第四節 ◆遺跡保護区禁域地帯アリオト/パンドーラ遺跡

 宵も過ぎ、いつにも増して天の川が燦燦と輝く新月の夜。春とはいえ、すっかり夜霧に冷え切った茫漠たる荒野の中を、九つの人影が列をなして緩やかな丘を登って行く。

 先ほどまで強く吹雪いていた風は止み、もと来た道を振り向いて丘を見下ろせば、辺りは深閑としたままどこまでも荒れた大地が続いている。プロメテウス遺跡があった”大王の腹”付近にはまだ遺跡が群を成して建物の形を保っていた。

 しかし、そこからおよそ四ケイトマートほど南東へ進んだアリオトのほぼ中心部。ここ「大王の右足」と呼ばれる丘一帯には、遺跡がほとんど残っていない。唯一、目に見えてそれらがかろうじて遺跡群として認識できるのは、地に残った柱などの遺構。そして、かつては美しく均等に敷き詰められ、碁盤の目型に立派に整備されていたと思しき崩れた街道跡のみ。

 やがて彼らは丘の上に着くと、先頭を歩いていた黒髪の戦士――アルテミスが、後列に続く彼らへ向かって凛とした声で呼びかけた。

「着いたぞ」

「ここは……何だ?」

「――ある大王の……妹君の名を冠した、古き城の残骸だよ」


 ザウラクは、ただ困惑した。なぜなら、目の前に構えるはプロメテウス遺跡のように豪奢な左右対称の門でもなく。または、崩れかかった創建当時の美しさの残滓をまとう鬱蒼と聳え立つ古城でもなく。

 ――そこには、鉄くずのように黒ずんだ金属片が散らばっており、この場所が建築物であったという名残は、鋭利な刃物のような何かで根元から削り取られただろういくつかの円柱のみであったからだ。

 呆気にとられ立ち尽くすザウラクたちは、吐く息の音さえも飲み込むような静寂にただ迎えられただけだった。


 ――パンドーラ遺跡。

 ”大王の右足”の丘にかつて建っていた小さな古城。クロノス大王が、病弱な妹王女を想って五〇〇年前に建てたとされる王族の別邸だ。

 ザウラクは好奇心から、壁も屋根もない遺構内部に足を踏み入れる。彼は残った中でも一番目立つ奥の円柱の元へ向かうと、その断面を覗き込んだ。柱の外装には、ところどころ剥げた絵の下に乳白色の大理石が覗く。――削り取られた円柱の断面は鏡のように滑らかで、大理石の素材だと思っていたその柱は年輪のように三層からなっており、中心部の芯は星空の光を反射して白銀に輝いていた。

 気候の変動が激しいこの土地に、五〇〇年ほどの間アリオトに聳え立っていた数々の遺跡たちの強固な造りを象徴する神秘の一端が垣間見える。

 しかしその一方で、耐久性の高さで有名なエリュシオンの建築技術でさえ粛清兵器ケラヴノスの威力の前には一瞬にして、素晴らしい文化技術の足跡さえもこうも無惨に――塵に等しかったことが伺える。

 ギガントマキアにおいても、ここまでアリオトの最深部に訪れたことが無かったザウラクは、この遺跡を見たのは今日が初めての事だった。ザウラクに同じく、カノープスも初めての場所にはさすがに驚きを隠せないでいた。

「これは…何とも……。これ程までに、ほとんど何も残らないものがあるものなどとは……」

 ――おそらくは、ティタノマキア時のケラヴノスの爆心地にここが最も近いがためであろう。そう推測したカノープスは、思わず困惑の声を漏らした。

 そんな彼らにお構いなしに、アルテミスは背伸びをして気怠そうに肩を回すと、関節を鳴らす。弾けるような軽快な音とともに、漆黒の長髪が春風に乗って夜闇にふわりと舞い上がる。

