9


 朝は五時に目覚め、温泉でひと風呂浴びた。


 露天風呂から見える空には雲が居座っていた。


 熊の湯と変わらない強酸性の強い泉質の温泉は、俺の身体を軽くさせていた。だが、奥底に溜まった疲れは抜け切れてはいなかった。


 もしかしたら、の僅かな望みを抱いて、昨日展望が悪かった知床横断道路を上った。しかし、頂上付近は雲の中だった。だけどUターンして、昨日は真っ白だった展望台からは雲間に国後島が綺麗に見えた。国後は晴れ渡っている様子だ。


 朝飯でも食べようと山を下りて羅臼の街へ。店を探して彷徨っているうちにクジラの見える公園が気になって坂を上った。


 クジラは見当たらなかったが、国後島は近くにくっきりと見えていた。俺の生きている間に返還されることはないのだなぁと思った。


 そして、津田が探っていると言った朝井が俺を狙撃した件は、本当に俺の知らない何かが発覚して、それで俺の人生が取り戻せることになるのだろうか?答えはNOだ。当たり前だ。こんな何かが抜け落ちた俺が昔の人生を取り戻したとしても、直ぐに的に掛けられてオサラバだ。ん、的に掛けられる……。


 腹がものすごく空いている。


 こんな時こそコンビニのメシは食べたくなかった。開いていないだろうと思いながらも道の駅まで行くと、もう隣の土産物屋は開いていた。


 店の前の駐車場に相棒を停めて中に入ると、二階の食堂が開いていた。


 店の人に勧められるまま時鮭定食を食べた。


 定食は豪勢で、時鮭のデカい切り身と、あら汁に小鉢が三つ付いていて、それの一つにはイクラの醤油漬けが入っていた。


 時鮭はこれでもかというぐらい脂がのっていて旨かった。小鉢の昆布の煮物とシャキシャキの野菜の和え物も箸が進み、最後には鮭とイクラの親子丼にして朝飯を〆た。ホテルで食うバイキングよりも格段に旨かった。旨いイクラをもっと食いたい気持ちが高まった。


 満腹、満足で宿に戻り、すでにパッキングを終えていた荷物を積んで宿を出発した。


 開店してすぐの羅臼の道の駅でスタンプを押して再び出発。


 国道335号線・国後国道を南下。純の番屋をチラリと見て先へ。頭上には分厚い雲が居座っていたが、左手に広がる国後を望む海は、キラキラと光り輝いていた。


 山頂で撮れなかった、鷹だろうか?鷲だろうか?わからない緑の鳥が描かれた羅臼町のカントリーサインを撮って標津町へ。標津町のカントリーサインには鮭が描かれている。これで俺の思い出に深く刻まれることとなった知床ともおさらばだった。


 徐さんは生きているのだろうか?


 彼女自身が決めたことなら、俺はただ事実を受け止めるだけだ。それに、俺の中には彼女の笑顔が沁み込んでいる。


 国道335号線は、斜里から続く244号線に変り標津の街へ向かう。


 俺は開陽台へ向かうために国道244号線を右折した。


 道道774号線を左に折れて川北の街で相棒に餌を与えて、道道975号線に出て開陽台へと向かった。途中から中標津町に入った。直線路ばかりで、道道に入ると舗装状態が悪かった。


 ミルクロードと名前のついた開陽台へ入る手前の坂道をのんびり上がって行くと、そこには、青空の下で輝いている道東の、この旅でも見たことのない広大過ぎる開けた景色が待っていた。


 俺は堪らず相棒を停めてカメラに収めた。しかし、カメラには収まりきらなかった。だからしばらくじっと見ていた。なんと人間はちっぽけなのだろうと思い知らされるほどの広大さだった。


 見飽きることはなかったが、開陽台へ上がればもっといい景色に出逢えるかもしれないと先を右折した。


 厚く覆われた雲の切れ間から見事な青を見せているその天空へ続くような坂道を駆け上がり、青深い牧場が広がる中を進んで行く。


 俺はなるべくバックミラーは見ないようにして走った。振り返りたい気持ちは帰り道のために取っておくのだ。


 十勝のナイタイ牧場を思い出させる道を進みゆくと、丸い展望台が見えてきた。車の駐車場からバイク→の標識通りにバイク駐車場へ向かったが、とんでもない細い獣道のような山道を上らされ、円形の展望台に向かって左横にある小さく区切られた牧場の一角のような場所まで上った。


