プロローグ ◆オリュンピア帝国/フェクダ領内・寝宿街

  ――今日はすごいお客様が来た。


 緊張と高揚した気分で身を強張らせながら、おれは足早に階段を昇る。預かった荷物を客人たちの部屋まで運ばねばならないのだ。当然、細心の注意が必要なのだが、昂った何とも言えない感情はどうしても隠せずにはいられない。

 年季の入って変色した木製の階段は、踏み込む足に合わせてぎしぎしと軋みを上げる。廊下の向かって右には壁がなく、縦に吹き抜けが広がっており、食事処である一階を見下ろせる。転落防止といえども設けられた低い柵に気を付けながら、万が一慌てて足を滑らして下の階へ落ちないように三階の廊下に上がる。

 廊下をまっすぐ向かったつきあたりの左――そこが、今回の客人の部屋だった。日当たりがいい南向きの一室。廊下も、部屋までの距離もそこまで長くない。

 ……長くは無い、のだが――。

「悪いな、少年。重かったか?やっぱり自分で持った方がよかったかな……」

「い、いいえ!大丈夫です、はい、重くは無い、です」

 ……うっ。思わず歯切れの悪い返事をしてしまった……。おれは羞恥心のあまり右頬の内側の肉を軽く噛む。気を遣わせてしまったのだ。本来なら後ろに続く客人と向かって応えなきゃならなかったのだが、余計な緊張が邪魔して振り返りそびれた。

 勿論、本当に荷物は重くなかった。茶の革製の肩掛け鞄に、淡い紫色の花柄の糸で刺された装飾の大きな風呂敷包み。おそらくは着替え類とかそんなところだろう。他の宿泊客も似たような荷物を持ち込むし、客人の荷物に興味を持つほど自分は下世話な趣味は無い。特別、大きさと量のわりに軽くも無いが、おれのような痩せてもなく体格も平均的な男子にも余裕で持てる重さだった。

 部屋の前まで辿り着くと、おれが扉を開ける前に一人の少女が前に進む。

「ここまで運んでくださってすみません。ありがとうございます、アルキバさん」

「い、いえ…こちらこそ開けてもらってしまって……」

 荷物で両手が塞がったおれの代わりに扉を開けたのは、後ろにいる客人の連れの一人の女の子だった。一つに高く結った金髪に翡翠の瞳の可愛らしい顔と声の少女。湯上がり……なのもあってやや艶やかに見える彼女からは、香草だか薬草だかのとてもいい匂いがする。

 自分より少し年上っぽそうで大人びた彼女の笑顔は、委縮したおれの緊張をいとも簡単に解していった。


 ――ここは、七星剣が一振り、フォーマルハウトさんが治める大公領地「フェクダ」の寝宿街。昔は独立したひとつの国で宿場町として栄えていたが、今は帝国が大公領地として管理している。

 フェクダは帝都オリュンポスからだいたい東の位置にある大公領地で、ほかの六つと比べて二番目くらいに面積が小さい。だが、その集中総人口は帝都オリュンポスに次いで三番目に多い土地でもある。

 まあ、そのほとんどが他の大公領地から配給物資を納めたり、荷物や郵便物の配達といった歩荷業などを行う人たちの宿泊施設がここに集中しているからなのだが。

「おお~~~、高い高い」

 領主・フォーマルハウトさんの客人。領主から直々に予約されていた部屋は、この建物の中で一番明るいところだった。そこまで広くも無いが、三人がただ寝るだけでも十分な広さだ。部屋の中央、横に三つ並んだ寝台のうち一番右の壁に隣接する寝台に置くように指示され、おれは手に抱えていた荷物を置く。

 ちらっと目を横に見遣ると、ずっと気になっていた当の客人は南の窓を開けて下――帝都まで続く一本の大きな街道を見下ろしては、嬉しそうに若干はしゃいでいた。

「珍しいですかね。どこの宿場も似たようなものだと思いますが」

「おうおう。ベネトナシュは平屋建てがほとんどだから、こういう階層建築はあんまりお目にかかれんのよ。お~!風が気持ちいいなぁ」

 確かに。フェクダは土地が狭いわりに人口密度が高いから、縦に長い階建ての建物が多い。ベネトナシュは地図でしか知らないが、ここの八倍は広いところだと聞く。

 家屋ってのは土地が狭い地方は縦に長く、広い地方になると横に長くなるってことか。なるほど、ひとつ学んだ。

 しかし、ベネトナシュからかぁ……って、この国における極南地じゃないですか!