「まあ、ここがそんなに気になるのも無理はない。この丘は滅多に人が寄り付くことが無いからな。

 ――ましてや、あのユピテル皇帝ですら訪れることは、絶対にない」

 そう断言するアルテミスの言葉に、ザウラクたちは思わず息を吞む。冷たく清澄な空気が、一気に緊迫したものへと更に引き締まる。


 ――然り。この場所ならば、人目をはばからずに話ができるということだ。



×                 ×



 ――時は半刻ほど前に遡る。

 ザウラク、カノープス、アケルナルを含めたメラクの戦士たちは、正体不明の超巨大な天士の襲撃に遭ったところをアルテミスと名乗った黒い戦士に命を救われた。

 赤みを帯びた鈍銀色の甲冑をまとった黒い戦士に、ザウラクは礼を述べようとした。しかし、そんな彼に対してアルテミスは面倒くさそうに片手で制止する。

「だ――――ッッ!!礼はいい!今回は!たまたま!!偶然にも見かけてしまったから!たまたま!!放っておけなくて、手をつい出しちゃっただけだから……ッッ!!」

「――”つい”で、あれを……?」

 アケルナルがおのれの足元の天士の残骸――辺り一面に突き刺さった空色に発光する錐状の鉱石と、本体があった場所を交互に見比べ、石のように固まる。

 ――あの超巨大な得体の知れない怪物をいとも簡単に倒した挙句、”偶然見かけたからつい”で離れた距離からここまで全力疾走して我々を助けたというのか。

 呆気にとられて目を丸くするザウラクたちを前に、今の自分の言動に恥じたのか。アルテミスは顔を赤らめて腕を組むと、そっぽを向いてしまった。

「……ともかく。本来なら、そんな大人数でここに来たあなた方の自業自得だ!つ、次は自分たちで何とかして頂きたい!!」

 獰猛な流星雨から彼らを守った先程の勇ましい益荒男ぶりとは打って変わり、ぷりぷりと子供のように照れ隠しをするアルテミスの態度に、次第とザウラクたちの周りに張りつめていた緊張感が解れていった。

 そんな中、アケルナルはアルテミスに怪訝そうな顔をして訊ねる。

「――失礼だが、自分たちの自業自得とはいったいどういう意味だ?」

「アケルナル部隊長殿、ご恩人に対してそのような……!」

 カノープスが青年戦士を諌めると、振り向いたアルテミスはきょとんとした顔で答える。

「……当然だろう、アリオトを越えるというのなら常識のはずだが?」

 風で揺れる黒い前髪の下に、射干玉の双眸が覗く。星光よりも爛爛と燃える、力強い闇の瞳にザウラクは思わず息を吞む。黒くも鮮麗さを秘めた、全身に迸るたくましい生命力。そして、その端麗な容姿からは想像もできないほど苛烈にして強靭な戦いぶり。時間にしてほんの一瞬、ザウラクはアルテミスのまとう独特の雰囲気に魅入られてしまった。

 自身の言葉を聞いて動揺する彼らを前に、アルテミスはザウラクの浅葱色の羽織に刺された馬と紫苑の七星剣章を目にすると、「メラクの方か?」と訊ねた。

 彼の質問に、三人は顔を見合わせる。ザウラクは赤銅色の瞳で頷いてみせると、改めてアルテミスに向き直った。

「実は――」



 爽やかな春の冷たい風が凪ぐ夜空の下、ザウラクたちの話を聞いたアルテミスは体が揺れるほど高らかに哄笑した。

「――いやはや、気を悪くされたら申し訳ない。しかしまあ、なんとこの俺に会いにここまで来られたとは、まさか思いもしなかったものでな!」

 さすがの冷静沈着なカノープスをはじめ、屈強なメラクの戦士たちはアルテミスの反応に一瞬だけ驚き焦ったものの、無邪気な幼さが混じった彼の笑みには嘲りなどは微塵もなく。

 ――不思議にも、嫌味な印象を全く受けなかった。


「アルテミス様……!」

 そのとき、アルテミスの後ろから、この荒涼とした大地には似合わぬ雲雀の囀りに似た声が聞こえて来た。そこには、武装した細身の一人の少女――さらに、少女に続いて同じく戦衣に身を包んだ大柄な男がこちらへ近づいてきたのだ。

「おお、スピカ!それにベテルギウス!」

 アルテミスは、彼女たちに対して親し気にその名を呼ぶ。アケルナルは、彼女たちこそがあの時に視認した、アルテミスと共にあの巨大な化け物を狩った二人だということに気が付いたのだった。

