四章 待ち人 5


 ウッドチップと木屑の粉塵を巻き上げ、香澄が騎乗する未勝利馬へと肉薄していく。

 馬上の彼女が振り向いて、「行け」という視線を送ってくる。

 すかさず手綱を緩めて追い始めた。

「はっ——は——ッ——ホッ!」

 調教中、いつもこんな声を出したりはしない。

 どうにかこうにか、道中の行き脚に見合う気合をライラックに入れられないかと、町村は試行錯誤しているのだ。

 だがライラックの脚色に変化はなく、いつものように耳をピクリともさせない。

 手綱からはハミの感触が全くと言っていいほど伝わってこない。馬の口に渡してある金属棒のハミを取り(咥え)、首を伸ばして全身を躍動させるのが追い込み体勢だ。

 その理想的なフォームを、他の馬がいる状況ではちっとも彼は見せてくれない。

 ハミを取り、「スパートをかけるぞ」とは意地でも言ってくれないのだ。

「オベイロン、ちゃんとライラックに、伝わってるんだろうなッ?」

 コーナーに差し掛かった段階で、頭上のオベイロンに非難するように尋ねた。

「余の言葉が信じられぬと申すか! こやつは必要性を感じておらぬのだ。余に対する敬意こそあれ、サルのスポークスマンに唯々諾々と従うほどの格ではない。ライラックは将の器を持ち合わせておるのだ」

「なんだよ将ってッ、くそ——」

 そんなことを言いながら懸命に腕をしごき、香澄の馬を追い抜かせようと奮闘するも、

「口じゃなくて手を動かしなさいよ! しっかり追え!」

 視界の端に捉えたこちらの姿がいつまでたっても動かないものだから、香澄も焦れて怒鳴ってくる始末だ。

 未勝利馬を相手にこの様では勝負にすらなない。

 結局、ライラックは最後まで余力を残して、一級の背中の感触を感じさせたまま——何もせずに調教を終えた。

 昨夜の香澄との会話で、ライラックの井崎に対する信頼の度合いは想像できた。

 忠犬ハチ公だ。

 大昔の実話で、亡くなった主人の帰りをいつまでも待ちつづけた飼い犬だ。

 波に攫われた旧市街に像があったらしいが、彼は今その状態に陥っている、そう思った。

 もし鞍上が井崎であるのなら、彼は二歳当時に見せた強力な末脚を発揮させられるかもしない。

 事実、鞍上が変わって以降、ライラックの瞬発力は鳴りを潜めている。

 問題は、その井崎が既に他界していること。

 ライラックが待ちわびているであろう彼を鞍上に据えることは永遠に叶わない。

 ならば自分がライラックに認められるしか道は無いのではないか——。

 その一念から、彼に自分を印象付けようと調教に変化を加えている真っ最中だったのだが、あまり効果は認められない。

 一の矢がダメなら二の矢である。


 北風と太陽という有名な童話がある。

 誰しも一度は子供頃に読み聞かされるなりしたものだろうが、旅人の服を脱がせるために北風と太陽が勝負をするお話だ。調教で強引に気合を入れるのが北風流ならば、次は太陽の一手だ。


「あら町村くん、何してんの?」

 というのは、厩舎回りの際に立ち寄ったらしい美琴だった。

 町村はこれ見よがしにライラックの馬房の前に陣取り、好物らしい梨を一口サイズに切ってみせながら、手ずから与えていた。シャクシャクと、梨の果汁を口の端から滴らせるライラックは、機械的に差し出された梨を食べている。

 大喜びしている様子は見せないが、貰えるなら貰ってやるという態度だろうか。

「なんか前は井崎さんも同じことをしていたみたいなんですよ。もっとライラックに信頼して貰わないといけないんで」

「手懐けているわけかぁ」と美琴はしげしげと見つめ、パシャリとカメラに収めた。

「それも町村流の調教術ってわけ?」

「へ? いや、そんな大それたものじゃ」

「ふふ、まあ良いじゃないの。その方が記事にしやすいし」

「記事って?」

「あなたとライラックの特集記事に決まってるでしょ? マッチレースだなんて、こんなビッグイベントそうある物じゃないんだから。しかも持ち回り厩舎の所属ジョッキーが当事者で、私がエージェントを務めてるのよ? もう骨の髄まで吸い尽くしてやるんだから」

