第十九話 一瞬の逡巡

 左袖を見事に切り取った刃をそのままに、イノーラは姿勢を軽く低くして、その切っ先をホープへと向けた。


 彼女が身にまとっているのは、リオンが以前イノーラのために作ったウェディングドレスの改良品。


 ハイネックの胸元。動きやすいように膝丈まで詰めた四重のスカート。スカートの裾を短くした分、靴のかかとは低く、頭のベールには、先ほどまでとは対照的に紫色のコアが光っている。


 これが二人の答え。の、リバーシブルドレス。


 ホープは警戒し、残った右袖を構える。すぐになぎ払おうと思えばできただろう。だが、彼女はこちらの出方を警戒している。


 テスト時、このドレスの強度は、通常の単色ドレスと同等のものになっていた。威力としては若干、単色の方が高いが、他の色の布にボビンの糸で効果を付与するよりもずっと強力だ。


 もちろんこのドレスも万能というわけではない。表裏の切り替えは一瞬では済まないし、服に負荷がかかるので使うのにも回数制限がある。訓練時に計測した限りでは、あと三回が限度。


「まさかリバーシブルとはね。搦め手で来たじゃない」


 緊張した面持ちでホープは言う。イノーラは刃を顔の横で構え、さらに姿勢を低くした。


「本気」


 ぽつりと呟かれたイノーラの言葉。ホープは少し目を見張る。


「私たちは、本気の本気」


 イノーラはまっすぐにホープの目を見据える。ホープはふっと微笑んだ。


「そうね、そこは疑っていないわ。……だから正面から叩き潰してあげる。かかっておいでなさい!」


 その言葉を皮切りに、二人は動き始めた。


 勢いよく薙がれ、軌跡を描きながら通り過ぎる赤の袖。上半身だけを引いて、イノーラはそれを避ける。


 研ぎ澄まされた白の刃。後方から飛来した藍色の糸。一瞬で施された刺繍により、空気抵抗を少なくした鋭い一撃がイノーラから放たれる。


 ホープは文字通りひらりと舞って、それを避ける。


 裏拍はもう使えない。さすがにドレスそのものを変えられては、リズムをつかむなんてできるわけがない。


 そう思考したホープは、一旦イノーラから距離を取ろうとした。だが、イノーラはそれを許さない。白の刃を何度も肉薄させ、距離を取るための強いステップを踏ませない。


 紫のドレスが遠距離型なら、白のドレスは短距離型だ。だが、もし短距離で紫の暴風を当てることができたなら、それは勝敗に大きな影響を与えるだろう。互いにそのことはわかっていた。


 ゆえにホープは、自らの赤色では白の刃をいなすにとどめ、距離を取ることに集中しようとした。しかしイノーラはむしろ、徐々にスピードを上げていく。


 イノーラの足元は、低い踵によってしっかりと地面を踏み締められていた。尖った踵がない分、単純な攻撃力は落ちている。だが、その分、スピードは格段に上がっていた。


 接近した二人は、文字通り互いにダンスを競っているかのように地面を踏み鳴らしていく。


 二人のイヤホンから流れる音楽。そのリズムを一時的に捉えたホープは、後ろに引いていた足を踏ん張り、スカートを大きく巻き上げる。


 一瞬、スカートに遮られ、ホープの視界からイノーラが消えた。


「ふっ!」

「くぅっ」


 スカート越しに突き込まれる刃。のけぞって姿勢を崩すホープ。その隙を逃すイノーラではなかった。


着装セット


 白色のウェディングドレスが裏返り、紫の暴風をたたえたドレスへと形を変えていく。


 変化しつつあるドレス姿のまま、イノーラは大きく足を引いて、ホープめがけて勢いよく蹴りを叩き込んだ。


「きゃああっ!」


 暴風が吹き荒れ、ホープはドレスを傷つけながら吹き飛ばされる。


 勝負あったか。リオンも、実況者も、モニターの向こうの観客もそう思った。


 ただ一人、イノーラだけは砂煙の向こう側の彼女を油断なく見つめていた。


 徐々に砂煙は収まり、ホープの姿が露わになる。彼女のドレスはボロボロになっていたが、まだコアは壊れていない。その足はしっかりと大地を踏みしめ、目からも闘争心は消えていない。