 心中驚くおれは、軽く左頬を掻く。どう見ても歩荷業ではなさそうなベネトナシュから来たという客人は、窓から手を離すとこちらへ振り向いてにっかりと笑ってみせる。その端麗な容姿からの予想外な子供っぽい笑顔に、不覚にもドキッとした。

「少年……アルキバくん、だっけ?」

 その引き込まれそうな黒い瞳に見つめられたおれは、思わず唾を呑み込んだ。

 今日はすごいお客様が来た、と冒頭で言ったな。本当にすごい。歩荷業じゃないのにベネトナシュからってことは、この人の身分はおれの推測が合っていれば「あれ」一つに決まってる。身分もそうだが、何よりもその容姿がこれまたすごい。

 まず目立つのは、長くて真っ黒い髪の毛。帝国民はだいたいおれの様に金髪が多いのだが、目の前にいる客人の容姿は非常に異質だった。黒髪の人間なんて、おとぎ話に出てくる、海底に沈んだ民たちくらいしか聞いたことが無い。ただ黒いだけじゃなく、窓から差し込む午前の陽光に当たるとちょっと虹に煌めくのがまたすごい。夜空に輝く星の冠みたいだな、と柄にでもないことを思い浮かべた。

 そしてその髪の毛に負けないくらい深くて暗い闇夜の瞳と、整った顔つき。最初は体格の良さと素振りから若干細身の青年かとも思ったが、声を聞くと女性にも見て取れる。うちの領主フォーマルハウトさんとも異なる、中性的な、とても美しい人だった。

 ……うーん。すごいっていうよりも、物珍しさと言った方が正しかったかもしれない。

「ななななんでしょう」

「ここの一階、ごはん食べれる?」

 ――おなか減ってたのかよ。

 おれのぎこちない肯定に黒髪の客人はにこやかにうんうんと頷くと、寝台に置いた荷物、その荷ほどきをしていた例の少女に声をかけた。

「おーい、スピカちゃん。一階でごはん食べられるらしいから、一先ず休息だ。ベテルギウスにもそう伝えといてくれ」

「承知いたしました。ちなみにアルテミス様、ベテルギウスさんはもう既に一階へお食事に行きましたよ。食べたらオレは寝る、って」

「マ~ジであいつは三大欲求に忠実だな!」

 やれやれと呆れる黒髪の――アルテミス様、は……いやもうアルテミス様ってことはやっぱり七星剣の破軍じゃないか。

 ――ごはんも部下に気遣っていただけか。勝手におなかを減らしていたのだと思い込んでしまった自分が恥ずかしい。

 御付きのスピカと呼ばれた女の子も、一番後ろにいたのにいつの間にかいなくなっていた大柄な男も副官ということだ。

 ……どうりで領主直々のご予約だったわけだと納得する。

 彼らの仲良さげなやりとりに引っ込んでいった緊張が、再びおれの中に戻っていく。だが、ここでおれは今日が何の日であるのかを思い出す。

「ん……?ってことは、どうして七星剣の破軍がここに?今日は星剣会議があるはずじゃあ――」

「ごば―――ッッ!!」

 いきなり奇声を上げて頭を抱えた破軍に、驚きでおれは反射的に後ろに跳ねてしまった。

「そ、そそそそうだった!いや忘れていたわけじゃないよ、ほんとだよアルキバくん。ここがあまりに居心地よくてうっかり忘れていたというか」

「いやしっかりと忘れてるって口にしてるじゃないですか!あっ!布団でゴロゴロしない!!」

 我慢できずに突っ込んでしまったことにハッとする。しかし、彼……彼女?とにかく、破軍の吞気な様子にせり上がっていた緊張は、今度こそ一気に解けて無くなっていた。


 七星剣、破軍・アルテミス――。

 オリュンピア帝国の皇帝ユピテルに次ぐ地位を持つ、七名の覇者。そのうちの一人が、おれの前にいるこの妙な親しみやすさを持つ黒髪の美人だった。

 破軍はおれが目を離した隙に、ゆったりとした紺色の服から赤みを帯びた鈍銀色の甲冑を纏っていた。その張り詰めた凛々しさは、先ほどまで寝台の上で布団にくるまりながら「遅刻したことを叱られたくない」などと駄々をこねていた人物と同じだとは思えないくらい……。