 そんな冗談めかして言う美琴に苦笑いを浮かべるしかない。何しろ——。

「私がどれだけ先生方に頭を下げて依頼をキャンセルしてきたか知らないでしょ? せめて本業でお返しして貰わないと割に合わないわ。普段なかなか勝てない馬主さんたちなんて、物凄い悲しそうな顔するんだもの。胸が痛いわよ……」

「その件はなんていうか……ごめんなさい」

「ま、大丈夫よ。相手も相手だし、このマッチレースで勝てば、きっと今以上に依頼が取れると思うの。未勝利オーナーの間じゃ最近有名なんだからね、町村くん」

 頑張ってね、と美琴は小さく手を振って厩舎を後にした。

 こうなることは予想できなかったわけじゃない。

 自分のやったことの裏にはオベイロンの助力がある。実力ではないことが評価されても、それで調子に乗るようなメンタルにはなれない。むしろ逆に怖さがある。いつか自分の両腕に抱えきれない事態になりはしないかという恐怖だ。

 そんな心中を見透かし、揶揄するように背後から声が掛かる。

「貴様が危惧している事態というのは、もう目の前に迫っておるではないか」

 誰の所為かと非難がましく振り向けば、オベイロンが涎をダラダラと垂らしながら手に持っている梨を見つめていた。いつものように王様ファッションの癖に、威厳もへったくれもない。

 抗弁する気も起きない。手中の梨をオベイロンに放ると、彼は器用に口で捕えた。

「なあ、オベイロン。こんなんでライラックは心を開いてくれるかな」

「この者は口数が少ない故、捉えどころがない。容易に事は進むまいて」

「だよなぁ……」

 ライラックは馬房に静かに佇んでいる。壁に掛けられたフォトフレームに満面の笑みを浮かべた井崎が映し出されていた。初勝利を挙げた際に取られた口どり写真での一枚だが、その笑顔が今は憎たらしく見えてしまう。

「——馬は人が死んだことを理解できるのかな」

 その質問の意図は、ライラックに井崎の死を受け入れさせ、次の一歩を進ませることにあった。オベイロンという例外を体験している今でも、馬が井崎の死を知っているとは到底思えない。だがオベイロンが居れば、それを教えてやれるかもしれないと思った。

 しかし、オベイロンの返答は曖昧で、こちらが無力感に苛まれるだけだった。

「わからぬ。目の前で息絶えようものなら、状況から記憶し、学習することもあろう。だが以前も言った通り、我が臣民は余のようにはいかぬ。王国の一員となったならば話は変わるが、言葉のみで現世に生きるサラブレッドが死を理解できるとも思えぬ。そも、余は既にライラックへ伝えておる。『貴様と懇意にしておった人間は死んだ』と。こやつがそれを理解したかどうかは、わからぬ」

 どうしたものか——打つ手が無かった。

 

◇ ◇


 師の隣で坂路調教を見届けたあと、町村は独身寮へと戻った。

 ベッドに寝転がり頭の中は真っ白だ。

 もう時間が無い。

 結局この一か月、密度の濃い調教が行われはしたものの、その手ごたえが無い。

 今朝の香澄の騎乗には鬼気迫るものがあり、彼女の焦りが追う姿勢に現れているようだった。

 ライラックはレースで応えてくれるだろうか……考えれば考えるほど不安が募る。

 もう五日後には運命のレースが始まってしまう。

 何かしなくてはいけないが、何をすればよいのかわからない。

 一人悶々と頭を悩ませている傍ら、テレビの前ではオベイロンがシューティングゲームに興じていた。

「このッ、不敬であるぞ! 余を誰だと思っておるのだ、このっ、この芋砂風情が——なぜ余ばかりを狙う! サルなど他にいくらでも居るではないか! チートである! 先の挙動はおかしい、サルよ運営に連絡せよ! この不届き者をBANするのだ!」