「やるわね。少しあなたたちを侮っていたかも」

「勝つのは私たち。負けるのはあなたたち」


 どこか噛み合わない挑発をしながら、二人は互いを見据えて向かい合う。ホープはドレスの腰に巻かれたベルトに手を置いた。


「あれをやるわよ、レティ」

「はい、ホープさん!」


 リオンとイノーラは緊張で体をこわばらせる。きっとあれは彼女たちにとっての、とっておきだ。


 自分たちのとっておきを先に出してしまった以上、この攻撃を凌ぐことができなければこちらの負け。


 ホープはベルトから横に手を薙ぐ。ベルトが解け、彼女の周囲に展開された。


「刮目なさい。これこそが後期エヴァンジェリン型の最新改造よ!」


 赤色のベルトは無数の針となって彼女をぐるりと囲み、それぞれが膨らんでまるで薔薇の花弁のように彼女を包み込んだ。


 ホープはにやりと笑う。


「どうかしら? これであなたたちも……あれ?」


 間抜けな声を上げてホープは自分のドレスを見下ろす。彼女のドレスは、彼女の意思に反してどくどくと脈打っている。その脈動は徐々に大きくなり、瞬く間にホープの全身を飲み込んだ。


「きゃああああ!」


 遠く、ホープの悲鳴が響く。彼女が着ていたドレスが一気に膨張し、数メートルもの布の塊となって暴れ出す。実況者も観客も恐怖と困惑で声を上げる。


 その光景を、リオンは呆然と見つめていた。


 あの時と同じだ。


 無理に膨張させた布が行き場を失い、周囲すべてに襲いかかる、あの欠陥現象。義母が死ぬ原因となった、あの凄惨な事故。


「ホープさん!」


 ハッと気がつくと、ホープの技師であるレティが、技師席を飛び出してホープに駆け寄ろうとしていた。


「近づいちゃダメだ!」


 リオンは大声で叫ぶ。ホープを助けようとする彼女の姿が、あの時、腕を失った義父の姿に重なる。


 想像通り、暴れまわる布の束は駆け寄ったレティに襲いかかる。赤いエトワールが有する灼熱が、やけにゆっくりと流れる時間の中、彼女に迫り――大地を穿つ勢いで彼女を押しつぶした。


「レティさん!」


 腰を浮かせたリオンが声を上げる。巻き上がった土埃が徐々に晴れていく。そこにはレティを抱えて立つイノーラの姿が。


「イノーラ!」


 彼女はリオンに視線を向ける。しかしそれは一瞬のこと。移動しながら襲いかかってくる赤のドレスを避け、イノーラはレティを抱えて再び飛び退った。


 赤の布はどんどん膨れ上がっている。イノーラはレティを扉が開いたままだった技師席に押し込むと、それを守る形で赤の布に立ち向かった。


「くっ……」


 スカートの布で作った羽衣で、赤色の布を斜めに受け止める。なんとかその軌道を逸らしたイノーラは、今度は紫の手袋から生成した刃で赤色を切り裂いた。


 だが、それで止まるドレスではない。ドレスは際限なく増殖し、何度切りつけてもイノーラへと迫ってくる。リオンは立ち上がってそれを目の当たりにしながら、必死に思考を巡らせた。


