終章

終章




 ニシノライラックは今年の目標をG1『ジャパンカップ』に設定した。


 次走はG2競走である京都大賞典を使う予定で、そこが小野寺陣営にとって多頭数競走の試金石となる。


 鞍上は町村から乗り替わり、ベテラン騎手である武田信也に託されることになった。


 五〇代となった今現在も最前線を走り続けている世界的名手である彼ならば、ということらしいが、聞くところによれば向こうから興味を示したとのことだった。


 このことに町村は納得していた。


 マッチレースと多頭数のG1競走では勝手が違うし、自分の格ではお呼びでないことくらい理解していた。今回のレースで役目を果たせた、その事実だけで満足だった。


 ただ、香澄からは「少しは悔しがりなさいよ」と小言をぶつけられた。


 しかし、ニシノライラックは強い馬だ。


 自分が乗るわけにはいかない。


 一流の騎手とは、強い馬を勝たせる騎手のことをいう。


 馬の邪魔をせず、馬の良さを引き出し、一番人気を背負った上で、そのほかの騎手たちからの厳しいマークを受けながら勝ち切ることが出来る騎手。


 その点、自分はやはりその域に達していない三流なのだ。


 期待されていない気楽な立場で、強い馬、強い騎手をマークし、レースを荒らしてその間隙を突く。そうすることで少しでも上の賞金を咥えて持ち帰る。以前であれば、掲示板に載ることだけを至上命題としていた時期もある。


 弱い馬に乗るしかない身としては、そうすることでしか騎手を続けられなかった。


 ニシノライラックは今回のレースで間違いなくマークされる存在になる。


 彼は本来の姿を——文字通り、馬脚を露したのだ。


 そんな馬にほんの一瞬でも関われただけで、素直に嬉しかった。




 騒動の原因でもあった柴崎浩平はと言えば、あのレースを最後に日本を出た。


 海外渡航届を出し、カナダで騎手をすることになったそうだ。


 結局、しこりを残したままでノーサイドとはいかない結末だった。


 仲良しこよしをしたいわけでは無かったが、敵対したいわけでもない。香澄や小野寺厩舎に対する仕打ちは許せるものではないが、彼の心中は何となく察してはいた。


 同情する気が無くとも、馬主の西野貴文もマッチレースの結果から考えを改め、転厩を取りやめてくれたことから、それ以上は何も望まない。個人的な感情は、時間が解決してくれることを祈るばかりだ。


 騎手を続けていれば、いずれどこかで会うこともあるだろう。


 その時は、互いに苦笑いくらい出来ればと、そう思った。




◇ ◇




 マッチレースを勝ったからといって、何か特別な変化があるわけでもない。


 オベイロンに命じられた通り、三流騎手らしく弱い馬に乗り、彼の助力で弱い馬を勝たせていく。オベイロンが意図しているのかどうか、それはわからないが、馬産業界、ひいては競馬界への反逆の手助けを続けるだろう。


 オベイロンのしていることは、強い種牡馬の選別を旨としている競馬界への抵抗だ。


 彼が以前語っていた「種を選別される謂れは無い」という言葉の通り、人のエゴに抗っていくのだろう。


 自分はオベイロンに出会う以前のように、競馬を見ることが出来なくなっていた。


 そして、きっと彼が正しいのだと思いながらも、結局は問題の先送りという立ち位置を続けるのだ。


 競馬はいつか無くなるのかもしれない。


 自分たちは批難されるのだろう。経済動物だ何だという言葉や法律の括りは何の免罪符にもならず、命を玩具のように好き勝手する罰が下るのかもしれない。それでも、引け目に感じながら自分は騎手を辞めないのだろう。あの時、ライラックの心に触れたような気がしてもなお、騎手を続けるだろう。


 もう少しだけ、一緒に居させて欲しいと懇願を続けるだろう。




 こうした思いを抱えながら、結果を伝えるために町村は一人、彼の根城を訪れた。


 レースをやり遂げ、狂騒の一日も終わろうとしていた夜更けの厩舎。


 待ち構えていた王様に、レース中の出来事と、ライラックの心に触れたような感覚、そこから芽生えた罪悪感を吐露したのだ。


 すると彼は、ブルフフフ、と鼻を鳴らす。


 王冠をこれ見よがしに見せつけ、王の威厳を示すように首を立てて見下ろしてきた。


「自然界にあれば、幸せである——ということもでもあるまい。自然の摂理を受け入れること、それが幸せである——ということにもなるまい。その自然云々ということも、貴様らサルが定義した貴様らのエゴそのものに過ぎない。大草原の中にあり、肉食獣の脅威に怯える生活を強いられ、病や怪我に抗することもできずに死に絶えることが、幸せであるとも、余は思わぬ。安全と食、住処を確保された生活の代わりに自由を奪われ、サルどもの意思で未来を決められる生活も——幸せである、とは思わぬ」


「じゃあ、何が正解なんだよ」


「それがエゴなのだ。正解などどこにもありはしない。ただ抗うのだ。余が余である限り、人がそうであるように、動物もまた答えのない世界に生きておる。余は使命を果たし、彼らを王国へと召し上げる。人の世など知ったことではないさ。貴様らは貴様らで、精々抗い、答えを模索するが良い。そしてその答えが見当違いであると思い立ち、再び彷徨いながら旅を続けるが良い。余には貴様らのことなどわからぬ。余はサラブレッドの王——キングオベイロンである」


 だが——とオベイロンは言葉を切ってから続けた。


「答えを与えてやれぬが、真実があるとすれば、それは各々の心に芽生えた感情の欠片だ。人が感じたこと、馬が感じたこと、その一瞬一瞬を切り取れば、そこは真実だ」


 オベイロンは向かいの馬房に顎をしゃくった。


 そこで初めて、ニシノライラックの馬房に、香澄とライラックが居たことに気づく。


 会話を聞かれたのかと一瞬焦ったが、一人と一頭は互いに身を寄せ合うように眠りについていた。ライラックは甘えるように香澄の膝に顔を寄せ、彼女はライラックの大きな頭を抱き寄せているようで、思わず笑みが浮かぶ。ライラックは言わずもがな、香澄にとっても、大変な一日だったに違いない。


 離れたくないという気持ちも、よくわかる。


 信頼という言葉、絆という言葉、繋がりを表す様々な表現が思い浮かんだが、そのどれもが安っぽく感じられた。言葉は不要なのだろう。


 この光景だけが、この瞬間の真実なんだ。


「して、サルよ。問答を終えて貴様はこれからなんとする」


「変わらない……変わらないよ、オベイロン。これからも走り続ける」


「ふん、走るのは我らだ、ジョッキー。しかしどうしても走りたいというのなら、貴様らに騎乗して鞭を振るってやろう。いつでも申し出るがよい」


「勘弁してくれ、お馬さんには感謝してるよ」


「そう、それでよい。その気持ちを忘れるでないぞ、町村——いや、サルよ」


「言い直すなよ、馬鹿」


「余は鹿ではない!」


 ヒヒーン!






 




 




 忘れられない光景があった。


 その馬の名も、馬を駆る騎手の名も覚えていない。


 幼少の時分、切り取られた記憶の中に在り続ける憧憬。


 常に心の中に在り続けたあの情景。


 あの場所へ、あの鞍上へ——。


 掌に残る熱い手綱の記憶は、未だ醒めることを知らない。


 王の号令のもと、夢路は続いているようだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キングオベイロン 第13Rのダービー馬 おうみとんぼ @o-mitonbo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