逸苦

 ビジネスホテルを出てから――もとい誘拐されてから――望月のアウディは40分ほどで彼女のマンションについた。

「望月」

 車を地下の駐車場に停めていた彼女が振り返る。

「仕事は?」

「しばらくは在宅だよ。ぺーぺーの私が出向かなきゃならないほどの民族紛争あんけんなんて最近はほとんどないしね。さいきんアツい東南アジア圏はブラックウォーター者の管轄だし、基本的にうちみたいな弱小が出る幕じゃないんだ」


 望月が勤めるイギリス系列の民間警備会社は、戦争の斡旋を主な業務として扱っているときいた。僕の彼女はマック・ブックのワンタップで何十人もの無教養なブルーカラーをぶち殺すことができる。そしてその手で僕にたっぷりと愛撫を施すこともできる。

 今日僕を気絶させたインターラプターなる代物も、たぶんどこかで人死にの道具として活躍するのだろう。


 僕は彼女の肩を借り部屋についた。表札には”望月”と言うプレートがかかっている。

「おかえり」

「......ただいま」

 身体に走っていた刺すような痺れは未だ消えておらず、まともに立つことは出来そうになかったので、僕は望月に頼んでソファに寝かせてもらう。

「朝ごはんつくるね。同僚に貰った松前漬けしかないけどいい?」

「食えるかな......きみのせいで口がガクガクなんだけどな今......」

 あなたが手掴みで食べればいい話じゃないの?」

 ちがうの?と問いながら、望月は二人分の松前漬けと湯気が立ち上る白米を僕の前に持ってくる。そしてアレクサテレビつけてといい、壁に掛かっていた薄型のディスプレイが今朝のニュースを流し始める。時刻は朝の八時半だった。よく考えたら僕の逃避行が失敗に終わってからまだ一時間ほどしか経っていないのだ。

 それなのにこの腑抜けた体たらくはなんだろうか。

 あまりにも生に馴染みすぎてはいないか。

 僕は明確に決然に死ぬことを心に誓ったはずなのに、気付けば松前漬けを犬食いしながらNHKの連続テレビ小説の展開に一喜一憂している。

 今日はヒロインの夫がついに戦争で亡くなってしまった。米軍の機銃掃射から見ず知らずの子どもを庇ってずたぼろになって死んだのだ。

 僕もずたぼろに泣いて松前漬けはすこしだけ塩辛くなった。

 暴力的な感動に晒されて、明日もきっと泣くだろう。


「彼はほんとうに良いヤツだった」

「はあ?」

「戦争の苦境の中でも家族や他人を思いやる高潔な精神を持っていた。そんな正義の人間が死ぬのは間違っている。これが戦争か」

「よくわからないんだけど、あなたは戦争でご飯を食べてる人間に食べさせてもらってる人間じゃないの」

「それでもだ。悲しいものを悲しいと言えなくなってしまったら人間は終わりなんだよ望月」

「それじゃあ私はあなたが死のうとするのがカナシイな。これであってる?」

 望月はそういって僕の髪を無遠慮に弄りはじめた。しかたがないので僕も望月の髪をさわることにした。食事中なのにマナー悪いな。

 彼女のくろい髪はこしがつよい。

 薄く開いたカーテンから差し込む光をり込むように指の端でもてあそんでやると、さりさりという音を立ててまとまる。離すと名残惜しげにぴょんと跳ね戻っていく。望月は膝を立ててこちらに顔を寄せてきた。

 朝ドラは終わっている。僕はそこらへんにあったリモコンを取ってテレビを消した。そして髪から手を離して、彼女を肩口に抱き寄せた。

 望月の体温は高い。こんなに綺麗なのに、代謝はこどものように盛んだ。

 僕がこの暖かさに初めて触れた小学二年生のときから、ずっと望月のことを愛している。たぶん今も、世界で一番目くらいに。

 語彙の限界は思考の限界だ。

 僕が彼女にどれほど救われたかも、僕が彼女にどれほど感謝しているのかも、きっと彼女にすべてが伝わることはない。そりゃ掛け算もできないんだから無教養なのは当たり前だったけど――それでもいい。

「僕だってさ」

 ささやく。

「きみの正義の味方ごっこは好きじゃない」

(毎度毎度のことだけど僕マジで何言ってるんだろう。人に食わせてもらっておいて出て来るのがこの台詞か?)

 望月が自身を正義の味方だと標榜し始めたのはいつ頃だったろうか。

 うまく思い出せない。死んだ野良犬が脳裏に瞬いている。

 望月の中途半端な黒髪が切れた電線にみえた。ぎょっとして手を離す。

 彼女はいつものようになにも言わなかった。瞳だけが苦しみに耐えられるように伏せられていた。ぼくらは多分しあわせだが、それ以上のなにかを抱えている――過去の歪な屍の上に今の生活が成り立っていることを朧気ながら理解していた。

 ほんのちょっぴり強く望月を抱きしめて、それから朝ごはんを片付け始める。

 望月が立ち上がった。僕は手を軽く置いて押し留める。たぶん僕の捜索で疲れているはずだったしそうでなくても家事は僕の担当だ。

 何もかもをやっている彼女にはぼんやりテレビをみていて欲しかった。


 やはり無理だ。望月が傍にいる限り僕に死は許されない。

 あらゆる意味で彼女は僕の半身だったがあいにく不随でもある。

 やはり、来たのだ。

 以前から暖めておいた最大最期の自殺計画――「ゾンビ作戦」を決行するときが。

 白いキッチンでお皿と数の子のカスを洗いながら、僕はじぶんの最後について考える。水が流れていく。この水は時間の非可塑性とおなじく、二度と同じ水ではありえない。誰もがおなじ川に二度と入ることはできない。

 時間をわけあうということ。一緒に寒い川に入って大笑いすること。

 僕は望月をみた。二年前に煙草をやめた彼女の口もとは寒々しかった。

 望月も僕をみた。空っぽの視線が僕を捕らえる。僕はその洞のなかに入って、何度温まったことだろう。風邪をひかなければいい。嫌な思いをしなければいい。

 すべての苦しみから逸れた人生を送ってほしいななんて思っていたら、急に望月とセックスがしたくなってきた。夕飯の買い物のついでに薬局に寄ることにした。


 

 







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