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 街は車線が二車線に増えて曖昧に現れた印象だった。


 最果ての駅・根室の駅舎は、想像以上に小さく可愛かった。


 駅の傍に繁華街はなく。駅前の小さなロータリーにあった観光インフォメーションセンターに立ち寄ってこの街の情報を入手した。彩香からの電話で検索が中途半端になって、伽奈へのメールの文面を考え送ったところから記憶がないのだからしようがなかった。


 色々と詳しく訊こうと思ったのだが、あとから来た観光客の一団に気を使って、細かいところまでは訊けなかった。


 ホテルにチェックインを済ませ、その時にまた根室の情報を仕入れた。スタミナライスなるものも根室に根付いた味で旨いらしかった。


 部屋に荷物を入れると直ぐにいつものようにセッティングして、PCを開けて天気予報を確認し、それからランドリーの洗濯機にコインを投入してから、軽くなった相棒を根室の街に走らせた。インフォメーションセンターとホテルマンから仕入れた情報の確認のためだった。


 ポケットに畳んで入れているインフォメーションセンターで貰った根室市街の飲食店マップを、時々取り出しては広げ、じっくりと確認をしていく。


 目当ての呑み屋街はすべて国道44号線から下る坂の下にあった。歩いて行くと帰りはすべて上り坂だった。イイ感じで酔っている時に、この坂道を歩いて帰ることを想像すると、少々億劫な気分になった。


 根室郵便局のある交差点で信号待ちのために停まった。右折してこの先を行けば納沙布岬が待っている。しかし、明日も明後日も晴れ予報だ。午前中に行って、午後に行って、もう来ることはないであろう根室を走り回ろうと思った。


 今夜は洗濯中ということも鑑みて部屋呑みにしようと思った。しかし、何処かで根室の食に触れたい。けれど、今夜のような気分の時に、無理して歩いて坂の下まで飲みに下りると、明日、根室半島を楽しめなくなりそうな予感がした。今朝も寝坊するほどだった。そういう時は大人しく眠るものだ。そういえば。と、来る途中にあった回転ずしを思い出し、そこで根室の魚を喰らおうと考えた。


 海に向かって下り斜面に建つ住宅街の通りを横に進み、俺は何となくこの街の匂いと空気を嗅いでいた。


 途中で坂道を上がり切り、回転ずしの駐車場に入って相棒を店の入り口近くに停めた。早い時間にも関わらず駐車場には何台も車が停まっていた。


 回転ずしと言っても頼めば握ってくれるスタイルらしかった。


 お勧めと張り出されているものから順に注文して、次から次へと胃に収めていった。しかし、思っていたよりかは美味しくはなかった。時期が悪かったのだろうか?それとも、昨日から暴食に近い行動をしていたせいだろうか?


 そそくさと後にして、ホテルで呑むことに決めていた俺は、セコマでいつものと根室の地酒・北の勝とそれに合いそうなツマミをいくつか買って、相棒にも鱈腹いつものハイオクを呑ませてからホテルに帰った。


 乾燥機に入れ替えて充分乾燥する時間分のコインを投入した。早く、早くぶら提げたビニール袋のそれを流し込めと喉が吠えた。部屋に入ってテレビを点けると、タイミング良く夕方のニュース番組が流れ出した。


 窓から見える暮れてゆく根室の市街を眺めながら、リングプルを引いて喉にいつものを流し込んだ。耳はテレビから流れるキャスターの声を聞いていた。


 あまり気に留まらないニュースばかりだった。呑みながら、この北の大地を出るとコイツとは中々巡り合えないのだろうなって、ふと思った。


 それにしても淋し気な町なのに、暮れ始めた眼下にある「サツドラ」やその隣のスーパーには人が群がっていた。広い駐車場はほぼ満杯で、上から見ていても人が歩いているのは店の出入り口と駐車している車までで、通りにある歩道には誰も歩いていなかった。坂の下へ続く通りだって同じだった。


 急に徐さんのニュースが流れた。足取りが掴めたようだった。釧路の幣舞橋近くのカフェの女性オーナーがインタビューに答えていた。


 “徐さんらしき人はどんな格好でしたか?”


