第7話 クリスプ

第七話 『クリスプ』


 夏の終わりの休日、私達は横浜へ出かける。恐らく、これが最後になるだろう。昨夜のメールを見てから、ずっと、そんな気がしていた。


「突然でごめん。なんだかさ、急に夜景が観たくなってさ」


 彼は約束の時間に迎えに来た。「来ないで欲しかったのに」私は言葉を呑み込む。


「別にいいよ。予定は無かったし」


「そっか。じゃあ、乗って」


 ドアを開けて気が付いた。今日、彼の車は甘い香りがする。


 ドライブの最中はラジオが救いだった。ラジオパーソナリティが話題をくれるので、その事を彼と話し、たまに笑う。でないと、沈黙になる。私はこのドライブの意味を察しているし、彼もそれを察している。いや、それを期待しているのかもしれない。


「ラジオ止める?曲にしようか?」


 しかし、物事には限界がある。次第に会話は途切れ、ラジオさえ聞こえなくなる。そんな、重たい空気を変えようと、彼はカーステレオに手を伸ばした。


「あ、私がやるよ」


 伸ばした指先が彼に触れた。


「あ、ゴメン」


私はとっさに指先を引っ込める。


「うん」


彼はそのままボタンを操作し、曲を選んだ。微かに見えた横顔が、少し動揺していたと思う。彼のそんな態度の一つ一つが、私の予感を確信と変えていく。それが嫌で、寂しくてたまらない。私は顔を強引に捩じった。そして、触れた指先を掌で包み込む。その指先がとても熱く感じられた。


私の知らない曲が車内に流れる。彼がこんな曲を選ぶとは思わなかった。彼はハードロック調の歌やバラードを好んでいた筈だ。その両極端な単純さが彼だったのに。


自然と目が彼の姿を求めた。それは、助手席の窓ガラスに映る姿を捉える。私は包んだ指先から彼の体温を思い出していた。手、腕、唇、胸、そして身体。彼は温かくて、熱かった。その両方が彼だった。


車は環状八号線を走る。途中、上野毛駅近くで暫く止めてもらった。これは初めてのドライブコースと同じなのだ。あの頃、私達は大学生で、彼は若葉マークのドライバーだった。


あのときのドライブデートは冒険だった。渋滞の無いバイパスは激流に等しく、私達の車は波に揉まれる笹舟だった。彼の運転で車はぎこちなく、その『流れ』から抜け出したが、抜け出たその先には、ハザードを焚くトラックがあった。車線を塞いだ路上停車中のトラックを避けて、ぐるり、と入り込んだ路地が上野毛駅の駅前だった。


「目が回った。ちょっと、休憩」


 彼は交差点を右折し、道端に車を止めた。偶然、目先に白色と水色のコンビニを見つけた。


「あそこで飲み物を買ってくるよ」


 私は助手席を飛び出してコンビニへ走った。ビルの隙間に挟まれた小さな店舗に駆け込み、飲料と食料を買った。そうして、私達は仰々しくも、湘南までの大冒険への再スタートをしたのだった。


― 楽しかったな。


 あの頃は本当に楽しかった。デニムとスニーカーのデート服でも平気だったし、くたびれた国産車でどこへでも出かけた。お金が無かったから一般道をひた走り、途中で迷子になりながらも目的地を目指した。そんな過程が、その時間がとてもとても嬉しかった。


卒業して、就職して、あれから数回、車は変わった。その都度、車は大きく、格好良くなっていった。だけれど、冒険の機会はその都度、減っていったと思う。


 コンビニの袋を下げ、私は白い外車へと戻った。数歩手前で、スマホをいじっていた彼が、私に手を振った。


「お待たせ。飲み物を買ってきたよ」


 助手席のドアが自動で開いた。私は右側の助手席シートに滑り込む。彼は手を伸ばし、荷物を受け取ってくれた。広い車内とゆったりシートが備わった車は、大柄な私でも不便はまるでない。


「サンキュー。幾ら?」


「いいよ、この位」


「そっか。じゃあ、ゴチになります」


「うん」


 袋の中には、大きめのアイスコーヒーとジャスミンティ、そして『クリスプ』の“うすしお”と“コンソメパンチ”が入っている。袋の中から、彼はコーヒーを選び、私にジャスミンティをくれた。そして、残りはそのまま後部座席に置かれる。


