五章 13R 1


 夏の日差しはこれが最後の大仕事とばかりに熱気を迸らせていた。

 気温は三二度と、一六時を過ぎてこの日の最高気温をマーク。

 既にメインレースが終わり、最終の12レースが今まさに行われている最中。

 普段ならば、メインレースで馬券を外した者たちが頼みの綱と、固唾を飲んで最終レースを見守っている時間帯だが、この日は違った。

 新東京国際競馬場のパドックでは、二頭の馬が周回している。

 馬主の関係者が集まるパドックの中には、二人の老人がパラソル付きのテーブルに腰かけ、向かい合ってカード遊びに興じていた。マスメディアはその様子を遠巻きにカメラに収め、ワイドショーや朝のニュース番組、競馬番組のインタビュアーがコメントを取るタイミングを伺い、更にスタンド側では競馬ファンの群衆が——二頭の馬と、二人の人間に熱い好奇の視線を注いでいた。

 黄色地に黒の十字が入ったニシノの勝負服に身を包んだ町村は、騎手待機所でそれらの様子を不思議な気持ちで眺めていた。


 G1などグレード上位のレースはほとんど行われない夏競馬。

 新馬たちが今後の馬生をかけて鎬を削るこの季節。

 そこへ降って湧いた優勝賞金一億円のマッチメイク。

 三十年ぶりに開催が決まったマッチレースに、マスコミは大いに飛びついたのだ。

 競馬新聞のみならず、一般のスポーツ紙もダービーや有馬記念と同じように注目していた。普段は競馬のことなど関心を示さないワイドショーもここぞとばかりに飛びつき、この一週間のトレセンはメディア関係者が異様に多かった。

 しかし馬への負担が大きいとされるマッチレースを前時代的と批判する声も噴出した。

 馬は集団で生活する生き物で、一頭が前へと行けば他の馬も釣られて速度を上げてしまう。俗に「掛かる」と呼ばれるものだが、マッチレースではこれが顕著に現れてしまう。互いの馬が引っ張り合い、掛かり合い、結果的に限界を超えた走りから故障が発生し、前世紀ではアメリカで行われて以来、実に一〇〇年以上公式のレースから姿を消した。

 しかし技術の進歩、獣医療の発達から、馬の故障に対する治療技術も発展を遂げている。高額ではあるが、故障部位を切除し、最新のサイバネティクスによる神経接続義肢や外骨格もあるため、予後不良(治癒の見込み無し)となって処分される馬も少なくなった。

 だとしても、動物虐待という意見から逃れられるわけではないが。

 マッチレースの開催が批判の的、または消極的になる理由はほかにもある。

 競走馬は高額な経済動物だ。

 個人やクラブが数百万から数千、数億という決して安くない金を出して馬を購入し、わざわざ危険なレースに出走させる道理などない。

 勝てない馬でも、出走手当を順当に稼げば中央競馬ではペイできるし、たまに掲示板に入ってくれれば多少のプラス収支に転じることもある。未来ある馬であれば尚こと、レースで賞金を稼ぎ、種牡馬となって引退後も種付け料を稼いでくれる可能性がある。

 そうした観点から、競馬の主催側からこの手のレースを主導することは無い。

 だからこそ、このマッチレースは注目された。

 マッチレースとは採算度外視——馬主による決闘に他ならない。

 今回のレースは出走馬二頭でありながら優勝賞金一億円と破格の賞金が積まれているが、レースの登録に五千万の参加費が必要となり、一着賞金が一億、二着には何もない。

 勝者総取り——両陣営の意地と意地のぶつかり合いはメディアの恰好の餌食となり、競馬ファンもこの珍しい一戦を歓迎した。

 幻のダービー馬と現役のダービー馬、リーディングトップ10位入りした新進気鋭の若手騎手と上がり調子の穴男、そういった構図を作り、エリート対雑草のように戦いを煽り立てていく。そして町村優駿(ダービー)という本名にも言及され、お茶の間に面白おかしく報道された。その度に、町村はうんざりしてストレスを溜め込んだ。

 予想オッズはゴールデンハインド1・3倍、ニシノライラック4・1倍と、大多数がハインドを支持。ただ、二頭立てということと、穴党による町村票、そしてかつての走りがダービーコースで復活なるかという予想家の期待がライラック票へと流れた。

 テレビや雑誌、ネットでも激論が交わされ、レースの展望が語られる一方、厩舎への直撃取材が行われてメディアが香澄を発見すると、ライラックや調教師の小野寺、鞍上の町村などそっちのけで、たちまち美少女厩務員特集へと変貌していった。

