第8話 タニクラ ナル

化粧虫けわいし、もう化粧落とし取っておくれ」

 エレノアがバックから小さな箱を取り出してスライド式の箱のふたを開けた。……だが、何も起こらない。

「早くしてっ」

 語尾が強くなると、はたきをかけたかのようにエレノアが見知らぬ少女に変わった。

「いやぁ、この国で、黄色い肌に黒髪で居るといろいろと面倒が起こるのでね」

 そういってふたをスライドさせて閉じると鞄に入れながら、

「これは、化粧を施す妖魔でね。ただ単に化粧を施すときもあるが、別人に成りすますことだって可能なんだ。マルソン嬢……エレノアの体を一瞬覆い、それをあたしに施す。エレノアに何かされた記憶はないが、エレノアが直近で行っている動作、癖、嗜好などはすべてコピーができる。そのうえ、声も、姿も変えることができる。さすがに、これ以上小さい、子供になるとなかなか難しいが、できないわけじゃない。

 この国に、肌が黄色い人間がうろつけば目立ってキリコに警戒されてしまうのでね、いろいろの策を講じてエレノアにはあなたの屋敷に行ってもらっているんだ。

 あぁ、ジェームズ、気にしないでね。あなたの入れるお茶は最高においしいけど、私もコーヒーのほうが好きで、それよりも最近はさんぴん茶の方が好きなんだ。

 彼は妖魔の加寧かねい。私の下僕仲間だ。だから気遣いなく。ただ、この男の形で外に居ると目だってしようがないのでね、黙って家の中に入れてしまって申し訳ないが、……それでと、自己紹介がまだだったね。

 私は谷倉たにくら 奈留なる

 説明するのが面倒なので、君たちにかけていた鍵を少し開けると、子供の頃に読んだことがあるらしいから話は早い。ドラゴン姫の英雄伝に出てくるタニクラ ナルだ。

 妖魔の血を飲み半妖となり、不老不死になった異世界から来た少女。と、親切丁寧に書いているのに、みーんな、おとぎ話だろうとか、作り話だというので、まぁ、否定するのも面倒なのでそのままなのだが、ね」

 タニクラ ナルはそういって微笑んだ。


 黄色い肌に、黒い長い髪はひっつめていて、服はこの国のモノではない格好をしていた。

 加寧と呼ばれた妖魔らしい大男は、ずば抜けて背が高く、天井に頭が届きそうなのを窮屈そうに立っていた。日に焼けて浅黒く、筋肉の隆起が激しい男だった。


 皆が何かを言おうとして口を開くがうまく言葉にならなかった。

「何と呼べば?」

 サミュエルの質問にタニクラ ナルは微笑み、

「ナルでいいよ」と言った。


「では、ナル。あなたは最初、エレノアの事件に捜査してくれと手紙を出しましたよね」

「そう。……、事の起こりっていうのはね、実は更に遡るんだよ。そこから話すか、結論から言うか。どちらがいい?」

「……結論としては?」とサミュエル。

「キリコは、妖魔に魅入られ憑りつかれていた。だが、妖魔と一瞬分離した時、あなたが放った銃弾で妖魔は消滅した。ものすごい確率で、キリコは人間として生き残った。ただ……あの精神状態で何年生きれるかは不明だけどね」

「……。何故、そうなったのか? を聞くと、最初から聞かなければいけないようですね?」

「そうだろう? そうなんだけど、最後が解ってないと話が長くて嫌になるよ」と笑う。

「だから、ジェームズもマルガリタも座んなさいよ。あぁ、加寧が座らないと座れない? だってさ」

 というと、加寧は頭を下げて床に座った。

「ああ、椅子に座るとイスを壊すから。それに大きいからあれがいいんだって」

 奈留はそういって自らの手で茶器からお茶を注ぎ加寧に手渡した。加寧は頭を下げそれを受け取り、本当に小さな器の、少量のお茶を飲んだ。

「おままごとのように見えるだろ」と奈留が笑い、姿勢を正した。


「事の起こりは、五年前。これでも張り切って早く来たんだが、やはり遠いね。

 私は普段だく国にいる。つまり、この国とは真反対の場所に住んでいる。長閑な農業と漁業の国だよ。

 普段は魔よけのお札なんぞを作って生計を立てているんだ。一応ね。不老不死だから、飲まず食わずでも死なないと言えば死なないのだが、まぁ、そこの話しもどうでもいいことなので先に進むと、

