第五節 ◆パンドーラ遺跡/天士 エピメテウス
『――もしもし。』
荒れ果てた丘の上。頭上へ落ちてきそうなほどに星が瞬く、しっとりと濡れた闇夜の天蓋。そんな空の下で、この場に似つかわしくない――あどけなさの残る幼子の声が、静寂を掻き切って響き渡る。
不自然に歪んだ空間から姿を現した声の主は、助けを乞うようにザウラクたちへ訊ね始める。
『もしもし、すみません。』
――やめろ。
『きこえていますか?』
――聞きたくない。
『おたずねしたいことがあるんです。』
――そんな姿で、そんな声で、人の言葉を口にするんじゃない……!
ザウラクたちは、突如として出現した眼前の天士の姿に恐れ慄いていた。ある者は両手で耳を塞ぎ、またある者は目を逸らし、現実を直視することを否定している。
それもそのはず。闇夜の中から音も無く現れたのは、重ね合わされた一組の子供の手。そして、青白く浮腫んだ不気味な肌。大人二人分を余裕で超える巨大な”手”は手首から先が無く、代わりに大きな巻貝に似た外殻に覆われていた。
異様な外見にとどまらず、さらにザウラクたちの恐怖を煽ったのはほかでもない。およそ重力の法則を無視した――常識の域から逸脱したその在り様そのものだった。
手の天士に視認だけで判るのは、手のほかに付属するものと言えば貝殻だけだ。……鳥や羽虫のような羽根も無いこの怪奇生命はいったい、どのような仕組みで宙に浮遊しているのか。
対峙する”手”の恐怖から瞳を閉じても、その強烈な容貌は瞼の裏に浮かび上がるくらい不気味であり、ザウラクたちは残念ながら不可思議な現実から逃れることはできやしなかった。
それでいて何よりも、おぞましき姿には全く噛み合わぬ幼く不安げな、か細い声。
――しかしながら、どこまでも露骨すぎる濃厚な悪意を隠そうともせずに放出する様は、ザウラクたちにとって吐き気を催すほど充分に醜悪なものだった。
そんな中、再び狂気に陥ったザウラクたちの鼓膜を叩いたのは、黒髪の戦士が剣の構えを解いた甲冑が擦れた音だった。
『あの、すみません。ぼく、さがしものをしているんです。』
「……何か、大切なものでも落としたのかな?」
ザウラクたちは驚愕せずにはいられなかった。なぜなら、先頭に立つアルテミスが手の天士に優しく応じてみせたのだから。――声だけならば微笑ましくもあろう光景なのだが、アルテミスが相対しているのは見るにも堪えぬ異形の魍魎。……そんなこともお構いなしに、ここに来て初めて応答してくれた人間に手の天士はほっとしたのか、安心した声で会話を続ける。
『そうなんです。ここらへんにおちちゃったはずなんですけど……。いっぱいさがしているのに、ぜんぜんみつからないんです。』
「……残念だけど、ここにはそのようなものは何も見かけなかったよ」
『――――そうなんだ。』
無邪気にも嬉しそうに言葉を紡いでいた天士は、期待が打ち砕かれたのか、心から気を落としたように呟いた。
……ザウラクたちは、ただただアルテミスと天士のやりとりに目を奪われていた。自分たちが恐怖で体が動かない中、依然消えて止まぬ天士の殺意――重たく巨大な圧力に対して、なぜアルテミスは平然と和やかに談笑していられるのか。冷えた汗が、ザウラクのこめかみから流れ落ちていく。
一方で、そんなザウラクたちを横に手の天士はアルテミスと話を続ける。おそらく、久しぶりの会話だったのだろう。楽しそうに話す手の天士の声の様子から、徐々に身にまとう悪意が薄れていくのが感じ取れた。
『それにしてもあなた、ふしぎなこえだね。おとこのひと?それとも、おんなのひと?』
「……君には、私の姿はどう見えているのかな」
『ぼく、には――』
天士にとってそれが不意打ちだったのか。アルテミスの問いに天士が言葉を詰まらせた、その時。
「ば…っ、化け物……っ!!」
すっかり殺意を収めた天士の重圧から解放されたメラクの戦士の一人が、体が自由になった反動か思わず声を上げた。
「しまった――!!」
メラクの戦士の声を聴いた途端、手の天士の姿が忽然と消滅した。焦ったアルテミスが、声を上げた戦士の方へ振り向くもそれは間に合わず――手の天士は戦士の前に姿を現したかと思うと、爆発音とともに襲い掛かったのだ。