 一方でスピカと呼ばれた少女は、心配と不満をいっぱいに含んだ頬を膨らませながらアルテミスにずんずんと遠慮なく距離を詰める。

「アルテミス様っ!困ります!!いつもいつも、いーっつも!あなたは勝手にいなくなってしまうんですから!!そうやってとつぜん側を離れられては――この方たちは?」

「ああ、先ほど相まみえてな。こちらは――」

「メラクのザウラク。それから、彼らは我輩の部下だ」

 名乗り出たザウラクの名を聞くや否や、少女は頬を赤く染めると姿勢を正した。

「……あっ!これは大変失礼致しました、お名前は存じております。私はアルテミス様の副官をしております、スピカと申します」

 目を伏せ一礼するスピカ。後ろに結った淡い金の髪房が春風に踊る。彼女の伏せた翡翠の瞳は、初夏の新緑を思わせる瑞々しい鮮やかさだった。

「いや、元々メラクとベネトナシュはほとんど交流が無いのでな。互いによく知らぬのも無理はない、お気になさらず」

 礼を解くように促したザウラクは、内心スピカという少女の若さにまず驚いていた。おそらく十代半ばだろう。アケルナルよりも、またザウラクの娘よりも幼いであろうスピカ。この年頃の子供なら、学問や家業に身を置いているのがほとんどだというのに、眼前の少女はこうして戦衣装に身を包み、この不毛地帯に立っている。


 ”――年端もいかぬ少女が、なぜ。”


 そんな疑問がザウラクの思考を過ぎり、迫り上がった言葉が喉元まで出かかった。

 しかし、人の過去や経緯をあまり詮索するのはいいこととは言えない。ザウラクは、意識を元へ切り替える。

「ザウラク公の仰る通り。最近まで、我が領はメラクとはすっかり親交が途絶えていたからなあ。先代の領主とは大戦当時から顔見知りではあったのだが……」

「ですが、私はよく覚えておりますよ。破軍――いえ、”城塞”アルテミス殿」

 談笑するアルテミスとザウラクの間を、一人の老戦士が言葉で挟んだ。

「……ほう!俺をその異名で呼ぶとはな。――見覚えのある顔だ。ギガントマキアの生還者とお見受けしたが、いかに。ぜひとも貴殿のお名前を聞かせて頂きたい」

 今まで親しみのある、朗らかだったアルテミスの表情が、ゆっくりと研ぎ澄まされた刃の鋭利さを取り戻す。

 互いに笑顔であるのに、そこには戦争という修羅の世を生き延びた、彼ら特有の覇気が滲み出る。アケルナルは、アルテミスと尊敬する老戦士の周りの温度が一段階下がる錯覚を覚えた。

「カノープスと申します。貴殿の勇名は、当時メラクの戦士たちの間でも轟いておりましたが故」


 ――「城塞」アルテミス。ギガントマキア時における、破軍・アルテミスの異名。

 人の身でありながら、攻防ともに卓越した戦闘技術と耐久力でギガントマキア前期の天士たちの猛攻を自ら先頭に立って完封してみせたアルテミス。そんなアルテミスに、当時その武勇を目の当たりにした戦士たちが城塞に例えて呼んだ名だ。


「我輩も実は一度だけ近くで貴殿をお目にかかったことがあったが、人の業を凌駕した、実に勇猛な戦いぶりであった」

 お会いできて光栄だ、と称えるザウラクに、アルテミスはみるみるうちに再び含羞を帯びて破顔していく。

 黒い戦士の豊かな表情の変化を見るたびに、ザウラクはおのれが若かりし頃、血と粉塵が舞う戦場の中を一人立ち続けた猛将と同一人物であることが、非現実的に思えて仕方がなかった。加えて、五十年以上も前の大戦から、眼前の戦士は当時とほぼ変わらぬ若々しい姿でここに現れた。

 ――そう、あのユピテル帝と同じように。

 何よりもその異常が、一層の不気味さを際立たせていた。

「……コホン。俺――いや私には、勿体無いお言葉だ」

 にやけた口を咳払いで誤魔化すと、アルテミスは一拍置いて本題を切り出した。

「――で?メラクのザウラク公と言えば、今回の臨時星剣会議の主役だろうに。

 私は今、その七星剣が一振りとして出席するために、こうして遅刻しているわけだが……」

「そうです。――いえっ!遅刻は置いておいてですね!?……なぜ公は、我が主人へ会いにここまでいらっしゃったのでしょうか?」

 アルテミスに続きスピカが訊ねると、ザウラクは少し間を開けた後、引き締めた声で答えた。

「……破軍殿。我輩は、貴殿に協力を要請したく馳せ参じた」

「――聞かせていただきたい」

 闇の双眸が、ザウラクを見据えた。アルテミスの言葉に、ザウラクは期待と不安を込めて声を重くする。


「――皇帝ユピテルに、刃を向けた」


 それを聞いたスピカは驚いた一方、アルテミスは顔色ひとつ変えず――むしろ、興味深そうに微笑んで見せたのだ。

「……面白い話だ。面白い話だが、冗談ではなさそうだ。――だが、それを理由も無くこの私が信じるとでも?」

 あらかた予想していた反応が返り、こうなることを覚悟していたザウラクは自虐的に肩を竦めてみせる。

「見ての通り、皇帝の暗殺には失敗し、仲間を多く失いこの様だ。――しかし、我輩を窮地から救ってくださった”あるお方”の『破軍アルテミスを頼れ』という言葉を胸の支えに、我々はここまで来たのだ」

