入らなくなってきた。泥臭い食事でも食べれば少しは違うだろうか。

(早く、楽になりたい)

 そう思った瞬間だった。

「首を括れ」

 ぐったりと硬い壁に身を預けた嫩菜の思考を読み取ったかのごとく、低くしゃがれた声にそう唆された。嫩菜は驚いて周囲を見回したが、気配はない。だが、声は同じことを繰り返す。

「首を括れ」

「括ろうにもこんな牢の中では括れまいよ。死ぬ前に見回りが来てしまう」

「……死にたいのだろう?ならば死ねば良い。首を括れ」

「明後日には斬首なんだ」

「斬首は痛いぞ」

「首吊りだって苦しいさ。人ならばすぐに死ねるかもしれないけれど」

「今にも死にたそうな顔をしているくせに儂の言葉に靡かんとは愚かな娘よ」

「……そんなに酷い顔をしているかい」

 声の主に向かって話しかけると肯定の返事が返ってきた。手鏡も持っていなかったし、実の両親に化物と忌み嫌われた顔を見たくなくて水場も避けてきた。不可抗力で水溜りに映った姿を見た時には、なんとも醜いと顔を背けたものだ。

 泥と垢に塗れ、火傷を負い、飢餓で痩せ細った身体。今の嫩菜は生まれ落ちた時よりもさらに酷い姿をしている。

「姉さん達は器量が良かったんだ。どうして私だけこんな風に生まれついてしまったんだろうな」

「なんだ、お前。儂は辛気臭い顔をしていると言っただけで、醜女とは言っておらんぞ」

「世辞は良いよ。汚いのは確かだし」

「そうやって自分を卑下して人生を儚むなら死ねば良いのではないか」

「あんたはそればかりだな。そう何度も誘われると逆に死にたくなくなる」

「天邪鬼かお前」

「いいや、ただの……化物さ」

 嫩菜の返事を最後に沈黙が落ちる。窓もない牢の内側では昼夜の感覚も狂っていく。疲労に身を任せて、嫩菜は微睡みの中へ落ちていった。

 目覚ましは役人の怒鳴り声だ。泥のように眠っていた。嫩菜が起きているかどうかに関わらず、役人達は朝と晩に彼女を引きずり出し鞭で打つ。そして、飽きると再び牢へ放り込んで冷たい食事を置いて去る。毎日同じことの繰り返しだ。だが役人の足音が遠ざかると、昨日と同じしゃがれ声が嫩菜の耳に届いた。

「死にたそうだな」

「……またそれかい。今は少し静かにしていてくれないか。額を打たれて頭が痛い」

「死ねば痛みも感じない」

「しつこいな……何を躍起になっているのか知らないけど、あんたに付き合う気はないよ」

「逃げようと考えたことは」

「……逃げたところで、化物として生きていくことには変わりない。死んで生まれ変わる方がましだ」

「やはり死にたがっているじゃあないか」

「でも急かす理由もないだろう」

 嫩菜は額の血を拭うと、壁にもたれてゆっくり目を閉じた。そのまま静かに寝息を立て始める。警戒心が薄いのか、周囲に意識を残す気力もないのか。つぅ、と拭いきれなかった血が垂れたが起きる気配はない。その血がすっかり乾いてしまう頃まで、縊鬼は嫩菜の寝姿を見守っていた。

(たしか、斬首は明日だったな)

 夜が明ければ衆目の下に彼女の首は落とされ、その命が絶たれる。もう痛ましい彼女の姿を見なくて済むのは喜ばしいことなのかもしれない。縊鬼に出来るのは自死を強く促すこと、それだけだ。普通の人間なら容易に死に導ける呪詛の能力だが、呪詛に対抗できる一部の人間には効果が薄い。妖怪も呪えるが力の差が大きい場合は全く通用しないこともある。

 しかし、そんなことよりも嫩菜の表情があまりにも死にたそうだったから。もしかしたら靡くのではないかと淡く期待していたのだ。呪うのでなく早く死なせてやりたい、と思ったのは初めてのことだった。