 ――白いダウンジャケットに下は茶色のスカートでした――


 ――カフェオレを注文されてね――


 ――三十分ぐらい居たのかなぁ。ボーッと窓の外を見てたの――


 継接ぎのインタビュー映像だった。


 「徐さんらしき女性、こちらの店を出たあとの行方はまだわかっていません」


 最後はインタビューをしていたと思われる女性記者がそう締め括った。


 「本当に無事でいてくれると嬉しいのですが……」


 「そうですね。心配です」


 スタジオに戻ってキャスターの男女が言った。まるで流れ作業を見ている気分だ。いつものサッポロクラシックが苦く感じた。


 どうでもいいことなのだが、人は興味のない他人のことを深く知ろうとはしない。そして、世間は垂れ流される事実だけを見て邪推する。死ぬことは不幸で、生きることが幸せなことなのかどうか。それすら自分の、いや、世間の当たり前に照らし合わせて判断し、いつものようにメディアは自死を不幸と決めつける。死後がどうなるかなど知らないくせに。


 誰が決めたルールか知らないが自決することは悪だという。けれど、死んで報われる人生もあるのは本当だ。俺は数多く見てきている。死ぬことで大切な家族を守れたり、死ぬことで自らの信念を貫き通せたり、死ぬことで自分の不甲斐無さとオサラバ出来たりするのだ。誰かに強要されたり迫られたりする自殺という名の殺人とは全く別の話だ。自死することは罪だというキリストの教えも、クリスチャンだった朝井は俺を弾いたあと、自ら警察に引き金を引くことによって自殺を他殺にすり替えた。勿論、イエスの教えに則った朝井は、左の頬を打たれたら右の頬を差し出すどころか、その何十倍も何百倍にも威力を増して相手をボコボコにしていたのだが、自殺だけは絶対に許せないタチだった。可笑しな話だ。


 彼女は彼女のためだけに生きて死んでいくのだろう。


 俺だって深く彼女のことをよく知っている訳ではないが、出逢い、会話して、同じ景色を見て、同じ時間を過ごした。そして、彼女は俺と同じだと笑った。異国から来た彼女が、自らの最後をこの国を選んで迎える。それほど最後の地に拘るなんて、俺には考え付かない芸当だ。


 それに俺自身、この旅の終わりに迎えるであろう葛藤を、彼女も同じように抱えていたはずなのだ。


 「無事でいてくれると……」「……心配です」なんと空々しい響きだろうか。それ以外にその時間を締める言葉はないのだろうか?


 酒が不味くなりそうだったのでテレビを消した。


 代わりにPCでAdeleを流した。


 歌声と北の勝が俺を心地好くさせた。


 やっぱり俺は疲れている。身体の芯が疲れたまんまなのだ。


 明日の納沙布岬と道道35号線のルートを再確認する。道は一本だ。日本最東端の駅も気になる。納沙布岬では、さんま丼がお勧めらしい。しかし、今の時期だと冷凍物になるだろう。それでも脂ののった旨い時期のサンマを冷凍しているはずだ。間違いなく美味いだろうと想像すると北の勝がすすんだ。


 Adeleから、東京時代の警備会社の先輩に貰ったクリームやブラインド・フェイス、デレク・アンド・ザ・ドミノス時代も入った古いClaptonに変えた。音楽が俺に力をくれることも術後の葛藤でわかったことの一つだった。


