第5話

 その日、首都は台風に見舞われていた。白昼だったが、凄まじい豪雨で屋外の風景も、叩きつける滝のような壁に阻まれて何も見えない有様だった。私は轟音を切っ掛けにして木版に文字を刻んでいた手を暫し休めた。開け放した戸の向こうは灰色の水の膜に霞んでいる。

 

 激しい雨を手探りに何かを思い出そうとした矢先、私は有無を言わさぬ打撃を受けて床に転がされていた。得体の知れぬ濡れ鼠の男に襲われたのだ。殺意は感じられなかった。また強盗の類でもない。勢いよく弾き飛ばされた衝撃で半ば意識を失いかけていた私だが、人を馬鹿にしたような笑い声が聞こえてきた途端、痛みを伴う不快感に立ち眩みを覚えながらも毅然と立ち上がった。目の前の若い男は、先ほどの俊敏な動きに似合う兵士のような屈強な身体をしている。ところが滑稽にも頭は丸坊主の僧形だった。

「そなたは何をしておるのだ。礼儀をわきまえなさい」

 私が真っ直ぐに若い僧らしき男を見据えた時、その男を怒鳴りつける筋の通った声が雨の音を切り裂くように背後で響いた。やがて外の雨の中から別の僧が一人現れた。真面目な人相をした面識のある顔だった。この男もまた私と同世代である。彼は穏やかに表情を崩し私に一礼した。その動きに合わせて悪態をついて登場した男も、腰を折り土下座をして私に詫びた。その姿は毎日西の方角へ礼拝を欠かさない私自身に似てなくもない。

「突然の非礼をお詫び致します。私たち二人はあなたにこれからの使命をお伝えしに来ました。これはあなたの上司も既にご承知のことです」

 

 何のことやらさっぱり訳が分かなかったが、取りあえず彼ら二人の話を聞くことにした。話の概要はこのようなものであった。

 この一週間の内に、最初に現れた僧が私の代わりに僧から宦官となって印刷所で働く。そして私は印刷所の仕事を辞めて僧になる。僧になった私は要件を伝えに来た僧と共に海を渡り東の果てにある日本という島国へ赴く。

 余りにも急な話である。台風の雨は依然として地を叩く濁流のように屋外で降り続いていたが、私の心は虚空を彷徨っていた。


 それから数日後、私たち三人の最後の打ち合わせが都市の密集地帯から少し離れた郊外にある寺で行われた。昨日の段階で頭を丸めていた私はもう身なりは僧に成り切っている。

「生憎、あなたは私と過去に一度会話をしたことを憶えてはおられないようですね」

 あの台風が襲来した日、私の記憶からすっかり消えていたが今ならば思い出せる。私は確かに彼と一度話している。丁度一年前だ。しかも話したことは私にとって貴重なあの自問自答の内容に関することだった。印刷所で仏典を手渡す際に、私は孔子と釈迦について頭脳明晰な青年僧の彼と一度きり話をしていたのだ。

「あんたと俺は入れ替わり、生まれ変わることになるんだ」

 あの男が割って入ってきた。私に初対面の体当たりを食らわせた濡れ鼠の悪漢である。彼はまだ宦官の手術をしていないらしい。

「どうやら、おまえは私と入れ替わるのが嬉しいみたいだな」

 私は言葉を投げ返してみた。私もまだ若者の端くれだったが、相手は子供に毛が生えたような無邪気さを何の衒いも無く丸出しの面構えだ。

「そりゃそうさ。一生、坊主で終わるくらいなら宦官の方が百倍はましだろ。あの皇帝陛下だって、貧民だった昔は枯れ薄木みたいな小さな寺に預けられてたって話だよ。そこから抜け出して白蓮教徒の反乱軍に加わったんだ。そこで頭角を現して元帝国を滅ぼす指導者になった。今では、元を倒した明の大帝国の初代皇帝さ。立派なもんだ。この俺だって」

「大口を叩くなよ」

 これから私と海を渡る僧が吐き捨てるようにたしなめた。

 

 寺内の控えの間は薄暗く、灯りは蝋燭一本だけだった。私たち三人は謀の密議をしているわけではないのだが、一種不穏な空気感が其処に漂っていたのは事実である。私の人生において、大きな変化はいつも急にやってくる。今回もその類のものだった。

「こうなったのは、あんたが神を捨てれなかったからさ」

 それは私と入れ代わることになった男の捨て台詞だった。確かにその通りだ。多分、私が印刷所の仕事を辞めさせられることになった原因は、午後に神への礼拝を行う習慣を毎日続けていたからではないか。上司や部下との人間関係は上手くいっていたし、表面上は波風の立たない日々が続いていたように思う。そして無論、この帝国内に少数ではあっても、私と同じ神を信仰する者たちはいる。だがあの狭い職場にそれは私一人だけだった。そして私本人はその孤独を居心地良く感じてもいたようだ。

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