 縊鬼は嫩菜の側を離れ、牢の外で一人空を見上げた。こんこんと眠り続けている嫩菜を見ているうちに、いつの間にか夕方に差し掛かっていたようだ。淡く紅に染まり始めた紅掛空色が美しい。

 嫩菜は罪人だ。母親ばかりを狙い殺して回っていたと役人が話していた。その母親が子を失った者ばかりであったところに何らかの理由があるのだろうが、真実は語られることなく明日全てが闇に葬られる。

 本人が斬首を望むのであれば、そのまま送り出してやるのが最善なのだろうか。もっと早く彼女を見つけていれば、あるいは縊鬼の言葉に頷いたのかもしれない。悩む縊鬼に、一つの影が近付いた。

「こんなところにいたのか」

「……銀雅」

「やぁ、吊(ちょう)。相変わらず幽霊みたいな顔してるねぇ」

 現れたのは銀髪の妖狐で、名を銀雅といった。歩くたびに肩にかけた毛皮がふわりと揺れる。飄々とした口振りで縊鬼の隣に並び立つと、男は笑顔で物騒な提案を口にした。

「呪ってほしい奴がいるんだ。俺が殺してしまうと角が立つ。あくまで自責で命を絶ったことにしたい」

「……!」

「頼まれてはくれないか」

 銀雅は妖狐の中でも比較的穏健派として知られている。だが、要不要の判断が慎重なだけであり人を殺さないというわけではない。無論、対象が妖でも然りだ。

「お前が呪い殺したいほど憎んでいる相手があの女の他にもいるとは知らなかった」

「……天狐が死んだのは知ってるだろう?」

「そういえばそんな噂を聞いたな。だが敵討ちに燃える性分でもないだろうに」

 天狐・白の死を予見できた者は殆どいないに違いない。妖狐たちの頂点に君臨する天狐は実力や格の高さを考慮して選ばれる。大妖といって差し支えない力を持ちながら、よもや出会って間もない人間の女と側仕えの狐を道連れに自死を選ぶとは誰が予期しただろうか。満月の夜に心中すると来世で結ばれるそうだよ、と銀雅は冷めた目で告げた。

「白(はく)は心中したんだ。討つ相手などいないよ」

「では、いったい誰を」

「……交渉成立、と判断しても?」

 ぐい、と顔を覗き込んだ銀雅は微笑を浮かべているが、視線は鋭く縊鬼を捉えている。肩につくかつかないかくらいの銀髪がさらりと揺れ、金色の瞳が怪しく光った。断れば他を当たるであろうと分かってはいるが、その瞳に魅了されてしまうのは銀雅の妖術なのか生来の魅力なのか。縊鬼は気圧されて頷くしかなかった。

「ありがとう。礼は何が良いか次会う時までに考えておいてくれ」

 銀雅は口元だけで笑むと二言、三言伝え置いて帰っていった。空は陰り始め、冷えた空気が宵の気配を感じさせる。縊鬼は嫩菜の元へ戻るべく身を翻した。

 処刑前の、最後の鞭打ちが始まる。


***


 夢を見ていた。初めて見る夢なのに、どこか懐かしいような不思議な感覚。優しい声で囁くように奏でられる子守唄が心地良くて、嫩菜は耳を傾ける。

 ふと、唄が途切れた。

〝……お母ちゃんもうち授かった時こないな気持ちやったんやろか。嬉しゅうない言うたら嘘になるけど、正直ちょっと怖いわ。蛍にもまた伝えそびれてしもた……〟

 寂しそうな独り言は消え入りそうに小さい。声は聞こえるのに、夢の世界は暗闇に包まれていて何も見えなかった。声の主が誰なのかも、ここが何処なのかも分からない。

〝うちがお店守らな。お父ちゃんも蛍も、この子も。絶対……〟

 幸せにするんや。

 決意の言葉が反響して嫩菜の頭の中で響く。それに重なるように、爆ぜる炎の音が聞こえてくる。そして酷く掠れた悲痛な慟哭が闇を切り裂いたところで、嫩菜はハッと目を覚ました。

(……そうか、あの優しい声は)