 Claptonも終わり、Christone Kingfish IngramのKingfishのアルバムをかけた。


 B・B Kingに似た雰囲気が心地好かった。


 伽奈からメールが来た。週末ならいつでも大丈夫です。と、書いてあった。


 不意に伽奈の身体を思い出した。血が流れるのを感じた。白く華奢な身体に汗が浮かんでいた。耐え切れず絞り出すような声。細い身体がしなり何度も震えた。


 俺の性根はやっぱり屑なんだと実感した。頭を振って伽奈の身体を消した。


 ランドリーに洗濯物を取りに行った。しっかりと乾いていて何故だか嬉しかった。今日は早目に眠ることに決めた。




 やけに眩しかった。窓の外に建つマンションの白い壁が、綺麗なオレンジっぽく染まっていた。


 「今何時や」


 俺は言葉が吐いて出た。部屋の掛け時計の針は三時四十六分を指していた。


 「えっ……」


 寝過ごした。俺の頭の中がパニックに陥った。昨日早く眠ったのに今日の一日を無駄にしたと思うと歯がゆかった。


 もう一度窓の外を眺める。空に青が広がっていた。相変わらず街には誰も歩いていない。交差点で信号が青に変わったのに、一台の車も走っていなかった。


 益々パニックだ。とうとう寝ている間に、あの世に逝っちまっただ。


 もう一度ガラ携をしっかりと確認した。0348と数字が並んでいる。


 急いで黒い画面のPCを立ち上げて、今日の根室の日の出を調べた。三時四十分と書かれていた。


 安心してカーテンを閉めた俺は、大欠伸をしてベッドに転がった。




 昨日の轍を踏むことなくアラームで目覚めて、最初に頭に浮かんだのは、今朝見た人も車もいない根室の不気味とも思える町並みだった。あの時見た夢なのか現実なのかわからないものにも、あんな景色があったような気がする。


 カーテンを開けて、動いている根室の街を眺めて何故かホッとした。


 いつも通りにゆっくりと身体を動かしていき、ゆっくりとシャワーを浴びて頭を覚ました。二度寝したせいか、なかなか頭が覚めなかった。


 覚めたのはバスルームを出て、冷蔵庫の中の冷えたペットボトルのお茶を半分ほど喉に流し入れた時だった。


 窓の外には薄い雲の隙間に青があった。これはイイ感じで走れるだろうと気分が高まった。


 相棒を暖機して、車の流れる根室の街に滑り入れた。


 花咲ロードを下って道道35号線を右折する。北海道弁で書かれた秋刀魚のおみくじを吊り上げるオモシロみくじがあるという根室金毘羅神社で、これからの旅の安全を願ったが、時間が早過ぎたのか社務所は開いてなかった。結局楽しみにした秋刀魚漁は出来なかった。


 先に進み、人家がなくなると一気に視界が開けた。襟裳岬にも似た何もない景色がだだっ広かった。そして、見渡す先の空には白い雲と青い空が見えていた。


 海沿いを走ったり、牧草地の中を走ったり、面白味のある道だった。空の青さも道東の色だった。気分良く貸し切り状態の道を駆ける。風が心地好く身体を撫でた。


 牧草地に黒いビニールでパッキングされたロールベールが無造作に置かれている辺りから、遠くに靄がかかってきていた。先の道を見ると、ゆっくりと海から薄い霧が根室半島に上陸してきているのを発見した。


 薄い白のベールの中を相棒と進んで行く。オーロラタワーは遠くからでも発見出来た。まだ霞というところか。


 観光地と呼べる街並みが見えて来ると、視界はもっと悪くなった。


 霞がかった納沙布岬が、北海道最東端の先っちょだった。霞の向こうに薄っすらと海が見えた。歯舞群島は白の向こう側だ。


 腹が減っていた。


 店の前に相棒を停めて、俺は『鈴木食堂』へ入った。中は暖房が効いて暖かかった。


 さんまの漬け丼と花咲蟹の鉄砲汁のセットにつぶ煮。つぶ煮はつぶ貝を味付て煮たものだった。俺は迷わずに注文する。


 店の主人から冷凍物だけどいい?と聞かれたが、それでいいと答えた。


 運ばれてきたさんまの漬け丼は予想通り、口にすると脂が溶け出して旨かった。それに花咲蟹の鉄砲汁もボリューミィーで蟹感満載で旨かったし、大満足だった。つぶ煮も美味しかったが、釧路で食ったつぶ焼きの方が俺の好みだった。酒が呑めないのが悔しかった。


