第4話

「あんたと俺は入れ替わり、生まれ変わることになるんだ」

 そう話を持ちかけてきた者の表情を私は今でも克明に思い出せる。

 密室の蝋燭の火に顔半分を照らされた鋭角的なその形相は顎が幾分しゃくれており、狐のように細く鋭利な目には、臭いたつような野望が感じられた。

 尊大な支配者たる権力を手にした人間と間近に接したことがこれまでなかったとはいえ、この時には相対したその青年がそのような大きな権力を得ることを渇望しているのが如実に感じ取れた。

 

 あの工房を後にして以降、私は奴隷の身分からは解放されたが、今度は性を失うことになった。王国を侵略したチムール帝国は黄色い肌をした私たちを奴隷商人に売り飛ばし、行き着いた先は故郷の草原を版図に加え今や大陸のほぼ東半分を領する明という広大な帝国だった。

 そしてそこで私は宦官にされるべく去勢されたのだ。もう男でも女でもない。私は人口の坩堝と化す首都の巨大な官舎の片隅で暮らすことになり、印刷所で木版に彫刻刀で文字を刻む仕事を与えられた。

 文字の種類は漢字というもので、それは絨毯の模様の優美さとは程遠く、一見すると無機的で冷徹な印象を受ける形が殆どだったが、この仕事に従事した為に、明帝国の公用語の習熟が早まった。性別を消失した私は残念ながら創造的感性が薄まったように思う。しかしその反面、勤労意欲が増し機械的な作業に没頭できるようになった。私は官僚とはいえ未だ底辺の身だが、紙の製造に成功し印刷技術を発明したのは、古代の後漢時代を生きた蔡倫という名の他ならぬ宦官である。


 明帝国で暮らすようになってから、私は一度生死の境を彷徨ったことがある。宦官の手術が終わった直後に、激痛と高熱に襲われたのだ。

 あの時、私は恐怖に怯えることなく死を悟った。来世を希求し、死を願っていたといってもよい。心を通わせたかもしれない初めて恋した娘と、心の師に再び会えるかもしれないという強い期待を胸に抱いた。そして両親から教えられた、現世よりも来世はもっと歴然としたはっきりした世界だという話や、善と悪の印象として心に刻まれている生前の行動が、神の審判でいったいどうなるのか、私は絶え間ない苦しみの中でもがきつつ、私たち人間の運命を司る神に来世を託し縋っていた。

 痛みだけに支配されていたような何も見えずに何も聴こえない世界は永遠に続くようにさえ感じられたが、意識が完全に失われつつある臨界点に達した時、清涼な風にさらわれるようにして夢の世界が現れた。

 

 あの天使のような娘が、幼少期に私が暮らしていた天幕の中にいた。彼女は優しい母親に抱かれ寄り添っている。まるで二人は聖なる母子像のようだ。私にはこの母子とその場に一緒にいる感覚はなかった。恐らく私は彼女たちには全く感知できない透明な存在なのだ。この夢の記憶で脳裏に焼きついているのは、娘の印象的な表情である。彼女は母親に頭を撫ぜられており、口元に笑みを浮かべながらも、戸惑うような表情をしていたのだ。それはこんなに幸せで良いのかしら?という謙虚で純真無垢なものである。そして驚くべきことに、娘の姿はあの哀れな子羊にも瞬時に変化した。私は思わず愛しさのあまり、声にはならない声で呼びかけていた。そうだ、幸せで良いのだ!幸せで良い!それで良いのだと。


 夢から目が覚めた時、私の痛みと高熱は峠を越えていた。私は神の慈悲と恩寵に感謝した。私はまだ死ぬべきではないのだ。私の周りにいる人々の殆どは、神への信仰心とは無縁だったが、死にかけた私の看病をしてくれた親切な人間ばかりだった。それは勤勉に働く私への配慮もあろうが、死を願った私は自らを恥じた。


 蟻の群れさながらに人々が蠢く大都市での生活が数年を過ぎた頃、私は刻んだ文字の集積である四書や仏典をようやく理解できるようになってきていた。神への信仰心は揺るがなかったものの、木版で印刷された文書を読むことで、帝国に住む大半の人々の思想信条の素に触れ、どうやら少しはその本質がわかってきたようだ。

 そしてどちらかと云えば儒教の四書が礎として重きを成し、仏典さえもが四書によりその多くを解釈されているように思えた。また帝国内の人々は総じて独楽鼠のように忙しく働き、長閑さとは無縁のまま、上昇志向の熱気を街の至る所に溢れさせている。

 事実、帝国政府は科挙という超絶した厳選を伴う試験制度によって広く人材を募集していた。これは受験戦争と表現してもよいほどに過酷な競争である。受験者は数十万人の中から数百人程度しか合格できない仕組みになっているからだ。それでも挑戦者は破格の権益を享受できる高級官僚を目指し何回も受験を繰り返す。この凄まじい貪欲さが国家を発展させる原動力になっていることは疑うべくも無い。このような場の空気に圧倒される日々の中で、いつしか興味深い問いかけが浮かんでは消えていった。それは二人の偉人、儒教の始祖たる孔子と、仏教の始祖たる釈迦についてのことである。孔子も釈迦も神ではなく人だ。この預言者ムハンマドやイエスよりも古い時代を生きた偉大な人物二人が仮に私の前に立ち、共に進むよう歩みを促したとしたら、どうなるのか。


 私は迷わず釈迦の後ろを付いて行くことになろう。何故なら孔子の教えは国を治める人々が抱く志に過ぎない。道義を説き成功へ導く意欲を民に植え付け駆り立てることはできても、最終的に民は国へ奉仕することが第一義であり、民の救済がさほど重視されてはいなかったからだ。この後、私は奇しくも自らの問いを試す機会に出会うことになる。

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