「……”あるお方”とは誰だ?その口ぶりから察するに、私の知り合いのようだが。……帝都オリュンポスの者か?」

「そうだな。”動かざる君”が”動いた”と言えば、貴殿にはお判り頂けるかと思うのだが」


 ――瞬間。この場の大気が、空が。軋み、音を上げたように震えた。


それもそのはず、ザウラクの言葉を聞いたアルテミスが凄まじい剣幕を浮かべた、鬼気迫る顔に豹変したからだ。それは隣にいたスピカまでも、普段は滅多に見せない主人の様子に心配して顔色を窺うことを躊躇ったほどだった。

 ――アルテミスは一度目を閉じると、左手で顔を覆う。そして、深い嘆息を漏らしたのち、その腕を下ろした。眉間の皺は深く刻まれたままではあったが、鬼のような眼差しは、そこにはもう無かった。アルテミスはザウラクの言葉に、先程までの暖かく芯のある声色とは異なる真面目な固い声で返す。

「そうとわかりゃ、話は別だ。――いいだろう、貴公の話を詳しく聞こうじゃないか」

 しばらくの間、アルテミスのあまりの気迫に押し黙っていたザウラクたちだったが、明るさを取り戻した彼の声に心の中で安堵した。

 そうしてアルテミスはザウラクへ背を向けると、そのまま歩き出していく。

「しかし、ここでは駄目だ。この人数だと、残ったムーサに目を付けられる」

 若干彼らの話に置いて行かれがちだったアケルナルが、当初から抱いていた疑問を口にした。

「――先ほども仰っていたが、”ムーサ”とは何だ?あの化け物の事だというのは解ったが、10人以上だといったい何がまずいのだろうか?」

「私がご説明いたしましょう」

 歩くアルテミスに続くようザウラクたちを促しつつ、スピカが主人の代わりにアケルナルの問いに答える。

「――天士・ムーサ。ミミズ型の巨大な天士で、普段は地中に眠る合計九柱の天士です」


 彼ら、または彼女たちに雌雄が存在しているのかは定かではないが、ムーサたちは九以下の数を数えることができない――認識できない習性を持っている。今回、ザウラクたちのように十人以上で固まって行動すると、アリオトを居住とするムーサたちに認識されて捕食対象として狙われることになるのである。


「つーわけだ。アリオトを渡る時は絶っっっっ対に!九人以下必須‼……それ以外は基本的におとなしいし、びっくりするほど何にもして来ない。数ある天士の中でも、特に珍しい穏やかな種族だな」

「……おとなしい⁉…………あれでだとでもいうのか⁉」

 アルテミスによるスピカの説明補足に対し、アケルナルたちは信じられない、と驚きを隠せずにいた。

 彼らの反応に肯定するスピカは、自身の違和感を指摘する。

「……そうなんです。確かにあなた方のおっしゃる通り、今回出現したムーサは”おとなしい”とは程遠い気性の激しさでした」

「そこなんだよな……。ムーサは、本来ならば”食事”は一度につき一回のみのはずだ。しかし、あの個体は何度も捕食を試みたばかりか……最後は、自爆した」

 アルテミスは首を傾げる。今までそんなことは聞いたことが無いと。――人間への極端な執着。他の天士ならともかく、攻撃性が低く知性が乏しいムーサに至ってはあり得ないことだ。

 あの最期の足掻きは、憤死に近い何かだった。……ムーサに致命傷を与えた本人であるアルテミスだからこそ、そう感じたのだ。

「破軍殿の副官……スピカ殿、でしたかな。彼女はあの天士をミミズ型と言っておられたが、我々が遭遇したあれは、ミミズの姿というよりも、”花弁”――植物に近い形状であった」