 指に蟹の匂いが染みついている。ヒップバッグから、ヘルメットのシールドを拭くためにあちらこちらで集めたおしぼりを取り出して丁寧に指を拭いた。


 「ご馳走様。美味しかったです」そう言って料金を払った。


 「いつまでいるの?」


 「あと一ヶ月ぐらいは……」


 「へーっ、凄いねぇ。したら、八月に入ったらまた来たらいいさ。漁が始まって秋刀魚が生だからさ、もっとうめっから、また食べに来て」と店のおじさんは言った。


 店を出るとさっきまで見えていた海面が見えない、霞が濃くなっていた。


 俺は土産物屋には目もくれず、道道35号線を先に進むことにした。


 この旅で俺は土産物屋に全く興味が湧かなかった。いや、もとい。興味はあったが、入ってもしようがなかったのだ。


 昔の俺は旅に出ると、途中のSAへ立ち寄ったり、観光地の土産物屋に入って何か変わったものはないかと見て回ったりするのが好きだった。だけどもこの旅では、荷物が一杯でこれ以上何も積み込めなかった。勿論、キーホルダーなどの小物ならタンクバッグに入らなくもない。食い物なら腕にぶら下げて走り宿に入ってから消化すればいい。けれど、そんなもので腹を満たすぐらいなら、現地でしか、その場でしか食えないものを食って腹を満たしたかった。それに土産を選んで渡す相手が、今の俺にはいないのだ。だから、土産物屋に立ち寄って誘惑に戸惑い負けるぐらいなら、入らずにスルーする。それだけだった。


 半島の北側の何もない壮大な景色とは違い、南側は人家が道沿いに現れては消え、現れたら消えを繰り返す。


 日本最東端にある珸瑶瑁・ゴヨウマイ郵便局で記念撮影をし、日本最東端のGSで相棒に燃料を入れた。最東端給油記念の証明書を貰った。こういう何気ない心配りが嬉しかった。店員のおじさんの笑顔も、女の子の笑顔もとてもキラキラしているように俺には見えた。


 歯舞のスタンドを出て根室市街へ向かった。


 人家がなくなると青空の下、やっぱり霧が俺のうしろを追いかけてきていた。釧路の時のように。


 この道も途轍もなく雄大な景色を見せてくれる。向かう先に一直線の地平線が見えたりもした。前方の風景とバックミラーの白に、また惚けが顔を出す。


 明日の釧路までの道が快晴であることを願った。


 霧は根室の街には入ってこなかった。そのまま市街に入らず花咲まで俺は相棒を走らせた。


 途中、地図ではわかり難い道へ勘を頼りに入り、花咲へ向かう道道310号線へショートカットしようと思っていたら、日本最東端の駅・東根室駅に迷い込んだ。


 東根室駅は手前に標識がなかったらわからないほど、簡素な板張りの華奢な骨組みだけの無人駅だった。


 ホームには、白地に擦れた黒文字で『日本最東端の駅』の表示板が建てられていて、時刻表には、厚岸・釧路方面には六本、根室方向には五本という一日の列車の発車時刻が記されてあった。


 段々と空の青が擦れていく。


 花咲蟹で有名な花咲港は、もっと賑やかな所だと思っていた。


 港を一巡りして花咲岬へ向かった。花咲灯台に根室車石という観光地らしかった。しかし、灯台も車石も見ることは出来たが、海霧がだんだん濃くなっていき、見る見るうちに視界が五メートルほどになってしまった。


 幻想的な断崖の階段を上って相棒の停まっている駐車場まで進んだ。駐車場までは海霧が上ってこなかった。


 これじゃあ走っていても面白くない。根室市街に戻ってエスカロップにスタミナライスを梯子して自棄食いだ。途中のホームラン焼きには興味が出たが、甘い物は今はいい。


 先ずは『どりあん』でエスカロップを食べた。


 タケノコ入りのバターライスの上に、カットされたトンカツ、その上にドミグラスソースがかかっている。


 兵庫県加古川市の「かつめし」のような、見たままそのままの味なのだが、タケノコの食感が秀逸で、味のバランスがとても良く、夢中で一気に食い尽くした。旨かった。


 食い終わったあとなのに食欲が増していた。もっと旨い物を食わせろと身体が欲していた。その思いに応えるべく『ニューかおり』へ向かった。


 商工会議所の中にある店は、少し入り辛さを覚えたが、店内は老若男女で賑わっていた。


 スタミナライスは、白飯にトンカツがのって、その上にたっぷりの野菜炒めがのって、またその上にサニーサイドアップの目玉焼きがのっていた。


 さっきもトンカツを食ったはずなのに、見た目通りの味なのに、旨過ぎる。途中から半熟の黄身を混ぜて味変すると、これも旨過ぎて、あっという間に腹に入ってしまった。野菜炒めが豊富なのも二杯目に食うには良かった。今度は身体も満足した様子だった。