 この一週間はそんな狂騒に包まれていた。


◇ ◇

 

「よくもまぁ引き受けてくれた、そこは感謝しているよ。俊平太さん」

 西野東二はそう言って、テーブルで対面する皺だらけの禿頭の老人が差し出す数枚のカードの中から右端の一枚を抜き取り、自分のスペードの⑧と一緒に捨てた。

「そらあお前、お前を競馬の世界に引き込んだのは俺だからな。引導を渡すのも俺の役目さ。ただ、お前さんは結局うちの馬を買っちゃあくれなかったからな。そんな義理があったかもわからんがね」

「あんたのとこの馬は高い。若い時分、よく知らない世界にうん千万も出せるわけがないよ。しかしまぁ、いまとなっちゃ二、三頭は買っておけばよかったと思わんでもない」

「ははは、安物買いの銭失いだ。金を積んでも走るかわからんのが馬の怖いところだが、庭先から馬主のギャンブルは始まっちょるし、肌馬探しから馬産家のギャンブルは始まっちょる。だが、それだから俺は辞められねぇ——賭けるのが好きなのさ」

 ニヤリと笑った柴崎俊平太は、金の差し歯をギラギラと見せつけて東二の手札から一枚を抜き取り、カードの山へと捨てる。

「人生をかい?」

「そうともさ。お前さんがこの話を寄越してきたときは嬉しかったねぇ、この歳にして股座がいきり立つかと思った。老い先短い人生にまた一つ賭けごとが増えたんだ。身内の不逞に関しちゃ、俺は謝らねえよ。人の世のなんておまけさ、馬の世にくらべりゃ些末なことだ。気に食わねえことがあるなら、競馬ごとで片をつける——俺たちの掟をお前が弁えてくれていた……だからこそ、敬意を表してあの馬を用意した」

「私は、おまけとは思わん。あんたに比べりゃ馬に対する情熱は細やかなものになるだろうが、それでも積み上げてきて、自分なりに答えを得た。人と人の間を取り持ってくれた馬たちに感謝している。これが競馬だとも思っている。俊平太さん、あんた、本当に妖怪になっちまったのかい?」

 東二は俊平太の二枚のカードの内一枚を抜き取り、上がった。

 すると面前の小柄な老人はクツクツと喉の奥で笑いながら指を弾き、ババをこちらに示しながら嘯いた。

「俺ぁ——妖怪よりも馬になりたい」

 もう飽いたとばかりにカードを捨てた俊平太は、帽子を被って席を立った。

「俺のダービー馬はつえぇぞ。なあ東二さん、あんたの競馬、みせちょくれ」

 

◇ ◇


 希望の光が差し込んだ——と言えば聞こえは良い。

 日高の牧場で西野から聞かされた話は、確かに藁にも縋る思いだった自分にとって勇気を貰える価値あるものだった。しかし高揚感に包まれたままトレセンに帰り、寝て起きれば冷静さを取り戻していた。あの時芽生えた考えはオカルト馬券ほどに根拠に乏しく、得ることが出来たはずの確信すら頭上で空転している有様。

 自分の考えが正しければ、ニシノライラックは東京の左回りのコースでこそ真価を発揮する——競走馬にはそれぞれ生来の特徴や訓練で得た走法があり、親から受け継いだ蹄の形や適正距離を左右する心肺機能などがあり、それぞれ得意なコースが存在している。

 これまではライラックの体調や適正距離、開催会場、番組(出馬表)を考慮して探り探りこの馬に合う舞台を探してきた。順調さを欠くそんな経緯もあって、この東京での中距離レースは新馬戦以外に経験が無い。

 だからこそ期待を掛けているわけだが——よしんばここでライラックの素質が開花したとしても、それで勝てるとはならないのが現実だ。

 コースが合っていても、相手方にこちらを上回るパフォーマンスを披露されたらそれまでだし、対戦馬であるゴールデンハインドは、この東京で三歳王者の称号であるダービーの冠を既に戴いている。

 力、適性、そしてダービーを制した強運の持ち主であることは証明済み。

 付け入る隙があるとすれば、これがハインドの復帰戦だという点くらいのもの。

 去年の五月に行われた日本ダービー以降、一年以上のブランクを抱えての出走となる今回だが、日本屈指である柴崎の外厩を湯水の如く使える境遇故に、調整不足を期待するのはあまりにも危険だった。

 柴崎に放牧された馬は鉄砲(長期間の休養明けでも好走できる)が利く。

 その裏付けのように、パドックを周回する栗毛のゴールデンハインドは、馬体が黄金に輝いているように見えた。隆々とした筋肉の張り艶と風に靡く黄金の鬣に、荒ぶる暴君の姿を幻視して思わず息を呑んでしまう。

 この美しく迫力に満ちた神話のような姿に観客たちがパドックから我先にと馬券売り場に行く様が見て取れて、メディアがパドック診断でハインドを称賛するコメントを出すのを目の当たりにして、自分が完全に雰囲気に呑まれていることに歯噛みした。

 勝てるのか——ほんとうに?

