07 蜂蜜レモン
あの馬鹿犬、シリウスが戦争に行ったと聞いて、私は思わずバスケットを床に落としてしまった。
「どうしてそんな危険なところへ?!」
「シリウスは王子だもの。他の獣人の士気を上げるために、前線に出ないといけないわ」
マーヤは猫耳を前に倒して、悲しそうな表情をしていた。
彼女はシリウスの親戚らしい。
ちょうど彼と最後に会った時から、一週間経った頃だった。三日とあけず通っていたシリウスが来なくなって、静かになったと思う反面、不安な気持ちを感じていた。
私の暮らす森は、街から少し離れた森の奥。
一時間以上歩いて森の外に出て、街で彼の噂を確かめようか。
うっすら、そんなことを考えていた。
しかし私が行動に移す前に、気が利くマーヤが私の元を訪問したのだ。
「あいつ、そんなことは一言も……」
「言えなかったんだと思うよ。ルーナ、人間は嫌いでしょう?」
マーヤの指摘に、私は黒い眼帯を付けた片目を押さえた。
人間は獣人を追い回し、捕まえて乱暴に扱う。
私は人間の国で生まれ、そのせいで片目を失った。
「敵は、人間なの……?」
「ええ」
獣人の理想郷と呼ばれる、ここノーティラス王国にも、人間の魔手が伸びようとしている。
もう私たちが生きていける場所は、世界のどこにも無いのだろうか。
床に崩れ落ちそうになった私を、マーヤが素早く支える。
「大丈夫?」
「……シリウスは、無事かしら」
「分からない。もうすぐ戦場に着く頃だと思うけど」
マーヤは言葉をにごした。
非力な私は、彼の帰りを待つことしかできない。
できるだけ早く帰ってきて欲しいと願いながら、怖くてカレンダーを確認することができなかった。
だから、それから何日が経ったか、分からない。
マーヤから「シリウスが帰ってきた」と聞いて、私は彼女と一緒に見舞いに行った。
そこは身分のある獣人が看病される施設らしく、清潔で、薬草の匂いがあちこちに漂っている。病室の窓際には、ピンクの花が生けられていた。
シリウスは静かにベッドに横たわっていた。
体のあちこちに包帯を巻いているが、生きている。
そのことに安堵する。
「ルーナたん、久しぶり」
「シリウス、あなた、目が……?!」
身を起こして出迎える彼と目を合わせ、私はぎょっとした。
こちらを向いたシリウスの顔には、刃物で切り付けられた無残な傷跡が付いていた。
傷はちょうど、左の眼の上を通っていた。
「ふふふ。ルーナたんとお揃いだね」
「馬鹿!」
私はベッドにつっぷして泣き崩れた。
静かに様子を見ていたマーヤが、そっと病室から出ていく。
剣だこや傷が付いて固くなった手が、私の髪をそっと撫でた。
「悪い人間たちは、俺が遠くに追っ払ってやったよ。だからルーナたんは、安心して、この国にいていいんだよ……」
「そんなこと、頼んでない」
私は嫌々とかぶりを振った。
自分の身の安全と、彼の安全、どちらが大事なのだろうか。
この国に来る時は前者の方が重要だった。だけど今は……。
「ねえ、耳にさわって良いかな?」
どさくさに紛れて何を、と思うが、私は無言でうなずいた。
シリウスはつねづね、私のウサギ耳に触りたいと言っていた。
病人相手に、しかもこのようなシチュエーションでは断れない。仕方ないわね。
「もう、戦争に行ったりしないで。あなたがいなくなると、高いところの物が取れなくて不便だわ」
「俺は踏み台か……ね、結婚しようよ、ルーナたん」
「調子に乗らないで。そこまで許した覚えはないわ」
きっと、いつかは色々なことを許してしまうのだろう。
だけど今は、甘酸っぱいやり取りのままで良い。
雪がとけて春が来るように、つぼみがほどけて花が咲くように、私たちの関係は少しずつ変わっていくのだろう。それが恋愛だというなら、そういうものなのだ。
ふとシリウスが顔を上げて、空気の匂いをかいだ。
「あー、なんか良い匂いがする」
部屋の外から、温めた蜂蜜レモンの香りが漂ってきていた。
甘くて幸せな匂いだ。
私は床に置いたバスケットから、お手製のクッキーを取り出す。
さあ、おやつの時間にしましょう。
うさぎの森のティータイム 空色蜻蛉 @25tonbo
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