第三十話  目撃

 吹き抜けの高い天井から吊り下げられているシャンデリアに、フロアに敷かれた毛足の長いカーペットがこのホテルの品格と歴史を感じさせる。ピアノの自動演奏でゆったりとした明るい旋律が流れるラウンジに散冴はいた。

 木目を生かした深い茶色の丸テーブルに白い珈琲カップが一つ置かれている。

 胸ポケットから懐中時計を取り出すと、時刻は二時になろうとしていた。客はまばらで着飾った夫人たちが多い。この近くにある劇場の影響かもしれない。


「いやぁ、お待たせ。元気そうだね」

 グレーのスリーピースを着込んだ頭髪の薄い中年男性が満面の笑みで近づいてきた。散冴と向き合う椅子の上にアタッシュケースを置くと、自らは彼の右隣りの椅子を引いた。

「南条さんもお元気そうで」

 山高帽を左の椅子に置いていた散冴もほほ笑んだ。

「サンザ君にしては珍しいじゃない、こんな豪華な場所で会うなんてさ」

「色々とありまして、今はここで生活しているので」

「そうなんだ。電話でおおよその話は聞いたけれど本当に大変だったんだねぇ。もっと早く僕に相談してくれてもよかったのに。水臭いよなぁ」

 南条は笑みを浮かべたまま一気にまくしたてると、ウエイターを呼んでカフェオレを注文した。

 すぐに散冴へ向き直り、顔を寄せて声を潜めた。

「それで、今回の目的は何? というか、誰からの依頼になるの? まさか、その女性ルポライターというわけじゃないんでしょ」

「依頼者は私です。目的はとりあえず殺人犯の特定で」

 散冴はあたりを気にする素振りもない。

「そう……サンザ君が依頼者か。犯人捜しは警察の仕事なのに、それがサンザ君の正義?」

 一瞬、真顔に戻った南条だがにやりと笑いながら問いかけた。

 散冴は相変わらず微笑んでいる。

「降りかかった火の粉は払わないと」

「なるほどね。でも話にあった薬物の件はどうするの」

「今回の件は薬物が絡んでいる気がしているんです。そちらの情報も集めれば犯人の特定につながるんじゃないかと。私の勘ですけれど」

 散冴の顔から笑みが消え、強いまなざしで南条を見た。

 受け止めた南条はさらに身を乗り出す。

「勘ね。理詰めでストーリーを描くサンザ君が勘を頼りにするなんて、それもまた面白い。了解、僕でよければ手伝わせてもらうよ」

「ありがとうございます」

 散冴が頭を下げたところへカフェオレが運ばれてきた。


 添えられていた角砂糖を一つ、スプーンで溶かし入れて南条が口をつける。一息つくと、また話が始まった。

「で、何から始めるの」

「山木クリニックが龍麒団からAAAトリプルエーを仕入れているのは間違いありません。以前、医療ミスを起こして中国人の妊婦と胎児を死なせてしまったことがあり、それを隠ぺいしたのが龍麒団のようです」

「ああいう奴らは弱みに付け込むのが上手いからねぇ」

「警察も山木クリニックをマークしているのでしょうが、いまは銃の密輸摘発に本腰を入れています。どんな方法でクリニックへ薬物を渡しているのか、そこから探っていこうと思うのですが」

「まさか奴らが直接届けているわけではないだろうしね。麻酔薬として使用しているという話だし、可能性が高いのは……」

 二人は顔を見合わせた。

 散冴が静かに低い声で告げる。

「医薬品メーカーの営業担当」

「だよねぇ。違法薬物だと知っているのは院長を含めてごく少数だろうし、それが最も自然な入手経路だからね。サンザ君とは話が早くて助かるよ」

「もしかすると院長さえも知らない可能性があると思っているんです。新薬の非公式な治験とでも説明されているかもしれない」

 南条はカフェオレに手を伸ばし、誰もいない正面に顔を向ける。

「それなら、まだ救われる。平気な顔してひどい仕打ちをする人間なんて、その辺にごろごろしているから」

 少し早口でつぶやくと、すぐに笑顔に戻り散冴へ顔を寄せた。

「で、どうする?」



 池袋駅前から数分も歩けば、繁華街を抜けて古い住宅街に切り替わる。その境目と呼べる裏通りに山木産婦人科クリニックがあった。三階建てのこじんまりとした建物は白いガラス質の大判パネルでおおわれ、清潔さと明るい印象を与えている。

