死々重露苦
カムリ
苦々
便座の蓋の上に置いておいたスマートフォンが、僕の頭をぶった。
じゃんじゃんじゃん、じゃかじゃかじゃんじゃんじゃん。
バイブで勝手に動いて蓋から落下したのだろう。死にたくなるほどやかましい。このままだと手首の傷がもう一本増えるかもしれない。慌てて携帯を拾い、憎たらしいアラームを止める。
画面はきっかり〈6:30〉を映していた。
でも別に行くべき仕事も通うべき学校も二十歳かつ無職の僕にはない。
便所で寝ることで強張った関節をばきぼきと鳴らしながら立ち上がり、そのまま用を足す。きったねえ色だなあ。
スマホを持ちさっきまで寝ていたトイレから出ると、そこにはビジネスホテルの一室が広がっている。シングルベッド、椅子、デスク、テレビ、冷蔵庫、健康で文化的な最低限度の生活設備のすべて。エアコンのスイッチを入れると、たちまち低い電磁波のうねりが部屋に響き始める。
最大公約数的な快適さ――昼下がりのワイドショーばりにつまらない企業倫理によって設計された部屋だけども、偽名で宿泊しても詮索されるようなことはないので、彼女から身を隠すにはもってこいだった。
僕は据付の冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、ぷしゅとやって胃に流し込む。
そして窓の外をみる。今日は平日だから、静岡駅からほど近いここからも多くの社会人が――もしくは社会不適合人が――新静岡セノバやパルコが立ち並ぶ市街をとりどりに縫っているのがわかる。
僕はベッドに寝転がった。そして昨日のことを思い出した。
手持ちの金はまだいくらかあるが、銀行から金を引き出せば出金履歴を辿られて僕の大体の居所がばれるだろう。警察各所ともコネがある彼女にとって、逃げた僕を見つけるのはそれほど難しいことではないように思われた。どの道行方不明者届というカードをきられるか僕が大人しく彼女の所へ帰るかの二択だったのだ。
だからこれは、社会的地位が最底辺の僕の、手詰まりだった。
マジでなんで逃げてきたんだっけ僕――、
よし。
切腹するしかねえ。
そうと決まれば話は早かった。
財布スマホモバイルバッテリー着替え――もろもろをオロビアンコにぶちこみ、スキニーをはいて薄手のカッターシャツを羽織る。
最後にマーチンのサンダルを突っかければとりあえず通報されることはないくらいのアバンギャルドのできあがりだ。
ここから、そして今日この時から、僕の新しい歴史が始まるのだ。
死出の旅は希望なり、と呟きながら僕はドアへ向かう。
どうやって切腹しようか。近くのパルコで牛刀やナイフを買ったりしてもいい。葵区商店街の近くには刀剣類を売っている玩具屋もあったはずだ。ついでにセノバの前に出来たタピオカミルクティー屋に寄るのも良いかもしれない。でもその場合切腹したら未消化のタピオカがボロボロ零れ落ちてくるのかなちょっと面白いなそれ――なんて思いながら、ドアを開けて、
「見つけたよ」
黒い影が、もの凄い
一瞬で背後に回られ、背中になにか金属質のものが押し当てられて、
「あっ」
身体から全ての力が抜ける感覚と共に、世界のブレーカーが落ちた。
急激に床が近付いて来る。
暗い。一瞬、視界の端を、見慣れた女の顔が横切った。
+
僕は乗用車の後部座席に寝転がっていた。リクライニングには食べかすのひとつもない。車窓からは流れていく電線だけがみえる。
電線――昔可愛がっていた近所の野良犬が、台風で破断した電線の漏電で死んだことをぼんやりと思い出す。
ほんとうに愚かで可愛くてかわいそうな犬だった。
僕が死ぬときはあんなのはごめんだ。
彼女はたんぱく質に電流を流すことの怖さを知っているんだろうか。
僕の身体にくそったれのマイオトロンかスタンガンでたっぷり電流を流してくれた、今このアウディを運転している彼女は。
「おはほふ」
口を開いてはじめて、どうも全身の筋肉が麻痺しているようだということに気付く。死ぬかと思ったと抗議しようとして、でも彼女は完璧だからたぶん死ぬか死なないかの瀬戸際で調節してくれたんだろうなとも考える。
「おはよ。あなた、あんなところにいたんだね」
通帳も持たずに出て行くからびっくりしちゃった、と彼女が答えた。
「もってひってもむしろひみにばれるとほもって」
「すごい浅知恵だね。実際こうやって連れ戻されてるわけじゃん」
僕のことを浅知恵と評する彼女に、しかし侮蔑の色は全くない。小学生の時分から誰に対してもニュートラルだということを理解していた。
彼女は僕の方をみる。
すっきりとした、綺麗な顔立ちだ。
鼻だけが少しぺちゃっとしているアンバランスも可愛く思える。
こんなに可愛いのに民間警備会社の幹部だという事実を信じたくない。
「あんなものどうやって手に入れたんら」
「あんなもの?」
「何か、僕の背中に当てたろ。スタンガンみたいなやつ」
「あ、インターラプターのことか。同僚がくれたんだ。試作品らしいけど、ばりばり法律に触れちゃうから内緒ね。大丈夫? おしっこ漏らしてない?」
「ない。そんなもの彼氏に向けて使うなよ」
多分直前に済ませてなきゃ漏らしてたとは口が裂けても言いたくなかった。
「じゃあしょっちゅう死のうとするのもやめて欲しいな」
それに安全性は同僚と自分で臨床やってるから保証されてるよ、とも付け加え、彼女はハンドルを切る。僕も身体の振るえと戦いながら、どうにか起き上がり座席に腰掛ける。国1から安倍川橋を渡り、道の駅を横目に赤目ヶ谷バイパスに乗る。
理解している。正しいのはいつも彼女だ。
社会闘争からドロップアウトし、情けない男として無限の人格否定に晒されるはずだった僕を庇護してくれているのも彼女だ。
僕は掛け算だってまともに解けない。
「望月」
「なに?」
「ごめんね」
「いいよ。私は正義の味方だから」
彼女は笑って僕にガムを投げて寄越した。
一般的な民間警備会社の年収は八百万円ほどだと聞いたことがある。
税金も生活費もよくわからないけど、たぶん彼女が僕を養ったまま生きていくのはそれほど難しいことじゃない。
僕だって今の生活への不満は全くない。
それでも死にたいのは、たぶん、生きるのに向いてないからなんだと思う。
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