『臆病風にでも吹かれたか、サルよ? 情けない奴め、それでも余の僕か』

 この場にはいないオベイロンの幻聴が聞こえてくる。

 いつもならば煩わしいだけの声だが、いま嘲笑の一つでもしてくれたらどんなに気が楽になるだろう——知らず知らずのうちに、あの馬の王様が自分の中で大きな存在になっていることに気づかされた。やはりオベイロンが傍に居てくれるのは、例え賑やかし程度の物であっても心強いのだ。

 スッと、黒い影が横切った。

 黒鹿毛の馬体を日に焼いて、ニシノライラックは静かにパドックの外目をゆったりと歩いている。そのライラックを牽くのは香澄と小野寺だ。小野寺は小心者らしく緊張した面持ちで想像通りだが、普段から肝の据わっている香澄も流石に表情が強張っていた。

 一瞬だけ、彼女の目がこちらを向いて視線が絡み合うも、すぐ前に向き直る。

 ——斤量を捨てろ——斤量を捨てろ——斤量を捨てろ——。

 心の中で繰り返し呟いた。

 どれだけ気丈に振舞っていても、決戦を前にみんな不安なのだ。

 しっかりしろ町村優駿。

 競馬はリレーだ。

 みんなが全力でバトンを繋いできてくれたことに報いなくては。

 騎手として、アンカーの仕事をやり遂げるんだ。

 

「まったく馬鹿々々しいことになっちゃいましたねぇ、先輩」

 そんな軽口を叩くのは、振り向いて確認するまでも無い。

 緩い口元をヘラつかせ、軽薄な目で社会を見下す不逞の輩——こんな印象を抱かざるを得なくなってしまった後輩の柴崎浩平だ。

 香澄の表情が硬かったのも、浩平がこの場に居たことが一因だろう。

 小野寺厩舎を窮地に陥れた元凶でありながら、この場に立ち、まったく悪びれた様子も見せない。自身が犯した所業をこっちが知らないとでも思っているのか、それともすべてを承知してその態度なのか。

 挑発か何かは知らないが、話す気にもならなかったので特に返事もしなかった。が、こちらの反応などお構いなしに浩平はヘラヘラと続ける。

「こんなレースしたところで結果なんて分かりきってるのに。ダービー馬捕まえて準OP並の馬とレースだなんて、馬鹿ですよ馬鹿。ハインドまで持ち出してマッチレースだなんて、動物愛護団体に駆け込んでやろうかと思いましたよ。はぁーアホくさ。先輩も駆り出されて正直迷惑してんじゃないすか? 最近調子良いってのに、こんな事で歯車が噛み合わなくなったらどうするんだって、ま、騎手じゃない連中には分からないでしょうけどね。そうだ先輩、この後飲みに行きませんか? こんな馬鹿げたレース適当に終わらせて朝まで飲みましょうよ。飲んで嫌な事忘れましょ。すげえ可愛い女の子の居る店発掘したんですよ。うちの後輩も呼んじゃって、派手に行きましょうよ。あれ? 聞いてます、先輩?」

 ——斤量を捨てろ——。

「浩平」

「はい?」

「少し黙ってろ。集中したい」

 ——腹は決まった。

「え、マジッすか。勝つ気なんですか? 俺とハインドに? は——ハハハ、アハ——」

 周辺で人の動きが活発になり、NRAの職員が出てきて声を上げた。

「止ま——れ——ッ!」

 パドックの周回が終わり、騎乗指示が出ても浩平は喉の奥で笑っていた。

 それを無視して待機所から出ようとした背に、浩平の嘲りが投げかけられる。

「先輩、どう逆立ちしたってあの馬じゃ……ありゃあどうみても気持ちを無くしてますって。あの馬すげえズブいんですから。厩務員が確り躾をしてないから、自分が何をしているのかも忘れちゃって、その挙げ句にピークアウトっすよ」

