第一節 ◆ 剣の間/幕間

 オリュンピア帝国・帝都オリュンポス――。

 その中央に聳え立つは、白亜に輝くアイギス城。十二枚羽根を模った堅牢な防壁と、水晶のごとく透明な鉱石を材に持つ半円型の囲い屋根。天地より来たると想定される外敵すらも一切通さぬこの最強の十三重に及ぶ防御機能は、帝都の広大な敷地面積を全て覆い尽くす――荘厳華麗にして、金城鉄壁の極みの体現である。

 防壁の内部といえば、石材の継ぎ目の判断が困難なほど純白の緩やかな円みを帯びた城壁が、九つの塔をぐるりと囲う。その周囲に設置された季節の樹木や花々が植えられた庭園には、春から初夏にかけて名を連ねる色とりどりの鮮花あざばなが咲き誇る。

 九つの塔を繋ぐ厳かな回廊には、白地に金の幾何学模様が描かれた円柱が均等に並ぶ。南の方角から数えて二つ目の塔、そのすぐ向かって左……他の建築物よりも少しばかり小さいその塔の広間こそ、星剣会議の催される議場――剣の間であった。

 剣の間の扉のすぐそばの白壁に、埋め込むように設置された白磁の花瓶。新たな仲間の歓迎の意を込められた牡馬の頭部を模した花瓶には、まだ摘んだばかりの瑞々しい紫苑の花が生けてあり、その数輪はそよ風によってわずかに揺れる。

 どこからか迷い込んだ一匹の揚羽蝶が、白く、そして淡い薄紫色の花弁に吸い込まれるように、花瓶の周りを可憐にはばたく。

 しかし、その小さな踊り子が去ったすぐ後……乳白色と薄藍のタイルが並ぶ石床の上には、生気を失って萎びた紫苑の花が一輪寂しく落ちていた。


 ――帝都オリュンポス・剣の間。

 春が始まって間もないというのに、朝の清澄な空気が嘘のような随分と早い初夏の陽気が剣の間に満ち渡っていた。東の大窓からは、午前の陽光があまねく広間を明るく照らす。

 その美しい広間に足を踏み入れたのは、一人の長身の男だった。

 男は誰かを探しているのか部屋全体を軽く見回すと、やがて目的の人物の姿を視認し、微笑みを浮かべて近寄って行く。

 高い踵の靴底を苦も無く、床を叩いて軽やかに使いこなすその男。平均よりも長い脚による歩幅の広さもあって、辿り着くのはほんの一瞬だった。

 剣の間の入り口から見て右側の壁。……その端に佇むは、金に輝く赤き少年。

「おはようございます、シリウス殿下。今朝もまたお早いお着きでしたのね」

「禄存……フォーマルハウトか」

 貴人の少年――第一皇子シリウスは、甘く掠れた低い声のする方向へ腕を組んだまま顔を上げる。伏せていた朱玉の瞳には、眼前に立つ声の主……その総身が映っていた。


 ――七星剣が一振り、禄存のフォーマルハウト。

 坊主頭に、均整の取れた美しい比率の肉体。銀と紫を基調とした露出の多い衣装から覗く、細すぎず、また太過ぎず程よく筋肉のついた長躯の男。その胴と長い肢体の日焼けを知らぬ白肌には、夥しい量の刺青が施されており、それは毛髪のない頭部にまで及んでいた。全体的に体毛が薄いその男の顔は当然ながら眉も睫毛も無く、代わりに派手な化粧と複雑怪奇な意匠の刺青が目立ち、おおよその年齢特定が困難な美醜。

 少年への敬意を湛えつつ、しかし彼へ溢れる親しみを惜しみなく曝け出す年齢不詳の男。

 照れを隠さず両の手のひらを合わせたフォーマルハウトは、若草色の双眸を細めて嬉しそうにくすくすと第一皇子シリウスに蠱惑的に笑ってみせた。

「ああ、悔しいわァ。今度こそシリウス殿下より先に着いたんだわァ~って思ったのに。いっつも貴方は、どんな時でも一番乗りなんですもの」

「それはそうだろう。オレは第一皇子にして貪狼シリウス。年長者として、そして他の剣たちの手本となるべく一早く馳せ参じるのは当然だ。それに、地理的にも我が領地ドゥーベは帝都オリュンポスに最も近いゆえ――」