白い煙がザウラクたちの視界を遮る。
「……っ!!いけません!皆さん、煙を吸わないように……え?」
スピカが驚いたのも無理はない。彼女たちの前に充満したのは爆発による硝煙ではなく、何の変哲もないただの水蒸気だったからだ。漂う水蒸気は春夜の寒気に冷やされると、細やかな無色透明の水滴となってスピカの前髪や肌を濡らした。間もなくして、霧の中からあの天士の舌足らずな声が、けたけたと笑い声を響かせる。
『――ちがった。あいつのからだは、こんなにもろくないもの。』
戦士が立っていた場所――霧の晴れ間から姿を見せた天士は、固く重ねた手のひらを緩める。……すると、指の間から何やら黒い砂がさらさらと零れ落ちていったではないか。
「う、あ――。まさか、そんな…っ!」
「ひいいいいいいいいいッッ!!」
戦士たちは、消失した仲間の惨い真実を悟った。伝染した恐怖は彼らの思考を奪い、戦士の尊厳を放棄させ、情けない悲鳴を上げていく。
――あまりの事態に泣き叫んで混乱し逃げる者。
――諦観からその場に崩れ落ち狂笑する者。
しかし、そんな阿鼻叫喚も一瞬にして静寂へと塗り替えられていく。手の天士は容赦なく彼らを次々と襲う。
神出鬼没の天士は姿を消して途轍もない俊敏さで標的に忍び寄る。そして、襲う直前に再び出現しては、両手で勢いよく圧縮し戦士たちの身を砕いていった。
――それはまさしく、耳障りな羽虫を叩き潰す無邪気な幼子の如き残酷さそのものであった。
一連の光景を目の当たりにしたアケルナルは、辺りに立ち込める霧の正体を知り思わず口を抑え、空嘔きに苦しんだ。手の天士に捕まった戦士たちは、巨大な手によって圧縮され瞬間火力と超圧力により肉体の水分が放出し、その水分は高熱から気体へと変わる。
――そう、天士が襲ったのちに残るこの不可解な霧は、高温によって蒸気化した戦士たちの体液だったのだ。
そして、かつて彼らであったであろう残り滓は、焼け焦げた黒い粉末となって天士の手の中から夜風に乗って散っていく。
『――ちがう。これも、あれも、それも、みんな――みんな、ちがう、みんなみんなちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうおちがうちがうちがうちがうちがうねちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがえうちがうちがうちがうちがさうちがうちがうまちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがおうちがうちがうちがにうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがいうちがうちがうちさがうちがうちまがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちごがうちがうちがうちがうちめがうちがうちがうちがんうちがうちがうちがうなちがさうちがうちがうちいがうちみがうちがうちんがうちがうちがうちがうなちがうちがうちがごうちがめうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちんがうちがうちがなうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがさうちがうちがいうちがうちがうまちがうちもがうちがうちれがうちがうちがうなちがくうちがうちがうちてがうちがうちがうちがうちがごうちがうめちがうちがうちがうんちがうちがなうちがうさちがうちがうちがいうちがうちがうちがうごちがうちがうちめがうちがうちがんうちがなうちがうちがうさちがうちがうちいがうちがごうちがうちがうめちがうちんがうちながうちがうちがうちがうちがうちがうちさがうちがうちいがうちがうあちがうちいがうたちがういちがうちがあうちがいうちがうちがうちたがうちいがうちがうのちがでうちがすうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうあちがうちがうちがいうちがうたちがうくちがうちがうちてがうちがうちあがういちがうたちがうちがうちくがうちがうてちがうちしがうちかがうちたがうちががうちながうちいがうちのがうちがうでちがうすちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう……っ!みんな、ちがう……っっ!!』
