五章 13R 2


『本日は放送時間を変更してお送りしておりますが、皆さん待ちに待ったといった雰囲気でしょうか。場内は不思議な高揚感に満ちているように思われます。最終レースは先ほど終わりましたが、NRA特別競走枠、第十三レースが間もなく発走となります。実況は引き続きわたくし、谷川。解説は元騎手でダービージョッキーの遠藤ノーラン氏に、お越しいただいております。最後まで、よろしくお願いします』

『はいヨロシク』

『今回は異例の特別枠、第十三レース、正式なマッチレースとなりました。私自身、競馬実況を務めてきて、二〇年で初めてのことです。遠藤さんはいかがですか?』

『ただのレースじゃないからね。マッチレースだからね。三十年ぶりでしょう? そりゃあみんな観たいでしょう。お客さん誰も帰ってないんじゃないかな』

『本日の昼に発表された来場者数は一〇万人でした。それだけ注目に値する一戦と』

『夏競馬でこれだけ呼べれば大したもんだよ。今日日ダービーや有馬だって人を呼べなくなってるのに』

『えぇ……と、今回はメディア各局が挙って取り上げた影響もあるかもしれません。それだけマッチレースというのは興味を掻き立てられるものだったと』

『NRAは万々歳だね。毎週やれば良いんじゃないかな』

『さて! 遠藤さんには先ほどパドックを見ていただきましたが、二頭の馬をどうみましたか?』

『正直ねぇ、パドックを見てもわからないんだよね、俺。騎手の時も何となく、ああ、良い雰囲気だなぁってくらいで。それで走ることもあれば肩透かしに終わることもあるからね』

『乗ってみなければわからないと』

『返し馬の時くらいだね、勝てそうかなとか思えたのは』

『では、あえて選ぶとしたら、どちらが上と取りますか?』

『どっちも良い雰囲気だったよ。ただ、あえて選ぶとしたら、騎手で選ぶかな』

『……また、騎手ですか』

『柴崎はもう言わずもがなだけどね。鳴り物入りで一気にトップジョッキーに肩を並べたし、チーム柴崎が鞍上に据えるのも、まあ理解はできる。最近の騎乗を見ても悪くないと思うよ。ただね、小野寺厩舎が町村を屋根にしたのが気になってるんだ。町村はぎりぎり現役時代と被ってるから知ってるんだけど、まあ不思議な奴でね。馬券買ってる人なら分かると思うけど、一発を持ってるんだよね。これを持ってるから、馬券を買ってる人は馬柱を見てこいつの名前があると怖がるんだ。窮鼠猫を噛む騎乗っていうか、あまり乗れてない割に、勝負だけは知ってるんだ。別のトップジョッキーを乗せるって選択肢がある中で、あえてこいつを鞍上にしたってことは、何かあると見るべきだね』

『町村騎手は小野寺厩舎に所属していますし、その縁ではないでしょうか』

『あれそうだっけ? じゃあ今の話は忘れてください』

『……では、返し馬を見ていきましょう』


◇ ◇


 香澄に送り出され、ニシノライラックと共に本馬場へと出た。

 馬上からの景色は壮観だった。

 最終レース後とは思えない。

 スタンドを埋め尽くす群衆と彼らの大歓声、そして荘厳な入場曲に迎えられた。

 場内のアナウンサーの声すら耳に入らないほどの音の暴力、流石に馬への影響が気になったが、ライラックはホームストレッチの中ほどで脚を止め、耳をピンと立てて観客を観察していた。集中力が削がれるので物見するのは歓迎できたことではないが、今日は馬が納得のいくまで観察させてやることにした。後発のゴールデンハインドが出てきたところで、ライラックは思い出したように駆け出して返し馬に入った。

 この時点での乗り味は悪くはないが、やや迫力に欠ける。

 遠巻きから見たハインドの返し馬と比較すると、力強さではやはり相手方が上にみえる。

 町村は頭を振った。

「大丈夫。なあ、ライラック」

 ライラックはリズムよく走り駈足に落ち着いていく。

 その最中にも、彼は耳をクルリとこちらに向けて鞍上に意識を集中しているように見て取れた。普段は何を考えているのかわからず、調教中ですら意思の疎通が出来ているのか定かではなかったのだが、コンビを組んで以来、初めてライラックがこちらを意識しているように思えた。