 この癪に障る浩平の態度にも、少し感謝した。

 最大の敵であるゴールデンハインドの威容に臆する気持を、浩平への怒りによって払しょくし、自分を奮い立たせてくれたのだから。

 あとはこの怒りも、勝負への恐怖も捨て去らなければならない。

 ——斤量を捨てろ——。

「香澄は確りケイコをつけてるよ。年齢からくる馬体の変化も頭に入れて、微調整を繰り返してる。ライラックも賢い馬だ。まあ、見方によっては頑固者だけど。だからそれを証明しなきゃならない。あの馬に関わってきた人たちがみんな間違っていなかったことを、今日、証明するんだ。お喋りはおわりにして馬に乗ろうぜ、浩平。ジョッキーだろ」

 それだけ言って駆け出していく町村に、浩平は顔を引き攣らせた。

「何言ってんだあいつ——落馬して頭イカれたのか」

 

 それぞれの陣営が勝負を前に、パドックで最後の顔合わせに移っていた。

 気を揉む小野寺は最後までニシノライラックの馬体に異常は無いか、入念にチェックを行っている。その隣では香澄が「もっと堂々としてよ、こっちまで不安になる」と父に苦言を呈していた。

「人事を尽くし天命を待つ——と言ったところだろうか。いや違うな、最後の直線、鼻差の勝負まで、人と馬の力に期待している」

 信用の担保など自分は持ち合わせていないのに、好々爺然としたこの老人は自分に信頼を寄せてくれている。北海道での邂逅があったから、であれば尚のこと弱気ではいられない。自分を叱咤するつもりで、西野が差してきた手を拒んだ。

「——レースの後に、握手してください」

 この程度の気取った台詞すらも自分としては背伸びしている。それをわかっているのか、西野は白い眉を上げて少し驚いた様子を見せ、肩を揺らして笑った。

「今の台詞は、正治さんの面影があったな。期待させてくれる血筋だ、まったく。では、あとは任せる——悔いのないレースを」

 西野はそう言ってから愛馬であるライラックの鼻を撫で、小野寺と二、三言葉を交わし、香澄の肩を叩いてからいち早くその場を後にした。マスコミの波をモーセのように割りながら馬主席に向かって消えていった。

「ふぅ……ふぅ……よし」と小野寺が深呼吸をして緊張を和らげていた。

 決戦の時が近づくにつれて、馬よりも遥かに緊張している。

「いいかい、ユー君、緊張しているだろうけど、お、おち、落ち着いて。いつも通りに騎乗してくれれば良い。最近の君の騎乗なら大丈夫だ。柴崎にも引けを取らない、はず——ああでも二頭のマッチレースとなるといつも勝手が違ってきちゃうな——いや大丈夫! だと、思う! いやそうであってくれでなきゃあウチの、ウチのきききき厩舎がね——」

「落ち着くのはお父さんの方だよ! みっともないから止めて」

 バシンッ、と香澄に肩を叩かれた小野寺は叱られた子犬のようにシュンとなってしまう。

 醜態を晒す父を嗜めた香澄だったが「でも」と呟き、伏し目がちに言った。

「やれることはやったよ。厩舎のみんなにも手伝ってもらって、出来ることは全部やった。これでだめなら仕方ないって、覚悟も出来るくらいには、精いっぱいやった。でもね——やっぱり生まれた頃からあったあの厩舎が好きなんだ。子供の頃から一緒にいた厩舎のみんなとも、厩舎の馬たちとも、まだまだ夢を目指したい。だからね、ダビ夫——あんたも最高の騎乗見せて。私たちを納得させて」

 ニシノライラックの曳き綱を握りしめ、香澄の大きな瞳が真っすぐにこちらを射抜く。

 その眼はもう不安に揺らいでなどいない。やれることはすべてやったと言う彼女の言葉に、嘘偽りがないことは目の当たりにしてきた通りだ。

 視線を転じれば、黒鹿毛が彼女の仕事を雄弁に語っている。

 栗毛をしたゴールデンハインドの見栄えの良い威容に圧倒されがちだったが、ライラックの漆黒の馬体も決して見劣りなどしない。大型馬ではないにしろ、馬格に見合う身のつまったしなやかな筋肉を纏っている。

 ゴールデンハインドを荒れ狂う獅子に例えるとしたら、ニシノライラックは朝靄に包まれた湖面で翼を広げる黒鳥のような優美さがある。動と静、剛と柔、相反する二頭の性質がレースにどう影響を及ぼすか——相変わらず、ボヤっと視線を宙に投げ出して何を考えているのかわからないライラックの額を撫でた。