 相棒から降りても山側だけを見るようにして歩みを進めた。


 階段を上がる途中で見えた山にはまだ灰色の雲が留まっていた。


 展望台の上で海側へ振り向いた。全てが見渡せる光景は圧巻だった。「地球が丸く見える開陽台」と書かれたモニュメントと呼ぶのだろうか?中標津町のカントリーサインにも同じ形のものが描かれてあった。その言葉の通り地球の丸さがハッキリとわかった。十勝とは全く違った壮大さがあった。


 これが道東なのか……。理解出来る範疇よりも大きなものだ。ただ噛み締めるしかなかった。


 ぐるりと回廊の展望台を進みながら、収まるはずなどないことはわかっていても俺は写真を撮り続けた。下に見える相棒は、雲間から覗かせたお天道様に照らされて誇らし気だった。


 雲の流れも美しく、山を背中に雄大な大地を俺はボーッと見ていた。


 何も考えたくなかった。


 気がつくと雲よりも青空の方が多くなっていた。緩やかだが冷たい風が身体を冷やしていた。


 展望デッキの下にあったカフェでホットコーヒーとはちみつソフトを注文した。コーヒーは身体の芯に熱を伝えた。そして、蜂蜜味のソフトクリームはとても旨かった。食べて心地良さを感じる時間だった。


 次は野付半島だ。そう思って駐車場を出た。道中には振り返るのを我慢して良かったと思えるほど惚けられる景色が数珠繋ぎで現れる。


 通って来たミルクロードを戻り道道975号線を行き過ぎて、やっぱり直線路を楽しみたくてUターンして975号線に入り、もう二度と走ることはないであろう道で俺は直線馬鹿と化した。日差しが戻り、時々出くわす路面のギャップ以外は心地好かった。


 国道を右折して交通量が増えるだろうと思っていたが、上手い具合に車列の切れ目らしく前後に車を気にすることなく広過ぎる空の下の直線路を進んで行った。もう腹が減ってきていた。


 標津の街を進むとデカデカと『そば処 福住』の文字が。総本店とも書いてあった。


 ここが北海道に来てからちょくちょく目にしていた福住の総本店か。そう思ったら自然と駐車場に相棒を乗り入れた。


 俺は迷うことなく大盛の蕎麦とイクラ丼のセットを頼んだ。他では見たことのないセットメニューで北海道らしい選択だった。


 店内は九割方埋まっていて小さな子供のいる家族も多かった。地元でも大人気なのだろう。これは美味い物にありつけると俺の中の俺が言った。


 隣の人に運ばれてきた天ぷらもり蕎麦はとても旨そうだった。


 見渡してみると昼時に入ったばかりだからか、まだ料理が運ばれていないテーブルが多かった。少し時間がかかりそうだった。


 俺は地図を取りに行き野付半島までのルートを再確認するのと、今夜の宿をどの辺りにするか地図を見ながら考えることにした。


 昔のように稼いでいたら、ヘリを飛ばして俯瞰で野付半島の変わった地形を見るところなのだが、今の俺には無理な話だった。


 多和平の360度の展望も見逃せない。道の駅おだいとう(尾岱沼)のあとはどうするべきか?根室に向かうのは明日にして、どうにか中標津・別海辺りで宿がないものだろうか?


 「お待たせしました」


 そう言ってお姉さんがお盆を運んで来た。思っていたより早かった。


 俺は急いで広げていた地図を隣の席に置いていたヒップバッグの上に置いて、目の前のテーブルの上を片付けた。


 写真で見るよりも豪勢な感じがした。今朝といい、今といい、イイ感じの旅らしい食事だった。


 先ずは蕎麦からだ。更科粉が多めの白っぽい蕎麦だった。やはり蕎麦屋だけあって旨かった。止まらずに半分ほど喉に流したところでイクラ丼へ移った。白飯の上に薄っすらとイクラが撒かれているだけだろうと思って箸を入れたらそうではなかった。しっかりと厚みのあるイクラの層が白飯の上にのっていた。イクラを食った感の贅沢ボルテージがマックスまでいくほどだった。感動だ。それにイクラの塩梅が旨かった。