 その正面にある入口から少し離れて、散冴たちの乗るシルバー色のワゴンが停まっていた。

「初日は男性が一名、二日目は女性、昨日は無し。医薬品メーカーの営業ならこの程度の頻度だろうね」

「午前と午後の診療終わりを見計らって来るはずなので、見落としはないはずですが」

「それは大丈夫だよ。産婦人科に男性一人で来る患者はいないし、大きなバッグを持ちながらヒールの高い靴を履く妊婦さんもいないから」

 助手席の南条は手にしたデジカメの画像を確認している。

 散冴はハンドルに右手を置いたまま、通りを行き交う人を眺めていた。

 黒い大きな手提げバッグを持ったスーツ姿の中年男性が一人、クリニックへ入っていく。

「いまの男性……」

「どうしたの?」

 散冴のつぶやきに南条が顔を上げた。

「三日前に来た男性だと思います。こんな短期間で再訪するのは怪しいですよね」

「怪しいねぇ」

 そう言いながら南条は再びデジカメを操作した。

「この男?」

 差し出された画面を散冴が覗き込む。

「ええ。横顔がちらっと見えただけですが、おそらく」

「それじゃ、出てくるのを待つとしようか」


 十五分ほどで男はクリニックから出てきた。散冴たちの方へ向かって歩いてくる。

「間違いありませんね」

 デジカメ画像と見比べた散冴が南条を見た。

「ちょっと行ってくるよ」

 南条は助手席のドアを開けた。


 男の行く手に回り込むように小走りで通りの向こう側へ渡る。向かい合って歩いていき、すれ違いざまに男とぶつかった。

「すいません、大丈夫ですか」

 よろけた男に歩み寄り体に両手を添える。

「あぁ大丈夫です」

 こたえる男に南条はもう一度頭を下げた。

 再び男が歩き出すと、その背中に声をかけた。

「あの、これはあなたのでは」

 手にしていた焦げ茶色の名刺入れを差し出した。

 振り返った男はその名刺入れに視線を送った後、スーツの内ポケットを探る。

「そうです。ありがとうございます」

「いえ、こちらこそすいませんでした」

 お互いに頭を下げた後、二人はそれぞれの方向へ歩いて行った。


 車へ戻ってきた南条の手には一枚の名刺があった。

「いつの間に。見事ですね」

 感心する散冴へ、誇らしげな笑みをたたえた南条が名刺を渡す。

は手先が器用だからね。彼から情報を搾り取るのはサンザ君に任せるよ」

 川之井製薬・並木と書かれた文字を確認した散冴は、キーを回してエンジンをかけた。



 傾きかけた陽光が運転席に座る散冴の顔を照らす。その目は駅から出てきた南条を追っていた。

「お待たせ」

 笑顔を浮かべた南条が助手席に乗り込んできた。

「ずいぶん早く手掛かりがつかめたんだね」

「ええ。あの並木という男、すぐに話してくれました。ほんの小遣い稼ぎのつもりで、治験前の新薬についての予備調査だと聞いていたようです。当然、会社には無断だし、違法なことは認識していましたから締め上げるのは簡単でした」

 散冴は右手だけで器用にハンドルを操作して車を走らせてゆく。黒革の手袋をはめた左手はシフトレバーの上に置かれていた。

「それで龍麒団とのかかわりは?」

「いえ、それは。ブローカーが間に入っているようで、彼は新薬のためということを全く疑っていませんでした。ただ、薬の受け渡し場所が気になって……」

「だよね。だから僕がこうして呼ばれたんだろうし」

 シルバー色のワゴンは湾岸道路に入った。

「彼の話した倉庫街というのは、私が龍麒団に拉致されて連れていかれた場所なんです」

「それはまた匂うねぇ。その辺りの倉庫を借りているのが奴らのフロント企業かもしれない」

 ハンドルを握りながら散冴はうなずいた。車は埠頭へと左折する。

 人通りは少なくなり、大型のトラックが路肩に連なって停車している。広大なコンテナ置き場を通り過ぎて倉庫が肩を並べるエリアまで来ると、散冴は車を停めた。

「この辺りです」

 散冴は運転席から降り、似たような表情を見せる倉庫群を端から眺めていく。

「連れて来られたのが夜だったし、解放されたあともすぐに林のところへ行かなくてはならなかったのではっきりと覚えていないのですが、たしかあの二番目の倉庫だったと思います」

「行ってみようよ。扉に所有者名が書いてあるかもしれない」

 近づこうと歩き出したとき、右端に建つ倉庫の扉が開いた。

 とっさに車の陰へ二人は隠れた。

 中からは二人の男が出てきた。あとから出てきた男の顔を見て「あっ!」と散冴が小さな声をあげた。

 薄くなった白髪に恰幅の良い体を揺らして、男は黒塗りの車へ近づいていく。すぐに車は倉庫街を後にして走り去った。

「なんであの男が……」

「知っているの?」

「ええ。新井総合病院の新井院長です」

 散冴は小さくなっていく車をじっと見つめていた。

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