 オベイロンが居れば確かめられたのだろうが——帰ったら、聞いてみよう。

 その為に、やるべきことをやる。

 

 スターティングゲートは日本ダービーが行われるコースと同じ、正面スタンド前だ。

 大観衆の声が直接届く狂騒の中、馬の集中力をどう持たせようかと苦心する。だが馬の状態以前に鞍上である自分の方が緊張してしまう。こんな形でダービーのコースを走ることになるなんて思ってもみなかったし、平場ですら二四〇〇メートルを走ったことはない。

 ダメだ——これも斤量だ。

 期待も不安も、情熱も全て捨てよう。

 大丈夫。きっとこのコースは、自分よりもライラックの方が詳しいはずだ。

 NRAの係員がロープを張って馬の行動範囲をゲート後方で制限し、ライラックとハインドはそれぞれ職員に牽かれながら輪乗りをしてその時を待った。

 今回のレースはグレードレースではない。

 台に上がり枠入りを指示するスターターが赤旗を振っても、ファンファーレが演奏されることはないのだ。しかしこの歴史と伝統あるコースにダービー馬との一戦を控え、平場と同じスタートというのはあまりに味気なく、ライラックに聞こえる程度の声でファンファーレを口ずさんだ。

「たーんたたたーたたたーん」

 すると彼は、耳をクルリと回して反応し、上下に首を振った。

 その様子がおかしくて笑みがこみ上げ、ライラックの頭をガシガシと撫でてやった。

「行きますよ」という職員に促されるまま、枠入りが始まる。

 枠や馬番に関してはイレギュラーなレースということもあり、二頭は五枠からのスタートとなる。それで公正が保たれるわけでもないが、技量と能力が少しでも試される状況に置かれるだろう。

 内①番ニシノライラック

 外②番ゴールデンハインド

 多頭数レースのように枠に収まってからの駐立時間は殆どない。

 見慣れたゲートの真ん中で、周囲が伽藍とした見慣れぬ光景。異例の状況にもライラックは大人しく枠に収まり、立て続けにゴールデンハインドが隣に収まる。

 この短時間で心を整えられるだろうかと一つ息を吐きだす。

 ——違う、自分は必要ない。

 ゲートが開いた。


◇ ◇


 ——上手く出た。

 ハインドはスタートがあまりうまい方ではなかった。

 ダービー時も出遅れて最後方からのスタートしていたこの馬だが、祖父も欠点をそのままにしておくほど耄碌してはいないようだ。

 このまま内ラチを取りに行こうかと思い視線を左に寄せると、ニシノライラックがぐんぐん速度を上げて併せ馬の形をとってきた。このまま自分を外に追いやって外々を回すつもりだろうか。

 せせこましい真似しやがって、と鞍上を一瞥すると、呆気に取られてしまった。

 ニシノライラックに誰も乗っていない——まさか落ちたのか? 

 しかしそんな訳はなく、併せ馬の形から徐々に内目へと逸れていくライラックの鞍上には町村が収まっていた。空目して反応が遅れたことに舌打ちし、前を叩くためにピッタリとついていく。

 スタートからの行き脚は互角。

 レースの展開はそうそう突飛なことにはなるまい、その考えの通り、次第に平均的なペースへと落ち着きながら最初のコーナーまでライラックの背後に取り付いて進めた。

 戦略なんてものが果たして必要なのか疑問だった。

 両馬の背中を知っているのは自分だけで、これは有利に働く。力の差は明白だ。

 同じペースで進め、同じような競馬でただ力を見せつけてやってもいい。

 ゴールデンハインドはそれが出来る。

 だが町村はこのコースを知らない。

 セオリーとしてスローペースだと考えているに違いないが……どちらが騎手として上なのかを見せつけるいい機会でもある。

 加えて、いつもと違う環境のせいかハインドがやけに行きたがっている。

 浩平はニヤリと笑い、かき乱してやることにした。

「どっちがこのコースの王様か教えてやる」

 緩やかに左へ弧を描きながら第二コーナーへと向かう道中、浩平はハインドを外に出してライラックへと競りかけた。併せ馬の形になった途端、二頭の馬は火が付いたように加速する。だがコーナーが近づくに連れて、大型のハインドに気圧されて萎縮したのか、ライラックの走りが徐々に鈍り始めた。次第に競り落ちていくライラックを横目に見ながら先頭を奪い取る。

