第4話

「マリアの証言では、エレナはソフィアの服と宝石を身に着けて外出したようだね」とロバート。

「それではソフィアさんに間違われても仕方ないのかも」とエレノア。

「だが、マリアの話しでは、私以外の人はソフィア自身が出向いている話しではないか。だったら、間違いに気づいているはずだね?」とシダークレー子爵。

「だけど、身元不明の婦人の死体は……いや、最悪の状況として、新聞には載っていないからね」ロバートは言って首をすくめる。

「載っていないだけでは?」

 エレノアの言葉にシダークレー子爵は頭を抱える。

「ごめんなさい。でも、そういうことならば、いい人が居ますわ」

 エレノアはアームブラスト邸に着くと、すぐに央都に電話を掛ける。

「ナイト・フラッグ新聞社へ。…………、すみません、社会部のアルモンド・ライト記者をお願いします。…はい、エレノア・マルソンです…………あ、ライトさん? エレノアです。実はお聞きしたいことが……ええ、今、アームブラスト村に、まぁ、違いますわ。いいですか? 用件を言います。これは、サミュエルの依頼です。身元不明の女性が居たりしませんか? ……そうです。遺体か、怪我しているかでも構いません。特徴は、とてもきれいなブロンドの髪をしている人です。あとは……えっと、」

 エレノアがシダークレー子爵のほうを見る。ブロンドという以外の特徴を聞き忘れたことに気づいたのだ。

「右目の目じりのすぐ下に小さなほくろがあった」シダークレー子爵は慌てて言う。

「右目の目じりのすぐ下に小さなほくろがある方です。……ええ、そうです。一応、名前を言いますね? ……エレナ・ルカリーさんです……はい、そうです。お願いします」

 エレノアは電話を切った。

「ライト記者か!」

 ロバートが感嘆の声を上げる。

「情報は、情報を扱う人がいいかと思いまして」

「素晴らしい!」

 ロバートが褒めるのをサミュエルは首をすくめて微笑む。

「一応、今のところ新聞社でも身元不明の死体の事件は出ていないそうです。以前の連続殺人があってから、身元不明の場合すぐに公表することにしているそうですから、よほど警察が秘密にしていない限りは新聞社に情報が来るそうです。

 あと、怪我をして意識不明。ということもありますから、そちらの方は現状解らない。ということでしたわ」

「さすが秘書だ」

 サミュエルの言葉にエレノアは首をすくめて微笑んだ。

「それでは、万が一、最悪な状況になった場合の情報確保はしたわけで。

 これからだがね、やはり、ソフィア嬢が子爵を保険としていたことは間違いなかった。では、最終目的をカスタゴ伯爵だとして、その他に誰と付き合っていただろうかね?」

「ソフィア嬢の性格は、正直この田舎貴族の私でさえ知っているので、本気で相手にしていた人というのは、彼女のいったい何に惚れたのだろうか、」とロバート。

「彼女の財産だろうね。大いなる、湯水のごとく溢れている金だよ。彼女も、彼女の父親も金が無ければ何の魅力もない人間だったじゃないか。

 僕はね、あの親子の、「」という音の時の、あの舌打ちをするように強く言う、あの音が非常に不愉快だったよ」

 サミュエルは思い出しても気分が悪いと言わんばかりに用意されたお茶を飲んだ。

「もし、ソフィア……いや、エレナが誘拐され、人違いだとしたら、やはり、殺されるのだろうか?」

 シダークレー子爵は項垂れる。

「まだ、身元不明の死体は無いそうですから、そう悲観しないで」

 ロバートがシダークレー子爵にブランデー入りの紅茶を差し出す。

「逆を考えてみようじゃないか?」

「逆?」とロバート。

「逆と言いますと?」とエレノア。

「まだ、殺していないとする」

「殺すんですか、結果的に?」とシダークレー子爵。

「それは、確率は高いでしょう。だが、今のいままで死体が出ていないことを吉報として、殺されていない。さらに言えば、殺す気がないと考えてみようじゃないですか?」

「殺す気がない? ソフィアではないのに?」ロバートが聞く。

「そう。ソフィア嬢ではなかった。だが、犯人は彼女を帰さない。それは、まぁ、顔を見られたので、通報されては困るからだが、それならば、殺すか、あるいはひどく遠くへ捨てるか、売るか。が妥当だ。