「もう!そういうところですわよ、殿下」

 拗ねたフォーマルハウトはシリウスの横に並ぶと壁に寄りかかり、そのまま少年皇子の真似をして刺青まみれの腕を組んでみせた。鮮やかな紫色の紅をさした唇を、フォーマルハウトはやや不満げに尖らせる。

「これは、貴方に一足早くお会いしたい!誰よりも長く貴方との時間を過ごした~い!っていう純粋な好意の気持ち。すなわち、乙女心ですのよ?」

「……オトメゴコロ?……そうか。では、次回からは貴女の言うその気持ちを零さぬよう努力しよう」

 乙女心も好意の意味も理解していないとでも言わんばかりなシリウス皇子を見遣ったフォーマルハウトは静かに嘆息をつく。

 普段、何かとすぐ怒りやすく気性の激しいシリウス皇子。そんな彼が、自分だけに見せてくれるこの理知的な一面。

 ――皇帝ユピテルにも向けない、「自分だけ」の彼の姿。

「……そんな真面目な殿下も、また素敵ですわ」

 フォーマルハウトは、そんな小さな喜びに緩んだ下唇を左の小指でなぞって小声でそう呟くと、剣の間を改めて見渡した。星剣会議の時間まで、まだほんの少しの余裕がある。シリウスとの語らいの最中に感じていた些細な違和感は、意外とすぐに見つかった。

「……あら。模様替えでもしたのかしら」

「うむ、先の事件の折に疵がついてな。議卓を取り替えたついでに、新しいものにしたのだ」

 広間の内装変化に気づき、素直にそれを口にしたフォーマルハウト。その彼女の疑問に答えたのは、流麗にして穏やかな美しい清声だった。

 声が広間に響いた刹那。シリウス皇子とフォーマルハウトは瞬時に大理石の上に赤い絨毯が敷かれた床に膝をつき、恭しく首を垂れる。……広間の清々しい空気がより一層と澄んだものに清められていく。

 ゆるやかな流れる足音と共に剣の間に現れたのは、儚さと荘厳を併せ持った細身の青年。


 ――白と金に輝く、この帝国における絶対者。オリュンピア帝国・現皇帝、白亜の雷帝ユピテルである。


「皇帝陛下。本日もご機嫌麗しく――」

「よい、面を上げよ。貪狼、そして禄存」

 ユピテルに従ったシリウス皇子とフォーマルハウトが顔を上げる。その目の前には皇帝ユピテル、そしてその両翼たる第二皇子ポルックス・第三皇子カストルの双子皇子が立っていた。

 皇帝ユピテルは広間の中央――白いテーブルクロスがかかった円状の議卓に手を置くと、その輝く細指を外円、天板の円い角に沿うように弧を描き、なめらかに滑らせる。

「議卓にしては珍しい形だろう。余が直々に、特別に作った。皇女ポラリスが読んでいた古い軍記物語に、同じものが出てきてな。なんでもその議卓に座る者たちが各々の立場や明確な席次を作らず、対等に軍議を重ねられるようにこのような形になったとか。……読んですぐ閃いたのだ。我が七つの剣たちにこそ相応しいと考えた故にこれ、このように」

 得意げに語る皇帝ユピテルの傍ら、後ろに控えていた双子たちは静かに下がる。それに代わってフォーマルハウトとシリウス皇子は、新しい議卓の前に一歩、その足を踏み出した。

「あらあら。皇帝陛下、御自らが…?まあ、それはそれは座るのは畏れ多いですわ」

「なに、せっかく作ったのだ。フォーマルハウト、そこは畏まらずに悠々と座ってくれると余も骨を折った甲斐があったというもの」

 皇帝ユピテルは眩しく微笑むと、出来の精巧さに驚嘆するフォーマルハウトから議卓の天板に金の瞳を落とす。その美しい白金の最奥には仄暗い闇が空虚を捉え、優しい声色は次第に抑揚を失い、谷底の冷たさを帯びていく。

