第7話

 馬車で駆け付けると人が集まっていた。

 なんでも、分け前をめぐってのトラブルだとか何だとか。いや、寝取られた亭主が押しかけてケガ人が出ている。というような声をかき分け、巡査がかろうじて覚えていた、キンケイド医師の病院の裏手にある「黄色い庇のホテル」に近づくと、聖職者の白い道着を着た男に、スタン伯爵が縋り付いていた。

「お願いだ、あの力をくれ、じゃないと、勝てないんだ」

「放せっ」

 縋り付くスタン伯爵を引きはがそうとするが、彼の執念は聖職者をがっしりとつかんで離さなかった。

「彼です!」

 とサミュエルとシダークレー子爵が同時に声を出す。

 その声に、聖道着の男が顔を上げた。


 その髪は闇のように黒く、肌は黄疸色くすんだ土気色をして、何よりも妖しげな強膜白目は真っ赤だった。


 警官が行く手をふさぐように集まってきた。

「放せっ」

 聖道着の男がスタン伯爵をけ飛ばす。スタン伯爵はいともたやすく道に転がる。


 けん制し合う。視線がぶつかり身動きが取れないとはよく言ったものだ。ただ、汗だけが体を滑り落ちていく。


 教会の鐘の音が鳴った。


 四時の鐘だ。子供たちがワーッと出てくる時間だ。

 後方にいた警官たちが、教会や学校のほうへ神経を動かす。―どうか、無駄に出てこないでくれー

 子供たちの声があふれてきた。だが、誰かに制止されているらしくひどい文句の音が聞こえるが、それでも、子供の声に違いなかった。


 子供の甲高く、若く、弾むような声


 鐘の余韻


「キリコ?」

 サミュエルが確認するようにつぶやく。


 子供の悲鳴に似た興奮している声。笑い声。


 キリコであろう聖職者はぶるっと体を震わせたかと思うと、もうあとは


 キリコは身にまとっていた黒いもやと同化したかのように、その体をふっと靄へと変わらせ、ふわっと。ふわっと。飛び回った後、一人の警官の顔面前に姿を見せる。

 警官の顔がこわばる。

 キリコは靄の中から顔だけを見せ、と笑うと、靄となってその警官を取り込に覆う。

 覆われた警官はブルブルっと震えて、そして、警官の顔はキリコとなった。


「あ、ジェンキンスをどこへやった?」

 警官の名を叫ぶ同僚に、キリコはと笑い、

「ジェンキンスというのか、こいつは。ジェンキンス、ジェンキンス、ジェーンキンス」

 同僚がキリコに殴りかかろうと警棒を振り上げる。キリコは手を差し出し、警官に掌を見せる。

 警官が口を覆う。

 キリコの掌に、ジェンキンス巡査の顔があった、そして、口が開き、「助けて」という。


「愉快だー」

 そういうとキリコは再び靄となり、別の警官の顔面に現われ、先ほどと同じように取り込む。

 そばにいた警官が靄を叩くが、所詮靄は、靄だ。打っても、叩いてもまるで意味がなかった。


「ロバート、銃の用意を」

 サミュエルに言われる前からロバートの手には銃があったが、撃つ気にはなれなかった。

 なぜならば、キリコを取り囲むように警官が配備されていたし、町の中で、市民だってたくさんいる。ロバートに射撃の心得がないことも手伝って、銃を持ち上げる気になれなかったのだ。


 靄のキリコが警官の一人の前に姿を見せたが何かにとし立ち止まると、踵を返すように他の警官に向かった。

 サミュエルがキリコが逃げ出した警官のほうを見る。

「あそこに何がある?」

 悲鳴やら、絶叫やらが聞こえる中で、サミュエルはキリコが立ち止まった場所を見る。


 何が、あの狂気錯乱しているものを止められたのだろうか?