 ある日、私の家へ一人の聖職者が訪ねてきた。

 驚いたねぇ。今まで国を行き来していても、せいぜい濁の隣国の、ほお国や国だったんでね、そこだって、濁国と変わらないような生活様式だったのだけど、そこに、このヨーロピアンな格好した人が来てごらんよ、黒船だよ。……、ヨーロピアンな格好も黒船の紹介もこの際省くけども、まぁ、単純に言えば、異国情緒あふれる、驚くべき格好の人が現れたわけだよ。

 ただし、私は異世界の人間だから、あの恰好を本で読んだことがある。そこいら辺も今回の件で全く持って関係ないから省く。

 とにかく周りは慌てたように大騒ぎをしながら、その人をうちに連れてきた。面倒ごとは押し付けられるんでね。

 緑色した目が疲れ切っていて、まともに話しが聞けたのは、彼が倒れこんで三日目だった。

 食事を与えて、風呂に入り、なんとか落ち着いたころ、彼は話し始めた。


「私は、そう国の小さな村に住むスタンという神父です。私は大変な罪を犯してしまった」

 彼はそういって深いため息と黙想に入った。

「……私は懺悔を聞けるほど徳はないですよ」

 と私は言った。聖職者でも、寺の坊主でもない私に懺悔されても、救えないからね。

「いや、あなたでなければいけないのだ。

 そもそもは私の罪なのです。どうか、どうか話を聞いてください。そして、あなたに助けてほしいのです」

 彼の懇願に負け、一応話を聞くことにした。

「私はもう、十年近くも前になるけれど、一人の少年を助けた。

 彼は木に引っ掛かっていたのです。白樺の木の中腹の枝に」

「なんでまた、そんなところに?」

「遊んで疲れたとかではないのです。上から落ちて引っ掛かったんです」

「……と、言うと?」

「赤い星の日というのをご存知ですかな? わが経典に伝わる話です」

「あー、うー、確か―……大昔のこの世界の成り立ちの時の話しでしたね?

 確か、この世界は二匹の龍が生まれ、龍の吐き出した玉がこの世界だと。そして、その二匹の龍は、太陽と月、日向と日蔭というふうに相反して存在し合う。何年かに一度その龍がこの世界を挟んで向かい合うという日が、赤い星の日。でしたね?」

「そうです。うるう年の2月29日がそうです。その日、空がなんだか落ち着かず、私は胸騒ぎがして空を見上げますと、少年が空の隙間から落ちてきたんです。そして、白樺の木に引っ掛かったのです。

 私は、神父である前に善良な人間でありたいと思っています。だから、助けるのは宿命であり、私の使命だと思ったのです。

 木に梯子をかけ、その子を見たとき、私は後悔にかられました。この子は、と思ったのです。

 肌が黄色いから、髪が黒いからではなく、この子の、その禍々しいものに、助けてはいけないと直感したのです。

 だけど、私は、善人であれ。と思って生きている人間です。どうしても、助けるしかなかった。

 いや、助けなければいけない魅力もまた、彼は持っていたのです。

 しばらく日にちが過ぎ、その子が目を覚ましたけれど、全く持っておかしなことばかりを言う。外に飛び出て辺りを見回して、絶望的に叫んだりして。

 とにかく一つ一つ話をしました。彼の質問にも精いっぱい答えました。そこで私は気付いたのです、彼はこの世界のものではないと。

 以前、タニクラ ナルという異世界から来た少女、幼いころ読んだ本の主は本当にいるという話しを覚えていた私は、彼もまた異世界から来たのだろうと思いました。

 彼に名前を尋ねると、覚えていないと言いました。ですが、彼の身に付けていたシャツに名前が書いてあって、彼はそれを「小田切おだぎり 香佑こう」と読みました。私はすぐに覚えれたのですが、私の娘たちはなかなか覚えられず、そのうち、「キリコ」と呼ぶようになりました。