 満足してまた根室の街を一回りするかと相棒に火を入れた。


 瓢箪池のある明治公園をかすめて、街は自然の中にポツンと作られていることを知った。


 住宅街を走りながら、花咲にあったホームラン焼きが気になって向かってみることにした。道道310号線を行きJR花咲線と並んだ時に、さっきはまだ見通しの良かった線路の向こうが空まで霧に煙っているのが見えた。これでは危なっかしくて走っていられない。


 諦めてセブンイレブンの切れ目を右折した。まだ北の空には青が少し見えていた。


 地図を見るとその道は、国道44号線に繋がっているようだった。建物がなくなると、そこにも広大な風景が待っていた。本当に道東の外れのポツンとある街なのだとわかる。


 もしかしたら、俺が病床で見た幻の街『キラク』は、ここのことではなかっただろうか?そんなつまらないことが頭に過った。


 そんな惚ける道も直ぐに住宅地が現れた。それに少しガスっている。


 これでは面白くなかった。それにここ最近、疲れが溜まっていることも思い出し、俺はホテルに戻ることにした。明日の朝もう一度、納沙布岬を走ろうと決めた。


 部屋に戻ってひと眠りを決めた。


 十六時に目覚めてシャワーを浴びて、PCで今夜の店を再確認した。小さな街なのに結構な数の飲み屋があった。何処をどう通ろうとも、帰りは坂道を上ることになる。口開けを狙ってホテルを出発した。


 交通量のある表の通りよりも一本裏の通りの方が人が歩いていた。


 やはり、人がいるだけで街の雰囲気は変わる。


 昼間はシャッターが閉じた通りも開店準備のため、ポツポツとシャッターが開いていく。


 夜の賑わいの予兆が俺の気分をウキウキさせる。


 目的の店にはすんなりと入れた。カウンターの中にある炉端の火が嬉しかった。旨い物が食えそうだ。


 ホヤの刺身は新鮮で臭みもなく爽やかで美味かったが、やはり俺とホヤの相性が良くなかった。それでも旨かった。この店で、二十数年来のホヤとの和解が訪れた。


 値段の安さに色々なツマミを北の勝と共に胃に入っていった。


 直ぐに満腹中枢が刺激され、酒も入らなくなっていった。


 こんな時に……。そう忸怩たる思いが膨らんだ。しようがないので会計を済ませ店を出た。


 今夜で根室の夜とはオサラバだ。多分、もうこの地に足を踏み入れることもないのだろう。そう思いながら、ネオンが瞬き出した根室の坂道を歩いていった。


 タンカースジャケットのポケットが震え、俺はガラ携を取り出した。津田からだった。


 「はい」


 ――今さっき、今日の昼に浜中町の沖で発見された遺体が、徐さんだとDNA鑑定で確認されました――


 俺はシャッターが下りた電気店の前で立ち尽くした。“遺体”という言葉だけが頭の中で何重にも分身し飛び回った。


 ――釧路の天女ヶ浜で入水したものと思われます。昼前に徐さんのキャリーバッグも見つかりました――


 「ありがとう」


 俺はそれだけを言葉にして電話を切った。


 何か思い出すとヤバいと思ったから、そのまま崩れて立ち上がるのに時間がかかると思ったから、足早に坂を上がってコンビニに駆け込んだ。


 いつもの三缶とウイスキーの小瓶を三つ籠に放り込んだ。それからポテトチップス塩味とポッキーを一つ入れた。それでも頭の片隅は冷静で、時計を見ながら俺はそれらを買っていた。