 サミュエルの視界にあるのは恐怖する警官の顔と、逃げる人と、集まってくる野次馬、血色の悪くなったまま呆然と立っている人、人。人―。その中におかしなものは見えなかった。

 サミュエルがキリコのほうに視界を戻そうとした瞬間、それを


 絶叫が上がる。

 悲鳴が辺りを切り裂く。

 逃げる人に体を押される。


 サミュエルは茫然としているロバートの手から銃をもぎ取る。

「キリコ!」

 靄が動きを止め振り向く。

 サミュエルが銃口を向ける。

 靄はと笑った。

 だが、次の瞬間、ぎょっとして逃げようとする。

「キリコ! 逃げるのか」

 サミュエルの言葉に、靄と、キリコがちょうど上半身だけ二分して止まる。キリコは憎悪のまなざしを向けて振り返り、靄は先へ行こうともがく。


―撃て―


 どこからか聞こえる声。サミュエル以外には聞こえていないようだった。その声は女の声で、群衆の中日傘をさして立っていたの声だ。

 キリコが立ち止まり、靄が逃げ出そうとしているのは、あの人がそこに居るからだ。


 だが、サミュエルは引き金をやすやすと引くことはできなかった。

 キリコの周りには警官が、後ろの建物には、外の様子を窺ったまま恐怖で固まってしまった子供が見える。

 キリコに命中したとして、貫通すればそのどれからに当たらないとは言えない。


―いいから、撃て、逃げるぞ―


 その声にサミュエルは引き金を引いた。


 乾いた音が耳をつんざき、その場に焼けつくようなものが放たれ、独特の鉄の焦げた匂いが広がる。


 人間のそれよりは、もっと、もっと動物的な断末魔が上げる。

 キリコの声と、靄の声が乱雑に叫ぶので、耳が押しつぶされそうになる。


 靄が、ある形を成す―。

 トカゲの頭と、人間の体なのに、そのうろこ状の皮膚。太くて長いかぎ爪。大きな尻尾。まるで「トカゲ人間」のような姿になった靄は、身をぐるぐるとよじりながら絶叫し、ついには、ふわっと。消えた。

 残ったキリコは、口から血を流して立っていた。


 近くの警官が棒でキリコを叩く。肉体がある感触。

 キリコは両手を頭の後ろで組み、無抵抗だと示した。

 警官が集まり、無抵抗のキリコを少なからず何十回か殴ったようだ。縛り上げられたキリコの顔はケガを負っていた。


 連行されていくキリコがサミュエルたちの横を過ぎる。

「なんで、なんで、あいつはよくて、俺はダメなんだ?」

 つぶやき続ける言葉に返す言葉はない。


 ロバートが服を引っ張られて下を見る。

 小さな女の子が手を差し出した。そしてその掌に、銀の銃弾があった。

 ロバートはそれをつまむと、女の子は走り去った。

 たしかにさきほどサミュエルが撃った中に装填していた弾だ。―弾は一個しかないのでそれだと解る―だが、弾は装填前と何ら変わっていなかった。普通に撃てば、弾丸と薬きょうにわかれるし、銃口をすべる際に着く線条痕が付くものだが、全く見当たらず、むしろ銀色をさらに光らせていた。

 ロバートが顔を上げるが、もう女の子の姿は解らなかった。


 くるくるくる 

 日傘を回しながら歩いていく人の影。


「人がなんだ解らないけど、消えたり、すごい叫び声上げていたけど、あの人はどこへ行ったの?」

「チェスの様にさ、立っていた人が入れ替わったんだ」

 町の雑踏で拾えた言葉


 満面の笑みでホッパー警部が二人に近づいてきた。

「いやぁ、よくやったぞ! 銃で撃った時には心臓が止まったが、どういった仕掛けだか、とにかく、奴は捕まえられたし、一件落着だ。

 もう、お会いすることはないでしょうな」

 ホッパー警部はロバートと握手をし、サミュエルに手を差し出す。サミュエルが手を出さないので、その手を引っ込める。

「寂しいですか?」とサミュエル。

「いいえ、気苦労が減ってたすかりますよ。」

 ホッパー警部はそういって顔を高揚させて立ち去った。


「何言ってんだい、ええ? 司祭様の恰好をした男が、あいつの女房を寝取って、あいつが逆上したんだよ」

「そうそう、そんで、ナイフなんぞ振り回すから、危ないったりゃありゃしない」

 群衆の会話―。


 群衆の中からライト記者が手を振って、メモ帳を叩き、どこかを指さすので、「記事にするので、また」とでも合図を送っているのだろう。ロバートが片手をあげるとすぐに群衆に紛れて消えた。