再度、手の天士の身に殺意と悪意が蘇る。戦士たちの殺戮をきっかけに、アルテミスがやっとのことで堰き止めていた天士の負の感情は決壊し、憎悪と瞋恚に満ちた呪詛とともに氾濫していく。
「――ッッ!……ステラ・デメテール、解放!!」
スピカは悔しさに歯噛みすると、ステラ・デメテールを解き放った。羽根の意匠が施された脚鎧が両脚を膝上まで覆うと、スピカは翡翠色の輝きとともに跳躍した。
――星を砕く、星の光。すなわち、”ステラ”。
人類が唯一、天士を倒すことができる超高次元の武器、および武具の総称。
生命の理想郷――水の惑星ガイアとは異なる惑星の限界環境で誕生した天士たちは、耐久・生命力ともに人類と比較して非常に強力な存在だ。ステラは、そんな天士たちに対抗できる奇跡の結晶であり、人類にとって残された最後の希望の光であった。
ティタノマキア・ギガントマキアにおいて、連合国軍――人類がエリュシオンの天士や半天士たちと渡り合えた理由の最たるものの一つでもある。
ただし、一般的な武具と同様に使用者の技量が問われるため、扱いは非常に困難とされている。
空高く飛翔したスピカは三十マート程の高さまで昇ったのち、空中で速度を落とすと同時に重力に従って一気に降下していく。その速さは音速に達し、耳鳴りが激しく頭蓋で叫び出す。翡翠の流星と化したスピカは、迷いもなく手の天士の脳天目掛けてステラ・デメテールの踵を突き出した。スピカの狙いに応え、ステラ・デメテールは踵――靴底を槍状に変形させていく。
スピカのステラ・デメテールが、天士を空から貫こうとした直後。
「え……っ?」
――直撃寸前のところで、手の天士はまたもや行方を眩ましたのだ。
「いったい、どこに……⁉」
衝撃を抑えて地上に着地したスピカは天士の姿を目で追うが、どこにも見当たらない。
「前だ、スピカ……ッ!!」
殺気に気づいたアルテミスが、必死の形相でスピカに叫んだのも束の間――天士が突如としてスピカの目の前に姿を現したのだ。
”――畜生ッッ……!全く見えなかった!!一体、どこから出てきた⁉”
手の天士が向ける露骨な人への執着に、アルテミスはこれまでの敵とは異なる点を徐々に感じ取っていた。今までアルテミスが相対してきた天士は、ただ純粋に上位の天士の命に従順で、人類を滅ぼすため機械的に人を襲うものであることが多くを占めていたからだ。
しかし、この天士は明らかに違う。人語を解するほか会話も可能――支離滅裂な単語の羅列やオウム返しに言葉を反芻しているわけでもない。意思疎通が完璧な、人間と違わぬ高度な知性を持っている。そして最も目立つ違和感は、人間へ対して向ける怒りと憎悪の感情。
――まさか、とアルテミスは胸中に嫌な予感が過ぎる。
アルテミスがスピカの元に駆け寄るよりも速く、手の天士は彼女を粉砕しようと巨大な両手を大きく広げて至近距離まで迫り来る。
「――だめ、アルテミス様……っ!」
アルテミスとスピカが互いに諦めかけたその刹那――烈風がスピカの肌を掠めたかと思うと、天士はいきなり動きを静止した。
突然の事に戸惑ったスピカは、不幸にも両手の平に収まっていた天士の本体を正視してしまう。
――その凄惨たる姿に、さすがの彼女ですらも憐憫の情を感じずにはいられなかった。
天士の本体は、人の形をしていた。スピカはそれこそ若き少女の身ではあるが、今までアルテミスたちと共に人類に仇なす多くの天士たちをステラで葬ってきた立派な戦士だ。ただ、天士の多くは人語を理解する者こそいても、人を宿主とした天士であっても、それらは人の姿からかけ離れたものが殆どだった。