 イクラと蕎麦のマリアージュも面白いものだと思った。昔食べた出雲蕎麦にもイクラがのっている皿があったなぁと思い出した。


 大満足で店を出た。お天道様が笑ってた。


 道道950号線・野付風連公園線は、進めば進むほど、雲一つない道東色の空も相まって、俺の中で異国感が増していった。両サイドに水面を見せるところまで来ると牛の絵が描かれてあるカントリーサインの別海町に入った。半島の先っちょは別海町だ。陸続きではなく尾岱沼を挟んでいる。その尾岱沼の遠く真ん中辺りでは、三角の帆を張った打瀬船が何艘も浮かんでいた。


 ミズナラが立ち枯れたナラワラの風景も幻想的だ。


 地図と俯瞰での想像をしながら野付半島を走った。ドローンが欲しいと思った。


 ネイチャーセンターを過ぎると、俺以外走っていない道を進んだ。異世界感漂う、脳味噌の機能が本当に停止しそうな気分になるほどの絶景だった。


 まだ先に道は続いていたが、アスファルトは道道950号線起点と書かれた標識のところでなくなっていた。これ以上先の砂利道へ相棒を走らせることには躊躇いが生まれた。マフラーステーが気に掛かる。それに一般車両通行止めと書かれてあった。この野付半島の先にあったといわれる幻の街・キラクを諦めて引き返すことにした。だがその前にこの景色を満喫することにした。最果ての地感が拭えない。それにしても俺は何処で幻の街・キラクを知ったのか?俺自身の記憶にはなかった。 


 ふと、俺は楽しめてはいるけれども、幸せではないのだなと確信した。いったい俺の幸せとは何なのだろう?ただ、今現在は充実感があった。


 帰り道も素晴らしい景色が流れた。ネイチャーセンターで一休みしている時に、尾岱沼えびまつりが数日後にあることを知った。そして、新鮮なシマエビの踊りを食堂で食べられることも。


 さっきマックスまでいった贅沢ボルテージにマックスプラスがあることに俺は気がついた。


 テーブルに皿の上でピチピチ跳ねているシマエビ達が運ばれてきた。中華で紹興酒に漬けられた酔っ払い海老を食べたことがあったが、踊り食いは初めてだった。丁寧に手を合わせて、いただきますを口にした。


 一匹を掴んで頭を外す。そのまま口に運び味噌を啜る。甘味と深みのある旨味が口いっぱいに広がった。啜れるだけ啜ってから殻を剥いて頭の部分をかじった。少し身があった。


 さて次は胴体だ。殻を剥いて足を外して尾っぽも取ってから一気に口に入れた。コリッとした食感のあと甘さが広がって、そのあとに旨味が広がった。


 次は殻を剥いて醤油につけて味わった。甘さが一層強くなった。


 3匹目に手を伸ばした時に、その一匹はまだまだ生きたかったらしく、ピョンと跳ねて皿から盆の上に脱走した。


 俺は無情にもそいつを掴み上げて頭を外して味噌を啜った。


 あっという間に五匹のシマエビが俺の胃に収まった。


 両手を合わせたあとも、濃厚な旨さと甘さが口の中だけでなく、喉の奥の方までへばりついている。指がシマエビの名残で赤茶色く染まっていた。これではグローブをはめるのが躊躇われた。トイレに行って手を綺麗に洗い、ついでに用を足した。


 日差しがぼんやりしていた。薄雲があるのか靄っているのか。


 国道244号線を走って道の駅おだいとうに行き、スタンプを押してすぐに先に進んだ。左手に知床連山と国後島が遠くで霞んでいた。


 海風が微妙に俺から体力を奪っていったのだろうか、あと少しで風連湖という手前で道道364号線→別海市街の文字を見て、宿探しをしなければと思い立った。


 右折して別海市街を目指した。やはり道東は、俺から見れば異国感が漂っていた。空気というか、生えている草木というか、風というか、まったくもって新鮮だ。


 人家が密集しだして市街地だとわかる。


 国道243号線の交差点の手前でバターの匂いが鼻をくすぐった。何処だ?何処だ?と探すと、右手に小さな洒落たケーキ屋が在った。俺はフラフラ匂いに誘われて『ミルフィーユ』の前に相棒を停めた。中はカフェが併設されているらしい。俺はここで今夜の宿探しをすることに決めた。