 ニシノライラックの闘争心はやはり枯れている。

 軟弱な馬だと浩平は鼻で笑った。


 馬主席で固唾をのんでレースを見守っていた小野寺は声を上げた。

「ああ! あんな大きな体に寄られたら——」

 西野も前のめりでレースの展開に唸り、先頭に立ったゴールデンハインドの映像を見つめながら尋ねた。

「やはり、経済コースの取り合いといういことになるのかね、小野寺先生」

「それは……やはり内ラチをキープするに越したことは無いでしょうが、二頭ではあまり関係ないかと。ハインドのプレッシャーに気圧されてライラックが嫌気を差してしまわないかの方が心配です」

「だが鞍上は落ち着いているな」

「あまり後ろで構えているわけにもいきません。東京の馬場では前が止まらないことも多々あります。体勢変わらずこのままの形でレースが終わるかもしれない。しかもユー君……町村騎手は東京二四〇〇の経験がない」

「恒例のスローペースからのよーいドンにはならないと?」

「最後の直線までスローペースに付き合ってくれれば、コース経験は関係ないと踏んでいたのですが、柴崎浩平は足元をみて動いてきた可能性があります」

 そういって小野寺は薄くなった頭を撫でてから首元を押さえ、渋い顔を作った。

「ふむ……だが先生、町村騎手は戦うことを選んだようだ」

「ええっ?」

 モニターには、向こう正面を駆ける二頭の馬。

 ニシノライラックが背後からハインドに競りかけて行った。


 柴崎厩舎調教師の柴崎博は息子のレースを険しい顔で見つめていた。

 それぞれの騎手が決め打ちの作戦でレースが流れるのならば、あとは馬の力比べになっただろう。直線だけの競馬でもハインドが負けるとは思っていないが、浩平が仕掛け、町村が応えたことでこのレースはつぶし合いに発展しかねない危うさを孕み始めていた。

「これがマッチレースか」

「落ち着けよ博、浩平なら大丈夫さ」

 兄の哲はこちらの心中など毛筋ほども思い至らないのだろう。

 豪放磊落と言えば聞こえは良いが、昔から他人への配慮に欠けていた。鈍感で自己中心的な性格が災いして、結局独り身に落ち着いているような男だ。矯正なんて手遅れだろう。不幸なことに、この兄に懐いている息子の浩平まで身勝手な性格に育ってしまった。

 その結果がこの柴崎の恥部を凝縮したようなレースなのだ。

 馬の事ばかりにかまけて息子への教育を怠った天罰とすら思っている。

「タフなレースになるな」

 カツン、と杖を床に打ち付けたのは馬主席に腰かけた父の俊平太だった。父は背筋をまっすぐに正したまま石造のような居住まいでレースを凝視している。

「タフで結構。そうこなくちゃ博打じゃねえ」

 不敵な笑みを浮かべた父に心の中で舌打ちし、モニターに視線を戻した。

 痴情の縺れなんてものから発展したこの諍いは、本来であれば禊という形で治めなければならないはずだった。なぜこうも——純粋に競馬をやらせてもらえないのか。

 柴崎の家に生まれたばかりに身動きが取れない。

 博は忸怩たる思いで自分が置かれた環境を呪った。そして、その状況に抗うことすらできない自分自身を深く恥じた。

 

◇ ◇


「へぇ、やっと喧嘩する気になったんだ」

 第三コーナーへと向かう最中、ニシノライラックが競りかけてきた。

 口元に笑みを浮かべた浩平は、そのタイミングを計ってゴールデンハインドを加減しながら追い始める。

 そのままついて来い。さんざん脚を使わせた上でぶっちぎってみせる。

 柴崎浩平という騎手は、ただ勝つだけでは許されないんだ。

 柴崎という競馬サラブレッドの家に生れ落ち、新時代の日本人騎手の代表じゃなければならない。強い馬に乗って、強い勝ち方を常に求められている。

 こんな舞台に引っ張り出されただけでも汚点だというのに、普通に勝てる馬に乗って普通に勝ちました、では恥の上塗りにしかならない。

 浩平は内ラチ沿いをしっかりとキープしながら第三コーナーへと差し掛かった。背後のライラックが遠ざかっていくのがわかる。へばったか、はたまた嫌気か。 

「もうタレたのか?」

 曲がりなりにもオープン馬ならもう少しガッツを見せやがれ。

 このまま差が開いて楽逃げする手もあるが、自分のブランドに塗りたくられた泥を濯ぐ効果が果たしてあるだろうか——つまらないレースだと呆れ、ハインドに息を入れさせようとした瞬間だった。