 ザウラクの言葉に振り返ってアルテミスは頷くと、腕を組み思案する。

「奇形種…ということかもしれん。――何にしろ、例外が多すぎる気がするな」

 そして、アルテミスは一呼吸置くと両手をパン!と軽く叩き、声をかけた。

「だがまあ、私を含めた三人はこうしてムーサちゃんに見事ガン無視されていたからここまで安全に来れたわけで。――ということで、ザウラク公。貴公の部下は何人残った?」

 いきなり音を立てたこと、そしてあの天士を「ちゃん」付けで呼ぶなど、アルテミスの一挙一動が残ったムーサたちに気づかれないか思わず警戒したザウラクたち。そんな彼らにはお構いなしにアルテミスは、先ほど自分が澱ませてしまった場の空気を変えようとしたのか、空元気に訊ねた。

「あ、ああ。我輩と部隊長殿二名を除けば、十二名だ」

「おっ!全員で十八人か。……不謹慎で申し訳ないが、ちょうど良かった。

 では、それぞれ九人ずつの二班に分けるとしよう。諸君、メラクの戦士たち八人はスピカと一緒に、合計九人で我がベネトナシュへ向かって保護して貰いなさい。君たちも旅の疲れがあるだろう。スピカ、俺の屋敷を使っていいから、彼らに休息をとらせるように。んで、私とザウラク公含めた残りは――」

「お待ちください。編成は、私が組ませていただきたく」

 アルテミスの指示を遮ったのはほかでもない、メラクの老戦士カノープスであった。

「カノープス殿……?」

 意外な人物からの突然の提案に、アケルナルが心配そうにカノープスの顔を覗く。ただでさえ険しい老戦士の眉間の皺が、警戒と瞋恚を湛えてさらに深く刻まれている。

 そんな中、カノープスは改めて目の前のアルテミスを見据えた。

 星空の瞬きを映すほど濃い漆黒の長髪に、光を呑込む深い闇色の瞳。アルテミスの特異性を何よりも構成するのは、その見事なまでの”黒”だった。おそらく自分たちとは別系統の民族なのだろう。

 連合国時代以前の昔から、どの国にも共通している御伽噺――海底へ沈没した幻の王国アトランティス民。そして、その末裔であるとされるクロノス大王らエリュシオン王族の特徴に一致する。カノープスは、アルテミスもまた彼らの縁者に違いないと考えていた。

 オリュンピアからメグレズの民たちは、元をたどれは同じ民族を起源にしていることから、金髪や白い肌などといった共通している外見がほとんどなのだ。

 だが、彼が怒りの矛先を向けた相手はアルテミスではない。カノープスは、敵意に満ちたその憎しみの眼をある一人の人物に投げかける。

「その男を、外してもらいます」

 アルテミスとスピカの後ろに待機していた、今までの間ずっと沈黙を貫いていた大柄な偉丈夫。――ベテルギウスは、やっと初めてカノープスの方へ顔を上げた。

「カノープス殿、それはどういうことか」

 訝しんだザウラクは、おのれの部下に対して冷静に理由を訊ねた。

「……閣下こそ、ご存じでいらっしゃるでしょう。――私は、私と閣下は、「エリュシオンの民」を心の底から憎んでいる」

 ――そこにいたのは、歴戦の武人にして、過去にたくさんの家族や友人たちを失った悔しさに肩を震わせ、その悲しみに今にも泣き出しそうなただの老人の姿だった。

「――貴方も、”思い出した”のか」

 ザウラクは、静かに彼の悲しみに寄り添った。――そう。彼も、終戦宣言の日にあそこにいたのだ。ならばカノープスもまた、ユピテル帝に浄化された過去である”不和”の源を取り戻したに違いなかったのだった。……たとえ、それが穴だらけの拙いものだったとしても。

 ザウラクは、改めてベテルギウスの姿を正視する。

 ――エリュシオン民の特徴である、浅黒い肌に銀の髪。……隻眼なのだろう。黒い眼帯で覆われていない方の、唯一残った彼の右眼は禍々しい深紅に輝いている。メラクの民も屈強な体格の者が多いが、エリュシオン民たちは平均がそれ以上を上回っている。人間離れしたその相貌は、彼らエリュシオンの民たちが通常の人間ではないことを意味していた。

 エリュシオンの民たちは、ティタノマキア・ギガントマキアの二つの大戦において、人でありながら人類の敵たる天士と手を組み、交わった。かつてオリュンピアは、人の理と枠組みから外れた彼らの事を”半天士”と忌み、侮蔑していたのだ。