 ドアを開けて驚いたのは、目の前に現れたショーケースの小ささだった。ケーキも三種類しか陳列されていなかった。


 カフェにお客さんは一人、マダムが優雅にティータイム中だった。


 俺は店の名前と同じミルフィーユとコーヒーのセットを注文した。


 急いでPCを開いて宿を探し始めたのだが、いつも使用しているサイトにはこの辺りに空きのある宿はなかった。グーグルマップを開き、宿を表示させた。近くの公園に温泉施設を兼ねた宿があった。そこからググって宿のページを開いてみると電話予約しかないと書かれてあった。他にも探してみたが、思うようなものはなかった。店の人に断ってから外に出て電話をかけた。ちょうど一部屋だけ空いているということだった。俺は即決した。彷徨うよりはマシだった。


 俺が店に戻ったタイミングでミルフィーユとコーヒーのセットが運ばれてきた。男性パティシエが一人で切り盛りしているようだった。


 俺が北海道に渡って初めての本格的なケーキだった。帯広の六花亭ではカフェには入っていない。一階のイートインスペースで、マルセイアイスサンドと雪こんチーズ、サクサクパイの本店限定商品を食べただけだった。


 ミルクソースとストロベリーソースの円の中に、ストロベリーミルフィーユとバニラアイスが並んでいて、その二つを繋ぐようにパイで橋が架けられていた。サクサクのパイはバターがしっかりと効いていて旨かった。間に挟まれたイチゴ自体も美味しかったが、一緒に食べるとクリームと相俟って、全体の味を引き上げていた。


 コーヒーも薫り高く上質なものを丁寧に淹れていることがわかった。


 今日は贅沢な一日で終われそうだと思った。


 店を出て宿に向かった。どうも持っている地図では入口がわからなかった。もっとググって完璧にしておくのだったと後悔した。


 やっとホテルに辿り着き、チェックインを済ませ部屋に入ると、トイレもユニットバスもないことを知った。それでも泊まれないよりはマシだと考えた。


 荷物を部屋に置いて、晩飯が食えるというレストランに行ってみたが、メニューにあるのは軽食だけだった。こんなものだろうと思っていた俺は、相棒を走らせて、セコマで安いワインとサッポロクラシック二本、それとホットシェフでカツ丼とこんがり焼きチキンを買って戻った。


 温かい物が冷めてしまうが、先に温泉に浸かることにした。


 ちょうど温泉施設には自衛隊が来ていて、まるで自衛隊宿舎の浴室に紛れ込んだ気分だった。


 あまりゆっくり出来ないまま湯から上がり、部屋に戻って呑みながらの作業が待っていた。


 PCを開いて徐さんからのメールを津田に送るためにフリーメールのアドレスを取得した。どうせ鑑識かサイバー犯罪対策課がチョチョっと辿れば俺に辿り着くのだが少しでも無駄な抵抗がしたかった。


 本文だけコピーペーストして貼り付けて津田のアドレスに送った。すると直ぐに津田から電話が掛かってきた。


 ――ありがとうございます。態々、フリーメールのアドレスで送ってもらって。旅を満喫しているみたいで何よりです――


 嫌味を言うなんて……。と思ったが、津田も警察の人間なのだと納得した。


 「そんなことない。殺人犯に間違われてへんだけマシなだけや」


 ――獅子王さんらしい言葉ですね――


 「徐さん、見つからんのか?」


 ――ええ。あなたが仰ったとおり、釧路近くのアニメの聖地を当たっているようなのですが……――


 「そうか」


 ――では気をつけて旅を。三枚目の写真はちゃんと適切に処理しておきます――


 そう言って一方的に津田は電話を切った。捜査で忙しくなっているのだろう。俺には今のところ警察に用事がないので構わなかった。


 次は彩香にメールをしておこう。昨日一昨日と連絡がなかった。伽奈に対してやはり、辛くて苦しい感情が蘇っているのかもしれない。


 あとは、これからの大体の予定を立てるのと、これまで行った行程を見直して、取りこぼしている市町村のカントリーサインや道の駅がないかチェックを始めた。


 道の駅には取りこぼしはなかったが、市町村のカントリーサインには取りこぼしが三つあった。中富良野は国道を通らず長閑な道を走っていたので出逢えなかった。また美瑛・富良野には行くつもりなのでその時に撮れそうだ。あとの二つは予想していた通りの置戸町と訓子府町だった。北見から遠軽町へ向かった時に少し遠回りすれば良かったのだが、その時は雲行きが悪かった。