 ステラシアからここまで、十数キロは離れている。助けが来るのはどんなに早くても二十分後。それを待っていたら、イノーラも、ホープも、レティも死んでしまう。


 どうすればいいんだ。どうすれば。


 目をぎゅっと閉じ、リオンは考える。考えろ。何かあるはずだ。皆を助けるために、僕にできることが――





『実際の試合中はあんまり無理しないでね。試合中はこうして近くで繕ってあげることはできないんだから』





 ふと、過去の自分が言った言葉を思い出す。


 リオンは右手の裁縫籠手ミシンを見て、ポケットの中に入れっぱなしになっていた、黒色のドレスコアを取り出した。


 ハッと目を見開く。途方もない発想が頭をよぎる。


 この方法ならもしかしたら。でも、うまくいかなかったら、僕たちは。


 ガラスの向こう側で広がる戦闘を見る。


 技師席を守って、イノーラが必死に戦っている。


 このままではみんな死んでしまう。


 ……やるしかない。やって、必ず勝ってみせる。


 リオンはボビンを数個掴み取ると、技師席の扉を開け放って、勢いよくイノーラたちのもとへと駆け出した。


 彼の手の中にあるのは男性用に自分が作り出した、黒のドレスコア。


 もう片方の手にあるのは、バトルドレスを補助し、繕うための裁縫籠手ミシン


 死ぬかもしれない。だけど、覚悟はもう決まっている。


 リオンは祈るような気持ちで、ドレスコアをぐっと握り込んだ。


 確かに男がバトルドレスを着れば、エトワールに適応しきれずに体に大きな負荷がかかる。下手をすれば死ぬかもしれない。


 だけどそれなら――





「――着装セット!」





 走りながらコアを掲げ、大声で宣言する。


 コアから噴き出したのは黒色の糸。発火が特性のその糸の束はリオンの腕に胴体に足に巻きつき、凄まじい力で彼を締め付けてきた。


 皮膚が燃えるように熱く、体が引きちぎれそうに痛む。


 シャツが形成され、首元に蝶ネクタイが巻きつく。ギリギリと食い込んでくる足には、側章のついたスマートなズボンが構築される。胴体と腕を拘束した黒糸からは、後ろが二股に分かれた特徴的なジャケットが作り出され、リオンは燕尾服姿で地面に降り立った。


「う、ぐ、はぁ……!」


 体を掻き抱いて荒い息を吐く。


 全身が痛い。ドレスに拒絶されている。倒れて、ドレスを解除したらどれだけ楽だろう。だけど、倒れない。僕は、イノーラたちを救うと決めたんだから。


 リオンは右手に装着したままだった裁縫籠手ミシンを持ち上げ、自分の胸に勢いよく押し付けた。




 *




 赤色の布の海は広がり続けていた。その一枚一枚を、イノーラは切って伏せる。だが、その勢いは止まらない。次々に現れる布に押され、彼女は一瞬の隙を見せてしまった。


「……っ!」


 布の鞭に弾き飛ばされたイノーラは、声にならない悲鳴を上げて地面を転がっていく。それを追って、赤色の布は徐々に近づいてくる。


 その中の一枚が彼女を仕留めようと、勢いよく飛来してきた。


 迫る赤色。立ち上がるのは間に合わない。


 ここまでか。


 イノーラはぐっと目を閉じる。しかし、予想していた攻撃は、いつまでたっても彼女を襲わなかった。


 瞼を開き、前方を見る。逆光の中、黒色のバトルドレスをまとった存在が目に入る。


 自分を庇うように立つ彼に驚きの目を向けていると、彼はこちらを振り返らないまま、小さく尋ねてきた。


「イノーラ、まだ立てる?」


 聞き慣れたその声に、だけどいつにも増して頼もしいその声に、イノーラはなんとか立ち上がって答える。


「いける」


 それを聞いた彼は、こちらを振り返り、力強く名前を呼ぶ。


「イノーラ」


 真剣な声色に、曲がってしまっていた背筋がぐっと伸びる。


 彼は――リオン・アランデルは、イノーラ・オーウェルに堂々と宣言した。


「踊ろう、一緒に!」

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