 だがそのどれでもなく、犯人は、殺す気や、危害を加える気がない。理由は? 殺さない理由だよ?」

 サミュエルはロバートに手を差し出す。

「え? 殺さない理由? そんなの、人を殺すのは、嫌だからじゃないのかい?」

「そう! そうだよ。

 犯人はソフィアだと思い誘拐した。だが、ソフィアではなかった。だけど、口封じに殺したり、傷つけたいという気は無いのだ。なぜなら、だから。犯人にとってのソフィアの価値は金次第だ。つまり、金が欲しいだけで、傷つけることを目的とする犯人ではないのだ」

「ですが、それはただの想像で、」とシダークレー子爵。

「そう、空想だ。だが、もし、そうだったら、彼女は今のところは安全だ。そして、彼女を利用しようと考えはしないだろうか?」

「利用するとは?」

「それこそ、売るんだよ」

 サミュエルの言葉に、無言でシダークレー子爵が立ち上がり怒りをあらわにした。


 シダークレー子爵がその日は帰るというのを引き留めた。側にいれば情報は入ってくるのだし、一人で悶々としていては不健康だと、ロバートに説得されてシダークレー子爵は、初めてふかふかのベッドで休むことになった。

 シダークレー子爵はとても本に造詣が深く、アームブラスト家所蔵の本にも興味を示し、アームブラスト翁―ロバートの父親。病気をしたので家督を譲った―とともに書斎の本の話で盛り上がっていた。

 シダークレー子爵はとても穏やかで、教養のある男だった。今どきのせっかちで、情熱と無知を履き違えている貴族の子息と違って十分に相手を思いやれる素晴らしい人だとロバートは称賛した。それにはサミュエルも同意した。

 穏やかな人だからこそ、怒りを表現する術を知らず、不安を表に出せず、その結果、顔色の悪いひょろひょろとした体形を作っているのだった。

 ロバートの母や、使用人、更には村人にまで心配され、相手にされたおかげで、1週間ほどで血色のよい好青年になっていた。ただ、エレナの消息がいまだ分かっていない状況下であるので不安が顔に影を落としているのは否めなかった。


 夏の盛りの蝉の大群がひと段落した昼下がり、皆で庭でお茶をしていた。そこへマリアが駆け込んできた。

 マリアは他のメイドに仕事を頼み、具合が悪いと部屋で休むと言っておきながら飛び出てきたという。

 呼吸を整えさせ、水を与えて平静に戻させる。

「さっき、お金の要求があったんです」

「恐喝と来たか! 犯人は?」

「それが、お金を使いの者が来るそうで、その人に渡せばいいという連絡だったそうです」

「ばかばかしい取引だ。それで、サルバトーリは?」

 サミュエルが声を上げる。

「メイドごときに大金を出すつもりはないと、手紙を暖炉に破り捨ててしまいました。サルバトーリさんが出て行ってすぐ掻き出しましたけど、これしか取れなくて」

 そういってポケットから出したのは、封筒の蝋印の少しだった。

 サミュエルはそれを受け取り、しばらく見つめていた。

「それから、他のメイドから聞いたのですけど、ソフィア様は、カスタゴ伯爵のほかに、スタン伯爵とお付き合いをしていたようです。

 ソフィア様の性格は皆さまよくご存じですから、結婚したがっていると解ってからは、このお二人しか相手をしてくれなかったようです」

「スタン伯爵?」

 ロバートが眉を顰める。

「はい、ジョン・スタン伯爵です。央都に住んでいて、競馬好きで有名な方です」

「……生きているのかい?」とロバート。

「ええ、もちろんですわ。エレナが行方知れずになった7月14日。その日も来ていましたから」

 ロバートとサミュエル、エレノアは顔を見合わせる。

「では、婚約発表から、一か月ほどは、彼女はあの屋敷に居たのだね? 私の声は届かなかったのだろうか?」とシダークレー子爵。

「エレナは泣いていました。今出て行って、あれは自分だと言えたらどれほどいいか、だけど、それは自分が騙していたということで、あなたを悲しませると」

 マリアの言葉にシダークレー子爵は椅子に落ちるようにして座った。

「7月14日。よく日付を覚えていたね?」

「ええ、その日、エレナの誕生日でしたから。

 それなのに、ソフィア様は自分の服と宝石を身に付けさせて、買い物に行けと命じたんです。

 ただ、わたし、この日は具合が悪くて早めに休んだので、誕生日だったことだけしか知りませんで。だから他のメイドから聞いたんです。ええ、スタン伯爵と付き合っていたと話してくれたメイドです。