 どちらの町にも目的とする場所はなかった。これはオロロンラインで道北へ上がり、オホーツクを下って来た時にどうにか組み込むか、それとも三国峠の前まで保留にしておくか……、迷うところだった。


 そして、明日からの行程だ。


 明日はこの辺りを回って、根室へ向かおう。先ずは天気予報を確認する。明日は天気が良いが、明後日は微妙だ。釧路辺りは小雨予報だ。明々後日なら雨はなさそうだった。


 早速、根室のホテルを二泊、無事に予約した。


 宿さえ決まればあとのやり方は簡単だった。根室は根室半島に在って日本の最東端・納沙布岬がある。その近辺に何か美味い物がないか?根室のソウルフードは?エスカロップ?兎に角根室の情報を流し見していく。


 ガラ携が鳴った。彩香からだ。


 ――元気ですか?――


 「うん。彩香は?」


 ――私は元気に働いています。今から夜勤なんです。マコチンは今夜、何処にいるんですか?――


 「今日は別海町。明日、明後日と根室で、そのあと釧路かな」


 ――そうですか。じゃあ週末は釧路なんですね――


 「その予定。釧路も天気次第で何日かおらんとあかんかもな」


 ――マコチン……――


 「どうした?」


 ――もう少し時間もらってもいいですか?――


 「橋口伽奈のこと?それなら君が思うとおりでええよ。橋口加奈に対しては当然として、俺にも気を遣う必要はない。もし嫌なら、この話はなかったことにしてもええよ」


 ――ううん、違うの。確かに、気持ち的に二の足を踏んでいるのは確かなんですけど、それより工場が忙しくなっちゃって、西山さんが休職で、柿谷さんが辞めちゃったんで――


 西山さんにも柿谷さんにも、俺は一面識もなかった。


 ――西山さんは仙台にいる息子さんが事故で入院しちゃって、向こう行って看病しなくちゃで、柿谷さんは、あっ、柿谷さんはこの前着て行った服をコーディネートしてくれた人で、義理のお母さんが脳梗塞で倒れちゃって、介護しなくちゃダメになったんです。だから、当分連休が取れそうになくて――


 ほう、柿谷さんという人のコーディネートだったのか。


 「かまへんよ。橋口加奈には、仕事が詰まってるからって伝えておくから」


 ――そうしてもらうと助かります。それと……――


 「ん?」


 ――日帰りなら会いに行けるんで……――


 「うん」


 ――日曜日、札幌とか苫小牧近辺に来る時は教えて下さいね――


 「うん。じゃあ、彩香が忙しそうやから、その間に道北を回って来るわ」


 ――意地悪……。道北は初めてですか?――


 「勿論。彩香何処かいいところ知ってる?」


 海沿いは景色が良いこと以外、彩香は余り知らないのだと言った。道の駅巡りの時は、余りにも同じ景色が続くので、母親と変わりばんこに運転して、助手席ではよく眠っていたと話した。


 ――あっ、そうそう、音威子府の駅のお蕎麦屋さん。お母さんが、子供の頃に食べていたお蕎麦に似ていて美味しいって言ってましたけど、私は幌加内のお蕎麦の方が好きです――


 俺も旅前から色々と探してはいたのだが、海沿いは雲丹、内陸は蕎麦の情報が多くあった。気ままにバイクで走っているのと体調を考えると、食いたい物を食える時間と、店の開いている時間や俺の空腹がなかなか上手くマッチしない。オロロンラインでも行きたいところは色々あるのだが、多分、それらよりも風になっている気持ち良さを優先してしまう気がする。今日のような食的に大満足な一日は、この旅で初めてだった。


