CASE8「死に場所を求めて拳を振るう」

 ずっと死に場所を求めて拳を振るってきた。たった一人の相棒と二人、世界を股にかけて多くの闇を葬ってきた。数え切れないほどの命を奪ってきた。だから、いつ死んでも文句なんかないはずだった。けれど、こんな終わりは一ミリだって考えちゃいなかった。

 ことの始まりは一件のメール。公的機関からの依頼には、質素な暮らしを心がければ一生遊んで暮らせるほどの額が提示されていた。内容自体はありきたりなものだ。非人道的な研究を行う施設なんて、両手の指じゃ足らないほど潰してきた。そうでなくてもこの程度の死線は数え切れないほど潜り抜けてきたはずだった。今、俺の目の前にはたった一人の相棒が立ち塞がっている。


「―—嘘だろ、おい」


 施設に侵入して間もなく、俺たちは意識を奪われた。それから何時間、何日が経ったのか、今はもうわからない。目が覚めたとき、最初に見せられたのは彼女が俺を救うために犯される光景。今、目の前に立つ彼女に、かつての清廉潔白を絵に描いたような麗しさはない。

 刀が振り上げられる。拳を構える。もう、戦うことは避けられない。

 艶やかな黒髪は白濁液に汚れ、弄ばれてぼさぼさになってしまっていた。世界の醜さを知ってなお輝きを失わなかった瞳も濁り、真っ赤に充血している。母の形見だと言っていた着物は剥かれ、露わになった豊かな胸は、激しく揉みしだかれた結果、今やクーパー靭帯が伸びてだらしなくぶら下がって見える。

 姿はこんなに変わってしまったのに太刀筋は相変わらず鋭く、父の形見だと言っていた長刀の切れ味は鮮やかだ。俺と似て胡散臭い親父だったが、業物というのは伊達ではなかったらしい。あっという間に片目を持っていかれてしまった。今の彼女は恐らく、剣を教えた父より強い。

 ふと、彼女と出会って間もない頃を思い出す。


『わたし、本当は誰も殺したくなんかなかったんです。これからも普通の女の子として生きるものだと思ってました。でも、お父様もお母様もこうやって生きてきたんでしょう? あなたが教えてくれたんですよ? この世の中には殺されて当然の人も、殺さなくちゃ生きられない人もいるって』


 そういって彼女は凛とした顔に寂し気な色を浮かべた。それが今や無数の死体を築いて、歪んだ形で女を知って――開いたままの口から滝のように溢れるどろりとした液体を、無数の赤い斑点が付いた肌でグチュリと拭い、叫んだ声はしゃがれて獣のようだった。


「早く死ねよ! てめえが死ななきゃお薬もらえねえだろうが!」


 殺意の込められた突きが俺を襲う。胸を貫かんとする切っ先を済んでのところで躱すも横たわった剣先が横一線、脇腹を薄く斬られる。硝子の壁の向こう側から忌まわしい声が聞こえる。


「流石、十代にして世界に名を馳せただけのことはありますねえ! 我が社の薬を打たれてそれだけ動けるとは――さては敏感になり過ぎて焼き切れちゃいましたかねえ!」

「ご主人様ぁ、約束ですよぉ? この男を殺したら、お薬打ってくださいねえ?」

「ええ、ええ、もちろんですとも! 打つ方でも飲む方でも塗る方でも、今より幾重も上の至上の快楽を差し上げましょう!」

「えへへへへへへへへへ、気持ちぃの欲しいのぉ!」


 歪んだ笑顔には上品さの欠片も感じられなくなってしまった。それでもなお、目立った隙のないままに攻められてしまう。俺でなければ、動きの癖が読める相手でなければ、とっくに上半身と下半身はおさらばしていただろう。

 俺が死ぬのは構わない。だが、彼女をこのままにしては逝けない。彼女の親父に合わせる顔がない。何より、彼女をこんな風にした奴を許してはおけない。幸か不幸か、黒幕は手の届く場所にいる。問題なのは、あの分厚い硝子の壁は俺の拳では打ち抜けないことだ。八畳ほどの真っ白な室内には窓どころか入り口すら見当たらず、逃げることもままならない。

 横に一閃、大振りの薙ぎ払い。

 

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇ!」

「ちぃっ、おい、俺だ、わからねえか?!」

「あはははははははぁ!」

「クソ、話にならねえ……」


 ―—横に一閃、大振りの薙ぎ払い。

 その後、彼女は得物を振り被る癖がある。

 伸びるような剣線、腹筋の薄皮が裂ける。


「おい、クソ野郎。楽しいか?」

「ええ、楽しいですよぉ? 丈夫な非検体が増えて嬉しくない研究者などいるはずがないでしょう?」

「――はっ、そうかい」


 横に一閃、大振りの薙ぎ払い。

 俺は大きく退くように回避して、後がなくなってしまった。前門の虎後門の狼にならぬ、前門の相棒後門の黒幕。こいつは死んでもいい奴だ。なあ、そうだろう?

 長刀が振り下ろされる。


「よお、クソ野郎。満足か?」

「か……は……」


 俺の拳じゃ無理でも、こいつの剣なら切り抜けられる。俺たちはいつだって、そうやって未来を切り開いてきた。強化ガラスが縦一線、奥の白衣が赤く染まっていく。俺の視界もまた、闇に侵されていく。彼女が遠退いていく。


 剣は俺と硝子と黒幕を斬った。

 拳は彼女の額にきついのを一発、入れてやった。


 パキパキと硝子の砕ける音に、瑞々しい気持ち悪さが背筋を撫でる。尻餅を着く。崩れ落ちた彼女も脱力したまま動かない。


「ひい、死ぬ、死ぬぅ」


 だというのに、あのクソ野郎、まだピンピンしてやがる。見ると、刀は硝子の半ばで止まっていた。刀の柄を握り、身体に鞭を打つ。肩の根元から血が噴き出る。この出血量では助からないだろう。屈んでいなければ、こいつの死に様を見れずに安心して逝けなかっただろう。なんとか立ち上がることができた。

 刀を支えに拳を振り被り、硝子を打ち砕いた。こんなもの、一度ひびが入ってしまえば俺にだって壊せる。柄を握り込んだまま、赤く染まる白衣に迫る。


「悪かった、謝る、だから、助け――」

「てめえにはこの刀のさびになる資格すらねえ」


 刀を握った拳を、泣きじゃくる顔に振り下ろした。何度も。何度も。何度も。振り下ろした。ごばあだとかひでぶだとか言っていたような気もするが、気付けば目の前には赤黒い肉塊しか存在しなかった。肉が何か意味のある言語を口にするはずもない。


「―—ざまあ、みやがれ」


 世界が闇に染まる。最後、剣を握った拳が止まったとき、何かに包まれたような気がした。そこに凛とした顔と寂し気な色があったなら、悔しいが土産話の一つくらいにはなるだろう。

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有終の美-All's well that ends well- 七咲リンドウ @closing0710rn

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