 猛然とライラックが詰め寄り、外に出して再び競りかけてきたのだ。

「何だ——いきなりっ」

 ハインドの身体が強張る。

 馬の視野は三五〇度にも及ぶ。真後ろでない限り彼らは周囲を見渡す目を持っているが、まさにその真後ろからライラックは接近して突如として競りかけてきたのだ。ハインドからしたら、一度消えた馬が、突然現れて煽ってきたことになる。

 緊張を強いられ、ハインドは咄嗟にハミを噛んで速度を上昇させていく。

「くそっ」

 このタイミングでコーナーに突入し、距離をロスしてしまう。

 持っていかれる——。

 浩平は危険なペースに突入しようとしていることを悟り、ハミを外すことに専念した。いくらゴールデンハインドとは言え、掛かった状態で最後の直線は苦しくなる。息を入れなければと、彼の中で初めて焦りに似た感情が芽生え始めていた。青写真からかけ離れた『いい勝負だった』なんて展開はまったくもって不要だった。

 掛かり気味と言えば、それは町村も同じだ。仕掛けているのにしくじり続ければ、馬の精神にも影響が出てくる。二頭立てとは言え、前の馬を追い抜く行為での消耗は多頭数も小頭数も変わりない。精神とスタミナを摩耗させながら、最後の坂で脚が上がる。

 東京の二四〇〇はスローが代名詞だが、この展開は古馬戦のジャパンカップに相当するものだ。成長して古馬となり、スタミナがついて脂がのった競走馬たちの舞台。

 こなしたことのない距離とタフなペースを、三流騎手が読み切れるなんて夢を見るのも大概にしやがれ——そのまま潰れろ——ッ!

 

 仕掛け合いが始まったことでいよいよ歓声に熱が籠ってきた。

 競争を言葉で飾る実況もそれは同じで、場内の熱量に負けじと興奮の度合いを強めていた。

『二頭による火の出るようなデッドヒートだ! ニシノライラック、果敢に襲い掛かるがゴールデンハインドは抜かせません。やはりマッチレース、二頭とも掛かり始めたでしょうか。ここでニシノライラックがまたも引き離されていく——』

『町村は自分から引いているようにはみせませんね』

『果敢な攻勢が仇となったのでしょうか。ここで力尽きてしまうのかニシノライラック。ゴールデンハインドは依然と巡航速度を保ったまま、間もなく最終、第四コーナーへと差し掛かる。二頭の距離が開き始めました——コーナーに突入、後は直線残すのみ!』

『ハインドは掛かり気味ですね。勢いを押さえられない』

『ゴールデンハインドがカーブで大きく振られた! 内外入れ替わってニシノライラックがインを奪う。町村はこれを狙っていたか』

『ハインドは息を入れるタイミングが無いね。町村の怖いところが出たかな』

『四〇〇を切った! 互いに死力を尽くして高低差二〇〇メートルの坂へ——ッ!』

『二〇〇もある? へぇ』

『クライマックスまであと一息だッ!』


「人のケツ追ってうろちょろしやがって——このホモ野郎ッ」

 ラストの坂、ハインドの手応えが怪しくなってきていた。

 町村はせっかくインを取ったというのに、その有利を捨てて執拗に背後を付け回してくる。ここまで来てようやく相手の意図がわかった。

 初っ端から相手は追い抜く気などなかったのだ。こちらに先頭を譲り、主導権を握らせたと思わせた上で、終始死角から現れてハインドを突いて煽り、息つく暇を与えない——競りかけてきたのは演技だ。

 そんな曲芸紛いの緩急をどうして競走馬に仕込める。誰が予想できる。そうだ、たまたまハマっただったけ——偶然——その偶然がどうして今なんだ。

 忌々しい、忌々しい、忌々しい奴——浩平の脳裏に、パドックで見つめ合う町村の香澄の姿が過ぎった。二人の距離が、交わす視線が、彼女の信頼しきったあの表情が——奥歯を砕きそうになる。