 その日の午前中にスタン伯爵が面会をしたいと来て、うっとうしいから、あなたわたしの代わりにその宝石を身につけて出て行き、買い物しているところへ、スタン伯爵がきたら、その指輪を投げつけて、これで終わりだと言いなさい。と。

 ですからね、わたし思ったんです。エレナはスタン伯爵が連れて行ったんじゃないかって。

 身に着けていた宝石で今まで賭けをしていたけれど、お金が無くなったから身代金を要求してきたんじゃないかって」

「なるほど……ところで、スタン伯爵のお屋敷はご存知かな?」

「いいえ、賭け事をなさるので、そこへ行けば会えるのじゃないかしら? そうですよ、夏の競馬のお休みでしょう? 今日から三日ほど」

 マリアの言葉にロバートが手を打ち、

「サマークラシックか! 休みの三日間をはさんで前後一週間ずつある競馬の祭典。なるほど、休みに入り金が無くなったので、恐喝しに来た。ということか!」

 ロバートはそういってサミュエルのほうを見た。

「スタン伯爵の居所は解らないんだね……」

「競馬場に行けば、」とロバート。

「一体、どのくらいの人間が集まっていると思っているんだい? たった十人だとしても、僕らはスタン伯爵の顔を知らないのだよ?」

「あ……」気付いたようにロバートが言葉を詰まらせる。

「ジョージ・スタン伯爵。……スタン、伯爵」

 サミュエルはしばらく黙っていた。その沈黙がマリアを不安がらせ、マリアはロバートのほうを見た。ロバートは指を唇に押し当て「静かに」と無言で合図を送った。

「やはり、央都へ戻るしかないようだ。……せっかく素晴らしいところに来たのに」

「じゃぁ、僕も、」

「領地のほうはいいのかい?」

「とりあえずの仕事は済んで、収穫まで時間はある。正直、今の時期は社交界シーズンで、本当は、央都へ行けと言われているんだ」

 ロバートは頭を掻いて苦笑いをした。

「ロバートが居てくれると、マルガリタの機嫌がいいので助かるよ。もちろん、エレノアも来てくれるだろう? それから、子爵も。客人として泊まってくれたまえよ。

 それでは央都へ行こうじゃないか」

 サミュエルは立ち上がり、血色良く一同を見回した。


 汽車が来るまで少し時間があると判ると、サミュエルはサルバトーリ邸へと向かった。

 マリアは裏口からそっと帰っていき、サミュエルだけがサルバトーリと面会を行ってすぐに戻ってきた。

「会見の内容を聞いても?」とロバート。

「いくつかだが。今良き報告としていえるのは、エレナ嬢が無事助かった場合、サルバトーリ家のメイドとして復帰せず、わたしの知り合いのところで世話をすることを認めさせてきた。つまり、子爵。あなたが、もし、エレナ嬢を庇護したければ、メイドと子爵という関係ではないということです」

「私は彼女を愛しています。私を騙していた理由についても、あの親子の様子を見れば致し方ないのだと理解しています。

 もし、身分を気にして私に会ってもらえないのならば、あなたのなさろうとしている行為は、わたしにとって非常にありがたいものです」

 サミュエルは満足そうに微笑み、

「ほかにもあるけれど、これは、本人に会ってみなければ僕としても判断しかねるんでね。今は黙っておくよ」

 サミュエルの思考に興味をもったがそれ以上は誰も聞かなかった。


 中間駅でサミュエルは降りてどこかに電話をかけていた。

 汽車が走り出して危うく乗りそこないそうになって戻ってきて、苦笑しながら椅子に深々と座ると、腕を組んで目を閉じた。眠っているわけではないだろうが、規則正しく動く胸が眠っているのかもと思わせた。


