第8話 田所松江の最期

「持ってきた? はい」

 午後1時すぎ、本山が訪ねると大家の田所松江は無遠慮に右手を差し出した。

「なに突っ立ってんのよ。家賃、持ってきたんでしょ? ほら早く」

 右手をさらに本山の顔の前に突き出す。

「これから出かけるんだから早くしてちょうだい」


 すると──


「ぎゃっ」

 突如、田所松江は後方に倒れ仰向けになった。

「な、なっ、何を・・・・」

 反射神経が緩慢な高齢者はすぐには立ち上がれない。

 驚きに見開いた目には予想だにしなかった事態への恐怖も浮かんでいる。


「舐めやがって」

『ほら、殺れよ』

「クソババアが」

『殺れって!』

「お前なんか」

『殺れ!!』


「ぎゃあっ」


 短く重い悲鳴をひとつ上げ、田所松江の身体は小刻みに痙攣したかと思うと間もなくその動きを止めた。

 本山は左胸に刺した包丁の柄から手を離すと、馬乗りになったその身体からゆっくりと立ち上がった。


 8部屋あるこのアパートの他の住人は皆、仕事で出ており昼下がりのこの時間には誰もいない。

 右側と裏は雑木林、左側は人通りの少ない道、前面は駐車場──

 白昼堂々の凶悪な犯行は誰にも知られないまま、ひとりの老婆がその人生を終えた、否、強制終了となった。


 本山は不敵さと満足感の入り交じった表情で一階の端の大家部屋を出ると、周囲を見回すこともなく悠々と歩き出した。


『次、行くぜ』

 脳裏に禍々まがまがしい声が響く。

「ああ」

 本山の口から呟きが漏れる。


 脳裏に響く禍々しく重い声に、すでに本山の意識は完全に支配されていた。

 その全身を異様な妖気が取り巻いている。

 自らの全身が得体の知れないそれに覆われていることを、本山自身は知るよしもなかった。


 


 

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