 つぅ、と一筋の涙が零れる。〝母〟は真に母だったのだ。この世に産み落とされる前に死んでしまった小さな命。それが嫩菜の前世だった。

 幸せを願われていた。愛されていた。たしかな愛がそこにはあったのだ。そして、同時に二度と会うことが出来ないという事実を突きつけられる。初めから探し求めていたものはこの世になかった。

「もう、生きる意味もない」

「……ならば死ぬが良い」

 いつの間にか嫩菜の側に現れた縊鬼は、呪詛を投げかけた。今回こそ靡くかもしれないという期待は、裏切られることはなかった。

「あぁ……そうだな。首を括らなければ……」

 嫩菜は壁に手をついてふらりと立ち上がったが、弱った足は体を支えきれず一歩で崩れ落ちた。縊鬼は思わず差し出しかけた手を宙に彷徨わせる。

 鬼と名が付いてはいるものの、縊鬼の実体は幽霊のようにひどく儚いものだ。直接的な戦闘能力は皆無、身体能力はそこらの人間以下である。だが枯れ木のような細い腕でも抱えられそうなほどに、嫩菜は痩せ衰えしまっていた。頬には新しい傷が増えている。今晩の鞭打ちで付けられたのだろう。

 嫩菜をこのまま死なせることは、果たして彼女にとって幸せだろうか。何処へなりと逃してやる方が良いのではないか。そうも考えたが、逃したとてその先はどうなる。身寄りのない彼女に行く宛などあるはずもなく、では衰弱した彼女の世話を焼いてくれるような伝手が縊鬼にあるかといえばそんなものはない。

 縊鬼は骨と皮ばかりの手を見つめた。もしも今嫩菜を守って癒せるだけの力があれば、こうも悩むことなく颯爽と攫って逃げてしまえるのに。

 そもそも、嫩菜自身が生き永らえることを望んでいないのだ。ここで縊鬼が手を下さずとも明日には死ぬ命。せめて、来世では幸せになってくれと願うだけである。

(来世……か)

〝満月の夜に心中すると来世では結ばれるそうだよ〟

 ふと縊鬼の脳裏に銀雅から聞いた噂話が過った。さっき外で見た宵始めの淡い月を思い出したからかもしれない。今宵は果たして満月だろうか。丸い月ではあったように思う。

(……いや、一方的では無理心中になる。噂が本当とも限らない)

 縊鬼は浮かんだ考えを否定しようとした。だが彼の天狐がそれを信じて心中したというのなら、ただの冗談とも言いがたい。

 彼女に一度だけ問うてみよう。否と言われればそれで終いだ。だが、問う前に起き上がった嫩菜に問いかけられてしまった。

「……何を、考えてる?」

「お前の行く末について」

 縊鬼が正直に答えると、嫩菜は小さく笑ったように見えた。

「何が可笑しい」

「そりゃあ私を殺したがっている者が私の行く末を案じるなんて変な話じゃないか」

「……」

 反論できなかった。嫩菜は不思議そうに首を傾げて縊鬼の言葉を待っている。縊鬼は意を決して心中の噂を話した。

「古い知り合いから聞いた。満月の夜に心中すると来世では結ばれるそうだ。儂はお前が望むなら共に死んでも構わないと思っている」

「……え」

「今の儂にはお前を殺す力はあっても救う力はない。呪うばかりの生涯にも飽きた。生まれ変わって共に生きるのも悪くない」

 だから今宵、心中する気はないか。そう問われた嫩菜は、暫し黙って縊鬼の瞳を見つめていた。ややして嫩菜は乾いた唇を震わせる。

「あんたは……私を憐れんでくれているんだな。その話が本当かどうかは置いておいて、あんたが私を利用したいなら好きにしていいよ」

「っ……」

 嫩菜の答えをすぐには咀嚼できなかった。否と言われたわけではない。だが来世のことなどどうでもいいと言わんばかりの口ぶりに、縊鬼は落胆していた。嫩菜は何も間違っていない。これは縊鬼の勝手な振る舞いであり、無理心中だ。彼女はただ現世に失望しているだけなのだから。