 央都の駅に着いたのは夜の七時を回り、夕飯が欲しくて誰と言わず腹が鳴った頃だった。

 ジェームズが駅に四人掛けの馬車を寄越して待たせていた。御者はサミュエルの顔なじみなのでそれに乗り込む。

「ジェームズはやはり素晴らしい執事だね」

 ロバートの言葉に口の端を緩める。

「今から帰ると連絡を入れておいたんだ。マルガリタが電話の向こうでうれしい悲鳴を上げていたから、お二人さん、いや、三人さん、覚悟した方がいいよ」

 サミュエルは三人にいたずらっぽい笑みを見せた。


 ラリッツ・アパートが見えたころ、その入り口が無造作に開き、中の明かりが外に漏れ、待ちわびていたマルガリタが入り口に立ってそわそわと馬車を迎えた。そして降りてきた、サミュエル、ロバート、シダークレー子爵には宵のあいさつをに「おかえりなさいませ。ようこそ、ロバート様。いらっしゃいませ、子爵様」と言い、最後に降りてきたエレノアには熱い抱擁をして、

「待っていたのよ。エレノア。もうずいぶん顔を出してくれなくて、本当にさみしかったのよ。言っているでしょう? サミュエル様に用がなくても会いに来てくれていいって。どうせ、サミュエル様に用なんぞないでしょうから。私に会いに来てくれって」

 と濁流のごとく話しながら中に入った。一週間前に会っているというのに、この歓迎ぶりにはいつもながら驚かされる。それほど、マルガリタはエレノアを気に入っているのだろう。

 残った三人は首をすくめ、出迎えたジェームズは「申し訳ありません」という顔をして上着などを預かった。

「一体、どうしたわけだい? マルガリタの歓迎がより一層だけど?」

 ロバートの質問にジェームズは目だけ天井を見あげ、

「言いにくいのですが……、妻の、マルガリタの妹のところの息子が今度結婚をいたしまして」

「それは本当かい? 僕は聞いていないよ?」とサミュエル。

「マルガリタの妹でございます。サミュエル様に報告するほどではと考えましたので」

「そうかい? でも聞いたからにはを送るように」

「かしこまりました。ありがとうございます」

 ジェームズが頭を下げる。

「それで、その結婚がなぜあんなことに?」

「……その、結婚相手がとてもいいお嬢さんだとかで。ええ、実際結婚式に出ましたマルガリタさえも、上品でかわいらしいお嫁さんだったと言っておりまして、」

 ジェームズは言葉を切る。

「それで?」とロバートが先を促す。

「サミュエル様は結婚をなさらないだろうから、あんなかわいらしいお嫁さんと一緒に、家のことなんかできないだろうけど、ロバート様が結婚なさったら、エレノア様がここにいてそれはそれは……はい、解っております。きつく違うと申しておるのですが、」

 ジェームズはロバートが反論をしようと口だけ開いた途端素早く言い切った。

「どうも、マルガリタは、ロバート様にはエレノア様が御似合いだと譲りませんで」

 ロバートの顔は、あの熟れておいしそうな林檎よりも赤く、真夏の太陽よりも熱くなっていた。


 夕食はサミュエルの予言通り豪勢だった。シダークレー子爵はその量とうまさに驚き、マルガリタをほめちぎった。そのおかげか、マルガリタはシダークレー子爵をとても気に入ったようだった。

 ジェームズに関しても、

「貧乏が役立つとは思わなかったよ」

 と苦笑いをしながらも、自分が実践している掃除方法を教え、ジェームズが長年取り組んできていた汚れを見事解消させたので、対応がだいぶ変わった感じがした。


 エレノアがマルガリタから解放されたのは夜のお茶の時だった。

 マルガリタは夕食の後片付けを済ませると、近所の婦人会の集まりに毎夜出掛ける。何かを作ったりしているらしいが、おしゃべりに花を咲かせているに違いなかった。

 夏なので暖炉に火は入れていないが、お茶を飲むときは自然とその前に座る。

 正面にサミュエル。左隣がロバート、右に、シダークレー子爵とエレノアが座った。

 ジェームズはお茶をサミュエル以外に注ぎ、主人にはコーヒーを注いだ。

「コーヒー、ですか?」

「こちらがよければ?」

「いいえ、どうも私の口には合わなかったので。一度、昔、サロン・ド・ボーで飲んだのですが、あまりの苦さに咳き込んでしまって、……何ということだ、何というバカ者だろうか? あぁ、私は、どこまで愚かなのだろうか?」