――しかし。
スピカは眼前の天士の姿にショックを受ける。それもそのはず、この天士はどこをどう見てもまだ幼い少年だったからだ。――あのあどけない声の理由も、納得できる。
それに畳み掛けるように、幼子の声からは想像もできないほどに痛ましく、その姿は惨たらし過ぎるものだった。
髪が抜け落ちた頭部、削がれた鼻と両耳。両目の瞼と唇は、針金のような金属の糸で縫い付けられていた。両肩、そして太ももの付け根から先には本来あるはずの腕と脚が無惨にも斬り落とされてしまったのか。……生々しい傷痕が、とても痛ましかった。
星明かりに透けるあばらの浮いた胸の下――腹部には縫合された口の代わりとでもいうのか、縦に裂けた巨大な口から赤く燃える舌がチロチロと覗く。
腹の口が、スピカに訊ねる。
『…………おんなのこ?』
「……はい」
震える声で彼女が答えるや否や、手の天士は膨張した悪意をゆっくりと縮小していった。
『きみも、まいごになったの?』
「ち、違います」
『……かぞくは、どうしたの?』
「い、家に、弟と妹が、二人……」
『……そうなんだ。そうかあ、そうなんだ。――――おねえさん、なんだね。』
そう呟くと、天士はゆっくりとスピカから離れ始めていった。
――この機を逃さんと、疾風を伴ってアルテミスがスピカの背後から躍り出る。
黒髪の戦士は、容赦のひとかけらもなく本体に黄金の剣で斬りかかる。しかし、凶悪無比なアルテミスの渾身の一撃も虚しく、天士は指で刃をあっさりと受け止めた。
「……マジかよ」
『……ああ、とても、かなしいなあ。やさしそうなひとだとおもったのに。――あなたも、ぼくをきずつけるんだっ!!』
予想以上の俊敏性と硬度に苦笑いするアルテミスを、激昂した天士は軽々と振り払う。
「アルテミス様……っ!」
轟、と音を立ててアルテミスは無様にもパンドーラ遺跡に隣接する遺跡まで吹き飛ばされる。颶風を巻き起こして、その勢いは遺跡の壁をぶち破り、アルテミスは円柱に背から激突すると為すすべもなく倒れ伏してしまった。アルテミスがぶつかった遺跡の円柱は衝撃で砕き折れると、そのままうつ伏せになった黒髪の戦士の上に落下する。
崩れた遺跡の中で粉塵に紛れて主人の姿を確認することができなかったスピカは、不安と焦燥に心が掻き乱されていく。
”やっぱり、ベテルギウスさんもここに連れてくるべきだったんだ……!”
まだ自分ひとりでは、アルテミスを守る力が足りない。自信を無くし始めたスピカは、我に返るとそんな想像をした自分を正すように頬をぴしゃりと叩いた。
――そうだ。このままではあの子供の天士の思う壺だ。主人の強さと体の頑丈さは、誰よりも一番自分が知っている――そう自負しているのだ。今までだって、主人はこれ以上の修羅場をくぐり抜けてみせていた。
”破軍・アルテミスを信じなくてどうする――!”
スピカは再び立ち上がった。
「ザウラクさん、カノープスさん、アケルナルさん!……この天士はおそらく成人男性の声に反応しています!!決して、決して声を出さないで……っ!!」
スピカは、手の天士の本体を脳裏に再生する。……あの姿の事だ。おそらく宿主、または天士自身が、過去に人の手によって傷つけられたのであろう。そして、明確な殺意と憎悪――アルテミスを吹き飛ばした時の言動からも、その可能性が大いに高い。加えてあの状態から察するに、スピカの推測が正しければ手の天士は視力が無いに等しいはずだ――!
しかし、それを滑稽だと嘲笑する邪悪な声が、夜風に紛れて震撼する。ザウラクたちは必死に辺りを見渡すも、見えぬ敵は一向に姿を潜めたままで声の出所が判断できない。
『――むだだよ。いくらだんまりしていても、さいしょのじてんでどこになんにんいるのか、ぼくには、もうだいたいわかっているんだもの。』
背後に悪寒を感じたカノープスは、側にいたアケルナルに注意を促そうと腕を差し出した。しかし、霞を掴んだように何も手ごたえがなかったことに、カノープスは最悪を予想する。
……視界に、白き霧が立ち込める。
”――認めたくない。ただの思い過ごしであってくれ……!”