 ――とても格好いい、その一言に尽きる。

 だが散歩前の児童の様に荷物をひとつひとつ指差し確認している点においては、やはり同一人物なのだと少し安心した。

「じゃあ、これから俺は帝都オリュンポスのアイギス城へ行ってきますので、副官各位はゆっくりと休息をとるように」

「アルテミス様のお戻りはいつでしょうか」

「朝には必ず戻る。明日の今くらいの時間にここを出立できるように荷造りしておいてくれ。特にそこの寝坊助なベテルギウスくん」

 破軍はそう言ってスピカさんから受け取った手のひらサイズの蒼い何かを腰元の鞄に詰める。そして左奥の寝台の元へ歩むと、こちらに背を向けて泥のように眠るデカい男の頭を軽く小突いていた。というかあのお兄さん、いつの間に部屋に入って来ていたのか。

 ぽかんと抜けるおれの方に向き直ると、破軍は甲冑をがしゃがしゃと鳴らして近寄ってきた。

 近くで見ると、けっこう背が高い。意味がないと自覚しつつ、つい負けたくなくて背筋を伸ばす。

「アルキバくん、今日はありがとうございました。また明日改めてご挨拶を――と言いたいところだが、ちょっと気になることがあるんだ。聞いていいかな?」

「……?ど、どうぞ」

 流石に先ほどの軽口は失礼過ぎだったか、と身構えたのもそれは杞憂に終わる。

「フェクダは各地の大公領地からたくさんの色んな人が一気に集中する場所だ。ここも、その隣も、街道を挟んだ他の宿場だってね。――だけど」

 二つの丸い闇。その瞳に、自分の姿が映り込む。

「今日に限ってどうして、宿場に立ち寄る人たちは君のような若い人たちしかいないのかな?」

 思いがけない質問に、おれは一瞬の間だけ思考が停止した。同時に、よく気が付いたものだと感心する。

「は、はい……。ええと、実は昨日の晩に皇帝陛下から、齢五十以上の国民に対して祝典を開催することになったから帝都へ向かうようにと勅令が下ったのです」

「祝典……?皇帝ユピテルから、直々にか」

 突然厳しくなった破軍の眼差しは、刹那にして元の優しさを取り戻した。

「新しい巨門の就任を前にしても、えらく盛り上がり過ぎじゃねえのかねえ。しかしなんで年齢制限なんてものを――」

「巨門の……ああ、それとはまた別の、とは聞きました。確か、統一戦争の時代を生きた方々の区切りとなる節目にって。うちは両親が早くに亡くなったので、じいさ――祖父がここを管理していたため昨日からは兄貴が厨房、おれがこの宿の案内や管理をすることに……」

「……ふうん。今回のことと何かあるな、こりゃ」

 こぼした呟きの意味がわからず小首を傾げるおれに「なんでもないよ」と言うと、破軍は今日のお礼に、と一袋の麻袋を手渡した。開けていいとのことで、袋に手を突っ込んでみたところ、何か柔らかくて萎びた感触が指についた。

「あ、干し桃……?」

「ご名答!我がベネトナシュは土地と気候的にこういった農作物を作っていてね。ここフェクダからは遠いから、こっちに持って行くには腐らないよう、こうして加工しなきゃいけないのだが。此度の会議で、ベネトナシュで採れた生の果物や野菜を持って行けないかどうか皇帝に我が儘を言うつもりなんだ。実現したら、君に――君のおじいさんやお兄さん、それから君の友人たちにも食べてもらえるかな」

