第6話

 新たなる旅立ちの日が迫っていた。私たち僧侶の一行は首都を離れて以降、一貫して徒歩で港を目指している。夜明け前に宿泊していた寺を出発し、日が沈む前に海が真近に見える地点にまで移動しなければならない。都心部から離れていくにつれ、初めて目にする光景ばかりが視界に立ち現れてきた。都会に比べて地方は余りにも貧しい。私の少年時代は草原を移動する生活であった為、定住する農民たちの貧しさは余計に切迫したものに映った。天候不順による飢饉のせいで荒廃している田畑が思いの外多く、農民たちの表情も一様に暗く険しいものが目立つ。


 そして太陽が真上から村一帯を燦々と照らしていた刻、私たちは陰惨な現実に直面した。廃屋の側の大木に縄で幾重にも縛りつけられた男の生々しい死体が目に飛び込んできたからだ。死体は打撲と刃物で切り付けられた傷の痕が多く、特に頭部は腐った西瓜のように腫れ上がっていた。恐らく農奴の者が逃亡に失敗し、見せしめとしてその場に放置されているのだろう。かつて奴隷だった私は慄然とした。私たちはその哀れな死体の前で合掌し経を唱えた。僧侶の仲間は皆優しかった。私はこの時、西方へ礼拝を行うことを許された。私がひと時の神への祈りを捧げた後、速やかに戻ることを確信してくれていたのだ。丁度その時のこと。地にひれ伏した私の耳に何かが聞こえてきた。子供の声だった。私は顔を上げた。治安が乱れ民衆の不安が増大しているこの地上はある意味、地獄に近い世界である。釈迦の末法思想が語るように。しかしそのような中で救いなのは美しい自然と、時折垣間見ることができる大地を駆け回る元気な子供たちの姿だ。彼らの視界にはもうあの陰惨な死体は消えているのだろうか。私にはわからない。ただ大人たちからは、悪いことをすればこうなると戒められているはずだ。真昼の太陽を浴びた村の緑が多い風景の左端から右端に木の枝を剣のように振り回して遊ぶ少年たちが走り去っていく。私は彼らの未来に一抹の不安を覚えると同時に、木と同化したような男の死体が、道端に落ちている虫の死骸の印象と重なり当惑した。恐らく私はまだ何か答えを探している途中なのだ。


 私を含めた僧の一行は、西の空に玄妙な茜色が射しだした頃、前方の緩やかな丘の彼方に水平線を捉えた。私は生まれて初めて海を見た。師の思い出からしか想像できなかった風景ともうすぐ出会える。私はこの時、自分と入れ代わった男のことを察した。彼は本当にこれで良かったのかと。無論、私は提案を受け入れた側である。だが軽薄そうな彼の野心が全く理解できなかった。聞いた話だと彼は相当な生臭坊主で、常々修行を怠け女癖が悪かったとも云う、ある時なぞ子連れの女が寺に押しかけてきたこともあったそうだ。そのような無様さで、誠に自ら去勢を望む選択肢など本当に有り得るのだろうか。

「あいつはおかしな奴です。とにかく面倒なことからは逃げてばかりで。ずっと寺を追い出されなかったのが不思議なくらいですよ。今は時代が過渡期なのでしょう。元朝の末期に仏教界は腐敗していました。だから別にあいつ一人が腐っていたわけではない。でも自ら政府直轄の身の宦官を志願したのは事実ですよ。あいつが科挙の試験に合格して国家官僚になるなぞ、雲を掴むほど不可能なことですからね。それに宦官は男ではなくなっても稀に性欲が消えない者もいます。勿論、あなたはそうではないでしょうが。噂だと女官と交わる少数の宦官が存在するという話です」

 私の人生に転機をもたらした僧はそのようにあの男について語った。深呼吸をして壮麗な夕焼けを味わっている彼は新天地への希望に燃えているように見えた。夕日に映えた清々しい笑顔が好ましい。

「私はこれからあなたと道を共にすることを光栄に思っています。そして同時に希望も感じています。私たちは同志です」

 その希望や同志という言葉に、転換の渦中にある私は勇気付けられた。やはり彼は私と同じ思念の迷路に嵌っているのかもしれなかった。遥か遠い天竺から何層にも連なる山脈を越えて伝来した仏の教えは、人間の海のようなこの大陸に元々土着していた無為自然の概念と融合し、圧政に苦しむ人心の支えになっているはずなのだが、私たち僧侶はいつの間にか国家の役人に近い存在に成り果ててはいまいか。要は民衆の味方ではなく、支配し搾取する側の味方になっているようにさえ思われるのだ。ゆえに約一年前に彼と交わした話の中で、私は力の正義を唱える者への不信を口にしたのだった。

 

 歩いてきた道が左右に大きく開けた。ついに私たちは港に着いた。太陽は大きく西に傾いていたがまだ沈んではいない。黄昏の海は煌めく空を反射させ黄金のように光輝いており、私は初めて遭遇する潮の香りを放ちながら膨大な水を湛えた果てしない大自然に驚嘆した。私たちは勇み足で進み、停泊している貿易船と港の建物を縦横無尽に移動する群像の中に吸い込まれていった。

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