そう頑なに願いながら、カノープスは恐る恐る振り向いた。
――だが悲しいかな、カノープスの予感は的中する。
青年戦士が立っていた場所には、彼の下半身のみしか残されていなかったのだから。
「………………ッッ!!」
『まずは、ひとり。』
ザウラクとカノープスは、声にならない叫びを上げた。
ザウラクは、おのれを信じてここまで着いて来てくれた若き尊い命を無駄に散らせてしまった自身の愚かさに。カノープスは、プロメテウス遺跡の誓いが果たされなかったことに嘆き、絶望に歯を食いしばる。
しかし、ギガントマキアを生き残った老戦士の目は、未だ戦意を喪失してなどはいなかった。残されたアケルナルの下半身は、いまだ倒れることはなく。死してなお屈せず立ち続ける同胞の姿を、ザウラクとカノープスはしっかと網膜に焼き付けた。
くすくすと嘲る天士の挑発的な殺気を、カノープスは研ぎ澄まされた峻厳な精神で気配を殺して確実に追っていく。
”――決して、決して逃がしてたまるものか……!”
手の天士の居場所を執念で突き止めたカノープスは、アケルナルの遺体の下――地に染み込んだ砂交じりの黒く染まった彼の血液。それを、濁った悪意を放つ方向に向かって勢いよく投げつけたのだ。
――命中。
アケルナルの血が混じった粘り気のある砂は、不可視の天士の輪郭を見事浮かび上がらせることに成功した。
「今です、破軍殿……!!」
『そこにいるんだね、ゆぴて――――』
カノープスが捨て身でアルテミスの名を呼ぶと、すぐさま天士の真横に向かって円柱が飛んでいき直撃する。
声を潜めたことにより狙いが外れたのが天士の運の尽き――アケルナルの尊い命と引き換えに、カノープスは勝算を掴み取ったのだ。
憂いを含んだ眦を細めたカノープスは同胞の血を吸った泥を固く握りしめると、柱が飛んできたその先を見つめ微笑んだ。
土煙舞う遺跡の奥。……あの皇帝ユピテルですら敵対することを恐れた歩く城塞が、喊声を上げて粉塵の中から姿を現した。
「……やってくれたな。子供のオイタにも限度ってものがあるだろうが、少年――!」
咆哮し滴る血が軌道を描いて驀進していくその様は、まさに猛る狂獣そのもの。
「いやはや……。まさか円柱をあの距離でとはな……!さすがに無茶苦茶過ぎるのではないかね――破軍、アルテミス!」
ザウラクが乾いた笑いを浮かべるのも無理は無い。……あの時、アルテミスは手の天士に吹き飛ばされ意識を失った。しかし気を失いながら、無意識の中でもアルテミスの思考は状況を把握し、次の一手を計算していたのだ。
その結果、アルテミスはカノープスの決死の合図を聞き逃さず、反射的に無理矢理意識を覚醒させる。そして、おのれの上に覆いかぶさっていた円柱を持ち上げると、それを槍の要領で正確に天士へ向かって投擲してみせたのであった。
『う…っ!うあああああああ……ッッ!!』
苦悶の声を上げ地に落下した天士は、自身が生み出した血溜まりの中をのたうち回る。天士が苦しめば苦しむほどに円柱が深く食い込み、殻にはヒビが走り、朱い火花が迸る。
アルテミスは殻による視覚攪乱――迷彩擬態能力を失った天士の隙を見逃すはずもなく、金色の光を両腕に装着する。そのまま籠手型のステラを構え一瞬で距離を詰めると、手の天士を拳で殴りつけていく。――心を冷徹に研ぎ澄まし、冷えた闇の瞳で機械的に、淡々とただ拳を振るい続ける。
だがしかし、それも次第に焦燥へと変わっていく。
”びくとも、しねぇ………!!”