「…そっか」


 この場所とあのコンビニ。それらを彼がすっかり忘れてしまった事を、私は知った。それも仕方がないのかもしれない。


カーブの先にある信号を左に曲がり、私達は第三京浜に入った。半円上のカーブを曲がり切った途端、白い車は加速する。


「運転が上手になったね」


流れる景色、流れる音楽、そして、流れに乗った車線の上で、私は呟いた。私達は『流れ』に包まれている。この全ての『流れ』に私と彼は運ばれていくのだろう。


「それ、嫌味?」


「ううん。さっきの入り口を曲がれずに通りすぎた事を思いだしただけ」


「あの頃は目立つ表示が無かったからね」


「そうなんだ…」


語勢が若干だが、強い気がする。私の胸が痛んだ。「ヘタクソ」「マヌケ」と、言い争ったあの時でも、こんな痛みは無かったのに。私は黙ってしまった。彼も気まずさを感じたらしい。


「夜景を見ながら食事にしよう。一応、予約はしてあるけれど、何処でもいいよ」


 突然のデートなのに、準備は万端のようだ。それは何故だろうか?途端にポン、と答えが出る。それが正解なのか、間違いなのか、確認したくはない。


「あ、うん。ソコで…」


「ソコで良いよ」と云いかけた私に分岐の表示が見えた。緑色の標識がひどく目に染みた。『横浜』への矢印が、私達の終着点を指しているようで怖い。


怖さで身体が震えた。ズン、と胸がいたくなる。痛みで広がった隙間から、抑えていた気持ちが滲みでた。滴り、流れ出す私の気持ち。「イヤダ、イヤダ、イヤダ」と叫びたくなった。


「夜景より、海がみたいな」


それでも私は、必死に気持ちを押さえつける。泣き叫ぶ、無様な別れ方などしたくはない。だから、もう少し、時間が欲しい。もう少しだけ、一緒にいたい。


なのに、黄昏色の高速道路は順調だった。私と彼を乗せた車は、茜色の道を快調に進んでいく。


「そっか。なら『マリンタワー』にしよう」


「違うの」


「じゃあ『大黒ふ頭』に行ってみようか?」


「そこも嫌」


「なら、何処!」


彼が声を荒げた。もう、限界だ、耐え切れない。


「夜景なんて観たくないよ!」


叫んだ途端、涙が溢れ出る。


「ホテルのディナーも、全然、嬉しくない!カッコいい車のドライブも、全然、楽しくないよ!」


 卒業し、就職し、大人になった私達。いや、大人にされた私達だった。らしく有ろう、と気負い続けた嘘が、心に澱のように積もっている。


「ボロボロの車で出かけた頃の方が、よっぽど楽しかったよ!街の夜景なんかより、なんにもない星空の方が好きだった!ドライブしながら食べた『クリスプ』の方が美味しかった!」


嘘がつけなくなった私は、鼻水を垂らし、泣きじゃくった。運転中の彼は右手を伸ばして私の肩に触れる。冷たさだけが感じられる手の平だった。


「あのさ、話があるんだ」


 落ち着きを取戻した私に彼は言った。


「車の中でする話では無いのだけれどね」


 彼は真直ぐに前を見ていた。眼鏡のレンズに街のネオンが映っている。


「うん」


 泣き喚いた私には、もう頷く事しか出来ない。斜め前に、小さくコスモクロックが見える。私達はこのままベイサイドに到着し、そこで私は独りになるのだろう。


「僕達はもう学生じゃない。いつまでも子供ではいられないんだ」


「分かっている」


 そんな事は分かっている。だから、私も努力した。


「だけれど、大人になっても変わらない、大事な物って、絶対にあるんだと思う」


 ゆっくりと、彼はポケットから小箱を取りだした。


「卑怯かもしれないけれど、君の涙で少し安心したよ」


 差し出された藍色の小箱は、街のネオンでその濃淡を変えた。


「これ、貰ってくれる?もっとスマートに渡したかったけれどね」


 私は両手でそのリングケースを受け取った。開けると、小さな輝きがある。


「綺麗」


 小さくて、力強い輝きだった。


「良かった。それで、貰ってくれる?」


 運転中の彼は真正面を見つめている。そして、幾つものネオンライトが流れていく。だけれど、その中には一つだけ変わらない光があった。昔から彼は、前ばかり見つめている。


出会った頃から、彼は単純で極端だった。その単純さが、私を笑わせ、悲しませ、怒らせた。だけれど、決まって幸せにしてくれる。そんな刺激的な関係がこれからも続くのだと思うと、震えるほど嬉しい。


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