 部屋に戻っていつものを開けるか小瓶を開けるか一瞬迷ったが、小瓶のキャップを回し開けて、立ったまま一瓶を一気に喉を通した。


 続けざまにいつものをプシュッと開けて、チェイサー代わりに半分ほど流し込む。大きなゲップが二発出た。


 PCを立ち上げてメールに添付された三枚の写真を眺めた。


 笑顔だった。


 ただ眺めながら、この人が死んだのだと自分に言い聞かせていた。


 わからない。何をどうするのが正解なのかわからない。今まで接してきた死とは明らかに違った。彼女は俺と同じと言った。本当に同じかどうかと聞かれたら違うというしかない現実だったが、こんな細かいことは死ぬにあたっては大した違いではないのだ。俺もこの旅を終えたら、死に場所を何処にするのか決めなければならない。それはわかっている。


 ただ今の俺が彼女に出来ることは、彼女との旅を思い出して酒を呑むことだけだった。




 カーテンを開けた先は快晴で、道東色の空を見せていた。


 身体は重く気分も上がっていない。


 テーブルの上に並んだ空きビンと空き缶が、昨夜の憂いを描き残していた。


 値段に負けて、また同じ宿に連泊予約を入れた。釧路の夜の街までが遠い。


 気分的以外は心地好く過ごせたホテルを出発して、納沙布岬に向かった。


 昨日は隠されていた青が空の大半を塗り固めている。根室半島は今、途轍もない辺境の景色を俺に見せていた。遠くからでも白いオーロラタワーがニョキッと見えた。今日は寒くなかった。


 晴れ渡り遠くに歯舞群島が霞む先っちょを堪能し、花咲線と並行するように釧路へ向かう。


 花咲港も霞みなくそのままの現実を見せ、花咲灯台や車石からは断崖絶壁が続く様を見せていた。


 昨日走った道が走りたくなって、ひと時の異国感を堪能して、道道142号線を左折した。


 この道も本州では味わえない道だった。途中、ラブホテルがポツンとあった。何とも映画のワンシーンに出てくる荒野の中に建つ一軒家のモーテルのようだった。


 そこからJRに沿うように走って行く。北太平洋シーサイドラインだ。


 昆布盛駅を過ぎて海岸線を走ると霞がかっていた。


 森の中、落石で表示板どおりに霧多布・厚床へ右折する。その先は行き止まりの四ケタ道道だ。


 もう何処を走っているのかわからない白い森の中の線路沿いの道を進んで行く。俺の中の嫌いの欄に“霧”という字が増えた。


 霧で視界の悪い中、霧多布の標識を見てホッとしている俺がいる。標識通りに左に曲がる。


 ここから先、感動を覚えるような海沿いの道が待っているはずだった。幽かに見える景色がそれを物語っていた。しかし、流れる雲のような海霧がすべてを白に変えていく。


 浜中町に入り、道は道道123号線に変る。海沿いのアップダウンや気持ちの良いカーブすら、今の俺にとっては障害でしかなかった。巧くやり過ごさなければ、そこで俺の旅、十勝で自ら奪い返した自由の旅が終わる。そうはさせない。


 それでも時折霧のない海岸線に出くわした時には、とても感動する素晴らしい景色を実感した。霧の馬鹿野郎だ。


 ルパン三世が多くいる霧多布の街は快晴で、その先の岬は霧の中だった。そんな天候もいかにも道東らしいと言えるのではないだろうか。


 霧に飽きた俺はMGロードと名付けられた道道808号線・琵琶瀬茶内停車場線で霧多布湿原の中を走った。晴れ渡った道東色の青空と雄大な景色が俺を迎えてくれた。彼女の笑った顔が浮かんで、何故だか涙が滲んだ。人は余裕がないと悲しみさえも味わえないものなのかと気がついた。


 楽しまないと損だと思い直して茶内駅まで惚けながら走り、スーパーマーケットの中の某有名アイスクリームでも使われている牛乳を使ったソフトクリームを堪能した。旨い。お代わりを考えたが、厚岸での牡蠣も魅力的だった。


