第5話 憑かれた男

 目覚めは最悪だった。

 午前6時──

 本山孝太は目を開けるなり舌打ちをした。

「胸糞悪っ!」

 そう吐き捨て、枕元のタバコに手を伸ばした。


 築40年の古アパートの一階。

 薄いサッシ窓の外の音が否応なしに室内に侵入してくる。

「おはようございます」

「ああ、おはよう。早いわね」

「今日は早番なんで」

「そう、気をつけて行ってらっしゃい」

(クソ大家が!)

 窓越しに聞こえてきた朝の挨拶に本山は心の中で毒づいた。


 80歳近いながら、このアパートの大家として周辺の掃除などの雑事含め管理の全般をテキパキとこなす田所松江。

 本山は初対面の時からこの大家が苦手だった。


 4ヶ月前、付き合っている女と暮らすため格安物件を探していた時に見つけたのがここ【田所ハイツ】だったが、当時バイトすらしていない本山では借りることが出来なかったため、スーパー勤めの彼女が名義人となり入居をした。


 入居前面接の日──


「近田幸子さん、スーパー丸山にお勤めなのね。年齢は25歳。で、同居をされるのが本山孝太さん、お仕事は・・・・無職? 年齢は37歳・・・・ひと回りも違うのねぇ。で、無職──」

「今、仕事を探してるところなんです」

 痛いところを突かれて憮然とする本山の横で近田幸子が早口で言った。

「そう・・・・ま、お家賃2ヶ月分を先に入れてもらえるなら別にね、こちらは何も・・・・」

 そう言いながら大家が一瞬チラリと見下すような視線を自分に投げたのを本山は見逃さなかった。


(嫌なババアだ)


 無駄にプライドが高く自意識過剰。

 他人のちょっとした言葉に『馬鹿にされた』と思い込み憎悪を抱く被害妄想。

 自分の意にそぐわない事があればキレる怒鳴る暴れる──社会不適合──本山は世間からそう評されても仕方のない男だった。


 そんな本山と近田幸子が同棲するに至った経緯は単純なもので、流行りのマッチングアプリを互いに初めて利用し、最初に会えた相手というだけの出会いから、ほどなくして何となく『一緒に住むか』となった。

 その時点で前のバイトを辞めていた本山は「しばらく家賃は私が出すから就活して定職に就いてね」という幸子の言葉に依存し、暮らし初めてひと月でヒモと化した。


 そして先週、同棲開始から4ヶ月でそんな暮らしに根を上げた幸子が姿を消した。

 家賃どころか生活全般をおんぶに抱っこ、その上パチンカスな12歳も年上のオヤジを養うなどあまりにもバカバカしい──逃げ出すのは当然だった。


「本山さん、近田さんは?」

「あー・・・・」

「あー、って何?」

 本山が一人になったことは大家にはすぐに知られた。

 毎月手渡しの家賃を幸子が持ってこないことに不審を抱いた大家の田所が昨夜ふいに部屋に来たのだ。

「いや・・・・いないです」

「いない? お仕事?」

「・・・・じゃなくて──」

「やっぱり!」

「え?」

「逃げられたんでしょ」

「・・・・」

「は、そりゃそうよねぇ」

 吐き捨てるように大家はそう言い、やれやれと首を振った。

「どういう意味ですか?」

 図星に対する歪んだ意地で本山は切り返した。

「だってあんた働いてないでしょ? ここに来てからも結局ずっと無職でしょ。そんなんじゃ捨てられるに決まってるわよ」

「・・・・」

「ま、どうでもいいわ、そんなことは。とにかく話は家賃のことよ。ここに住み続けるならキッチリ払ってちょうだいよ? 毎月末日にね。ということで、はい」

 本山の顔の前に、ぬっ、と右手が差し出された。

「今日、末日だから。払ってちょうだい」

「え・・・・」

「無いの?」

「・・・・今夜はちょっと・・・・」

 汚ならしい無精髭を無意識にさわりながらボソボソと本山は言った。

「困るわねぇ・・・・じゃ明日、必ず払ってね。夕方までに持ってきてちょうだい。いい?」

「・・・・」

 本山は無言で力なくうなづいた。

「あ、それから」

 ドアを閉めかけながら、続けて大家は言った。

「明日払えなかったら3日以内に出て行ってちょうだいね!」

 本山の前で古びて建てつけの悪いドアがバタン!と荒っぽく閉まった。


 朝──


(俺が何したってんだ!)

(悪いのは逃げたあいつだろ? 俺は被害者だ!)

(出て行けだと? 俺に死ねって言うのか!)

(大家の奴、俺を舐めやがって!)

(許さねぇ!)


 自業自得という言葉が本山の辞書には載っていないかのような逆恨みの暴言が、まだ寝起きの脳裏に激しく渦をまいた。


 その時──


『消しちまえ!』

(?!)

『憎いだろ? 殺っちまえよ』

(何だ??)

『殺れよ、な? 消えてほしいだろ?』


 頭の中で声がした──はっきり、明確に。


「おかしくなったのか?」

『いや、お前は正常だ』

「?!」

 ひとり言に即座に反応され、本山は動揺した。

 身を起こし、とりあえず落ち着こうと昨夜の飲み残しの缶ビールに手を伸ばす。


「え?」

 手に取る寸前、ビールが──浮き上がった。

「はっ、はああああ?!」

 テーブルから1メートルほどの空間に静止をしたままの缶ビール。

「ちょっ・・・・え・・・・なっ、何だ?!」

『信じるか?』

 また、声がした。

「い・・・・や・・・・こ、これ一体──」

『飲めよ』

「うわあっ」


 突如、ビール缶が目の前に移動した。

 同時に、それをしたモノが本山の目に入った。 

 尖った黒い爪、節くれ立った太い三本指──

 それを備えた"手"だけがビール缶を握っている。


「なっ、なっ、何なん・・・・」

 恐怖と緊張で全身がガチガチに硬直した本山は、震え声を絞り出した。


 ──「鬼だよ」──


 頭の中ではなく、今、その声は狭い室内の空間にはっきりと響いた。

 それは人の声とは異なる、まるで汚泥の中から沸き出たような重く禍々まがまがしい響きを放っていた。



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