「こちらこそ、ありがとうございます。でもいいのでしょうか。国の配給以外に食べ物をいただいてしまっても……その、もう宿礼は我が領主から頂いているのですが……」

「うわ、さすがフォーちゃん仕事が早い。でもまあ、これは俺の気持ちということで。……君に、受け取って貰えると嬉しいな」

 初めて出会った、七星剣の破軍・アルテミス。七星剣、というからには、もっと厳しい人だと思っていた。

 ――名前しか耳にしたことがなかったその人は、こんなにも穏やかな方だったのか。


 おれは、宿の玄関の外まで見送ることにした。いつもは忙しさも相まって宿泊者の見送りは受付までなのだが、今日は大人も少ないしそこそこ時間があったからだ。

「アルキバ!アルキバ!このひとだあれ?」

 別れの挨拶も手短に手を振っていたのもつかの間、向かいの憩い場に集まっていた近所の子供たちが普段見かけぬ珍客を、その容姿の物珍しさにわらわらと破軍に群がっていくではないか。

「破軍、アルテミスだよ。こんにちは」

「はぐんー?アルテミスさん、こんにちは」

 ――子供慣れしているのか、この人。急いでいると言っていた癖に。

 ご丁寧に子供の目線に合わせて屈むその仕草に、そういえばこっちの家族には触れたものの、この人の家族の話は聞かせてもらってなかったなとふと思った。

 興味津々で破軍に覆いかぶさったり、黒髪をいじったりする子供たち。とりあえず彼らから解放しないと領主に何て言われるか。

「こぉら。客人を困らせるな。この人、遅刻中なんだから」

 おれの注意に子供たちは目を丸くすると、一人ひとり素直に破軍から手を離した。

「えー?ちこくー?はぐん、ちこくなの?」

「ちこくはだめだよー。ちこくはふわふわなんだっておかあさん、いってたよー」

「グワーッ!!いたいけなよい子たちの正論がこの破軍の硝子の心臓に突き刺さる……!」

 わざとらしく胸を抑えつつも、結構ガチで傷ついている破軍。やはり優しい人なんだと、心の内で内緒にこぼす。


 ……ずるいよな、とも。


 今度こそ、正式な見送りだ。おれは、干し桃の礼にと破軍に紫苑の花輪を手渡した。

「お礼のお礼ってのも、なんだかこそばゆいなあ」

「そう仰らずに。……花、好きそうだなって。こちらも貰ったもので申し訳ないのですが。今日から園芸週間ってのが始まったらしいですし、記念にどうぞ」

 正直に言うと、先ほど何やら子供たちに花を貰って嬉しそうにしていたのが意味もなく気にくわなかったものだからって理由もある。

「――紫苑の花か。綺麗だな、可憐な花は好きだ」

 破軍はどこか悲哀を含んだような眼差しで、紫苑の花を見つめてそう呟いた。……見た目に似合わず意外なことを言うんだな、この人。可憐な花を持っていたというのが気恥ずかしくなってきて、つい、貰った経緯を言い訳の様に口走る。

「先日……一昨日くらいだったかな、うちに一休みしていったメラクの若い方がいましてね。すぐ出て行ってしまわれたのですが、これをお礼にって。その時はまだ蕾だったんですけど、この花が開くときには子供が生まれるだろうからって――」

 その時、おれは初めて見て見ぬふりをした。見て見ぬふりは不和の元、という皇帝が交わした「国民の約束」のうちそのひとつを、おれは初めて侵した。

 ――破軍が流した、一雫の涙。その涙の真意を、探りたくなかったから。

 振り返った破軍は、また穏やかな微笑みを浮かべて別れを告げる。

「お礼のお礼の、そのまたお礼ということか。……すごいな。繋がってるんだな、人は。どんなにすれ違っても、我々は繋がって――”ありがとう”の優しい思いが、こうして次の人に届くんだ」


 ……喜びと悲しみが入り混じった感情が声に灯る。破軍の涙は、もう無かった。

 

 馬車に乗って街道をまっすぐ進む破軍。その姿がやがて点になるまで、おれはしばらくの間、時間を忘れて見つめていた。ふと、思い出して左手に持っていたままだった袋の中を覗く。


 破軍から受け取った「ありがとう」――麻袋に入った干し桃をひとつ、手に掴む。


 取り出した飴色の干し桃は白い糖が粉吹き、甘くてとてもいい匂いがした。

 

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