 すっかり自分の解らない子です。いっそ名前を新しくして暮らせばいい。ということで、彼は「キリコ」という名で生きることにしたのです。

 キリコはとても内向的でおとなしい子のように見えました。聞いていた12歳というには細くて、小さかったものですから、もしかするともっと小さかったのかもしれません

 だが、キリコの勉学の知識はずば抜けていました。と言っても、私の居た村は宋国でもはずれの方で、勉強と言えば、何年も前に学校を出た教区教師が一人いるきりで、村の識字率はほぼゼロだったのです。

 だが、キリコはそれを自慢するでもなく、誰かの輪に入ろうともせず一人で居ました。

 それを見かねた私の一人娘―私の家族はアメリ一人です。妻はその数年前に病で死んでいます。当時娘は16になった頃でした。娘にとっては、キリコは他の孤児と同じく弟の一人だったのですが―。

 言い忘れていましたが、私はその村で孤児院もしていました。あの時は三十人ほどが居ました。あの子たちの親は土地を捨てて逃げる足手まといになると皆置いていかれた子供たちばかりです。

 私と、娘、それに教区教師のジョージ・マクドウェルの三人で子供たちの世話をしていました。

 このジョージは好青年で、田舎には似つかわしくないとてもいい青年でした。村を愛し、村に残り、未来のために私の仕事を手伝ってくれていました。若い者と言えば、アメリと、ジョージぐらいですから自然と二人は惹かれ合い、恋人同士となっていました。私も、この二人なら神の祝福のもと賛成できると思っていました。

 だが、キリコだけはそうではなかったのです。

 アメリに優しくされたおかげで、キリコはアメリを独占したいと思うようになったようです。その結果、キリコが世話を焼いた子供に嫌がらせをはじめたのです。

 例えば、本を読んでもらった子供の耳を、それこそ引きちぎるかのごとく引っ張ったり、着替えを手伝ってもらった子供の服を引きちぎったりと、愛情の独占欲による嫉妬行動が我々には理解できないほど強く、アメリはキリコにおびえるようになります。

 そしてキリコもそれを察し、アメリを求めますが、ジョージがアメリを守るります。それが、アメリを自分から取り上げたと感じたようで、ジョージに殴りかかりました。ですが、身長差もありますし、体型も全くおよばない。その時はジョージに抱えられて終了したのですが、私はあの時感じた後悔を思い出していました。

 やはり、のです。

 キリコが来てから、子供たちの情緒がとても不安定になっていったのです。常に何かに怯えているような、好戦的になったり、不安で泣き出したりがひどくなり、このままではいけないと、厳しい修道院へ移そうと決めたのです。

 キリコには、この教会を継いでもらいたいので、勉強をしに行って欲しいと頼みました。もちろん本心もあります。文字が読めるのはキリコだけでしたから。

 キリコは承諾し、早朝に立てば、私が往復して夜には戻ってこれるので、と、朝早くに出かけました。

 キリコは馬車に乗ってすぐ、朝早いので、眠いと言って、」

 スタン神父は言葉を切り、ぎりぎりと歯ぎしりを立て、

「後ろの荷台で寝たのです。しばらく走っては後ろを見ていました。ですが本当に寝ているようでしたし、馬車から飛び降りるのは危ないですからね。

 と。それが甘かったのです。

 村の中心を過ぎてから、少し細い山道に入ります。ほんの一瞬です。スピードが緩みます。

 ですが、後ろで寝ていると思っているので振り返るはずはありません。

 緩んだすきに、キリコは馬車から降り、教会へ戻っていったのです。

 キリコがいないことに気づいたのは、向こうの修道院へ着いてからです。私は体中の血が引いたのを感じました。

 というのも、キリコが乗っていた時には、背中がひどくこわばっていて、久しぶりの長距離に緊張でもしているのだろうか? と思っていたのですが、キリコが居なくなったであろう辺りで、背中が楽になったのです。

 馬車は快調に走りますし、もし、キリコの移送でなければ、とても気持ちのいいドライブだったのです。

 だからこそ、居ないと気づいた時の恐ろしさが想像できますかな? 急いで帰っても、半日はかかります。ですが、そういっていられませんから、馬に鞭をくれて、とにかく走らせました。