 休憩も終わり、来た道を戻って海沿いの道を進んだ。 


 厚岸町に入っても海霧は酷かった。群生している紫色の水仙の花も、白いベールに包まれた中にあった。俺に道東は霧だと印象付けた。


 やっと道の駅の標識が出だした頃から霧はなくなって、小さな街の真上では雲一つない青空がニコニコとしていた。


 真っ赤な鉄骨構造の橋を渡り、線路を越えて道の駅・厚岸グルメパークへ入った。


 スタンプを押して、生牡蠣と酒蒸しのバケツ牡蠣を堪能すると、俺は先に向かった。牡蠣は旨い。札幌の五坪で食ったよりも旨く思えるのは地場食材だからか。


 さっきまで霧のなかった橋の向こうの街が、徐々に霧に侵食されていっていた。


 霧に煙る北太平洋シーサイドラインは諦めて、標茶町、釧路町と青空の下の国道44号線を通って釧路の街に着いた。


 ホテルがある通りへ曲がる手前、釧路駅の駅舎に懐かしさが込み上げる。もう彼女はいない。


 使い慣れた半地下の駐車場に相棒を入れる前に荷物を降ろした。チェックインを済ませて部屋に向かうと、見晴らしの悪いハズレの部屋だった。


 急いで彼女の最後の地、天女ヶ浜を探した。眼鏡岩近くの随分辺鄙な所にあるものだと思った。どうやってここまで彼女は行ったのだろうか?そんな疑問が頭を過った。


 天気予報は変っていて、道央、道北の雨予報が、明後日には道南の函館近辺を除いた道内各地に雨マークが並んでいた。明日、天女ヶ浜へ花を手向けに行こうと思う。


 霧でべたつき気味の身体をシャワーで洗った。


 スッキリしてタレザンギの店に向かった。ムカつくけど旨いのだ。


 タンカースジャケットの下にはもう、パーカーは必要なかった。暦の上では季節は夏に入ったのだ。しかし、栄町平和公園まで辿り着くのが一苦労なことも変わりなかった。この距離のせいで酔いが醒めて、現地で呑むのと帰ってから呑む酒量が増えている気がする。


 空はまだ明るい。何故だか俺は淋しかった。心の中に淋しさというものがあるということに、俺は戸惑いを感じていた。今までは悲しみはあっても淋しさは感じたことがなかった。一人で生きて生き抜いてきた俺の、揺るぎないと思っていたものにまで変化をもたらすなんて……。そんな戸惑いは、道道釧路津久井弟子屈線の広い道を渡る最中に気づいたことだった。


 公園の手前でガラ携が震えて鳴った。伽奈からだった。横断歩道を渡りながら電話を取った。淋しさが少し和らいだ。


 ――もしもし、伽奈です――


 「おお、どうした?」


 ――誠さん、今は何処ですか?――


 「今、釧路におるよ」


 ――やっぱり――


 「えっ、どうした?」


 ――もう呑んでますか?――


 「いやぁ、今向かってる途中やけど……」


 ――良かった――


 「何が良かってん?」


 ――私、今、釧路にいるんです――


 突拍子もない伽奈の言葉に俺は動揺していた。


 伽奈の話では、伽奈が昼間働いている設計事務所の社長が、今日この街で得意先と会う約束があり出発したのだが、社長の運転する車は会社を出て五分後にストップ。事務所にいた事務員の中でその日車を乗って来ている唯一の人間が伽奈だった。伽奈は社長の車のレッカー移動に付き添う事務員のおばさんを一人乗せて現場に向かった。そこでおばさんを降ろし代わりに社長を乗せて、頑張って北見から釧路まで走って来たと言った。明日の午後イチに弟子屈の川湯で現場打ち合わせに向かうので、伽奈もこちらに泊ることになったらしい。そして社長は今、接待を受けている最中で、関係のない私は一人でどうしようか悩んでいたのだと言った。


 俺は伽奈の言葉を聞きながら、多分これから会って酒を呑み、初めて感じた淋しさというものを伽奈に見据えて、俺はそれを壊そうとするのだろうという思いと、明日、死んだ徐さんへ花を手向けに行くこと、彩香の顔が揺らいだ。


 ――……それで、何処で待ち合わせますか?――


 ぼうっとしている間に伽奈と会うことになっている。


 流れに任せることにしようか。と、思った時に、公園のベンチに座っている熊を発見した。




 




 

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