 カノープスは、ベテルギウスを睨んだまま怨嗟を吐き出す。憎き仇敵たちの面影を映す視界は、次第に涙が滲んで霞み、歪んでいく。

「破軍殿、あなたの部下個人を憎んでいるわけでは決してない。……しかし、彼を、彼の姿を目の前にすると、否が応でも行く当てもない瞋恚と…ッ、憎悪に我が心が駆り立てられてしまうのだ……。些細なことでもきっかけに、怒りに呑まれて我を忘れた自分が彼を斬り捨てかねない――ッ!」

「――――――――― へえ」

 それまでまわりに対して一切興味がなさそうに口を閉じていたベテルギウスは、カノープスの呪詛を聞いた途端に仏頂面から一転。……見るにも耐えない凄惨な笑みを浮かべる。そして、肉食獣の如く爛爛と紅い瞳をぎらつかせ、挑発的な声を漏らした。

 アケルナルはカノープスの初めて見る姿に動揺したものの、主人と老戦士に対してあからさま過ぎるベテルギウスの殺意から彼らを遮るように、アルテミスの前に出た。

「――我々が助けを貴殿に乞う側なのに対し、おこがましいことは承知の上。しかし、互いの立場を、”これから”を考えようとする場を……負の過去による憎しみの血で穢したくはないのだという願いを、どうかご理解いただきたい」

 青年戦士の必死さに、アルテミスは真剣な面持ちで「わかった」と頷くと相手の要求を受け入れた。だが、意外やそこに、スピカが異を唱えたのだ。

「私は反対です。私たち副官は、七星剣をお守りすることが役目なのですから。カノープスさん、アケルナルさん。――あなた方お二人だってそうでしょう?」


 ――七星剣になった者は、おのれの最も信頼する二名を側近である”副官”として選出する。七星剣が皇帝の剣であるというならば、副官はその剣を納める鞘の役割を担うのだ。彼らカノープスとアケルナルもまた、ザウラクによって副官として任命されるはずだったのだが、皇帝に謀反を起こした今となっては意味のないものになった。

 ……しかし、主人が自分たちを副官候補として選んだことが、絶大な信頼と実力を認めているという事実こそが、カノープスとアケルナルにとっては肩書などよりも一番誇り高かったのだった。副官という立場ではなくても、信頼を寄せてくれる主を全力で支えることはカノープスとアケルナルも、スピカと志は同じなのだ。そのことを、スピカはいち早く突いてみせた。

「私とベテルギウスさんは二人で破軍・アルテミスの副官です。主をお守り、お支えすることが私たちの使命。――いくら私が思い図ることのできないおつらい事情があったとしても、ベテルギウスさんの仕事を、彼を否定するのなら。……私はその編成に納得することはできません」

 毅然とした態度で主張するスピカに、アルテミスは諭すように言葉をかける。

「スピカの意見もわかるが、彼らだって慎重になるのは最もだろう?……せっかく頼って来てくれたんだ。ここは、譲ることも大事だと思うぜ」

「……わかってます。でも、私だって…一緒に働く同僚をそんな風に言われて、黙ってにこにこできるほど、我慢強くありませんから」

 むくれて拳を握りしめるスピカに、アルテミスは困ったように微笑んだ。

「スピカちゃんは本当に熱い子だ。――そういうところ、俺は好きだよ」

 不意を突かれたのか、スピカは何事か小さな声で呻くと、服の裾を掴んでいきなり顔をうつむいてしまう。……だが彼女の真っ赤に染まった両耳は、その帯びた熱を隠しきれずにいたのだった。

「しかし誤解されてるままなのも、それはそれで俺も嫌だねぇ」

 茹だるスピカから離れて下がると、アルテミスはベテルギウスの隣へ並ぶ。

「一応言っておくが、彼は”半分”の”半分”だ」

 ベテルギウスの武装した右腕をガンガンと小突くアルテミスはにこやかに話す。

 ――結構な大きい音を出しているものの、その痛みに微動だにせず無表情を保ち続けているベテルギウスはカノープスにとって余計に不気味だった。否、そもそも耐える痛覚が無いのだろう。よく目を凝らせば、彼の右腕は義手であることが分かった。

「半分の半分――というと……」

「エリュシオンとミザールのな。おまけに戦後生まれだし、こう見えても、このでっかいのはまだ二十三歳だよ」

 それを聞いたザウラクたち三人は驚きの声をあげる。アケルナルは、目の前の偉丈夫がまさか自分より二つも年下だとはと困惑した一方で、ザウラクとカノープスの驚愕の理由は別にあった。