 どういう原理なのかまったく理解できないが、彼はクリオネのヒレのような手で器用にコントローラーを操作し、事あるごとに悪態を吐いている。

 こんな光景を第三者に見られたらいったいどのように映るのか興味があるが——呑気なものだ。

 何の気なしにオベイロンの背を眺めていると、彼は唐突にこんなことを言い出した。

「サルよ、このような房に籠っておっても何の解決にもなるまい。気分転換にどこかへ出かけたらどうだ」

「どこかって、どこさ。映画にでも行けって?」

「良いではないか。あの小娘も誘ってやれ。近ごろ根を詰めすぎておるわ」

「冗談、今そんな悠長なこと言ったら殺されるぜ。馬栓棒で頭カチ割られるのがオチだ」

「では、ライラックの生まれ故郷にでも行ってみてはどうだ。奴の人となりが……馬となりがわかるやもしれんぞ」

「生まれ故郷……?」

 むくりと起き上がり、ボケっと馬産地を思い浮かべた。

 最初は賛同する気になどなれなかったが、しばらくそのことを考えて、ふと端末を立ち上げた。

 ほとんどの日本の競走馬は北海道で生産されている。

 強い馬を作るには広大な土地と、豊かな草地が必要だからだ。

 であるからして、ライラックの故郷は北海道ということになるが、そういえば今までライラックの生産牧場に関しては気にしたことは無かった。柴崎の息が掛かっていないことから恐らく小さな牧場なのは想像に難くない。

 どんなところだろう——ニシノライラックで検索してみれば、それはやはり北海道の日高地方にあった。

「ペケポコファーム?」

「なんと軟弱な名であるか」

 嘆くオベイロンをよそに、その場所の地図を見つめていた町村は、しばらくして徐に立ち上がった。ほかに当てなどないのだから。


 思い立ったが吉日とは言うが、やりすぎ感は否めない。

 朝の調教を終えた町村は、自室で頭を悩ませていたが、オベイロンの一言で午前中の間にトレセンを出た。

 タクシーを捕まえて駅まで向かい、リニアで一気に北海道まで向かったのだ。

 津軽海峡大橋に併設された電磁橋を渡り、午後には札幌駅に到着した。

 ひとまず腹ごしらえと札幌ラーメンを食べてから、無人タクシーで日高までやってきたのだ。

「やっぱり北海道はスケールがデカいな」

 タクシーを降りた場所は、見渡す限りの草原だった。

 本州に居てはほとんど見ることが出来ない地平線が窺えるし、まっすぐに伸びる道路の先は青い空が広がっている。地球が丸いことを実感させてくれるスケール感は、日本ではこの大地くらいのものだろう。

「良い土地ではないか、サルよ。余も体を持ってくるべきであった」

「お前があの身体でリニアに乗り込んできたら大騒ぎだよ」

 旅のお供は、いつものように頭にへばりついた馬面クリオネ星人のオベイロンだ。お供というか、こっちがお供みたいなものだが。話し相手のいない一人旅よりはマシだろう。

「して、どこへ向かう」

「ああ、すぐそこだよ」

 草原に切れ込む舗装されていない砂利の敷かれた脇道が傍にあり、この先にお目当ての牧場がある。

 しばらく道なりに歩いていくと、放牧地を囲む策に沿い、盆地状に窪んだ土地と建物が見えてきた。

 見慣れた形の厩舎とロッジ風の洒落た民家だ。

 放牧地には、今年生まれたであろう小さな当歳馬と牡馬が一緒に草を食んでいた。

 あまりにのどかな光景に、しばし柵にもたれ掛かってその様子に目を奪われてしまう。

 現実を忘れてしまいそうだった。

「どちらさんだい?」と声を掛けられ振り向いた。

 そこにはいかにも牧場勤務の出で立ちの男が立っていた。

 長靴を履いて藁を集める農具のピッチフォークを肩に担ぎ、バケツをひっ提げた無精髭。

「あ、すみません連絡もなく。今度ライラックの鞍上を任されました騎手の町村です」

 自己紹介すると、男は一瞬不思議そうな顔をしたが、次には大きな口を開けて感嘆するような声を漏らした。

「ははぁん……あんちゃんかい! そうだったか、いや、よく来てくれた!」

 途端に男は破顔して、黄ばんだ歯を見せながら笑い、こちらの背中をバシバシと叩く。

 競走馬相手の仕事は馬と人の力比べのような面もある。

 重労働で鍛え上げられた分厚い掌は存外に重く、一撃ごとに脳が揺さぶられる。

「おっと、失礼。私はこの「ペケポコファーム」を経営している飯塚だ。噂の穴男に会えて嬉しいよ。近ごろ評判なんだってね。こりゃ、ライラックの馬券が俄然楽しみになってきたな。しかし、それにしたって何だい突然。ここまで遠かったろうに、連絡の一つもくれれば迎えに行ったよ」