 「音威子府の駅そばには行こうと思ってた。幌加内でも食べて食べ比べしてみるよ」


 俺は彩香の声を聞くだけで、嬉しさが込み上げていることに気がついた。駄目なのだ、これでは。俺は一人、何の未練も後悔もなく死んでいきたいのだ。なのにこれでは未練と後悔が生まれるのは明白だった。東北に渡ってちゃんと俺が過去として整理出来ればいいのだが……。


 ――じゃあ、そろそろ夜勤だから。……マコチン――


 「ん?」


 ――浮気してもいいけど、私のこと忘れないでね。じゃあ――


 一方的に切られた。俺が思うように、彩香も思ってくれているのだろうか?


 考えてみると、この旅も今日で31日目が終わる。もう一ヵ月が経ったのだ。長かったような、短かったような。だがまだ79市町村だ、残り100市町村もある。道の駅だって十勝・道東エリアは釧路までの旅で終わる。残りは道北・道央・道南だけになる。もう走らないのだと思うとちゃんと感じながら走らねばと思う。


 そんなことを考えながら伽奈にメールを送った。俺の記憶はそこまでだった。




 朝四時過ぎに窓の明るさで目が覚めた。しかし、俺はもう少し眠らなければならない気がした。


 重い身体を引き摺るようにカーテンを閉め、また気絶するように眠った。やはり、疲れが溜まり過ぎているようだった。




 目覚めは爽快だった。


 が、如何せん起きた時間が遅過ぎた。もうちょっとで九時だ。


 セットを忘れたのか、消してしまったのか、アラームは作動しなかった。


 ここのチェックアウトは十時。もう下の温泉施設で風呂を入っている時間はない。急いで顔を洗って、荷造りして……。いやその前に、多和平までの道順を予習しなければ。昨夜やろうと思って出来ずに寝てしまっていた。


 それなのに、カーテンを開けた先の道東の景色が気持ち良かった。俺は少しだけボーッと見ていた。


 時間ギリギリでチェックアウトを済まし、多和平へ向かった。といっても、直接行くわけではない。今夜の宿は根室だ。時間はたっぷりある。


 道道8号線を北に上がって中標津の街へ向かった。都会ならガラガラだと思えるぐらいの交通量だったが、惚けられるぐらい車の走っていない道が続いていた俺は、直ぐに走るのではなかったと少し後悔したが、走っているうちに交通量も少なくなって、青い空と緑と遠くに見える山並みに気持ちは上がっていった。


 中標津市街に入る直前で国道272号線へ左折した。この道も走っているだけで道東を感じられる気持ちの良い道だった。


 遠く先に立体交差が見える。別海から来ている国道243号線だった。見慣れている立体交差がとても懐かしく思えた。


 惚けながら走っていると80個目の厚岸町のカントリーサインと出逢った。いつの間にか曲がる道を通り越していたようだった。やはり予習は必要だった。


 Uターンして右折するべきだった道を探した。


 この国道のこの辺りには、遮音壁なのか防風壁なのか壁があって、壁の向こうにも道が並行してあった。農道というか小径というか、アスファルト舗装がされてはあるが、この一帯からどうも出ることは出来ないようだった。


 持っている地図だけでは曲がる道はわからなかった。それに国道には中央分離帯があって、直ぐには目的方向へは行けなかった。仕方がないので逆方向へ走ってUターン出来る場所まで国道272号線を進んだ。来た道を返しさっき見た厚岸町のカントリーサインの少し先を右折した。


 牧場だらけで空しかない道を走っていると、多和平の文字を見つけた。俺は残り少ない道東を満喫していると実感していた。


 標識を頼りに先へと進んだ。ただ、贅沢なもので、こんな感動も日に日に薄れていることは否めなかった。


 標茶町のカントリーサインに出逢い、そこに描かれているのは今から向かう多和平の展望台だろうと予想がついた。


 今日もバックミラーをあまり見ないように気をつけながら、多和平の展望台へと上っていった。


 画にあった通りの展望台の上で待っていた360度の眺望は、薄まりかけていた俺の感動を再びマックスに持ち上げるような雄大さだった。


 「何だここは……」


 昨日の開陽台よりも俺は、こちらの眺望に心を持っていかれていた。そしてこの雄大な景色をたった一人、貸し切り状態で眺めていることに贅沢を感じた。


 俺は北海道に来て良かったと心から思う。そして、この素晴らしい世界に、俺は笑って別れを告げられるのだろうか?