浮腫んだ肌の見かけに惑わされるが、手の天士の頑丈さの秘密は硬度だけではなかった。ありとあらゆる衝撃を肌が吸収、力の余波を逃がしているためだ。
『――どうして、ぼくのじゃまをするの……!』
泣きじゃくり暴れる天士に抵抗されたアルテミスは、その巨大な手で容赦なく肉体を蹂躙された。大きな右手は本体を保護するように握りしめていたため、メラクの戦士たちのように圧縮死することは無いが、片手であっても天士の怪力は予想以上の重さだった。
一撃でも掠る程度ですら大打撃だろうに、正面からもろに叩き喰らったアルテミスはついに吐血してしまう。
――骨の砕ける鈍い音が、暮夜に残響する。
「ごぶ…っ!」
しかし、黒髪の戦士は天士の猛攻を受け止め続けても尚、地に膝を屈服することなくひたすらに立ち続ける。光を吞み込む闇色の瞳の闘志は掻き消えるどころか、嬲られるほどにその焔は確かなものになっていく。――それはまさに、城塞と謳われた破軍・アルテミスの在り方を示すものだった。
アルテミスに気圧されて一瞬ひるんだ手の天士は、恐怖の色を露わにする。そんな天士を逃がすまいと、アルテミスは反撃に打って出た。間合いを瞬時に詰め、下から大きく拳を振り上げる。
――全力を込めた最重の一発。肺に溜まった空気を勢いよく吐き出すと、噛み締めた奥歯の隙間からシイッ!と音が漏れた。
だが、依然として渾身の一撃を喰らっても微動だにしない手の天士に、さすがのアルテミスも口元を引き攣らせる。
「おいおいおいおい、嘘だろ…!”黄金”のステラ使ってんだよ、こっちは……っ!!」
苦戦する主人に、スピカは翡翠の瞳を憂色に曇らせる。
「アルテミス様!ステラ・パンドラを――!」
「駄目だ!ステラは出せても、戦闘補助機能がうんともすんとも言わん…っ!」
「そんな――!」
アルテミスは、先ほど天士の手に打たれた際の不自然に折れ曲がった自身の鼻を指で摘まむ。そして、バキンと音を立てて元の位置へ力任せに捩じ戻すと、開放された鼻腔から喉奥に降りてきた鼻血を吐き捨てた。
「……場所が場所だけにマズかったかね、こりゃ」
――このままでは、やがて膠着状態へ陥るだけだ。それだけは避け、これ以上の犠牲を出さぬためにも早く決着をつけなければならない。アルテミスの腰元から銀の光が瞬くと、それは一対の拳鍔となって籠手型ステラに装着された。
アルテミスは手の天士に再び拳を振り翳す。しかし天士も死中に活を求めて、守りから攻めに転じてみせる。寸前でアルテミスは天士の猛攻から身を捩り躱すと、拳を突き出し――星を砕く、かの名を告げた。
「――爆ぜろ、ステラ・カリプソ―」
解放された拳鍔――ステラ・カリプソ―は黄金の手甲より射出され、鋭い銀の尾を引きながら天士の指の皮膚にめり込んだ。それと同時に金属質な軋みを上げると、たちまち爆散したのだった。
『いたいいたいいたい…っ!いたいよぉ……っ!!』
――火柱を上げて焼け狂う手の天士。
破軍の狙い通りに天士は自身を守る鎧であった指を全て吹き飛ばされ、無防備な本体が剥き出しになる。体勢を立て直すため手の天士と距離を離すことに成功したアルテミスは、爆発の衝撃波を利用して加速し跳躍すると、勢い良くザウラクの前方に着地した。その凄まじさたるや、降り立った足元の地面が陥没するほどだった。砂塵に混じり、天士とアルテミス双方の焦げた臭いがザウラクの鼻腔を刺激する。
砂利を踏み鳴らしてザウラクの側に並ぶと、アルテミスは血に赤く染まった歯を見せてにっかりと笑ってみせる。
「さて、奴に我々の声が届かぬ今のうちだ。――ザウラク公、ステラの扱い方はお忘れか?」
「――いいや。忘れるものか……!!」
ザウラクの瞳に蘇る戦意を確認すると、アルテミスは安心したように微笑んだ。