「ただの思い付きで来ただけなんで、そこまでしてもらうのは」

「はは、そうかいそうかい。若者は行動力があってうらやましい」

 飯塚は愉快そうに笑って、こちらを検分するように繁々と見つめてくる。

「六〇代も見えてくると遠出も億劫になるしね。いやね、生産馬が勝って表彰台にあがれるってんなら、いくらでも出掛ける気はあるんだ。東京だろうが、アメリカだろうがフランスだろうが。ドバイだって行きたいもんだ! はは、しかしまあ歓迎するよ。それにしても、今日は飛び入りのお客さんがよく来る日だ」

「迷惑でしたか?」

「迷惑? そんなことないさ。今日に限っては逆だね。丁度いいのかもしれない」

 丁度いい? すると、民家の方から誰かがこちらに近づいてくる。

 牧場関係者だろうかと目を凝らしてよく見てみれば、その小柄なシルエットに見覚えがあり、徐々に自分の背筋が正されていく。

 町村はその人物を待つのではなく、自分から駆け寄った。

「西野さん!」

 その人物は西野東二に間違いなかった。

 高級感漂う場違いなスーツを着こなす老紳士。

 ニシノライラックの馬主にして、自分を鞍上に認めてくれた御仁だ。

 こんなところで鉢合わせるとは思ってもみなくて、動悸が早まっていく。

 それとは対照的に、西野は驚いた素振りも見せず微笑みを浮かべていた。

「奇遇じゃないか、町村君」

「今日はどうしたんです。馬を見に来たんですか?」

「はは……馬を見に来たのはそうだが、もう新しい馬を買うつもりは無いよ。しかしね、どうした、というのはこちらの台詞だ。勝負は来週に迫っているというのに、北海道まで来ていったいどうした?」

 西野の声音や表情からは、自分の行いに対して咎めるような印象は感じなかった。それどころか、胸の内を見透かした上で、好々爺の如く見守ってくれているような慈愛すら含んでいた。

「その……ライラックの故郷を見ておきたくて」

 はた目に情けない姿を晒していないだろうかと、若干気がかりだった。自分から志願した大事な一鞍だ。それを許してくれたこの人には、そんな姿を見せたくはない。

「少し歩こう。飯塚さん、ちょっと散歩に行ってくるよ」

「ええどうぞ」

 西野に連れられて、牧場を一望できる丘へと歩を進めた。

 いったい何のつもりだろう、叱られはしまいかと、内心戦々恐々としていた町村は緊張した面持ちで彼の後に続く。

 そして、西野は徐に丘の斜面に腰を下ろして、当歳馬たちが駆け回る風景を眺め、口火を切った。

「ここは良いところだろう」と。

 こちらの答えを待つ間も無く西野は続けた。

「柴崎の牧場より何十倍も小さいし、設備も整ってはいないが、都会の喧騒を遠くに追いやれる。何かに急き立てられることもない、あるがままの時間を過せるんだ。だから私は、現役の時から度々この牧場にお邪魔させてもらっている。まあ、こんなことを言うと、飯塚さんは『悠長なこと言ってらんないよ』と怒るんだがね。小規模な生産牧場も大分減ったから、当人たちは死に物狂いさ。今日も馬を買ってくれとせっつかれて困っていたんだ。君が来てくれて助かった。誰か新しい馬主でも紹介してやらにゃ、、ここも閉めることになるんだろうな……」

