三章

三章 1



 一瞬、それは人の手に見えた。


 だが、違う。

 そう見えたのは、それの先端が五つにわかれているからだ。ちょうど、手首からさきが、土からつきだしたように見える……。


 そんなことが、ぼんやりと頭に浮かんでくる。


 そのすきに、それは襲ってきた。五つにわかれた指のようなものが、ニュルリと伸びて、すばやく、ワレスの足をつかむ。ものすごい力で引きよせられて、ワレスは転倒した。


「隊長!」

 ハシェドがかけよってくる。


 そのほんの一瞬のあいだに、ワレスはひざまで土のなかに引きこまれていた。


「隊長! つかまってください!」


 さしのばされるハシェドの手に、夢中ですがりついた。しかし、それでも、ずるずると体が土に飲みこまれていく。

 何かとても巨大なものが、地面の下から、ワレスをひっぱっている。白い手に見えたのは、そいつの触手だ。


 ハシェドがあせって、仲間に声をかけた。


「みんな、手伝ってくれ!」


 従う者はいない。

 みんな、青い顔をして、ぼうぜんとしている。


 ムリもない。

 ワレス自身でさえ、やっと最初の驚愕きょうがくからさめてきた。ひきずりこむ力に、なんとか抗おうとする。


 だが、ダメだ。人力では抵抗できない。ひきこむ力が強すぎる。


 ワレスを支えるハシェドの足も、しだいに土にめりこんでくる。

 このままでは、二人ともやられる——


 ワレスは、ハシェドをつきとばした。反動で、ワレスの体は腰まで土のなかに沈んだ。かたい地面がやわらかい粘土に変わってしまったように、かるがると、ワレスの体を飲みこんでいく。


「ワレス隊長ッ!」

「おれの足元を剣で突け!」


「隊長を刺してしまったら、どうするんですか!」

「時間がない! 突け!」


 ハシェドが両手で剣をにぎりしめた。かたく歯をくいしばり、地面につきたてる。


 ドン——と、地面がゆれた。

 ワレスの足にからまる触手が、こわばる。


「きいてるぞ」

「ダメです! ぜんぜん浅い」

「だが、剣のきく相手だ!」


 ハシェドが続けざまに地面をつく。しかし、ハシェドの言うとおり、剣では深くまで刺せない。


 すると、ようやく、兵士の一人が、ヤリを手にかけてきた。彼がヤリをふりおろすと、地面は激しくゆれた。

 何かが地中であばれている。ワレスの足をつかむ触手の力が、急速にゆるむ。


 ワレスは自力で地面から這いだした。


「小隊長!」


 他の兵士たちもよりあつまってくる。


 はあきらめたようだ。とつぜん、ボコッと、地面の一部が大きく盛りあがった。巨大なモグラの通ったあとのようなものを残し、一直線に森のかなたへ向かっていった。


 力がぬけて、ワレスはすわりこんだ。


 ハシェドが声をかけてくる。

「隊長。おケガはありませんか?」


 ワレスはぼんやりと、ハシェドを見あげる。思考がうまく働かない。


「ああ……」

「よかった。もうダメかと思いました」


 さしだしてくるハシェドの手をつかむ。立ちあがろうとすると、にぶい痛みが足首に走った。


「……足をくじいたかな」

「ムリもありません。あれだけの力でしたからね。左ですか?」

「いや、右だ」


 ハシェドはワレスのもとに片ひざをつく。献身的に革靴をぬがせようとする。

 ワレスは急に恥ずかしくなった。


「いや、いい」

「でも、折れてるかもしれませんよ。しらべないと」


 手を伸ばしてくるので、とっさに払いのけた。

 さっきは夢中で、まったく気にならなかったことが、今になって熱く思いだされる。


(ハシェドの胸は広かった。肩幅も、骨組みも、おれより……)


 ユイラ人はいつまでも青年のように見える。寿命の短い他国人より、成長が遅いからだ。三十前には、まずヒゲも生えてこない。肌はなめらかなまま、体格もゆっくりとしか男らしくならない。


 ハシェドは半分、ブラゴール人だから、ふつうのユイラ人より成長が速いのだろう。

 抱きしめる腕がたくましかったことを思いだして、ワレスは情欲を抑えかねた。今、ふれられるのは、マズイ。


 必死に理性をたもとうと深呼吸するワレスを、ハシェドは勘違いしたらしい。


「痛みますか?」と、のぞきこんでくる。


 おまえのまっすぐな目で、おれを見るな——


 うしろめたいような、恥ずかしいような気持ちで、ワレスは顔をそむける。


 わきにヤリを持った兵士が立っている。さっき、助けにきてくれた男だ。

 たしか、中隊の編成替えがあったとき、第一小隊から、第二小隊に移ってきた。長年、コリガン中隊長のもとで第一小隊の第一分隊にいた。つまり、腕前がたしかで、信頼が厚かった、ということだ。


 だから、もとのワレスの部下だけでは足りなかった人数をおぎなうのに使った。

 名前は、たしか、


「アーノルド」

「はい」

「おかげで助かった。礼を言う」


 アーノルドは少年のように笑った。


 とつぜん、ワレスは気づいた。屈託くったくのない笑いかたが、ハシェドに似ている。


「肩をかしてくれ。馬のところまで」

「はい。小隊長」


 アーノルドに手をとられ、ワレスは立ちあがる。


 そのようすを、ハシェドが困惑の表情でながめている。どこか悲しげにすら見える。


「……ハシェド。おまえはみんなに指図して、七度焼きの木を切りたおしてくれ」

「はい……」


 こたえる声にも元気がない。

 ワレスは胸を痛めた。


(そんな顔しないでくれ。よけい抱きしめたくなる)


 アーノルドに支えられて歩きながら、ワレスはハシェドをふりかえった。

 魔物が去って、単純に喜ぶ兵士たちのなかで、一人だけ、しょんぼりした背中。これ以上は、ほっとけない。


「ハシェド」

「はい」

「おまえは命の恩人だ。助けにきてくれて、ほんとに嬉しかった」


 とたんに、ハシェドの満面に笑みがこぼれる。


 ワレスは自分が、ひどく汚れたものに思えた。世界で一番、自分が汚れているように。

 それは欲望のみにくさではなく、たぶん、ワレス自身が汚れているからだ。

 心が、汚い。


 ハシェドは言う。

「おれは、あたりまえのことをしただけです」


 おまえは、なんてキレイなんだろう。おれのなくしたものを、すべて持っている。


 急に悲しくなった。


 ハシェドの呼吸する世界と、自分の世界には、まったく違う空気が存在するのだろう。

 それは、昼の世界と夜の世界。

 光の国と闇の国。

 決して、あいいれない世界の住人。


(おまえは、おかしく思ったろうな。危険をかえりみず助けにきてくれたのに。あんなに乱暴に手をふりはらって)


 ため息をひとつ。

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