第5話 イーサー
炎からボロックスは跳び出した。数歩の後、ボロックスは立ち止まる。そして、聖母像を静かに下ろした。
ボロックスは聖母像を見つめる。『この像を』と願ったのはカストルだった。
― 僕の行いは正しかったのか?炎の中に置いて来るべきは、この聖母像だったのではないだろうか?
ボロックスは炎を見つめる。炎は容赦無くカストルを塵屑へと変えるだろう。焼かれるカストルが脳裏に浮かび、ボロックスは崩れおちた。
火傷とは違う痛みが胸を突き刺す。ふと、先程の思いが過る。それを再び、ボロックスは振り払った。
血、家柄、仇。
ボロックスはそんなモノを欲してはいなかった。ボロックスの願いは、たった一つだ。
― なのに。
炎が、崩れ落ちる建材が、走る熱風がボロックスの所為だと言っている。あざ笑うように、周囲で影が踊り狂ている。突風が聖母像を煽り、カタカタと揺らした。
「キミさ」
ボロックスの獣耳が跳ね上がった。
「後悔なんて無意味なのよ」
ボロックスはその存在に背中毛が逆立つほどの危険を感じる。恐らく、きっと、間違いでは無い。
「アナタは彼の心を助けたのよ。素晴らしいわ」
ボロックスは立ち上がった。涙の痕は消え、残忍さを湛えた黄色が聖母像を睨んだ。
「スライム、かい?」
「うん。『イーサー』って言います」
微笑む聖母像の足元から、伸び、広がる存在があった。存在は塊となり、塊は少女へと変わった。
「身体を助けるのは誰にでも出来るわ。けれど、心を助けるのはそうはいかないものよ」
少女は言った。赤と黒のコントラストが少女の身体に陰陽を作る。
「上手いね、なかなの名言だよ」
ボロックスは噛み締めるように言った。人狼の目から向けられる視線は、刻む程に鋭い。
「アタシは占い師だからね」
小さな犬歯が音を立てた。血流の激しさがボロックスの脳ミソを叩き、揺さぶる。
「カストルは君に負けたのかい?」
ボロックスは殺気を吐いた。
「さあね。だけれど、彼は死んでアタシは生きているわ」
ボロックスは、繰り返される陰陽を見つめ続ける。
「それで十分でしょう」
イーサーは愛らしい笑顔を見せた。
ボロックスの表情が険しさを増した。全身を震わす衝動は殺意でしかない。そして、激しい心音にボロックスは耐えている。
― 絶対に殺す。
ボロックスは腰を下ろし、時意留を握った。地面に伸びる影は、爪を磨ぐオオカミである。
「カストルは強かっただろう?」
食い散らかされた残飯のようなカストル。
「うん。まあまあかな。でも、生き残ったのはアタシ」
『頼む』と願ったカストル。
「怒っているのかい?でもネ」
イーサーの目付きが変わった。一転し、怒りが込められた瞳がボロックスに向けられる。
「アタシはもっと怒っているよ」
イーサーが豹変した。その姿は怒りに我を忘れた獣を想わせる。
― 負ける。
殺意が失せた。敵わぬと悟った瞬間、獣同士の戦いは終わる。
― だけれど…。
カストルが目に浮かんだ。死んだカストル、生きているスライム。何事においても生者は勝者である。
ボロックスは時意留を投げすてた。転がった時意留を追いかけ、イーサーの視線が逸れる。
その機を逃さず、ボロックスは跳びかかる。鷲づかみにイーサーを担ぎ上げ、駆け出した。
「何のつもり?ヤケっぱちかな?」
イーサーの薄く伸びはじめた細胞が、ボロックスの身体を包み始めた。
― これで良い。
ボロックスはカストルの言葉を思い出していた。
『願いを叶えてくれた。御利益があるぜ』
― 僕の願いは一つだ。
それは、ずっと変わる事が無い。
「馬鹿野郎。お前は大馬鹿野郎だ」
ボロックスはカストルの口調を真似て叫んだ。似ているな、と思うと口元に笑みが浮かんだ。
「あ?あ!ちょっとタンマ!止めろ、下ろしてよ!」
ボロックスの意図を知ったイーサーは逃れようともがいた。だが、肌を溶かされながらもボロックスはその腕を放さない。
「カストル、君の云う通りだ。願いは叶ったよ!」
ボロックスは炎へと消えた。
時が過ぎた。
カストル、ボロックス、イーサーを呑み込んだ炎は消え、黒い煤滓だけが残った。
漂っている煤滓の向こうには月があった。明るすぎる月である。
月が聖母像を照らす。その強い光に包まれ、聖母像が微かに揺れた。
了
スライムの残滓 メガネ4 @akairotoumasu
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