 西野の言葉に対して何を返したらいいのか町村は考えあぐねてしまう。

 だがそれが返答を求めて呟かれた言葉でないことに気づき、彼にならって腰を下ろした。

「数年前、当歳馬を買うために私が小野寺先生と一緒に牧場巡りをしていたとき、ここでライラックと出会ったんだ。けれどその時は、既に先客がいたのさ。誰だと思う?」

「他の調教師の方ですか?」

「普通はそうだろう。だがね、当歳のライラックと柵の中で戯れていたのは、井崎だった。以前から私の馬に乗ってくれたこともあって親交があった。彼は私たちに気づくと年甲斐も無くなくはしゃいで駆け寄ってきてね、そのあとを追ってきたライラックの首を捕まえて『この馬を買ってくれ、俺を乗せてくれ』なんて簡単に言ってくれたよ。それで買ってしまう私も私だが」

 当時を思い出したのか、西野は牧場を見下ろしながら笑っていた。

 大先輩として下から仰ぎ見る形だった町村は、そんな井崎の様子を思い浮かべた。十二分に、想像できる。

 お茶目なおじさんという印象が強い井崎ならば、そのぐらいはやっていたことだろう。

 人懐っこい性格の人だった。

「町村君、ライラックにはもう乗っただろう? どうだった」

 騎乗した所感を尋ねられ、香澄に超えたときと同じく正直に答えた。

 勝てる力はあるが、何かがはまらない、と——そしてついつい、口を滑らせてしまった。

「ライラックが言ってたんです。『待っている』って。きっと井崎さんのことを——」

 そこまで言って慌てて口を噤んだ。こんなバカみたいなことを言って騎手を下ろされたら本当に馬鹿だ。

 しかし、西野はこの発言に目を丸くして「ほう」と感心したように口ひげを撫でた。

「井崎も、似たようなことを言っていたよ。私は一度、あいつに馬と話せるのかと冗談で聞いたことがあった。そうしたらあいつは真顔で『当たり前でしょう』と答えたんだ」

 にわかに信じがたい。

 もしかすると、井崎さんにも自分と似たようなことが?

 はたと思い、頭上のオベイロンに視線を向けた。

 だがオベイロンは首を横に振っているので、恐らく井崎の冗談だったのだろう。

「そうだ、酒の席の話だが——あいつはライラックにダービーを教えているといっていたよ。どんな競馬場なのか、どれくらい走るのか、何頭立てのレースなのか。どんなペースを守れば良いのか。バカバカしい話だと思ったよ、それこそ馬の耳に念仏だ。だがあまりに楽しそうに話すものだから未だに覚えている。あいつが亡くなる、ふた月くらい前の話だったかな」

 「懐かしいなぁ」と思い出に浸り遠い目をしている西野の隣で、町村は頭の中で何かが繋がる音を聞いた。

「あれ」と思わず立ち上がった。

 すぐに電子タトゥーに触れて端末を立ち上げ、ライラックの戦績を確認した。

 どうしたのかと尋ねてくる西野の声も耳に入らず、町村は何度も確認したニシノライラックの情報に目を通してく。二〇〇〇メートルでも勝ちきれず、三〇〇〇メートル以上の長距離でも結果がでず、一転して現在一六〇〇付近のマイル路線を走るライラック。

 スタートや折り合いに問題は無い。

 難があるのは反応の遅さ。

 騎手が追っても鞭を入れても走らず、最後の最後にぐんと伸びて掲示板に入るかどうかという競馬。


 ——どんな競馬場なのか。どれくらい走るのか、何頭立てのレースなのか、どんなペースを守れば良いのか——。


 自分の知らない光景が頭に広がっていく。

 調教の時も、厩舎にいるときも、好物の梨を手ずから与え、ブラシをかけてやっている時だって、井崎が教え込んでいたであろうレース。新馬戦、条件戦、特別競走、前哨戦のレースやG1競走ですら、井崎とライラックにとってはただの前座……それは何の為。

 それは——そんなことあり得ない。

 馬にそんなことわかりっこない——そう思い込もうとしても、心の中で期待感が満ち溢れてくるのが感じる。

 井崎は香澄に折り合いを覚えさせるよう言いつけていた。そうすれば多くの贈り物をしてくると語っていた。

 ライラックが、本当に待っているもの。

「西野さん、ありがとうございます」

「憑き物が落ちたような顔をしているな。こんな老いぼれでも、若者の役に立てたようで嬉しいよ」

 西野は立ち上がると、手を差し出し、握手を交わした。

「レースを楽しみにしている」

「はい、俺もです」

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