 俺の方が上だ——騎手としても、男としても、持ってるのは全部俺じゃないか。

 それなのにどうして、あんな未来なんて無いに等しい底辺なんかに靡くんだ。

 いつもいつもいつも……いつも俺の邪魔をしやがって。

 あの男がいる限り、こんな不愉快な思いをし続けなければならない。

 心を乱され続けなければならない。

 頭がおかしくなる。

 騎手を生業としている限り、必然的に道は交わってしまう。

 そんな人生は、耐えられない。

 それなら——そんなことなら、二度と顔を合わせなくて済むようにしなければ。

 あの時のように。

「町村ッ——」


——ターフに沈めッ!

 

 浩平はゴールデンハインドの手綱を引いた。


◇ ◇


 気が遠くなる。

 三分も掛からないはずの舞台が永遠に感じられた。

 普段ならば歓声が近づくはずの位置にいるが、今日限っては違った。

 隣町から聞こえる祭りの喧噪のように他人事に感じられる。

 騎乗しているはずなのに、手足の感覚が無かった。

 どうやって鞍上に収まっているのか、どんな姿勢をしているのか認識できず、視野が馬のように広い。自分という物が希薄なる。

 巻き上がる芝生と土くれが視界をゆっくりと流れていく。

 意識が溶けていくようだった。

 ターフを踏みしめる感触が手足を震わせ、両手が前肢に、両足が後肢に、瞬時に繰り返される一完歩が手に取るようにわかる。

 見知った人々の顔が思い浮かんでは消えていくが、それが誰なのか次第にわからなくなり、やがて誰の顔も見えなくなった。

 前を行くゴールデンハインドの後塵を浴びながら、居るはずのないもう一頭の存在を感じていた。スタート時から、ずっと聞こえていた馬の息遣い、鋭い馬蹄のリズム——荒ぶるハインドと浩平のものではなく、もちろん自分たちのものでもない。

 静かなる闘気と滾る熱量を秘めたもう一頭——。

 ニシノの勝負服を纏う騎手に駆られた黒鹿毛の馬がいた。

 ライラックはゲートを出た直後から、彼らの後方に位置付けてレースを進めていたのだ。

 人馬は第四コーナーから前を向き、あるはずのない馬群を縫うようにコースを取る——そして、鞍上がこちらを振り向くと、にやりと笑った。

「井崎さん、それがあんたのダービーコースか」

 駆け抜けていく井崎ライラックのコンビを見ながら、町村にも自然と笑みが浮かぶ。

 ただの幻覚だ。

 あり得たかもしれない未来。

 多くの人々が望んでいた未来。

 もしかするとこれは、井崎とライラックが思い描いていたレースなのか。

 確かめる術などないし、気にしたところで仕方がない。

 その未来は既に過去のものだ。

 ゴリ、という感触と共に、ライラックがハミを取ったことを知る。

「そうか」

 ライラックが待っていたもの。

 彼は井崎修を待っていたわけじゃない。

 この日、この瞬間がやってくるのを待ち続けていたんだ。

 井崎が考案し、香澄が積み重ね続けた稽古は無駄じゃなかった——これは約束だったんだ。決して自分が走ることのない、日本ダービーの舞台を走るという、人とライラックが交わした言葉を介さない約束。

 ハミから手綱を通し、初めて感じたライラックの意思に胸が熱くなる。


「行こうライラック。井崎さんに見せてやれ——お前のダービーをッ!」


「町村ッ——」

 ゴールデンハインドの右に進路を切った瞬間——町村はライラックの手前肢を左手前に替えさせて、推進力が向くままに左に進路を取った。ライラックの歩幅が狭まると、ピッチ走法で坂を猛然と駆け上がり、ハインドの手綱を引いた浩平を一瞬でかわしていく。

 彼の驚愕した顔を尻目に、目標を更に前へと切り替える。

 坂を登り終え、ライラックは歩幅を広げてストライド走法へと変化させた。

 あれほどズブかったライラックが、こんなにも器用な馬であることを知って舌を巻く。しかしながら操縦しているという感覚は全くなく、意見が一致しているという方が自然な解釈だった。今の自分とライラックは、目的が一緒なのだろう。

 淡い軌跡に導かれて馬体が弾む。

 凄まじい加速に空を飛んでいるかのような浮遊感に見舞われる。

 まだまだ——。

 長いこと溜め込んでいた末脚はこんなものじゃないだろう。

 現に井崎に駆られた三才のお前はまだ前に居る。

 もっと、もっと行ける。

 一年前のお前より、今のお前の方がずっと強い!