 あの時に死んでいればという思いは消えなかった。


 階段を上って四人組の観光客が上って来るのが見えた。


 タンカースジャケットからガラ携を取り出して時間を確認した。どうりで腹が減っているはずだった。


 貸し切りの展望台を四人組に手渡して、俺は駐車場にあったレストランで飯を食うことに決めた。


 併設の土産物屋には年配のお嬢さんが何人かいて姦しかったが、レストランは俺が口開けの客だった。


 店のお姉さんに色々と訊きながら、俺は羊肉のソーセージカレーと単品でビーフシチューを注文した。汁気が多いかと思ったが、こんな素敵な景色の中、一人でジンギスカンを食うのは余りにも……余りにもだった。


 ここへ来る途中にいた羊の姿が浮かんだが、野趣溢れる癖のあるソーセージとカレーのマリアージュが旨かった。ビーフシチューも食い応えがあって美味しかった。おまけで焼き上がったばかりの美味しいクルミパンをサービスしてもらった。


 満腹の腹を擦りながら店を出て相棒まで辿り着く間、サラダの野菜の旨さを思い出していた。そして、旨い甘い物が無性に食いたくなっていた。


 来た道とは逆方向へ出て、空と大地しかない国道273号線を別海の街へ向かった。途中の標識に根室101kmと書かれていた。


 別海の街で国道は右折するところを真っ直ぐ進み二本目を右折した。ミルフィーユの入口には「本日のお持ち帰り完売」の看板が掲げられていた。


 今日は昨日悩んで却下したモンブランとコロンビア珈琲を注文した。


 モンブランはスポンジではなくロッシュで、クリームは運ばれてきた時から溶け出すほど繊細で旨かった。


 今日はすこぶる健胃だった。コーヒーを飲み終え出発し、少し走ると右手にJAの看板と「ようこそ ミルクの郷 別海へ」の文字と『ミルクハウス』の看板にソフトクリームの幟を発見してしまった。そういえば、大きな牛乳工場のある別海町の牛乳を飲んでいなかった。俺は素直に右ウインカーを出した。


 牛乳はとても甘くコクがあるのに爽やかで、ソフトクリームもスッキリと牛乳感が楽しめるものだった。どうりでケーキのクリームが旨いはずだと納得した。流石に胃の隙間がなくなったので一杯と一つだけにしたが、そうでなければお代わりしたかったぐらい旨かった。


 国道244号線と合流する丁字路の突き当りまで来たが、まだ時間が早いと左折して、地図に載っていたヤウシュベツ川湿原を見に行った。


 ヤウシュベツ川の両岸にある湿原で、人の手の入っていない自然を、俺は万年橋の上からのんびりと眺めた。上流の風景も風連湖へ注ぐ風景も、どちらも違う顔を見せていて美しかった。


 湿原に別れを告げてのんびりと走っていると、風連橋の袂で根室市の花咲ガニが描かれたカントリーサインと出逢った。


 厚床で国道44号線を左折する。


 道の駅スワン44ねむろは風連湖を見下ろす畔にあった。


 スタンプを押して施設内をウロウロした。そこで見つけてしまったのは『花咲ガニ』。金沢のおでんに入っている香箱蟹を使った蟹面のような形に身を盛られた花咲ガニに出会ってしまったのだった。値段も安かった。


 ここを逃せば花咲ガニにありつけるかわからない。そう自分に言い聞かせながら、じっくりと地元の味を味わった。充分旨かった。


 道の駅を出て風連湖へ向かった。相棒で近づけるところまで行ってそこから湖面をそよぐ風に吹かれた。


 「そろそろ行こか」


 俺は独り言を口に出してから、今夜の宿のある根室駅へ向かった。路面に書かれた「シカ注意」には笑えた。


 温根沼大橋を過ぎると、もう高い建物も山も何も見えなかった。なだらかに起伏する丘の上を走れば走るほど、最果て感が漂ってくる。物悲しい気分もする。


 根室の街は思った以上にコンパクトだった。




 




 

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