「……いにしえの人間が筆にて記した紙上の空想。または、過去に実際あったやもしれぬ――失われし記憶を寄せ集めて綴った覚え書き。……とはいえども、役立つ知恵は学び、使える知識は使わねば。勿論、不要なりし切り捨てるものの選定は、時間をかけて余が見定めればよいだけのこと」

 次に皇帝が顔を上げた時。臓腑が凍えるその冷たさは、瞬く間に融け落ちて元の暖かさを取り戻した。

「――さて。世に和を結びし、そして余の誇る七つの星剣たちよ。急ぎ改めて設けた星剣会議、再びこの間に集うこと……苦労と手間をかけ、相すまぬと思っています。……だが、今は欠けたる巨門の剣も、もうじき揃うだろう」

 ――その次の瞬間。

 左腕を高く振り上げた皇帝ユピテルがにっこりと微笑むと同時に、どこからともなく微弱な振動――そして、得体の知れない何かが今ここへ急速に近づいていく圧力が、剣の間に震撼する。

 よろめいたフォーマルハウトを咄嗟に支えたシリウス皇子は、迫り来る者のその正体が空からやってくることに気づき天を仰ぐ。

 ――高く広がる半円状の吹き抜け。それを覆う、天体の運行を模した精巧な細工の薔薇窓。それを指し示した白亜の皇帝は、片翼である自身の息子・カストル皇子へ声を高らかに叫ぶ。

「――ヘカトスの門を開けるがいい、カストル!黒き城塞、いや……最後の剣、その一振りを出迎えようではないか!」

「………御意。……ステラ・実機連星・アルテア――起動。」

 胸元から球状のステラを取り出した第三皇子カストルは、その白き輝きに右手を翳す――。やがて一定の調子で機械音が実機連星・アルテアより鳴り響きだすと、極小の宇宙を宿す天窓に変化をもたらした。

 通称、ヘカトスの門――天に設置された、偽りの銀河。天の薔薇窓。散りばめられた数多の星々が、皇帝ユピテルの編み出した超絶技巧たる絡繰りをもって、その硝子でできた宇宙の海を円を描きながら外へ、外へと滑り流れていく。

 カチン、カチンと調子の合った音を立てて動く歯車。有象無象の金銀銅に輝く天体たち――。

 やがて全ての偽星が窓から去った後に残るは、ぽっかりと天蓋に空いた円い穴。


 ――春の青を映す、本物の空がそこにあった。


 ……瞬間。

 空の穴より、轟音と共に何かが落下して剣の間を大きく揺るがした。呻く声を隠さずに立ちこめる土煙の中から立ち上がったのは、赤みを帯びた鈍銀色の鎧を纏いし黒髪の美丈夫――。

「…………っっっしゃあッッ!!ギリギリ間に合っ――」

「間に合った!ではない……!!」

 翻した大剣で煙る視界を開いたシリウス皇子は、空からの落下物――否、落下者の快声をその規格外の怒声で打ち消した。憤怒に燃えて朱に染まった双眸の炎が、不遜な落下者を捉えて執拗に吠え立てる。

「屋内へは!まず入り口から入るという常識の二文字が!!貴様には無いのか、破軍ッッ!!!!」

「おや、これは貪狼シリウス殿。ご機嫌麗し…………くないね、うん、全然…ほんとごめんなさい……お願いだからそんな怖い顔しないで……」

 少年の姿には見合わない声量、そしてその覇気に圧倒された犯人――破軍・アルテミスは、さすがに牙を向く獣……もとい、シリウス皇子のその本気の怒りの前には弁明も虚しく、耳を塞いで委縮せざるを得ない。

 困ったアルテミスは助太刀欲しさに皇帝ユピテルや双子皇子へ、潤ませたその視線を送る。

 しかし、アルテミスの空前絶後にして怒涛の超ショートカット出席に手を貸した肝心の彼らといえば、駆け付けた使用人たちへ砕けた床の修復の指示に取り掛かっておりそれは叶わず――。

 一方で、シリウス皇子の外套に匿われていたフォーマルハウトは、その力が抜けるやりとりに笑いをこらえるべくただ必死に肩を震わせていたのであった。

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