 町村は鞭を抜いてライラックの横面に突き出し、風切り音を聞かせながら手綱を扱く。

 弾けるような足さばきで全身の筋肉が躍動し、井崎とライラックの影を踏み越えた。

 あとはライラックをゴールに届けるだけ——残り一ハロン(二〇〇メートル)。


——勝った——その矢先、凄まじい熱量に背筋がひりついた。


 例えるのならばそれはオーラとでも呼べばいいのか、慌てて振り返れば金獅子と見紛う猛々しいサラブレッドの猛追を目にした。

 

「走れッ——走れよォオオオオオッ! ダービー馬だろうがァァアアアアアッ!」

 

 鞍上で絶叫する浩平が滅茶苦茶にハインドを追い立てていた。

 手綱を扱くというよりも首筋を殴りつけ、合図を出す意味合いの鞭は懲罰のように振るわれている。

 普通のサラブレッドならば嫌気が差して反抗してくるかもしれない状態だったが、ハインドはその怒りを力に変えているかのような破滅的な走りだ。

 二冠馬の誇り、群れの長としての意地を感じながらも、あんなでたらめな競馬では。

「馬を壊す気か浩平ッ!」

 手綱の感触が変わった。

 何事かと振り向けば、ライラックが少し顔を逸らしてこちらを見つめていた。

 オベイロンではないので真意は定かではないが、嗜めてくるような視線。

 そうだ——相手を間違えちゃいけない。

 挑むべきは幻想の馬でもハインドでも、ましてや浩平などではない。

 心の斤量を捨てる。

 こちらの様子を見て良しとしたか、ライラックは再びハミから力を伝えてくる。

 再び手前脚を替え、ラストスパート。


 ——私は走る。


 あと十完歩。


 ——なんのために走る。


 あと六完歩。


 ——生きるために走る。


 あと三完歩。


 ——理由などなくとも走る。


 あと一完歩。


 ——死の恐怖から逃れるために走る。


 一完歩がターフを叩く度に、頭に思い浮かぶ言葉の数々。

 これがニシノライラックの心の内であるような気がした。

 いや、ライラックだけじゃない。

 すべての競走馬が抱えているものなのかもしれない。

 馬が走る意味を考えて、人はそれに理由付けをしたがる。

 かくいう自分も、人と馬に絆を見出してこの一戦に臨んでいた。

 だが尊いと思ったその考えすらも、人である自分の、単なる自己満足でしかないのかもしれない。

 不安と狂気に駆られて彼らは走る。

 目的や理由もわからぬまま、命じられるがままに命を擦り減らす。

 勝利のカタルシスも輝かしい栄光も、人と馬の間で共有されることはない。

 ゴール板はいつの間にか過ぎていた。

 ゆっくりと速度を落とすライラックの背に揺られ、町村は目を伏せた。

 

 自分には、どうしてやることも出来ない——。


 競馬を無くそうとしたところで、このちっぽけな騎手には肩の荷が重すぎる。

 その為の行動を起こすことすらしないだろう。彼らの運命になんら影響を及ぼすことが出来ない、連綿と続く時代の、ほんの一瞬の一コマ。

 後ろめたさと同居する、決して届かない片思いが辛かった。

 身勝手で救いようのない人間のエゴでしかないが、どうしようも無く好きなんだ。

 馬と人という異なる種が協力して挑む競馬という競技が、愛おしくてしかたないんだ。

 だから、と町村は馬たちに願った。


 ——どうか見捨てないでくれ。


 大歓声と鳴りやまぬ拍手の中、ウィニングランでホームストレッチへと帰った。

 駆け寄ってくる香澄の泣き出しそうな笑顔と、彼女を見つけたライラックが安堵から脱力し、嬉しそうに近づいていったことに少しだけ救われた。

 町村はそっとライラックの首筋を撫でて、彼の労をねぎらった。

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