「なんでも食い逃げしていたらしいぞ」

「神父様気取って無銭飲食の常習犯だったらしい」

「そこでむしり取ったが飛び散って、血に見えたんだよなぁー」

 群衆の笑い声―。


―違う、違うぞ、それ―


「サミュエル、行こうか? 事件は、終わったようだよ」

 ロバートは銃を受け取る。

 しばらく身動きをしないサミュエルを見た。

 サミュエルはキリコが最後撃たれた場所をじっと見つめている。腕をだらりと垂らして立っている。

「大丈夫かい?」

 サミュエルが首を振る。

「君、ここで何があったか、覚えているかい?」

「ああ。キリコを捕まえた。警察は、あの男、スタン伯爵と名乗っていた男に暴行していた、連続暴行犯として処理しているね」

 サミュエルはロバートの顔を見た。

「正気だよ。僕は。たぶん、これのおかげだ」

 ロバートが銀の弾を見せた。


 の、新聞―ライト記者の記事―には、連続で起きていた暴行犯としてキリコという名の年齢も、出自も解らない男が捕まったと書かれていた。


 、ライト記者とホッパー警部が難しい顔をしてやってきた。

「見ましたか? その記事」

 というなり肩を落とし、ライト記者は大きくため息をついた。

「どうしたんです? よく書けてますよ?」

 ロバートは慰めるように言う。その言葉に顔を上げ、

「あなたはあれを見ていなかったんですか? 黒い靄が警官たちを取り込んでいったあの、あの、あれを……」

 ライト記者の言葉にロバートがゆっくりとサミュエルを見た。

 サミュエルはライト記者とホッパー警部とをじっと見ていた。

「俺も同じですよ……、あの場にいた誰も覚えちゃいない。やつは、無銭飲食をし、知り合いを殺すほど殴った。そう言った余罪を今洗っていますよ。

 以前の修道院での事件が明るみになって、だが、その時の年齢も、今でさえも解らないので、立件できるかどうか」

「ライト君、なんで、書かなかったんですか? 黒い靄、」

「書こうとしてますよ、でもね、手が勝手に書いてしまっていたんです。いくら、何度、破って、書き直しても。自分の思惑と違う文章を書くんですよ」

 ロバートの言葉にかぶせるようにしてライト記者が話した。同意する用にホッパー警部が頷く。

「俺も、口に出そうとしても、報告書に書こうとしてもダメだった。誰かに言うことすらできない。だが、俺ははっきり覚えているんだ。

 黒い靄は、最初に会ったあの夜見たあれだろう? おぞましいほど邪悪で、身の毛のよだつというのはあれのことだ」

「だけどね、皆さん。おいらはあれの存在をついに先日まで忘れていたんですよ。あの広場で、あの、キリコってヤロウが靄になるまでね」

「お、俺もだ」

 ライト記者とホッパー警部が顔を見合わせ頷きあう。

「それに関しては僕もです。僕も、忘れていました」

「あなたはどうですかい? サミュエル?」

「……僕は、覚えていましたよ」

 三人が驚いたような顔を見せた。

 サミュエルはもう一人同席している人の驚かない姿に目を止めた。


 先に言っておくべきだった。今はちょうどブランチの時間だった。休日なので、エレノアを含め、サミュエルとロバートは遅い朝食を取って居るところに、ライト記者とホッパー警部がやってきたところだった。


 驚いているライト記者とホッパー警部の前に朝食が、ジェームズとマルガリタによって用意される。

 ジェームズが最後にホッパー警部の前にお茶を置いた時、ジェームズがエレノアのほうを鋭く見た。それと同時にマルガリタもエレノアを見る。

「安心したまえ、別に危害を加えるわけではないよ」

 エレノアの口調、声色ではなかった。

 コップをゆっくりと下ろし、

「いささか残念なのは、マルガリタ、あなたの食事を食べられなくなることなんだよ。だが、あたしがここにいる必要はなくなったからね。あぁ、なんて名残惜しいのかしら」

 エレノアはそういってカップから目の前にいる六人を見てほほ笑み、

「いろいろ聞きたいだろう、例えば、黒い靄は何なのか? キリコは何なのか? とか」

「え、エレノアは?」

 ロバートの言葉にはいろいろとおかしなものが混ざっていた。エレノアではないのか? と聞きたいのか? それとも、エレノアは実はこういうやつだったのか? と聞きたいのか、そもそも、エレノアという子が存在していたのか? などいろいろ考えた末に出た言葉だろう。

「マルソン嬢はあなたの屋敷で今頃は花嫁修業をされているでしょうよ。あの人はとてもいい人だ。だからこそ、あたしはキリコを取り逃がしたんだけどね」

「お、お前は、誰だ」

 ホッパー警部が代表して聞いた。

 エレノアは大声を出して笑う―もちろん、エレノアはこんな笑い方はしない―

「確かに、それが一番最初の質問だね」

 そういうと、エレノアは微笑んだ。




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