惨苦
家を抜け出し駆ける夜道は、いつもより肌寒い。
「きみとでーあーえたきーせーきがっ」
こーのーまちにあふれてるー、と、歌う。
誰の曲の、何の歌詞かはしらない。街のテレビで流れてたのをみただけだ。
でも好きになれた。
「きみと出会えた奇跡がこの街に溢れてる」
もう一度、噛み砕くように呟いてみる。なんて舌触りがいい言葉だろう。
あいつとの待ち合わせ場所は藤岡橋だ。祖父母の家から徒歩三分ほどの距離にあって、
橋の横にはちいさな公園があって、葉梨側を挟むように重なったコンクリの土台の上に錆びた遊具や砂場が散らばっている。川側には子どもが誤って落ちないようにするためのフェンスがやる気なく並んでいた。僕のような
寒さに震えながら小走りに土台を伝い、錆の浮く青い鉄橋の根元につく。
身を屈め、下に潜り込むと――橋の骨組みの下には、ちいさな人影。
それは月がまんまるい夜で、モチヅキは妖怪みたいに綺麗だった。
「ほんとにきたんだ」と僕は言う。
今朝、小学校で何の気なしに『みんなに内緒で犬を飼ってるんだ』と打ち明けたとき、モチヅキの態度はいつものように素っ気無かった。彼女は常に彼女だけがもつフィルタで現実をみているようだったから――そういうわけで、僕は今日も一人で犬の世話をすることになるのだと思っていた。
「犬、気になるから」
モチヅキはフラットな口調で答える。
もう今更この機械みたいな調子にたじろぐこともない。
「わかった。ついてきて、そんなに遠くないよ」
「どこで飼ってるの?」
「西公園の近くにボロ家あるでしょ。あそこに毛布とか敷いて、世話してる」
「そう」
犬がいるところまでは、子どもの足でも五分ほどしかかからない。
僕らは無言で歩いた――幼稚園の頃から小学五年生の今に至るまでずっと、モチヅキは変なやつだった。テストはだいたい満点だし、宿題もきちんとやってくる。掃除だって真面目にこなす。それでも他の女子のように僕らにがみがみいうこともなかった。
横目で彼女をちらりとみる。目が他の女子よりも大きい。テレビでそういう病気をみたことがあったから、一瞬モチヅキもそうなのかなと想像してみて、やめた。彼女はクラスの男子からたまにデメキンと呼ばれていたもの、僕は彼女の月のように大きな目を単純に綺麗だなと思っていた。伝えたことはない。
「なに?」
こちらを向かないまま、急に話しかけられてギョッとする。
やはり妖怪じみている。
「いや、僕さ。モチヅキが瞬きしてるところみたことないなと思って」
これは半分ウソで半分ホントだ。僕はたしかにモチヅキの瞬きをみたことがなかったけれど、担任の先生が「瞬きをしない人間はいません」と言っていたから、きっと僕の知らない所で彼女は瞬きをしているんだろうと思う。
ひょっとすると、モチヅキは宇宙人なのかもしれない。何星から来たんだろう。月?
「ねえ」
「うん?」
「私が人間じゃないかも、とか思ってる?」
「うん」
あっと思ったのはその問いに頷いてからだった。あまりにもするりと思考を先回りされたから、その場の拍子で肯定してしまったのだ。
「いいよ。気にしなくて。そんなこと言われたの初めてだけど」
気にしないわけないだろバカヤローと思いながらも、「うん......」と返すだけに留まる。馬鹿野郎は僕だ。死ね。人間やめろ。
+
空き家の戸をぎぎぎと開ける。立て付けが悪いのか、僕がどれだけ
いまは深夜だ。周りの住民の耳に戦々恐々としながらモチヅキを素早く迎え入れ、鍵(自作:600円。ホームセンターで買ったものを工作してつけた)をかける。家は廃墟化していて、秘密基地と呼ぶにも少々風情がありすぎる。靴を履いたまま玄関を抜けリビングへ。
「いるかなー、っと」
「いつもここで飼ってるわけじゃないの?」
「流石に首輪とかは高くて買えないもん。そもそも僕飼い主じゃないからそこまでしちゃダメだし」
「へえ。なんか『絶対僕が飼うんだ!』とか言い出し始めそうだったのに。いっつも『正義の味方になりたい』って言ってるじゃない」
「流石に貧乏なやつがそこまで責任背負い込んじゃダメだって......あ、いた。でも寝てるや」
白い毛並みの柴犬が、ボロボロのソファの上で寝ていた。
毛布やタオルが犬を包むように敷き詰められており、ソファの下には小ぶりのえさ皿や水差しが乱雑に置かれている。
「よかった。両方空だ」
「名前は?」
「ないよ。お別れのとき辛い」
「かわい」
そう言ってモチヅキはちょっとばかり笑んだ。月に花が咲いているとしたら、彼女の笑顔みたいに揺れるのだろう。僕も曖昧に笑って返す。
「本当は付けたかったよ、名前。でもたぶんいつかお別れなんだ」
「そなの?」
「うん。ずっと一緒にはいられないって解るでしょ。僕はわかってる」
「なるほどね。あなたはそう思うんだ」
モチヅキは犬を撫でる。耳のうしろをなでる。尻尾を撫でる。動く腹の側面を控えめに撫でる。犬は変らず、あらゆるくびきから解放されたような安らかさで寝ている。柔らかな月光が廃墟のなかに煙っていた。
「でも、望月とはずっと一緒にいる気もするんだよなあ」
彼女がこちらを向く。表情はきちんと平坦だった――すべてこともない。
「なんで?」
「わかんない。わかんないけど、信じてるんだ。お互いの幸せが、掛け算みたいにはまることとかさ」
「九九のテスト全然合格できなかったのに?」
「それでもだ。頭が悪くても、運動会でビリでも、きっと僕たちは幸せになれる」
最初にモチヅキに出会った時のことを思い出す。
握手をしようと手を伸べて、首を傾げられたということ。
しあわせに対する受容体がすこしヒトと変わっているということ。
それは彼女の両親にとっても、学校にとっても、好ましくなかったということ。
無理もなかった。叩いてもからかっても顔色をかえず、粛々と殺鼠剤を給食に混入しようとする子どもなど、社会に存在していいわけもなかった。
子どもにとって全てである家族と学校の、絶え間ない抑圧の中で――彼女はたぶん、生きるのに向いてないのだ。空が蒼いから死ぬと言い出し始めても、僕は驚かない。それでも僕は、彼女と友達になりたかった。
僕のような掛け算もろくに出来ないカスに出来るのは、どう足掻いてもそのくらいだ。
立ち上がり、持ってきたバッグからミネラルウォーターを取り出して水差しに入れる。今度はえさ皿にじゃらじゃらとペレットを取り出す。ついでにささみも何本かおいといてやる。一連の作業を素早くおこなう。もう遅い。ひとに見付かるのは避ける必要があった。
「変なの。わたしのことまで幸せになる数に入れてる」
「嫌だった? ゴメン」
空気のように当たり前のことだったから、全く気付かなかった。
「かまわないよ。でもちょっとびっくりしたかも」
望月が、ぼろいソファに横たわる。きゅっという犬の悲鳴のような軋みがあがる。
そして、僕のほうに手を伸べた。
「なにを――」
「なにしてもいいよ」
「え?」
「きみなら、私に何してもいい」
そういって目を閉じる。彼女の瞳に映る、月の光も遮られる。
それはまんまるい月の夜で、望月は妖怪みたいに綺麗だった。
死々重露苦 カムリ @KOUKING
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