 キリコが降りたであろう細い道に来て、ここで降りたのだ。と確信をし、そして村へ、村に入ると、知り合いが、

「キリコが一人教会へ帰っていったよ、落っことしたのか?」

と声をかけてくれました。そして少し行った先にある鍛冶屋で、

「おたくんところのキリコが、うちのを持って行ったぞ!」

 と腕を抑えています。腕は、キリコに掴まれて赤くなっていました。

 を持って、教会へ向かった。それを聞いて、キリコはなにをする気だと想像できますか? 私はもう、涙を止めることも、諦めることも、絶望することもなく、教会へと向かいました。

 ええ。全く想像の通りです。

 教会に居た子供たちはおろか、アメリも、ジョージも、によって……血の海でした。誰も生きてはいなかった。

 いや、辛うじて、アメリの最期の時には居てやれました。

 アメリが、言うには、キリコが急に襲ってきて、成す術がなかったと。人の仕業ではなかったというのです。

 私は、深く深く後悔をしました。

 すぐに、子供たちの葬儀を済ませ、墓を作り、七日のうちに出てきました。あなた、タニクラ ナルに会うために。

 キリコは私を探しているようだと、私は背後に感じながらあなたを探し続けたのです。最初は、そんなもの居ないだろうと思っていたからなのか、誰も、どんな情報もなかったのですが、月日が経つうちに、あなたがいてくれたら、いや、いる。助けてくれ。と思うようになると、自然と情報が入ってきて、そしてやっと、ここまでたどり着いたのです。

 どうか、キリコを殺してやってくれないだろうか? それであなたが人殺しになって罪に問われても、私があなたの善行をすべてを説明する。どうか、キリコを助ける意味でも」

 というので、なぜあたしの所へ来たのかが不明だといった。話しを聞く限りではちょっとした狂気ではあるけれど、あたしが必要とされるべき要点は聞いていない。

「キリコを助けたときに、助けるべきではないと思ったと言いましたね。あなたのような人ならば見たことがあるのかもしれないが、んですよ。

 だけど、キリコを助けたあの日、キリコの体は黒いもや、最初はクモの巣かと思うようなものがまとわりついていました。払ったり、はたいたりしましたがそれはのけることができませんでした。木から降ろすとそれは消えていたので、きっと、光の加減だったのだろうと思っていたのですが、アメリに対しての思い、嫉妬しているときなど、キリコの体を覆うようになっていったのです。それは私しか見えず。それが見えたときには決まってアメリはキリコが怖いというのです。

 見間違えだろうと思っていたのですが、ある夜。キリコの部屋から話し声が聞こえたのです。こっそり鍵穴から覗くと、キリコは眠ったままの状態でベッドに横たわっています。目は閉じているようでした。

 その傍らに、トカゲのような、だけど、胴体は人間のようで、そう、頭がトカゲの様でした。いや、肌もうろこ状で、かぎ爪があり、大きな尻尾の生えた、黒い靄が居たのです。

 私の驚く声にそれはキリコの中に消え、私は、戸を開けたキリコに虫がいて驚いてしりもちをついた。と笑いましたが、全く笑っていなかったでしょう。

 厳しい修道院へ移送を急がせたのにはそう言った理由もあったのです。

 あの靄が普通の、自然現象でないことはあの姿で判ります。あれが憑りついているキリコをどうして普通の子供と同じように見えるでしょうか?

 移送は、教会のため、キリコのため、何よりも、私や娘のためだったのです。

 だが、私の思惑などとうにお見通しだったのか、最悪の結果となってしまいました。

 ね? こんな話を警察にして信じますか?

 あの子供たちの惨殺事件だって、金欲しさに賊がやったのだろうということになった警察が、信じてもらえますか?

 だから、私には、もう、あなたしかいないのです」

 スタン神父はそう言った翌日亡くなってしまったよ。たぶん、疲労と、そしてキリコが追って来ているかもしれない心労にさいなまれ、やっとあたしに会えたことで、安堵し、その結果、眠るように亡くなったと思う。


 さて、私は、キリコを探し、妖魔ともども、もしくは引きはがして妖魔だけを退治する依頼を受け取った。

 キリコの特徴は細かい話の間に聞いていたし、本人を覚えているだろうから省略する。

 長旅を覚悟して宋国へ向けて旅を始めた。

 規国―宋国のお隣―に入った頃、宋国で女性が誘拐される事件が起こっていると知った。―そう、エレノアの姉、エミリアが失踪した事件ー

 あれのどこに興味を示したかと言えば、あれは全く持ってただの偶然だったんだ。事件を新聞で読んで知っている程度で、興味などさほどなく央都に来た。

 キリコを探す拠点としてラベンダーホテルへ行こうとした時、あたしは思った。この世にあんな美人がいるもんなんだ。と。いやぁ、エレノアは美人だ。それに見とれていて、キリコの罠に引っ掛かって足をやっちまったのは最大の失敗だった。