 シダークレー子爵はそういって立ち上がって首を振り、

「私はスタン伯爵を知っていますよ」

 と言った。


 三人が我に返ったように「え?」と聞き返すのに少し時間がかかった。

「先ほど言った、サロン・ド・ボーは、東駅そばにあるサロンで、あまり上等な紳士が出入りする場所ではなく、わたしのような、三流紳士のたまり場です。それでも一応は、貴族のみ入店を許可されているので、貴族サロンではあるのです。

 私はそこへ、二度ほど出向いたことがあるんです。二度。一度目はその近くにある図書館からの依頼で、古い本の書き写しの仕事が入り、それを済ませて収入が入ったもので、今流行りのコーヒーを飲んでみたいと思って入ったのですが、いつもいる給仕ではなく、女給だったものですから―ええ、通りすがりによく中の様子を窺っていたものですから、給仕の男の顔は覚えていたのです―、その日は分難にお茶にして。

 二度目は、同じく図書館からの依頼が入り、早く書き写せば収入が入るわけですから、景気づけにと入った時です。

 その日は客が多く、相席になってしまい、相席の男がちょうど注文を、「コーヒー」と頼んだところだったので、私も。と便乗したんです。

 その男は競馬新聞を持っていましたので、それをちらりと見ますと、


「興味ありますか?」

「いえ、競馬はまるで。ただ、その馬の名前は、とある本の主人公の名前のようですね」

 と言いますと、どのような内容かと聞かれたので、

「英雄伝です。誇張が激しい子供向けのものですが、山ほどの龍を倒し、王国の姫と結婚する英雄の話しです」

 と言いますと、

「では、この馬に賭けよう」

 と言います。私は、そんな安易に決めてもらっても、私は責任が取れないと言いますと、男は笑い、

「賭けはね、その時の思いきりなんですよ。

 実を言いますとね? ここに来るまでに私は願掛けをしていたんです。この店に入って、最初に口をきいた相手によって今日は勝てるかもしれないとね」

「というと?」

「先ほどの女給は何も言わず、私は、コーヒーとだけ言った。彼女は何の返事もせず、代わりにあなたが同じものをと言った。そのあと、あなたが新聞に目を落としていたので、聞こえるかどうか解らないほどの声で、興味あるかと聞きました。

 人のものを盗み見ているなど分かったら恥ずかしいと、私が話しかけたのを無視する人は大勢います。ですが、あなたは律義に答えた。それ以上に、馬の名前の話までしてくれた。

 私は、この店で私に声をかけてきてくれたものが男ならば、私が決めている色の馬に掛けよう。と願をかけたのですよ」

「それは、」

「確かに、出入り口でぶつかりそうになったり、それこそ注文の際に交わしてしまうので、そういうものを除外していましたよ。

 いわいる。普通の会話をした相手。そして、その男は眼鏡をかけていて、できれば、青い服を着ていること。この馬の色です。大穴の馬だ。

 どうです? あなたならぴったりだ」

 私は普段眼鏡をかけています。その時も、図書館の帰りだったので眼鏡をしたままでした。そして、薄い、古ぼけた青い服を着ていたのです。

 彼は笑顔で、券を買いに行きました。

 そのサロンでは、店のカウンターで賭けの取引を行っているようでした。

 しばらくしてから彼は帰ってきて満面の笑みで私に握手を求め、

「私はスタン伯爵。ジョージ・スタン伯爵です。ジョージと呼んでください」

 と言ったんです。

 彼はその日勝ったようでした。大勝とまではいかないが、とにかく勝ったのだと、私におごらせてほしいと言ってきたのですが、仕事を早く片付けたかったし、コーヒーが苦すぎて、早く口をゆすぎたくて、早々に帰ったんです。


 そして、その日のことは、苦いコーヒーを吐き出した瞬間記憶から抜けていたようです」

 シダークレー子爵は自分のに愕然とした。

「では、明日、サロン・ド・ボーへ出かけてみよう。エレノアは遠慮したほうがいいだろうね」とサミュエル。

「ええ。残念ですけど、私も明日は仕事ですから。でも、先ほど、マルガリタに明日は帰ってくるようにと念を押されていたので、どうだったか夜、お話ししてくださいね?」

 エレノアは微笑んでロバートのほうを見た。微笑み返しをしたロバートの脳裏にさきほどのジェームズの言葉がよぎる。


―ロバート様の結婚相手はエレノア様だと決めつけておりまして―


 顔が赤くなったので、たぶん、それを思い出しているのだろう。

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