「エリュシオンとミザール……⁉というと――剣闘士上がりか!」


 ――剣闘士。

 アリオトとベネトナシュの間に位置する大公領地。かの領地は剣闘士による闘技場の戦闘観賞を主に、観光地として栄えている。戦後には剣奴隷、または対戦獣の代替えとして隷属されたエリュシオン民が多く収容された場所でもある。

 天士と人間の混血であるエリュシオン民は頑健な肉体を持ち、星を砕く武器で無い限り容易に傷をつけることは非常に困難。また、致命傷を受けても、その丈夫すぎる特性により簡単には死ににくかったため、盛り上がり役として最適だったのだ。

 その際、非人道的な扱いを受けたエリュシオン民との混血児もまた、剣闘士として庶民の残酷な娯楽に消費されていたのである。ベテルギウスは、まさにその当事者だったのだ。


「――そうと知らぬとはいえ、貴殿への無礼と侮辱を恥じよう。申し訳なかった」

 カノープスが、沈痛な面持ちで謝罪を述べた。なるほど、剣闘士だったのなら義手なのも納得できる。彼の剥き出しになった肩の付け根の古傷が、星光に照らし出されて生々しく浮かび上がる。

 人の生き死にが娯楽となる闘技場とその運営を、カノープスは長い間否定を貫いてきただけに。――自分の発した言葉が、彼にどれだけ同じ仕打ちをしてしまったことかと、おのれの浅慮を省みる。眼前の青年は、これまでに受けた酷い屈辱や、何度も迎えたであろう命の危機を乗り越えて、いまここに立っているのだ。

 そんな萎れたカノープスに戦意を喪失したのか、全く気にした素振りも見せずにベテルギウスはやっと口を開いた。

「……別にいいっすよ。……そういうの、興味ないんで」

 言葉の通り心底つまらなさそうに殺意を押し込めたベテルギウスを確認すると、アルテミスは彼の背中を思い切り叩いて元の話題へ戻す。

「こういう奴なんだ、あまり気にせんでくれ。――じゃあ、気を取り直して!カノープス殿。貴方の編成案を聞かせてもらおう」

「我がままを聞いてくださり、ありがとうございます」


 そうして、カノープスの編成が採用され、ザウラク・カノープス・アケルナルと彼らの部下四人、アルテミス・スピカはパンドーラ遺跡へ。残ったベテルギウスとメラクの戦士八人はベネトナシュへとそれぞれ九名ずつ二手に分かれて向かうことになったのであった。



×                 ×



 ――時間は冒頭へ戻り、パンドーラ遺跡。

 アルテミスたちの案内のもと、パンドーラ遺跡に到着したザウラク一行。遺跡を少しの間だけ休憩がてら見聞した後に、アケルナルがおもむろに言葉をこぼした。

「まさか本当に九人で何事もなく無事に辿り着けたとは……。そもそも、ムーサ――奴ら天士とは、いったい何なのですか?」

「ああ、そうか。戦後生まれのアケルナル殿はご存じないのも無理はない」

 青年戦士の疑問に、ザウラクに続いてスピカが答える。

「天士とは、遥か昔にこの惑星ガイアとは異なる惑星――他天体からやって来た、宇宙生命体のことです。ムーサのように人間を糧とする種族もいれば、動物や人間などの知的生命体に寄生するなど高い知性を有する個体も存在します。

 ――天士の目的は”人類の滅亡”。……彼らの多くは、この星の環境に慣れず絶滅の一歩を辿りつつあるため、それ以外の詳細はまだよく判明していないことがほとんどなんです」

「でも、ムーサちゃんのようにこちらが相手を理解し、彼ら独自の”約束事”に則って行動すれば、今のように両者ともに余計な被害を出さずに済むってわけだ。……厄介な客人ではあるが、こうして我々は彼ら天士と共存を―――」

「――”共存”だと……⁉冗談ではない!」

 アルテミスが言い終わらぬうちに、突然ザウラクが怒気を孕んだ声でそれを拒絶した。アルテミスは、口を噤みザウラクを神妙な顔をして見つめる。

「我々を滅ぼすために、この星へ侵略しに来た怪物だぞ⁉それに―――」

 そう言いかけると、ザウラクは終戦宣言時のユピテル帝の言葉が脳裏によぎる。


”――しかし、我々■■は、君たち人間と共存共栄の道を――”