「そりゃあ良かった。――では、ここからは共闘と参りましょう」
アルテミスは腰元から何やら取り出すと、ザウラクに渡してみせた。それは手のひらに収まるほどの大きさの、鈍い金属光沢のある蒼い立方体であった。
「この子の名はステラ・パンドラ。まあ、簡単に言えばステラを保管・管理するステラ――携帯型武具庫ですね。ここから条件に合ったステラを自動で計算して選んでくれる」
「これが――」
ザウラクはステラ・パンドラをまじまじと見つめる。蒼い立方体のステラには、過去に見覚えのある金の幾何学模様が刻まれていた。
「ただし、繊細な子なんだ。彼女にステラを出してほしい時は、意中の相手を口説くように情熱を込めてお願いすることが重要です」
「わっ…!我輩は妻一筋で――!!」
「ははは!冗談です、冗談!」
『うるさい、わらうな、……わらうな――!!』
アルテミスの哄笑に反応した天士は狂い叫ぶと、ひび割れた殻が剥離し崩壊していく。殻からは熟れて半分腐り始めた――どす黒く染まった果実に似た肉塊が露出すると、辺り一面に甘ったるい香気が充満する。
もう彼には迷うものは何もなかった。ザウラクはパンドラに手を翳すと、目を伏せて願い、渇望する。
――あの災厄の化身を打ち滅ぼす力を。
――人の命を軽んじて、手遊びのごとく鏖殺していくあの外道に、誅伐を。
かくしてそれは聞き届けられ、パンドラから黄金の粒子が迸る。溢れた光はやがて束になると、高濃度の熱量を凝縮した祈りの輝きへと生まれ変わる。
「さあさあ、何が出てくるのかはお楽しみ!!ハズレは無いが、あるとしたら――私のスケベな玩具だけだ!」
「何て物を隠すのだ、貴殿は――!」
「もちろん、それも冗談です!」
ザウラクは顕現した金色の槍をその手に握る。それはただ触れただけだというのに、槍に帯びた強力な星の力に圧倒され、胴震いに襲われる。全身中の神経が研ぎ澄まされ、五感・筋力が電光石火の勢いで次々に覚醒していく。……約五十年ぶりの感覚にザウラクは、高揚した感情の導くままに――膨張した命の光を、一気に解き放った。
その眩いばかりの強烈な輝きにすっかり気圧された天士は、悲鳴を上げてしゃくり上げる。
『――そうだ、いつも、いつもそう…!ぼくをきずつけるひと、ひどいことをいうひと、ばかにしてわらうひと、みんな、みんなみんな――つぶれてこなごなになっちゃえばいいんだ……!』
形勢逆転により窮地に立たされた手の天士は、傷ついた我が身を顧みずに絶叫する。腐った体液や排泄物が傷口から噴出し、血溜まりの上に汚物が積み重なっていく。
――既に剥き出しのその身を守るものは、何も残っていない。もはや、彼にとってこの叫びはただの虚勢だ。
しかし、おのれを食い物にして弄んだ人間への憎悪が、憤怒が――幼子の姿をした天士をここまで追い詰めていったのだ。
満身創痍の天士と向き合ったアルテミスは黄金の籠手を改めて構えると、わずか一瞬だけ――今にも泣き出しそうな顔をして呟いた。
「………ごめんな」
『――――――!!』
そのあまりにも幽かな、小さな謝罪が天士に届いたのか。……硬直した天士を前に、ザウラクとアルテミスはステラを解放する。
それは金色に光あふれる生命力の奔流を暴威へと変じさせ、一条の流星と化して炸裂した。
「突き穿て!――ステラ・イアペトス!!」
「打ち砕け!――ステラ・アトラース……!!」
燦然と輝く星空の下、煌々と荒野の丘を疾走したステラの衝撃は血霧に大きな風穴を穿つ。
――轟音が大気を震撼させる。解き放たれた閃光の灼熱は天士を直撃し、渦を巻いて収束して消えていく。
「……やった、のか…?」
尋常ではない光輝の総量を以って天士を討ったため、瞬間的に五感が麻痺したザウラクは脱力したが、アトラースを支えに何とか体勢を持ち直す。一方で、アルテミスは目を凝らして撃墜目標を確認し、その光景に愕然とする。