 身動きが取れないから、この国で力の強そうなもの、あたしの仕事を手伝ってくれそうなものに行きあたるために知り合いに手紙を出した」

「そして、リチャード・ゴドフリー氏から、ロバートへ、そして僕に届いたと?

 なぜ僕が協力すると?」とサミュエル

「……簡単に言えば、あたしに似ているから」

 奈留はそういって微笑む。

「姿かたちが似ているわけじゃなく、感性のものだから、言葉にしにくいけれど、あまり熱を持って生きていない。ところかもね。そして、無様なまでに好奇心に負ける。いらぬことに首を突っ込みたくなる。そうでなければ、結果、ここまで付き合ってはくれまいからね」

「キリコの罠にかかったと言ったが……キリコはあなたのことを?」

「気づいていたから攻撃したんだろう。キリコはあたしを探していたからね」

 全員が首を傾ける。

「もし……もしこの世に自分の生死を決めるものがあるとする。ほとんどの人がそれが何なのか解らない。だが、キリコはあたしが息の根を止めるであろう存在だと、その中にいる妖魔に聞いていたのだろう。

 あたしから逃げるために、あたしが今どこにいるのか常に探していたのさ」

「キリコはあなたにケガを負わせてなお、この国にとどまっていた?」とロバート

「スタン神父は戻ってくると思っていたからでしょうね。それに、私が、スタン神父の遺骨を持っているから、宋国に戻ってきていることを感じていたんでしょう。ただし生死は解らないはずだけど。

 あと、エレノアの周りをうろつかれたくなかったんでしょう」

「なぜ?」

「憑りついていたから。あー違う、違う、エレノアにではなく、タイラーの方。エミリアを欲しがって殺したあの鉄道王の方。

 キリコは央都にとどまってから自活するために人を操る快楽に目覚めたのだと思う。彼があの貧しい村からどうやって央都に出てきたのかあたしは知らないし、興味もないけど、だけど、その道中で成長したのだろうね。

 それだから、タイラーを操ろうとした。というか、そもそもタイラーはひどく実直でまじめな男だったはずだ。世間の噂だけど。それがすっかり変わってしまったのは、キリコの影響だろう。

 ……いやな趣味だけど、キリコは、人が壊れていくのを見るのが楽しくて仕方がないのだろうね。それが、まじめである。や、誠実である。と言われている人が壊れれば壊れるほど、キリコにとって……いや、中にいる妖魔にとってはこの上ないものだったのだろうね。キリコ自体の興奮は、警官をなぶっていた態度から、人を馬鹿にして、気に入らなければ排除する、まさに幼稚な性格と言えるだろうね。

 だからこそ、妖魔に憑りつかれたのだろうけど」

 奈留はそういってお茶を自分で注ぎ入れ、口に含んで一呼吸する。

「知ってか知らずかだけども。キリコはこの家の寸前まで来ていたよ。気付いてた?」

 ナルの言葉に一度ゾッとするようなものの存在が後を付けていたことを思い出す。

「だけど、それ以来ここには来ない。何故だと思う?」

 奈留はくすりと笑い、

「ガルシア卿、」

「サミュエルと、」

「サミュエル……、君はいい執事を持って居るねぇ。君の執事が迷信深いばかりに、この一帯に被害が及ばなかった。彼は銀で魔除けができると信じていた。だから、扉の装飾が銀でできている。毎日それを磨き込むのが彼の仕事で、それがなかなか見栄えがいいので近隣の家もそれにならって銀の装飾を飾った。おかげでキリコはこの辺りに近づけなかった。

 信じる心は尊い。

 さて、タイラー氏の事件の結末はご存じだろうが、あれもキリコを加えれば今までしっくりこなかったことも腑に落ちてくれるだろう。

 キリコの策略によって精神を崩壊させてしまったタイラー氏。そもそも、エミリアになど興味はなかった。若い娘であるが、妹や、娘のような庇護精神を持っていたけれど、妻に寄せる愛情の欠片すらなかった。