「信じろよ。お前が育てたこいつを——あと、上がり調子の穴男をさ」

 つい口にしてしまった気障な台詞に、香澄は目を白黒させて数瞬固まり、吹き出して笑った。

「なにさ、似合わないよあんたには。そら、さっさと乗った乗った」

 組手を作った香澄が騎乗を促してくる。

「重いぞ」

「馬相手の仕事してるんだ。五〇キロちょいのあんたなんて猫みたいなもんだよ」

 頼もしいことを言ってくれる香澄の組手に膝を掛けると、ひょいと持ち上げられて鞍におさまった。

 視線が高くなる。

 力強い弾力がライラックの背中から返ってくる。

 脱力していた馬体が張りつめたゴムのようにピンと張り、気合が乗ったようだ。

 鞍上からの景色を目に焼き付けた。

 不安を懸命に押し殺しながら、調教師としてのなけなしの矜持を持って送り出そうと気丈を装う小野寺師。自分が育てた馬の首筋を誇らしげに撫でる香澄。パドックの隅にはカメラマンを伴った美琴がこちらに小さく手を振っている。パドックの欄干には、怪我明けのダービー馬を激励する応援幕が数多く吊るされており、その中に一つだけ、ニシノライラックを応援する幕——『三冠の血を解き放て、ニシノライラック』——が張り出されていた。スタンド側にも未だ二頭に熱い視線を送る競馬ファンたちが居残っている。いつも居る穴党の馬券親父の姿もあって、握りこぶしを振り上げてエールを送ってくれているようだ。

 あと何度、この景色を見ることが出来るだろう。


『勝ちたいか——サルよ』


 この勝負の日を迎えるにあたり、厩舎でのオベイロンとの会話が蘇った。

「勝ちたいか——サルよ」

 何を言うかと思えば、そんなこと。

「当たり前だろ」

 勝負ごとに於いて勝ちたいと思うのは、どんなジャンルであれ、人の性だろう。

 マッチレースには当然勝ちたいし、そのほかのレースだって勝ちたい。何より、オベイロンも自分の使命の為にそれを望んでいるはずだ。勝利に貪欲でなければ、騎手は儘ならない。

 なればこそ、とオベイロンは勝利の秘訣を授けてくれた。

「サルよ、レースに勝ちたいのであれば、貴様は斤量以上の物を持ち込んではならぬ」

「はぁ? どういうことだよ」

 斤量はレースごと、馬ごとに定められている。

 レースの前と後にしっかりと計量されて、厳密に管理されているのだ。

「何も持ち込む余地なんてないぞ。そんなことしたら失格になっちまう」

 ブルフフフ、と憤るような、嘆息するように鼻を鳴らすオベイロン。

「阿保め。余の言葉の意味がわからぬとは見下げた阿呆よな。貴様らサルは、たしかに持ち込んでおるのさ。馬の足を鈍らせる確かな錘を——」

「おもり?」

 斤量以外に持ち込まれる錘。

 そんなものがあっただろうかと、しばし思い悩んだ末に心当たりがあることに気づく。

「勝ちたいとか、そういう……欲みたいなもの?」

「然り」とオベイロンは大きく頷いた。

「心の斤量を持ち込んではならぬ。勝利への欲求——悪いものではない。それが活力となり、良い結果を生むこともあろう。しかし馬にはそんなものはわからない。屋根が欲をかけば、たちまち足取りは崩れる。勝利を欲するな。他者の期待に応えようと思うな。自己満足を満たそうとすることも止めよ。ターフを駆ける一陣の風となれ。さすれば貴様は——人馬一体を得よう。斤量を捨てるのだ、町村優駿」


 地下馬道を進む。

 出口から光が見えている。

 歓声が徐々に大きくなってくる。

 ここを出ればもう始まってしまう。

 小野寺師や厩舎スタッフたちの願い、想いを明かしてくれた香澄、生産牧場のでライラックに携わった人たち、そして競馬ファンや自分のような三流騎手に期待を掛けてくれる美琴、そういったものを蔑ろにすることだとわかってはいるが「ごめんなさい」と心の中で謝った。

 全て捨てる——。

 ターフに上がればもう彼らの手が届くことは無いし、声も聞こえない。

 騎手と競走馬は運命共同体となる。

 馬と向き合うんだ。

 ニシノライラックに寄り添うことだけに徹する。


 斤量を捨てろ——。

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