 ああそうか、とザウラクは呻くと頭を抱えた。なぜ、ユピテル帝はギガントマキアの記憶を我々から奪ったのか。――否、皇帝が消し去りたかった記憶はギガントマキアの後に起こるであろう心的外傷そのものではない。

 ……そう、ユピテル帝は”天士”に関する記憶、存在を我々から奪ったのだ。天士と接触したことのあるギガントマキアの生き残りたちがいなければ、戦後に生まれてきた子供たちもそれに従って天士の存在自体を知らぬまま。……アケルナルがいい例だ。

 スピカの説明を鵜呑みにするなら、天士たちは絶滅の一歩を辿っているという。実際、天士が蔓延るここアリオトを禁域地帯に指定することで、人々は天士たちから隔離されていた。天士の存在を人間たちにとって「なかった事」にすれば、互いの干渉は無くなりどちらも無闇に犠牲を出すことはない。皇帝はこれを見越して、我々から記憶を奪ったとでもいうのか。

 ――しかし。更なる疑問がザウラクを惑わす。

 皇帝は、終戦宣言の際に「人間との共存共栄」を謳った。だが、いま自分が把握している状況では、現時点での天士と人類の関係は”共存”のみなのではないか?

 ザウラクは混乱する意識の中、改めてアルテミスの姿を見た瞬間。全ての歯車がカチン、と噛み合った気がしたのだった。

 ……五十年以上もその若さを保ち続けている皇帝。――そして、黒い戦士アルテミス。


 ザウラクの思考に、稲妻が走る。それは、やけに明るく鮮明なものだった。


 ――そうだ。そうだった。皇帝ユピテルはそういう男だ。共存の段階など、奴はとっくの昔に超えている。

 彼は、皇帝の皮を被ったあの超常の存在は、もう既に文字通り、”共存共栄”を成し得ていたのだとしたら。


「――皇帝、ユピテル。まさか、お前は……」


 ザウラクがそう呟いた直後、突如として丘の空気が一変する。先ほどまで、プロメテウス遺跡付近よりも比較的穏やかだったこのパンドーラ遺跡一帯が、強烈な悪意に塗り潰されていく。

 ――じっとりとした、気味の悪い……嫌な汗が背から腰へ伝って流れていく。

 ザウラクを始めカノープスたちは、その尋常ではない量の圧力が凝縮された恐怖に襲われた。……血圧が一気に急降下し、肌は粟立ち、呼吸は浅くなっていく。どくどくと異常な速さで脈打つ耳鳴りが、頭蓋を凌辱して激痛をもたらし、一向に止む気配は微塵もない。

 燦燦と星が静かに瞬く澄み切った空の下。あの超巨大なムーサと出会った時よりも遥かにそれを凌駕する、”悪逆”と”嗜虐”が煮凝った、これまでに一度も経験したことが無かった暗鬱とした感情の海にザウラクたちは為すすべもなく満たされていた。

 誰もが恐怖によって動きを封じられていたと思った矢先。その中の一人が、何事もなかったかのように悪意を氾濫させている源の方へ数歩前に進んで行ったではないか。

 ザウラクは驚愕のあまり、頭を襲う激痛を忘れて思わず見上げてしまう。


 ――破軍、アルテミス……!!


 黒い戦士は、悠然と悪意の源流に向き合った。丸腰のままいったい何をする気なのかとザウラクが心配するも、どこからともなく黄金の光砂が風に乗って現れる。黄金の粒子は美しく、淡く、儚く瞬きながら、やがて煌びやかな糸となって精錬された壮麗な剣の形へ編み込まれていく。

 アルテミスは剣を手に取ると、一点を、目には見えぬ悪意を見つめたまま、プロメテウス遺跡で初めて言葉を交わした時と変わらぬ声でザウラクに語り掛ける。

「……貴公の気持ちはわからんでもない。天士を憎む貴公にとっては認めたくないだろうし残酷だが、天士たちにだって大人しい奴もいれば友好的な奴だっているし、それぞれ”個”を獲得している奴もいる」

 アルテミスがここに来て初めて剣を構えた。――握った柄が、軋みを上げる音が聞こえる。

「――しかしな。いくら私とて、明確な殺意と敵意を持って襲ってくる奴らは別だとも!!」


 ――アルテミスが声高らかに言い放った瞬間。


 彼らの前に、人の常識を嘲笑うかの如くおぞましき悪意の汚穢たる化身が姿を現したのだった。

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