 それがキリコをいらだたせたのだろうね。自分の思惑通りの言葉でも返事をしなかったんだろうね」

 奈留は天井を仰ぎ、

「例えば、若い娘に興味があるでしょう? とか、良からぬ関係というものに興味はないか? とか。たぶん、いろんな大人がそう言った汚らわしいものであったんでしょう。キリコの周りでは。

 それが、そんなことは恥ずべきことで、私は妻を愛し、子供を愛している。と断言された日には、キリコは憤慨したんでしょうね」

「なぜ、憤慨するんです? 妻や子供を愛することは普通ではないですか?」とロバート。

「彼は、普通に居なかったら? ごく一般的に、両親がいて、いや、片親でも、十分に愛情があればいい。家族の愛があり、兄弟の愛があり、近所の愛がある環境に居たら、そりゃ、普通、愛し合って結婚したのですから、妻を愛し、子供を愛しているでしょう。

 だが、その「普通」の中に居なかったら、キリコの中の普通とは? いったいどんなものだったんでしょうかね?


 スタン神父の孤児院にいたとき、キリコは、アメリを独占しようとし、激しい嫉妬で仲間を攻撃しています。つまり、キリコは愛情に飢えていたと考えられる。

 どうして愛情に飢えていたのでしょうか? 親からの育児放棄? 虐待などが考えられるけれど、スタン神父が言ってましたよね。


 キリコが白樺の木に引っ掛かっているときには、すでに黒い靄がまとわりついていた。


 あれはいつまとわりついたのでしょうかね? この世界にやってきたとき? それとも、以前の世界ですでにそういう遍歴を見せていたのでしょうかね?」

「あなたが、ごほん。失礼。……私は、シティー警視庁のホッパー警部です。

 あなたは異世界から来たと言っていた。この際、それが本当かどうかなどは置いておいて。

 キリコはあなたと同じところから来たのでしょうか?」

 ホッパーの質問に奈留は声を出して笑い、

「失礼。いや、からかったわけではないですよ。さすが警察の人間と思っただけ。いいですよ、そう構えなくても。あたしはいろいろと考える時にはこういうしゃべり方をするだけなので、あなたが楽なように聞いてくださいな。

 えっと、同じ異世界かどうかは解りません。正直なところ。異世界というものが本当にあるのかさえ、立証できないのですからね。

 どこかに扉があって、開けて見せることができるのならば話は早いが。

 彼と話していないので何とも言えないけれど、スタン神父に、ここは東京じゃないのか? 日本じゃないのか? 西暦は? 平成じゃないのか? と聞いた時点では、同じ世界のように感じました。

 ですが、こうして、私がその異世界というところから飛んできたのです。他にも、同じような異空間の世界があってもよさそうではないですか? 

 この世界と全く同じで、少しずつ違うところのある世界があるとする。そこも、いわば、異世界です。

 今こうして普通に見えている時計が、反対に回る世界があってもおかしくはないということです。

 だから、同じかどうか……何とも言えません。

 ……言えません……ねぇ」

 奈留が少し俯き、眉を顰める。

「本虫。あたしのこの記憶の奥底にある、奇妙な記事を引っ張り出せないか? 子供って実は残虐なのよね。と言っていた近所のおばさんたち。その記憶に付属している、あの、事件」

 奈留がそういうと、扉が叩かれ、ジェームズが立ち上がるのを加寧が制止し、腕を伸ばして―これが、その腕が二倍ほどにも伸びたので、全員が体を硬直させた―扉を開けると、以前市場で買った、文字のない本がそこに居て、歩くようにカタカタと動き、机の上に飛び上がると、ぺーじをぱらぱらとめくり、サミュエルですら書いていないと断言するページまで開くと、そこに、ぶわっと文字が浮かび上がった。それは、ロバートにも、ライト記者にも、ホッパーにも、ジェームズやマルガリタにも見えた。

「そう……、そうか……。

小田切 香佑こうという名前で妙に引っかかったのは、香佑という珍しい名前に引っ掛かったんだ。あーすっきりした」

 奈留がそういって背もたれにもたれる。


 そのページに映し出されたものは―

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