それもそのはず、ザウラクの槍型ステラ・イアペトスとアルテミスの籠手型ステラ・アトラース――二つの星を砕く力を受けたというのに、手の天士はいまだ形を保ってそこに横たわっていた。
しかし、胴は二つに裂けていることから流石に致命傷となったらしいものの、その類を見ない並外れた頑丈さゆえに死にきれず――苦悶の顔を浮かべて、ただ痛みに喘いでいた。
『……う、いた、いたい…っ!!いたいのは、いやだ…っ!…やだ、たすけて、たすけてよう…っ!おにいさま…!おねえさまぁ……ッッ!!』
――息も絶え絶えに激痛に身を悶えて助けを乞う天士の姿に、アルテミスはしびれを切らして天士のもとへと駆け寄った。
鮮血に塗れべそをかいて震える惨たらしい幼子の姿を正視すると、破軍は思わず膝をついて屈む。
”……君は、こんなにも小さかったのか。”
アルテミスは、天士の本体を沈痛な面持ちで見下ろした。巨大な手と殻を剝がれた末に残った、小さくて細すぎる――抱きしめたら今にも折れてしまいそうなほど貧相過ぎるその肉体。加えて、虐待された結果にできたであろう惨い仕打ちの傷痕の数々。
破軍・アルテミスは、たとえ敵対する天士であったとしても、意思疎通が可能な場合はまず一番に会話を以って極力無駄な争いを避ける主義だ。しかし、今回は状況が状況だっただけに交渉が決裂した結果、この在り様だ。
私情は殺し、ただ純粋に鋭利で屈強な剣であろうと刃を向けたアルテミス。しかし、首と胴が薄皮一枚で繋がっているも同然に苦しむ者を目の前にして何も思わぬ程、冷酷になりきることはできず――アルテミスは、さすがにこればかりは堪え切ることは出来なかった。
アルテミスは自らの両手を額に当てると、嗄れた声を振り絞る。
「……とどめを刺す。お願いだから起きてくれ、パンドラ…!この子を救うためにも――貴女の力が、必要だ‼」
『――――――承認。』
少しの沈黙の後、握りしめた手の中――ステラ・パンドラが、震えるアルテミスの必死の祈りを聞き届けた。
『識別、該当記録から敵性天士の解析が終了。対象脅威度更新、”黄金”。個体名――エピメテウス。』
蒼い立方体より、冷たく機械的な女性の音声が再生される。無機質なその音声によって手の天士――エピメテウスの名が告げられると、アルテミスは顔を上げる。
エピメテウスを見つめたその顔は、既に元の冷厳たる戦士の仮面を取り戻していた。
「――そうか。かの大王の弟王子の成れの果てとは、我が相手に不足はなかろう」
アルテミスはパンドラから再び黄金に光る剣のステラを取り出すと、刃の切っ先をエピメテウスの腹部に向ける。
『おねえさま、そこにいるの……?』
――縦に裂けた腹部の口が呟いた。彼のか細いたった一言が、アルテミスの覚悟を揺らがせる。
アルテミスは、沈黙するパンドラをエピメテウスの胸元に静かに乗せる。すると、エピメテウスの苦痛に歪んだ顔が、僅かだが穏やかに安らいだ。……もともと無理に厳しさを取り繕ったせいか、アルテミスのその手の震えは、いまだ収まらずにいた。
パンドラが、珍しく急かすように蒼く発光する。その様子に、アルテミスは深呼吸をすると、剣の柄を強く握りしめる。
「……理不尽への怒りに燃える憐れな王子よ。――貴方の家族は皆、とうの昔に死んだのだ」
静かに瞬く星影を映した、冷ややかな切っ先を冷酷に振り下ろす。……刃は、いとも簡単に口腔の奥をあっさりと貫いた。
朽廃しきった城跡が遺る寂れた丘に、一陣の風がアルテミスの黒髪を棚引かせて爽やかに走り抜ける。
――今宵、またひとつの星が命を落とした。
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