「儂は……っ!!」

「取り込み中に悪いけど、ボクその子に用あるさかい退いてくれへん?」

 縊鬼が振り返るより早く、その体が宙を舞った。蹴り飛ばされた縊鬼は壁に背を打ちつけ呻く。肋骨の二、三本は折れたかもしれない。声をかけられるまで、縊鬼も嫩菜も全くその存在を認識できなかった。

「あんたはあの時の……!」

 驚く嫩菜に対して、久しぶりやなぁと黒狐は笑った。

「どっかで会うたことある気ぃはしてたんやけど、ようやっと気付いたわ。あんた、小春と同じ血の臭いがする」

「小春……?」

「店燃やした時に腹ん中の子も間違いなく一緒に死んだはずや。せやから、あんたは小春かその子供か……どっちかは知らんけど生まれ変わりやろ」

 夢を見た。優しい母の声と、店を守るという決意の言葉。爆ぜる炎の音と悲鳴。そして黒狐の話。全てを繋ぎ合わせた先にあるのは、男の言う〝小春〟が〝母〟であるという一つの解だ。

「母さん……」

 ぽつりと零した嫩菜の一言で確信を得たのか、黒狐はにやりと笑った。

「子供の方やったか。まぁ小春の生まれ変わりやったとしてもやることは変わらへんのやけど」

 そう言うと黒狐は牢の鍵を蹴り壊し、嫩菜に歩み寄った。抵抗する力のない嫩菜はあっという間に黒狐の腕の中に収まってしまう。

「彼女に何をする気だ……!!」

「殺す」

「やめろ!!」

「あ?何言うてんねん。あんたも殺そうとしとったやないか」

「違う!儂は……!!」

「まぁ大人しゅう見ときぃや。別に惚れた腫れたの間柄でもないんやろ?」

 やめろ、と叫んだ縊鬼の声は轟々と燃える炎の音と熱さに悶え苦しむ嫩菜の悲鳴に掻き消された。黒狐が触れた部分から瞬く間に炭化して灰になる。止める暇もなかった。獄炎と渾名される男の妖術は、縊鬼が立ち上がり走り寄るまでの僅かな間に嫩菜を跡形もなく塵にしてしまった。

「何と、いうことを……」

「別にえぇやろ、どうせ死ぬんやし。用済んだし帰るわ。後追いたい言うなら止めへんよ」

 ほな、と縊鬼に背を向けた黒狐だったが、数歩進んだところで足を止め振り返る。

「あぁ、そうや。一応言うとくけど、満月は明日の晩やで。残念やったなぁ」

 凶悪な笑みを残して黒狐は去っていく。縊鬼はその背中に向かってしゃがれた声を振り絞った。

「ッ……死ね!死ねぇぇぇ!!!」

 たった二文字に全力を込めた呪詛は、黒狐に届くことはなかった。全て聞かれていた。知っていて、その上で嫩菜を目の前で殺したのだ。何も出来なかった。遺体は灰になり、縋ることすら許されない。

「あ゛ぁぁぁぁぁぁ!!!」

 黒煙燻る牢の前で、縊鬼は為す術なく蹲った。喉が枯れるまで叫び、骨が剥き出しになるまで非力な腕で床を殴り続けた。

 ひとしきり暴れた後、縊鬼は呆然と牢の外へ出た。嫩菜を甚振っていた牢番たちは首と胴体が泣き別れになった状態で倒れていた。嫩菜の他に収監されていた罪人たちも悉く同じ姿で死んでいた。彼らにかける情けなど一切ないが、嫩菜の仇だけは必ず取らなければならない。

 側から見れば結末は同じかもしれないが、縊鬼は確かに彼女の幸せを願って死へ導こうとしていたのだ。それを横から無惨に奪われた。

「……礼に何が欲しいか、決まったぞ。銀雅」

 黒狐を殺して自分も死ぬ。そんな身勝手な恨みを煮え滾らせて、縊鬼は牢を後にした。


 ぽたり、ぽたり。

 満ち足りない月に照らされ流れ落ちた赤が牢から続いている。それが途切れた先の縊鬼の行方は、杳として知れない。

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